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カルの武器は長剣だ。歩いている間は鞘ごと背負っている。この旅に出てから、一度もその剣を抜くような事態にはなっていないが、果たしてどれほどの腕前なのか見てみたい気もする。
私は吟遊詩人として、一人でずっと旅をしてきた。危ない目に遭ったことはないとは言わないが、無事に乗り切っているから今ここにいる。どちらかといえば、私の命よりも天馬琴を盗られる心配の方が大きかった。だが、それも無事に乗り切っている。護衛なんて贅沢なものはいらない……と思っていた。その瞬間までは。
海を目指すことよりも山を目指すことにした私たちは、地図にしたがって別方向に向かっていた。今までは東を目指していたが、今度は北西方面だ。森の中で方向を定めるのには、陽の光よりも切り株の模様を頼りにした。しかし、それが合っているかはよくわからない。まあ、森を出たところに村があるようなので、とりあえずその村にたどり着ければ大丈夫だろう。
森の中の獣道という歩きづらい道をひたすら歩いていると、突然目の前に熊が現れた。熊だ!と思ったときにはもう遅かった。私はその瞬間、死を覚悟した。そいつはばかでかい、よく太った熊で、周りの木々をなぎ倒しながら、こっちに向かってきていた。
「カル! 熊だ!」
「おっさん! 下がってろ!」
私が声をあげたのと、カルが叫びながら背の剣を抜いたのはほぼ同時だった。
丸腰の私はとにかく、その場から逃げようとした。しかし、熊に背を向けるわけにはいかない。熊は背を向けた人間を容赦なく襲うというのは、書物で得た知識だった。私は熊を睨みつけたまま、そうっと後ろに下がった。逆にカルが前に出た。
「食らええええええええ!!」
叫びながらカルは熊に向かっていった。その剣は心の臓を的確に貫いたようで、カルが剣を抜くと、おびただしい量の血が噴き出し、辺り一面を真っ赤に染めた。……といえばかっこいいかもしれないが、実際は地面は土なので、血の色はまったくわからなかった。ただ、返り血を浴びたカルは真っ赤に染まり、だいぶ汚い状態になった。着替えた方が良い気がするが、生憎私たちは着替えというものを持たずに旅をしている。とりあえず村に着くまでは我慢するしかなかった。
熊は地面にのび、びくびく痙攣していたが、やがてそれもなくなり動かなくなった。すると、カルが信じられないことを言った。
「そろそろ腹が減らないか? こいつ解体して食ってやろうぜ」
私は言葉を失った。熊を食べる? そんな考えは私の脳のどこを探しても見つからなかった。鹿や猪ならともかく……。熊を食べる? そもそも味を想像できなかった。こんな恐ろしい生き物を食べる? 身の毛もよだつ。気色悪い。そんな感想しか浮かんでこなかった。
「なんだよ……。いらないんならオレが一人で食っちまうぞ」
そう言って、カルは剣を使って熊の解体を始めた。慣れているわけではないのか、手際は良くないが、それでも脂肪のついた赤身の肉が次々に現れてくるのを見て、私は思わず喉を鳴らしていた。食べられるのか……? 食べてみたい。先ほどとは逆の考えが私の脳に浮かんでくる。
「熊は食べたことがないんだ。鹿なら屋敷で味わったこともあるが……」
「屋敷?」
「なんでもない」
つい口をついて出た貴族時代の思い出を、さらっと否定した。カルは「ふーん」と言ったきり、それ以上の追及はしてこなかった。
「おっさん、焚き木にできそうな木を集めて来てくれ」
肉を捌きながらカルが言った。そうだよな、生で食べるわけがない。指図されたのは不満に思わないわけでもないが、この場合私が焚き木を取りに行くのが手っ取り早いだろう。私は森の中を探索に出かけた。
* * * * *
私は吟遊詩人として、一人でずっと旅をしてきた。危ない目に遭ったことはないとは言わないが、無事に乗り切っているから今ここにいる。どちらかといえば、私の命よりも天馬琴を盗られる心配の方が大きかった。だが、それも無事に乗り切っている。護衛なんて贅沢なものはいらない……と思っていた。その瞬間までは。
海を目指すことよりも山を目指すことにした私たちは、地図にしたがって別方向に向かっていた。今までは東を目指していたが、今度は北西方面だ。森の中で方向を定めるのには、陽の光よりも切り株の模様を頼りにした。しかし、それが合っているかはよくわからない。まあ、森を出たところに村があるようなので、とりあえずその村にたどり着ければ大丈夫だろう。
森の中の獣道という歩きづらい道をひたすら歩いていると、突然目の前に熊が現れた。熊だ!と思ったときにはもう遅かった。私はその瞬間、死を覚悟した。そいつはばかでかい、よく太った熊で、周りの木々をなぎ倒しながら、こっちに向かってきていた。
「カル! 熊だ!」
「おっさん! 下がってろ!」
私が声をあげたのと、カルが叫びながら背の剣を抜いたのはほぼ同時だった。
丸腰の私はとにかく、その場から逃げようとした。しかし、熊に背を向けるわけにはいかない。熊は背を向けた人間を容赦なく襲うというのは、書物で得た知識だった。私は熊を睨みつけたまま、そうっと後ろに下がった。逆にカルが前に出た。
「食らええええええええ!!」
叫びながらカルは熊に向かっていった。その剣は心の臓を的確に貫いたようで、カルが剣を抜くと、おびただしい量の血が噴き出し、辺り一面を真っ赤に染めた。……といえばかっこいいかもしれないが、実際は地面は土なので、血の色はまったくわからなかった。ただ、返り血を浴びたカルは真っ赤に染まり、だいぶ汚い状態になった。着替えた方が良い気がするが、生憎私たちは着替えというものを持たずに旅をしている。とりあえず村に着くまでは我慢するしかなかった。
熊は地面にのび、びくびく痙攣していたが、やがてそれもなくなり動かなくなった。すると、カルが信じられないことを言った。
「そろそろ腹が減らないか? こいつ解体して食ってやろうぜ」
私は言葉を失った。熊を食べる? そんな考えは私の脳のどこを探しても見つからなかった。鹿や猪ならともかく……。熊を食べる? そもそも味を想像できなかった。こんな恐ろしい生き物を食べる? 身の毛もよだつ。気色悪い。そんな感想しか浮かんでこなかった。
「なんだよ……。いらないんならオレが一人で食っちまうぞ」
そう言って、カルは剣を使って熊の解体を始めた。慣れているわけではないのか、手際は良くないが、それでも脂肪のついた赤身の肉が次々に現れてくるのを見て、私は思わず喉を鳴らしていた。食べられるのか……? 食べてみたい。先ほどとは逆の考えが私の脳に浮かんでくる。
「熊は食べたことがないんだ。鹿なら屋敷で味わったこともあるが……」
「屋敷?」
「なんでもない」
つい口をついて出た貴族時代の思い出を、さらっと否定した。カルは「ふーん」と言ったきり、それ以上の追及はしてこなかった。
「おっさん、焚き木にできそうな木を集めて来てくれ」
肉を捌きながらカルが言った。そうだよな、生で食べるわけがない。指図されたのは不満に思わないわけでもないが、この場合私が焚き木を取りに行くのが手っ取り早いだろう。私は森の中を探索に出かけた。
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