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I'll be by your side until you get there eternity.
◇ 19 ◇
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羽田空港国際線ターミナルの、到着ロビー。数年ぶりに来日を果たした歌手の到着を出迎えるために、数十人ものスタッフが忙しく動き回っている。空港内は警備員や関係者、報道陣などでごった返していた。
彼女の到着に合わせるようにどんよりとした黒い雲は厚みを増していき、今にも雨粒がこぼれてきそうだ。予報では夕方ごろから今シーズンで初めての雪が降るらしいと聞いている。その寒さゆえにか、どこか氷点下の空気を感じさせるロビーの中、警備のために招集された警官たちも一般人に紛れてそれとなく配置についていた。もちろん瞬哉と未来もまた、到着ロビーの壁際に立ち身を潜めるようにして護衛対象である歌手を待ち構えていた。ファンの数はどんどんと増え、歌姫の姿を一目を見ようと背伸びをするものもいる。警備をしている警察官も焦りを感じているだろうことは容易に想像がついたが、今は任務に専念するしかなかった。
「もうすぐ到着時刻ですね」
「……ん」
空港内のアナウンスに耳を傾けながら、未来は瞬哉に向かって小声で話しかける。腕時計に視線を落とすと、針が到着時刻の十五時を指そうとしていた。その時間が近づくにつれ周囲の空気も緊張感が増していき、瞬哉もまた背筋を伸ばす。
ふと視線を斜め前に向ければ、人だかりの最前線、規制線ギリギリの場所に千里と遥香の姿が見える。二人は先ほどから到着ゲートと群衆の波に何度も目をやり、不審な人物がいないかを目視している。もちろん周囲のファンたちの目に留まることがないように、視線を動かす際には細心の注意を払っているが。
今回の任務では、護衛対象の歌手は女性ファンが多いことから、男性でありながら中性的な顔立ちをしている千里の面差しを利用し千里・遥ペアを人だかりに紛れ込ませ、瞬哉と未来はその人だかりを遠巻きに眺める一般カップルを演じながら警戒を続ける……という計画だった。もちろんこの場所にいる一般人の多くの人々は芸能人が来ることをひと目見ようと集まった観客に過ぎないのだが、警戒しておくに越したことはない。
センチネルの能力を身に宿す瞬哉は人より多くの音を拾うことができる。誰かを守れる立場にいることを再確認しながら、瞬哉も周囲へと意識を向け直した。空港内に響くアナウンスやファンたちのざわめきの中に、不穏な音が混じっていないか注意深く聴き分けていく。とはいえ空港内には、普通の利用客や一般人が生み出す雑多な音と、警備員や関係者たちが発する足音と声しか存在しない。それらの音を拾い上げていると周囲の人間の会話がはっきりと聞こえてくることもあるのだが、今回はこれといって不穏な音や気配は感じられなかった。
どんよりとした不安を抱えた黒い空が静かに涙を零し始めた頃、到着ロビーからファンの歓声が上がった。到着を知らせるアナウンスとともに姿を現したのは、仕立ての良さそうな黒のロングコートに身を包んだ男性数名だった。彼らに囲まれたその中心にいるのは、世界的に有名な歌姫――ジョアンナ。少し癖のあるブロンドの髪をアップにした彼女の横顔は凜々しさの中にも華やかさが混じり合っている。背も高いそんな彼女は、男性陣に周囲を守られながらもひと際注目を浴びている。マイクを握っていないものの、彼女のそのオーラはやはり一般人のそれとは異なっていた。自分を追いかけてきた熱狂的なファンの存在を常に意識しているかのように、彼女の足取りはどこかゆったりとしていた。
「ジョアンナ!」
到着ロビーで待つファンたちの歓声が一際大きく響いた。その声に、スタッフが周囲を確認しつつ慌てて人垣を整理する。空港の到着ロビーにいる誰もが彼女の登場を待っていたので、当然の混乱だ。そんなスタッフたちの誘導に従いながらも、ファンたちはどうにか前に出ようと藻掻く。
「こっち見て!」
「お帰りジョアンナ!」
「会いたかったよー!」
大勢のファンからの声援を受けながら、彼女もまたそれらの声に応えるように手を振りながら歩いてくる。集まっているファンの年齢は様々だったが、一様に目を輝かせ、その頬は紅潮していた。確かに芸能人というものはいつの時代でも人々を魅了する力を持つものだが、ジョアンナの人気はそういった表面的な部分だけではないような気がした。人を惹きつける歌声、音楽が持つ力を最大限に生かして表現する力強い歌詞。日本にも訪れる機会のたびに訪れてくれる彼女の存在は、多くの日本人にとって特別なものだった。
ジョアンナは周囲を見渡し、目元を緩やかに綻ばせた。サングラス越しでは視線はわからなかったが、それでも彼女の表情が驚くほど和らいだことははっきりとわかった。空港職員や警備員は集まったファンたちを必死に宥めようとするが、興奮した人々をそう簡単になだめられるものではない。任務だというのに、人の波に押され後退を余儀なくされている千里と遥香の姿を視認した未来は、思わず顔を強張らせた。千里たちもどうにか配置場所を離れぬよう人の波に逆らっているようだったが、その場に留まることさえできず、じりじりと後ろへ押されていく。
その刹那、最前列ににじり寄って行った男性のスマートフォンを構える腕が、すぐ隣にいた女性に思い切りぶつかった。その拍子に、バランスを崩した彼女の身体が大きく傾く。このままでは、あの男女を皮切りに群衆が将棋倒しになってしまう――事態を察した瞬哉が息を呑んだ瞬間、彼らの近くに立っていた遥香が動いた。
「危ない!」
大きく一歩、横に出ると彼女の身体を寸でのところで抱き留める。その動きが機敏だったために、周囲の誰も反応できずにいた。転倒を免れ、安堵の息を漏らす女性の手を遥香が取って支えていた。やはりセンチネルの能力を持った人間の視野は、常人の比ではない。目の前の二人の異変に誰よりも早く気付き、身体を滑り込ませるように移動してその身体を支えることができたのだ。
「大丈夫ですか?」
「お怪我は?」
遥香と千里が倒れ込んだ女性に話しかけている様子を眺め、何事もなく済んだことを確認した瞬哉は、ほっと胸を撫で下ろした。無意識に呼吸を止めていたことに気づいて、瞬哉はそっと息を吐き出す。ただの警護任務だというのに、どうやら自分が思っていたよりも緊張していたらしかった。それから周囲に視線を走らせるが、今のところ怪しい人物は見当たらない。
報道陣が集まるエリアにジョアンナが進んでいく姿を視線だけで追い、瞬哉は周囲に警戒の目を向けた。すぐ近くの警備員が無線で連絡を取っている。報道陣の取材エリアでは2分ほどジョアンナが足を止めたのち、彼女は警備員の誘導で外へ出て車に乗り込む手筈となっている。その流れを遠巻きに眺めることも、瞬哉と未来に課せられた任務のひとつだった。
「行こう」
「はい」
瞬哉は壁に凭れていた身体を起こし、傍らに立つ未来の手をさりげなくとる。未来も同様に、周囲に聞こえない程度の声で言葉を返した。肝を冷やす瞬間があったものの、想定されていたような大事にならなかったのは僥倖と言わざるを得ない。
「あ……あの。すみません」
足を踏み出した瞬間、不意に真横から声をかけられ、未来はひゅっと息を吞んだ。慌てて視線を向けると、首が座ったばかりと思しき月齢の小さな子どもを胸に抱えた若い女性が立っていた。彼女は不安そうに眉を下げ、声を潜めるように未来たちへと告げる。
「すみません……授乳室がわからなくて。だけど、声をかけられそうな職員さんがいなくて……」
大きなスーツケースを引き、背中には大きなリュックサックを背負っている彼女は心底困ったような表情で未来を見つめた。空港内の一角には様々な利用客に対応するための施設が幾つも設置されていて、授乳室もそのひとつだ。通常ならばその場所がわからなければ道行く空港職員に訊ねるのだろうが、この混乱の中、職員たちがそれぞれの持ち場で対応に追われており、今は手が離せないとわかる職員や警備員に声をかけるのが憚られるのは心情的に考えても当然のことだろうと思えた。
瞬哉と未来は互いに視線を見交わした。女性はひどく不安そうで、泣きそうにも見える表情を浮かべている。今にもその場に座り込んでしまいそうなのを必死に堪えている姿に心が痛み、未来はそっと瞬哉の手を解いた。
「私、案内してきます」
任務中の現在、私情を挟むことはご法度だ。だが、困っている人を目の前にして放ってはおけない。何故なら、今の自分たちは一般のカップルに擬態している状態だからだ。今、彼女を突き放してしまえば怪しまれてしまう。悪目立ちしてしまうのは避けたい。この場にノアが介入していることが不審者に伝わってしまう事態になりかねず、引き続き護衛任務を続ける警視庁の警備員たちの足を引っ張ってしまうかもしれない。未来の言葉に瞬哉は小さく頷いた。
「一人で平気か?」
未来の意図を正確に理解した瞬哉は短く問いかけた。その問いは『自分も着いていこうか』ということではなく、『二人で持ち場を離れることは許されない、センチネルである自分は任務を続ける』という言葉遊びだということを、未来は瞬時に察した。当然だろう、自分たちは今、プライベートでここにいるわけではない。特に、センチネルの能力を活かす任務の一貫としてこの場に留まっているのだ。私情と仕事を混同してはいけない。
瞬哉を一人でこの場に残すことは不安だ。瞬哉には、能力を暴走させないために未来という存在が必要なのだから。特に、今回のようなセンチネルの聴覚や視覚を頼りにする任務であればなおさらだ。とはいえ、返答する言葉を迷っている時間はない。瞬哉と別行動を取らざるを得ないと判断した未来はきっぱりと首を縦に振った。
「はい、大丈夫です。案内をしたらすぐに戻ってきますから」
未来の脳裏には、今朝瞬哉と交わしたやり取りが蘇っていた。ボンドを交わした影響で、以前よりも能力のコントロールが上手くいっている、と。それなら絶対に大丈夫だ、と、未来は自身に言い聞かせた。
未来の言葉に瞬哉は表情を変えずに頷いた。こちらを見つめる未来のまなざしには、瞬哉への気遣いが窺える。誰にでも分け隔てなく優しさを与えられる未来だからこそ、瞬哉は彼女に惹かれたのだ。その淡い恋心の原点を思い出させてくれるような未来の言動に、瞬哉も勇気づけられた思いがした。
「ごめんなさい……よろしくお願いします」
「いえ。困ったときはお互いさまですよ」
深々と頭を下げる女性に首を振った未来は彼女が引いていたスーツケースを手に取り、二人で連れ立って歩き出した。この任務の前の打ち合わせで、千里も遥香も、もちろん瞬哉も未来もこの到着ロビーの平面図を確認していたので、未来も道案内をするために迷ったりすることはないはずだ。彼女らの背中を眺めていると、わぁっと群衆から歓声が上がった。その声につられるようにして視線を向けると、ジョアンナが通路の奥へと歩いて行く姿が見えた。名残を惜しむかのような歓声が上がる中、瞬哉は雑多な音の重なりに紛れる異音がないか耳を澄まし、全神経を集中させる。
その、刹那――――遠くで、バチンと電気が弾けるような音がした。
彼女の到着に合わせるようにどんよりとした黒い雲は厚みを増していき、今にも雨粒がこぼれてきそうだ。予報では夕方ごろから今シーズンで初めての雪が降るらしいと聞いている。その寒さゆえにか、どこか氷点下の空気を感じさせるロビーの中、警備のために招集された警官たちも一般人に紛れてそれとなく配置についていた。もちろん瞬哉と未来もまた、到着ロビーの壁際に立ち身を潜めるようにして護衛対象である歌手を待ち構えていた。ファンの数はどんどんと増え、歌姫の姿を一目を見ようと背伸びをするものもいる。警備をしている警察官も焦りを感じているだろうことは容易に想像がついたが、今は任務に専念するしかなかった。
「もうすぐ到着時刻ですね」
「……ん」
空港内のアナウンスに耳を傾けながら、未来は瞬哉に向かって小声で話しかける。腕時計に視線を落とすと、針が到着時刻の十五時を指そうとしていた。その時間が近づくにつれ周囲の空気も緊張感が増していき、瞬哉もまた背筋を伸ばす。
ふと視線を斜め前に向ければ、人だかりの最前線、規制線ギリギリの場所に千里と遥香の姿が見える。二人は先ほどから到着ゲートと群衆の波に何度も目をやり、不審な人物がいないかを目視している。もちろん周囲のファンたちの目に留まることがないように、視線を動かす際には細心の注意を払っているが。
今回の任務では、護衛対象の歌手は女性ファンが多いことから、男性でありながら中性的な顔立ちをしている千里の面差しを利用し千里・遥ペアを人だかりに紛れ込ませ、瞬哉と未来はその人だかりを遠巻きに眺める一般カップルを演じながら警戒を続ける……という計画だった。もちろんこの場所にいる一般人の多くの人々は芸能人が来ることをひと目見ようと集まった観客に過ぎないのだが、警戒しておくに越したことはない。
センチネルの能力を身に宿す瞬哉は人より多くの音を拾うことができる。誰かを守れる立場にいることを再確認しながら、瞬哉も周囲へと意識を向け直した。空港内に響くアナウンスやファンたちのざわめきの中に、不穏な音が混じっていないか注意深く聴き分けていく。とはいえ空港内には、普通の利用客や一般人が生み出す雑多な音と、警備員や関係者たちが発する足音と声しか存在しない。それらの音を拾い上げていると周囲の人間の会話がはっきりと聞こえてくることもあるのだが、今回はこれといって不穏な音や気配は感じられなかった。
どんよりとした不安を抱えた黒い空が静かに涙を零し始めた頃、到着ロビーからファンの歓声が上がった。到着を知らせるアナウンスとともに姿を現したのは、仕立ての良さそうな黒のロングコートに身を包んだ男性数名だった。彼らに囲まれたその中心にいるのは、世界的に有名な歌姫――ジョアンナ。少し癖のあるブロンドの髪をアップにした彼女の横顔は凜々しさの中にも華やかさが混じり合っている。背も高いそんな彼女は、男性陣に周囲を守られながらもひと際注目を浴びている。マイクを握っていないものの、彼女のそのオーラはやはり一般人のそれとは異なっていた。自分を追いかけてきた熱狂的なファンの存在を常に意識しているかのように、彼女の足取りはどこかゆったりとしていた。
「ジョアンナ!」
到着ロビーで待つファンたちの歓声が一際大きく響いた。その声に、スタッフが周囲を確認しつつ慌てて人垣を整理する。空港の到着ロビーにいる誰もが彼女の登場を待っていたので、当然の混乱だ。そんなスタッフたちの誘導に従いながらも、ファンたちはどうにか前に出ようと藻掻く。
「こっち見て!」
「お帰りジョアンナ!」
「会いたかったよー!」
大勢のファンからの声援を受けながら、彼女もまたそれらの声に応えるように手を振りながら歩いてくる。集まっているファンの年齢は様々だったが、一様に目を輝かせ、その頬は紅潮していた。確かに芸能人というものはいつの時代でも人々を魅了する力を持つものだが、ジョアンナの人気はそういった表面的な部分だけではないような気がした。人を惹きつける歌声、音楽が持つ力を最大限に生かして表現する力強い歌詞。日本にも訪れる機会のたびに訪れてくれる彼女の存在は、多くの日本人にとって特別なものだった。
ジョアンナは周囲を見渡し、目元を緩やかに綻ばせた。サングラス越しでは視線はわからなかったが、それでも彼女の表情が驚くほど和らいだことははっきりとわかった。空港職員や警備員は集まったファンたちを必死に宥めようとするが、興奮した人々をそう簡単になだめられるものではない。任務だというのに、人の波に押され後退を余儀なくされている千里と遥香の姿を視認した未来は、思わず顔を強張らせた。千里たちもどうにか配置場所を離れぬよう人の波に逆らっているようだったが、その場に留まることさえできず、じりじりと後ろへ押されていく。
その刹那、最前列ににじり寄って行った男性のスマートフォンを構える腕が、すぐ隣にいた女性に思い切りぶつかった。その拍子に、バランスを崩した彼女の身体が大きく傾く。このままでは、あの男女を皮切りに群衆が将棋倒しになってしまう――事態を察した瞬哉が息を呑んだ瞬間、彼らの近くに立っていた遥香が動いた。
「危ない!」
大きく一歩、横に出ると彼女の身体を寸でのところで抱き留める。その動きが機敏だったために、周囲の誰も反応できずにいた。転倒を免れ、安堵の息を漏らす女性の手を遥香が取って支えていた。やはりセンチネルの能力を持った人間の視野は、常人の比ではない。目の前の二人の異変に誰よりも早く気付き、身体を滑り込ませるように移動してその身体を支えることができたのだ。
「大丈夫ですか?」
「お怪我は?」
遥香と千里が倒れ込んだ女性に話しかけている様子を眺め、何事もなく済んだことを確認した瞬哉は、ほっと胸を撫で下ろした。無意識に呼吸を止めていたことに気づいて、瞬哉はそっと息を吐き出す。ただの警護任務だというのに、どうやら自分が思っていたよりも緊張していたらしかった。それから周囲に視線を走らせるが、今のところ怪しい人物は見当たらない。
報道陣が集まるエリアにジョアンナが進んでいく姿を視線だけで追い、瞬哉は周囲に警戒の目を向けた。すぐ近くの警備員が無線で連絡を取っている。報道陣の取材エリアでは2分ほどジョアンナが足を止めたのち、彼女は警備員の誘導で外へ出て車に乗り込む手筈となっている。その流れを遠巻きに眺めることも、瞬哉と未来に課せられた任務のひとつだった。
「行こう」
「はい」
瞬哉は壁に凭れていた身体を起こし、傍らに立つ未来の手をさりげなくとる。未来も同様に、周囲に聞こえない程度の声で言葉を返した。肝を冷やす瞬間があったものの、想定されていたような大事にならなかったのは僥倖と言わざるを得ない。
「あ……あの。すみません」
足を踏み出した瞬間、不意に真横から声をかけられ、未来はひゅっと息を吞んだ。慌てて視線を向けると、首が座ったばかりと思しき月齢の小さな子どもを胸に抱えた若い女性が立っていた。彼女は不安そうに眉を下げ、声を潜めるように未来たちへと告げる。
「すみません……授乳室がわからなくて。だけど、声をかけられそうな職員さんがいなくて……」
大きなスーツケースを引き、背中には大きなリュックサックを背負っている彼女は心底困ったような表情で未来を見つめた。空港内の一角には様々な利用客に対応するための施設が幾つも設置されていて、授乳室もそのひとつだ。通常ならばその場所がわからなければ道行く空港職員に訊ねるのだろうが、この混乱の中、職員たちがそれぞれの持ち場で対応に追われており、今は手が離せないとわかる職員や警備員に声をかけるのが憚られるのは心情的に考えても当然のことだろうと思えた。
瞬哉と未来は互いに視線を見交わした。女性はひどく不安そうで、泣きそうにも見える表情を浮かべている。今にもその場に座り込んでしまいそうなのを必死に堪えている姿に心が痛み、未来はそっと瞬哉の手を解いた。
「私、案内してきます」
任務中の現在、私情を挟むことはご法度だ。だが、困っている人を目の前にして放ってはおけない。何故なら、今の自分たちは一般のカップルに擬態している状態だからだ。今、彼女を突き放してしまえば怪しまれてしまう。悪目立ちしてしまうのは避けたい。この場にノアが介入していることが不審者に伝わってしまう事態になりかねず、引き続き護衛任務を続ける警視庁の警備員たちの足を引っ張ってしまうかもしれない。未来の言葉に瞬哉は小さく頷いた。
「一人で平気か?」
未来の意図を正確に理解した瞬哉は短く問いかけた。その問いは『自分も着いていこうか』ということではなく、『二人で持ち場を離れることは許されない、センチネルである自分は任務を続ける』という言葉遊びだということを、未来は瞬時に察した。当然だろう、自分たちは今、プライベートでここにいるわけではない。特に、センチネルの能力を活かす任務の一貫としてこの場に留まっているのだ。私情と仕事を混同してはいけない。
瞬哉を一人でこの場に残すことは不安だ。瞬哉には、能力を暴走させないために未来という存在が必要なのだから。特に、今回のようなセンチネルの聴覚や視覚を頼りにする任務であればなおさらだ。とはいえ、返答する言葉を迷っている時間はない。瞬哉と別行動を取らざるを得ないと判断した未来はきっぱりと首を縦に振った。
「はい、大丈夫です。案内をしたらすぐに戻ってきますから」
未来の脳裏には、今朝瞬哉と交わしたやり取りが蘇っていた。ボンドを交わした影響で、以前よりも能力のコントロールが上手くいっている、と。それなら絶対に大丈夫だ、と、未来は自身に言い聞かせた。
未来の言葉に瞬哉は表情を変えずに頷いた。こちらを見つめる未来のまなざしには、瞬哉への気遣いが窺える。誰にでも分け隔てなく優しさを与えられる未来だからこそ、瞬哉は彼女に惹かれたのだ。その淡い恋心の原点を思い出させてくれるような未来の言動に、瞬哉も勇気づけられた思いがした。
「ごめんなさい……よろしくお願いします」
「いえ。困ったときはお互いさまですよ」
深々と頭を下げる女性に首を振った未来は彼女が引いていたスーツケースを手に取り、二人で連れ立って歩き出した。この任務の前の打ち合わせで、千里も遥香も、もちろん瞬哉も未来もこの到着ロビーの平面図を確認していたので、未来も道案内をするために迷ったりすることはないはずだ。彼女らの背中を眺めていると、わぁっと群衆から歓声が上がった。その声につられるようにして視線を向けると、ジョアンナが通路の奥へと歩いて行く姿が見えた。名残を惜しむかのような歓声が上がる中、瞬哉は雑多な音の重なりに紛れる異音がないか耳を澄まし、全神経を集中させる。
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