腹黒御曹司の独占欲から逃げられません 極上の一夜は溺愛のはじまり

春宮ともみ

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1巻

1-1

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   プロローグ


 ファーストキスはレモンの味がする――そう聞いたのは、いつのことだっただろう。
 生まれて初めてのキスはやわらかくて、少し湿っていて、アルコールの香りがした。そして何よりも甘く、じんわりと心に染み込んでいくようだった。
 合わさった唇から伝わる甘い痺れに、何もかもをゆだねてしまいたくなった刹那、あたたかな感触が離れ、少しだけ唇が冷たくなる。ゆっくりとまぶたを開くと、吸い込まれそうなコントラストの強い黒い瞳が麦沢明日香むぎさわあすかの視界を占領した。
 滝嶋誠司たきしませいじのそのはっきりとした二重の瞳と、彫りの深い顔立ちはまるで外国の映画俳優を見ているかのようだ。すっと通った鼻筋は高く、わずかに開いた薄い唇からは真っ白な歯が見えている。
 スーツの上からでもわかるしなやかな筋肉質の体つきをした彼の姿は男らしく、それでいてなまめかしくて色気がある。頼りがいがありそうな凛々しい眉と同じ色をした黒髪は短く切り揃えられていて、それがまた爽やかさを醸し出している。
 その背後に見えるスイートルームの豪奢なシャンデリアが、明日香を一気に現実へと引き戻していく。

「どう?」
「……っ」

 夜を飼い慣らしたような、彼の漆黒の瞳からじっと見つめられていることに羞恥を覚え、明日香は顔をそむけた。頬から耳にかけて熱を帯びていくのを感じる。きっと今、自分の顔は赤く染まっているに違いない。そんな恥ずかしさを隠すように、明日香は腰掛けたソファの隅に逃げながら声を絞り出した。

「ど、どうって言われても……」
「嫌じゃなかった? 気持ち悪かったとか」

 正直なところ、嫌ではなかったし、気持ち悪いとも思わなかった。むしろ心地よいと思ったくらいだ。けれど、それを素直に伝えることははばかられた。
 男性経験がない。そもそも恋愛経験がないのだと――酔った勢いで目の前の彼にこぼしてしまったのに、初めてのキスを心地よいと感じてしまうだなんて、破廉恥だと思われないだろうか。

「……わからない、そんなこと」
「そっか……じゃあ、もう一度してもいいかな?」

 身体の奥まで響くような低く甘い声色が鼓膜を揺らす。明日香はその問いに答えられなかった。
 それが肯定を意味する沈黙なのか、それとも否定を意味している沈黙なのか、自分でもよくわからなかった。
 再び明日香の顔に影が落ちてくる。今度は目を閉じようと意識する前に、やわらかなものが押し当てられ、先ほどよりも強く唇をまれる。思わず漏れそうになる吐息をみ込みながら、明日香はぎゅうと目を閉じた。
 触れ合った場所から伝わる熱に思考が奪われる。まるで溶け合ってしまうかのように全身が熱い。心臓の音が、うるさいくらいに大きく響いている気がした。
 後頭部でやわらかなシニヨンスタイルに仕上げてもらった黒髪が、一房ふわりとほどけた。緩いカールのついた横髪が白い肌を撫で、少しばかりくすぐったく感じてしまう。

「っ……ぅ、んっ……!」

 やがて呼吸の仕方がわからなくなり、明日香が酸素を求めて薄く唇を開くと、その隙間からぬるりとした熱い舌先が侵入してくる。咥内こうないを探るように動くそれが、自らのものと絡み合い、くちゅりと湿った音を立てた瞬間、背中をぞくりとしたものが駆け上がった。息継ぎの合間に漏れる吐息や声さえも飲み込むようにして繰り返されるそれに、次第に身体から力が抜けていく。
 どれくらいの間、口づけを交わしていたのか――永遠のような一瞬ののち、ようやく唇が解放される。名残を惜しむかのように銀糸が伸び、ふつりと切れた。ぼんやりとした思考のまま視線を上げると、そこには悪戯いたずらっぽく微笑む誠司の姿があった。

「……あ」
「ね、わかったでしょ?」

 何が、とは聞けない。言葉の意味を理解できないふりをする余裕もない。胸の奥に潜む心臓は、相変わらず激しく脈打っている。
 どうして自分は、これほどまでに動揺しているのだろう。
 初めて出会ったときからずっと、兄のように慕っていた相手だからだろうか。こうして予期せぬ再会をして、思いがけない展開になってしまったことに戸惑っているだけなのだろうか。
 けれど、もっと別の理由があるのだとしたら――その答えを知りたいと思う反面、知ってしまったら戻れないのではないかという不安もある。

「……わからない、よ」

 混乱のままに小さく呟いた明日香の言葉は、彼の耳に届いていたらしい。誠司は困ったように笑うと、そっと耳元で囁きかけた。

「じゃぁ、もう一回しよっか」
「……っ!」

 耳にかかる吐息がくすぐったい。思わず首をすくめると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
 後頭部へと回された手によって、再び顔を寄せられる。明日香が反射的に目をつむると、すぐにやわらかいものが唇に押し付けられた。

「ん、……ふ、っ……」

 角度を変えながら何度も繰り返される口づけに、明日香は次第に呼吸を忘れていった。苦しさに喘ぐように口を開けば、その隙間からすかさず舌が入り込んでくる。歯列をなぞるように動いたかと思えば、上顎をこすられて、びくりと身体が小さく跳ねる。そのまま舌を絡め取られ、吸い上げられると、頭の芯がじんわりと痺れていくようだった。
 身体の奥底から湧き上がるような熱に浮かされていくのは、きっとアルコールのせいだ。

「……っ、あ……」

 もうこれ以上はないと思っていた距離なのに、さらに縮まっていくような感覚に陥ってしまう。お互いの唾液が混ざり合う水音が響き、明日香の耳を犯していく。
 酸欠と快楽に翻弄され、意識が飛びそうになったところで、ようやく唇が解放された。荒くなった呼吸のまままぶたを開けると、苛烈とも呼べるほどの熱を帯びた黒い瞳と視線が絡み合った。
 その瞬間、ずくんと胸の奥が大きくうずいた気がした。けれど、明日香はなぜか、誠司から目を逸らすことはできなかった。

「明日香ちゃん」

 名前を呼ばれただけで、身体中を電流のような刺激が駆け抜ける。今度こそはっきりと身体の奥で感じ取った甘い痛みに、明日香は自分の心が囚われていく音を確かに聴いてしまう。

「な、何……?」

 絞り出した声はかすれて、震えているのが自分でもわかる。誠司は再び顔を寄せると、明日香の耳元に口づけを落とした。

「俺のこと、好きになって。明日の朝まで……いや、今だけでいいから」

 甘やかに注がれる言葉に、得体の知れない何かがぞくぞくと背筋を這い上がっていく。

「……っ、ど、どうして……?」
「だって、このままだと、俺はきっと後悔するから。今だけ……俺のものになってよ、明日香ちゃん。そうしたら――明日香ちゃんも『恋』がどんなものか、わかるかもしれないよ?」
「そんなこと……」

 わからない、と言いかけて、明日香は言葉を止めた。
 本当にわからないのだろうか。
 彼に抱いている感情が、あの日から変わることなく『恋心』であること。わからないふりをしているだけで、本当はわかっているのではないか。
 たった数時間前に、十数年ぶりの再会を果たして秘めやかに歓喜したことも。
 今、彼に求められて嬉しいと感じている自分がいることも。

「ねぇ、お願い。今夜だけでいい。俺を見て。明日香ちゃん……」

 すがるような誠司の声色に、明日香はごくりと喉を鳴らした。
 ああ、恋に堕ちるというのはこういうことなのかもしれない――



   第一章 花曇りの夢


「ただ~いま……」

 久方ぶりの玄関に足を踏み入れた途端、リビングの方から年末特番と思しきテレビ番組の音楽が耳朶じだを打つ。腕時計に視線を落とすと、耳にかけていた髪がさらりと落ちた。明日香が目を落としたガラス製の盤面は、夕方の五時を指している。
 今年大ヒットした失恋ソングの聴き慣れたサビ部分が聞こえた。きっとリビングでは毎年恒例のカウントダウンコンサートの中継番組が流れているのだろう。

「あら~、明日香ちゃん、早かったねぇ」

 扉越しに聞こえてくる変わらないあたたかな美知代の声に、明日香はトランクケースを上がりかまちに持ち上げながら声を張り上げる。

「去年みたいに混むかなぁと思って少し早めに家を出たら、思いのほか早く帰って来れたの~」

 昨年は社会人となり初めての年末年始で、帰省ラッシュを甘く見ていたこともあり、ひどく往生してしまった。同じ轍を踏むまいと、念入りに電車とバスの時間を調べて臨んだ今回の帰省。ここ一ヵ月の努力は無事に功を奏したらしい。明日香はほっと胸を撫でおろす。
 トランクケースを一旦その場に置いた明日香がリビングの扉を開けると、リビングから繋がるダイニングのテーブルの上には、カセットコンロと土鍋が設置してあり、今夜の夕食のメニューが容易に想像できた。

「やっぱり、今夜はすき焼きなんだね」

 大晦日の夜はすき焼きを食べる――それが、明日香が育った麦沢家の恒例行事だった。

「ふふ、明日香ちゃんが帰ってくるなら今日の夕食はすき焼きしかないだろうと思ったのよ」

 カウンターキッチンで野菜をトントンと軽快に切りながら穏やかに微笑む養母・美知代みちよの表情に、改めて明日香は『帰ってきたのだ』と実感する。なんとも言えない感情を押し込めるように「ただいま」と再び声を上げながらキャメル色のウールコートを脱いだ。

「おかえりなさい。もうすぐ良和よしかずさんも帰ってくるから、荷ほどきしておいで」
「は~い」

 明日香は美知代の言葉に従い、洗面台で布巾ふきんを濡らしてトランクケースのキャスターを軽くぬぐい、玄関から近い自室の扉を開いた。
 ほとんどの収納棚を東京の自宅に持っていったので、ベッドしか置かれていないがらんとした空間になっているが、久方ぶりに訪れた自室は、窓から見える隣の住宅と目隠しになっている赤い実が鮮やかなレッドロビンが以前と同じように明日香の目を引く。
 ――レッドロビンの花言葉は「にぎやか」だって、大学生になってから知ったんだっけ。
 今思えば、幼くして何度となく傷ついてきた明日香の心を癒やせるようにという良和の配慮だったのだろう。仕事の合間を縫って、良和が植栽に励んでいたのを昨日のことのように思い出せる。
 そして、この家を離れて二年が経とうとしているが、レッドロビンは変わらず丁寧に手入れされているし、明日香の自室も相変わらず綺麗に整えられていた。

「……ありがたい、よねぇ。血は繋がっているとはいえ、私は遠い遠い親戚の子どもなのに……」

 良和と美知代の確かな愛情を感じ取れるような気がして、明日香は口元をほころばせながら荷ほどきを始める。
 化粧品と洋服を分け終えたところで、ふとすき焼きの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐっていく。砂糖が焦げる独特の香りが、明日香の胸にほのかな哀愁を連れて来る。
 ――お父さま……お母さまが作るすき焼き、大好きだったもんね……
 まだ明日香の両親が健在だった頃、母が作るすき焼きが父の一番の好物だった。一年の締めくくりである大晦日の夕食にすき焼きを食べるという習慣を作ったのも、母が日々社長業で忙しくしていた父に向ける愛情の一つだったのだろうと思っている。
 両親と過ごした鮮やかな追憶が脳裏をよぎり、明日香はかすかな息苦しさを覚えた。ふうと小さく息を吐き出して息苦しさを誤魔化し、胸元に寝間着を引き寄せゆっくりと自室から廊下へと足を踏み出す。
 美知代の夫で、明日香の育ての父である良和は、明日香の母親である有紀子ゆきこの従兄弟にあたる。
 明日香の両親は不慮の事故で帰らぬ人となり、様々な出来事を経て、明日香は中部地方に居を構えるこの檀原だんはら家に引き取られた。まだ十歳にもならないときのことだ。
 それ以来、明日香の生活は穏やかで平安なものだった。転入した地元の小学校、繰り上がりで入学した中学校を卒業したあとは、郊外の女子大附属の高等部を受験して見事合格。そのまま内部進学で大学の英文科に入学。大きな出来事もなく無事に卒業し、就職に伴い上京。現状、大学で学んだ英語力を活かせてはいないものの、平凡で、平坦な――平均的な人生。明日香はそれが何よりもありがたいのだと、身をもって知っていた。

「よしっ。美知代さんのお手伝いをしよう」

 これから九連休なのだ。せっかくの長期休暇期間、感傷に浸るのはもったいない。そう心に決めた明日香は自室を出て、寝間着を置こうとして脱衣所の扉を開けた。腰まで伸ばした髪を手首に着けていたヘアゴムで一つにまとめ、自宅から持ってきたエプロンを着つつバタバタとキッチンに向かった。

「美知代さん、手伝うことある?」

 腕まくりをすると、カウンターキッチンのシンクで洗い物をする美知代と視線がかち合った。目尻にしわが増えたような気がするものの、とても五十代とは思えないほどの美貌をもつ彼女は、時折ミセス向けのファッション雑誌のモデルをしている。

「じゃあ、お皿と卵をテーブルに出してくれるかしら」
「は~い」

 明日香は冷蔵庫に歩み寄り、そこから卵を手に取った。そして隣の食器棚から小鉢を取って卵を入れ、ついでに深めのお皿も引っ張り出してダイニングテーブルに配膳していく。そのとき、テレビの音声がリビングからダイニングにも流れ込んで来た。

『さて、実力派シンガーであるセレナさんは、一週間前のクリスマスに共同作曲者の方と電撃婚をされましたね。これからますますご活躍されていくことを一ファンとしてとても楽しみにしています! それでは、次のアーティストに参りましょう……』

 ディスプレイに映し出されているのは、先ほどまで失恋ソングを熱唱していたシンガーソングライターだった。彼女はSNSをまったくしないアーティストのため、デビューから十年以上私生活が表に出てこなかったのだが、つい数日前に突然結婚を発表した。かくいう明日香もSNSの類は登録していないものの、仕事納めだった昨日の職場では人気アーティストのこの話題で持ちきりだった。

「あらやだ、この歌手さん結婚したのね?」

 洗い物をしていた美知代がテレビを眺めながらぽつりと呟いた。明日香は思わず手が止まりそうになるが、平静を装って配膳を続けていく。

「結構年齢差があるみたい。五歳差ってワイドショーで言ってたかなぁ」
「この年になると、五つだなんて誤差の範囲だって思うのだけれど、若い子たちにとっては大きいものよね」
「そうだね、会社の先輩でも五歳年上だと随分ジェネレーションギャップがあるなって思うよ」
「あら、そうなの?」

 何気ない会話の流れに、明日香は目の前のテーブルにそっと視線を落とした。
 明日香はある事件をきっかけに零落れいらくした元社長令嬢という身の上のため、学生の頃から無意識のうちに恋愛というものをとことん避けてきた。明日香自身が借金等の負債を抱えているわけではないものの、少し調べれば白日の下に晒される親戚事情があるので、こんなワケありな女と好き好んで結婚しようと思う珍妙な男性はそういないだろうと考えている。そもそも、相手の男も願い下げと思うに違いない。
 そうした明日香の考えを良和も美知代も承知しているので、こうした帰省のたびに明日香へ直接「誰かいい人いないの?」などと聞いて来ることはない。それでも、明日香は二人がこうしたおめでたいニュースに反応するたび、なんとも言えない申し訳なさとやるせなさが胸の中に広がってしまう。昔から将来に関することは一切言ってこなかった二人だから、おそらく明日香がこの先も一生結婚はしないと決めたとしてもそれを受け入れてくれるだろう。
 けれど――それでいいのか、と煩悶はんもんする感情が明日香の心の奥にくすぶっていることも、紛れもない事実だった。

「ああ、そうそう。小西さんから明日香ちゃん宛てにお手紙が届いているのよ」

 ある程度温まったらしい土鍋をキッチンから運んでくる美知代が、思い出したと言わんばかりにダイニングテーブルの前で足を止めた。養母から飛び出した思わぬ旧友の名前に、明日香は今度こそ準備を進める手が止まってしまう。

「えっ……小西さんから?」
「お鍋置いたらすぐ持ってくるから、ちょっと待っててね」

 美知代はその言葉の通り、手にした土鍋をカセットコンロの上に置き、淡いグリーンのミトンを取ると、リビングの壁にかかっているウォールポケットから空色の封筒を持ち出した。明日香は美知代から差し出された封筒にゆっくりと視線を落とす。
 封筒に記された差出人は『小西桃子こにしももこ』となっている。紛れもなく、明日香が通っていた都心の小学校で巡り会った同い年の友人の名前だ。
 ――近況の報告、かしら……
 彼女は明日香が都心を離れ、檀原家に引き取られてからも、時折こうして手紙でやり取りをしている唯一の人物。前回やり取りしたときは、お互いに大学を卒業するタイミングだった。珍しいな、何だろうと思いながら明日香が受け取った手紙を開封すると、手触りの良い便箋が指先に触れる。綺麗に三つ折りにされたそれを広げると、『前略』から始まる文章が流麗な字で丁寧に綴られていた。

『街のあちこちでポインセチアが目につく季節となりました。麦沢さんも変わりないかな? 私は相変わらず仕事に追われる日々を送っているけれど、受付は一日中座っていることが多いから最近は運動不足が気になって、スポーツジムに通い始めました。身体を動かしていると、麦沢さんと体育の授業で一緒にフラフープやジャングルジムをしていた頃を思い出して、とっても懐かしく思っているよ』
「ふふ、懐かしいなぁ……」

 綺麗な筆跡ながらもどことなく可愛らしさもある字を懐かしい気持ちで眺めつつしばらく読み進めていくと、とある一文で明日香の視線がぴたりと止まる。

「お式に……招待?」

 結婚が決まったので結婚披露宴に出席してほしい――手紙の内容を要約すると、式の招待状を送付する前の確認の便りだったようだ。
 結婚は素直にめでたいと思う。彼女はプライム市場上場の大企業の受付嬢として内定をもらっていると言っていたので、そうした繋がりか、はたまた彼女の生家である小西家の閨閥けいばつ関連かのどちらかだろう。彼女は天然ガスの開発・採取を行っている大手の鉱業会社『小西こにしエナジーグループ』の社長令嬢だ。
 明日香は便箋を握り締める指先にわずかに力を入れる。

「あら、小西さん、ご結婚?」
「そうみたい。結婚式には……出たい、けど……」

 美知代の問いかけにそこまで言葉を返した明日香は、思わずその先を言いよどんでしまった。
 かつて逃げるように都心から離れた例の出来事は、明日香の記憶の中に確かなトラウマとして今も残っていた。けれど、あれからもう二十年が過ぎようとしている。桃子ともこうした手紙のやり取りだけで、実際に顔を合わせた機会はあれから一度もないのだ。友人に会いたいという物悲しさに心が沈むことも時折あった。
 手紙を持ったままの明日香の手を、美知代のあたたかな手がゆっくりと包み込んでいく。

「明日香ちゃんが悩んでいるのは叔父さんのことよね?」

 美知代のその言葉に明日香はギクリとする。かねてから懸念していたことをずばりと言い当てられたからだ。
 あのような大きな事件の関係者である以上、そうした場に出るのはやめておいた方がいいと引き留められるだろうか。明日香は痛む胸を押さえながら、投げかけられた問いにコクリと首肯しゅこうして美知代の次の言葉を待った。
 けれど、続けられた言葉は予想外のものだった。

「叔父さん、結局は最高裁まで争ったけど、執行猶予付きの判決になったのよね。私は財界とかゼネコン業界に詳しくないからわからないけれど、もう時効に近いと思うの」

 明日香の父親は、当時ゼネコンの中でも大手と言われる『麦沢むぎさわ住建じゅうけん株式会社』の社長を務めていた。明日香が八歳のときに有紀子とともに事故死したのち、社長の座と事業を叔父が引き継いだのだが、取引先に広告宣伝費を過大に支払う不正事件を起こして数年で倒産してしまったのだ。
 この事件は当時、テレビや新聞をはじめとするマスメディアに大きく報道されたこともあり、両親の葬儀後に叔父に引き取られていた明日香自身の身の安全を考え、麦沢家の縁戚ではなく母方の檀原家に身を移すこととなった。
 急な引っ越しだったこと、そして不正事件を起こした人物の親族という身の上だったので、明日香は今現在も当時の友人たちとの交友関係はほぼ断絶状態にある。
 そんな明日香にとって、唯一無二の旧友と顔を合わせることができるまたとない機会だ。

「人の噂がうるさくてそうした繋がりのある場に出る気にはなれなかっただろうけれど、もう二十年になるのよ? 気にしなくていいんじゃないかしら、って私は思うわ。それに、あちらのお友達とも随分と会ってないじゃない。きっと同じテーブルになるだろうから、寂しいこともないと思うわよ?」

 美知代の穏やかな声音に、明日香は改めて自分の心と向き合った。
 桃子と直接会って、今までのことや現在の生活のことを聞きたい。お互いの現状を語り合いたい。
 結婚式といった大きな催しとなれば、初等部で一緒だったクラスメイトも出席しているかもしれない。彼女たちとも、久しぶりに会うことができるだろうか。
 そんな想いが、過去に躊躇ためらう明日香の決意を後押しした。

「……せっかくだから……出席したい、ってお返事しようかな。でも結婚式って初めてだから、初売りで色々揃えたいの。美知代さん一緒についてきてくれる?」

 明日香が顔を上げると、美知代は得意げにウィンクをする。

「ええ、もちろん。とびっきり可愛いのを選んであげる。私も明日香ちゃんと初売りセールに行きたいなと思ってたのよ」
「あはは、私も美知代さんと久しぶりにお買い物行きた~い」

 くすくすと笑いながら、明日香は手にした手紙をそっとリビングのテーブルの上に置いた。幼い頃から変わらずに愛情をたっぷり注いでくれている養母の存在は、明日香の心の奥にぽつんと広がった黒い斑点をゆっくりと掻き消してくれるようだった。


   **……★……**


 アコヤ貝を貼った優美な曲面を描く天井には豪華なシャンデリアが等間隔に吊るされており、『ヴァンセンヌホール』と名付けられた空間を煌々こうこうと照らし出していた。
 その明かりを反射するように、整然と並べられたカトラリーがまばゆく輝いている。披露宴会場である大広間は、どこを見ても素晴らしいものだった。
 今夜の披露宴は、都心の広範囲をカバーしているガス供給会社である『一宮いちのみやガス』の御曹司と『小西エナジーグループ』の令嬢の結婚式ということもあり、正餐形式のレイアウトで四百名ほどが招待されて、盛大に開かれていた。
 大広間の隅にはカメラマンや大勢の配膳スタッフがせわしなく働いていて、シャンデリアの光とともに、キャンドルのやわらかな明かりがゆらめいている。至るところに設置されたスピーカーから響くしっとりしたクラシックの音楽がとても心地よい。
 特別な雰囲気に満ち、着飾った人々であふれ返る老舗高級ホテルの披露宴会場には、招待された人々の歓談の声がなごやかに響いていた。

「麦沢さん、みんなで一緒に記念写真を撮りに行きましょう? せっかくこうして集まれたのだし」
「ええ、行きましょうか」

 同じ円卓の名塚麻子めいづかあさこに声をかけられ、明日香は笑顔で応える。麻子は東京で通っていた私立初等部の入学式で偶然隣の席だったので、それなりに親しい関係を築いていた人物だ。招待されていた桃子の友人たちは、美知代が口にした通り明日香の見知った顔ぶればかりだった。
 当時通っていたのは初等部から大学院まで一貫教育を行う名門女子校だった。クラス替えなどはなかったため、卒業するまで顔を合わせる機会がない生徒もいたものの、エスカレーター式の学校なので中等部、高等部と顔ぶれはほとんど変わらない。大学は外部入学生がいるものの、その人数は半数ほど。そのため、初等部から十六年間をともに過ごした仲間たちは、大学卒業後も近況報告会という形で定期的に集まってはお茶をしているのだという。
 明日香は数人の友人たちとともに、会場の中央にある高砂席に向かう。高砂席には真っ白なタキシード姿の新郎と、綺麗に結われた栗色の髪によく似合う、グリッターとビジューがきらめくウェディングドレスに身を包んだ桃子が笑顔で手を振っていた。二人の前にはたくさんの花々が咲き誇っている。
 初等部時代からの親友である桃子は、昔から変わらない快活そうな可愛らしい面立ちに、少し大人っぽさが加わったように見える。それどころか、明日香が覚えていたよりもずっと美しくなっているようにさえ思えた。懐かしさと嬉しさが入り混じった気持ちで、明日香は桃子と微笑みを交わす。

「お久しぶり、小西さん」
「麦沢さん! 遠いのに来てくれてありがとう」
「ううん。私、こっちで就職して一人暮らししているから気にしないで。お招きいただいて嬉しいわ」


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石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

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