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1巻

1-2

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 その結論に辿り着き、軽く息を吐く。乾いた笑いすらも――今は出てこない。
 ぼうっと考え込みながらも、足は不思議と目的地へ向かって動いていた。エントランスを抜けて正面玄関を潜り、九月の眩しい太陽の下に出る。

「……一瀬さん」

 不意に背後の小林くんから呼び止められた。背中には見なくてもわかる、彼の心配そうな視線がぐさりと突き刺さっている。
 小林くんも気がついたはずだ。彼は年齢の割にひどく聡い。ある程度の事情を察したはず。居た堪れなくなり、わざと明るく声を張り上げた。

「そうだ。三ツ石商社の担当さんの名前、聞いてなかったね?」

 その場でくるりと振り返り、必死に笑顔を張り付けた。上手く笑えているかどうかもわからないけれど、同情とか憐れみとか、そういった感情はどうしても向けられたくなかった。それらの全てを跳ね除けるつもりで、力の限りにこりと口角を上げる。
 視界に映った小林くんは、自分が傷つけられたかのような表情をしていた。まるで仔犬こいぬが飼い主を見失ったかのような。けれども彼は、一瞬で顔をほころばせた。やっぱり小林くんは、聡い。

「ムラカミさんという方です」

 小林くんの口から飛び出してきた聞き慣れない名前に思わず眉をひそめた。書類の不備があった三ツ石商社は、私たちが勤める極東商社 通関部の大きな取引先のひとつ。入社三年目、この社名を聞かない日はないが、『ムラカミさん』とは一度も接触した覚えがない。

「う~ん……私、その人と喋ったことないなぁ。さっきの書類見せて?」

 私たちが所属する通関部は貿易に関わる業務を行っている。流通させたい国で流通させるための税金関税額を計算し、その地域を管轄する税関という行政機関に申告、その他付随する様々な業務を専門に行っている部署だ。煩雑はんざつな手続きが必要となるため、輸入出の際は基本的には通関業務を専門に行っている企業へ通関依頼する場合が多く、今回の業務もそのひとつ。
 私たちは海路貿易を担当している二課の所属だ。海路を経由した輸入出は船舶全体に一種類の荷物が積載されているのではなく、大型コンテナに詰められ船に混載されている形。もちろん、船やコンテナは船会社が所有しているため各種手続きには厳格な期日が定められている。
 輸出の場合は限度日カット日を厳守しなければならない。このカット日が過ぎてしまえば如何いかなる理由があろうとも船舶へのコンテナの積み込みが不可となり、対象貨物は輸出できなくなるのだ。故に、今回のカットが九月二十六日今日のような場合は、不備があれば大至急確認を行わなければならない。

(……ん? 今日!?)

 ぱらぱらと書類を捲った先に記されていたのは、あろうことか今日の日付だった。

「小林くん! これ、カット日今日だよ!?」
「……えっ!?」

 我が目を疑うような事態に一気に青ざめた私たちは、慌ててその場から駆け出し、バタバタと三ツ石商社へ向かった。
 やけに緩慢に開くエレベーターの扉。急いでいる時ほどゆっくりに感じるそれを半ば強引にすり抜ける。

池野いけのさん!」

 目的地の三ツ石商社の受付に着くと目の前に飛び込んでくるのは見知った顔。思わず走り込む足に急ブレーキをかけて彼女を呼んだ。本来ならばここで来客簿に記帳してから社内に通してもらうのだけれど、今日は運よく近くに彼女がいた。今は緊急事態、本当に申し訳ないが記帳は後回しだ。

「あら、一瀬さんじゃない! どうしたの?」

 柔和な表情を浮かべる女性は、同じ大学の先輩にあたる。四十代とは思えないほどの美貌。歳が離れているため学生時代に関わりがあった訳ではないが、彼女は私の憧れの女性なのだ。
 通関業に係わる法改正などが行われると、関係企業は税関が主催する講習に招集される。私が入社して半年ほどの新人の頃、その講習に私一人で出席することとなり、重要な講習だから一言も聞き逃してくるなと私の教育係だった水野みずの課長代理に言い含められ、緊張に緊張を重ねた結果、税関の近くで迷子になってしまったのだ。
 半泣きで地図が記載されてある書類を見直している場面を助け出してくれたのが、池野さんだった。他愛もない世間話をして緊張を解してくれ、その際に同じ大学出身であることや勤め先が取引先同士であるとわかって以来、ずっと目をかけてくださっている。

「ちょうど五分前、担当のムラカミさんにお知らせしましたが、今日カットのこの書類に不備があるようで、思わず来てしまいました」

 首筋を流れ落ちる汗もそのままに、乱れた息を必死に整えつつ目の前の彼女に手短かに状況説明をした。池野さんは「何かしら?」と怪訝けげんな表情を浮かべ、アーモンド色のミディアムヘアを傾ける。私が差し出した書類を受け取り視線を落とした瞬間、柔和な顔が瞬時に歪んだ。

「あんの腑抜ふぬけが……」
「……え?」

 腹の奥から絞り出したような声を上げた池野さんの姿に思わずたじろいだ。

「一瀬さん、ちょっと待っててね」

 彼女は満面の笑みと表現するのが正しいような表情を浮かべていたけれど、それでも明らかに怒気どきはらんでいた。くるりときびすを返し、ヒールの音を大きく鳴らしながら勢いよく受付奥のフロアに走り込んでいく。

「今のが池野さん。私の大学の先輩。……怖くないからね?」

 そう声をかけながら私の背後で明らかに硬直している小林くんを振り返る。本当はとても優しくて穏やかな人なのだけれど、今ので『怖い人』という印象を抱かせてしまっただろうか。

「……ご迷惑をかけないようにします……怒らせたら怖い人でしょうし」

 案の定、小林くんは音量を落としたような声色で小さく続けた。思わず苦笑して肩を竦める。
 もう九月下旬とは言えまだまだねっとりと暑い時期が続く。短い距離とはいえ、走ってきたこともあり、汗が滝のようににじみ出ていく。上がった呼吸を落ち着けつつ、後回しにしていた受付の来客簿に記帳をしようと受付に足を向けると、耳馴染みのない声がこの空間に響いた。

「小林!」

 いかにも、体育会系です、と言うようなエネルギッシュな大声が響く。名前を呼ばれた小林くんが少しばかり呆れたような声を上げた。

藤宮ふじみや……」
「ひっさしぶりだな! 元気してたか!?」

 小林くんと同じくらいの背丈の彼。表現するならば大型犬。彼の臀部でんぶ尻尾しっぽが付いていれば、きっとぶんぶんと振り回していることだろう。

「小林くん。知り合い?」

 先ほど交わされていた会話と彼らの間に流れる空気感。きっとそうなのだろうと感じるけれど、なんとなく答え合わせをしたくなって大型犬のような彼から後輩に視線を移す。小林くんは半ばげんなりしたような空気をすらりとした身体にまとわせながら、顔をこちらに向けた。

「……大学の同期です」
「まぁ」

 まさか小林くんの大学同期が近くの会社に、それも取引先に就職しているとは。数奇なご縁に目を瞬かせる。

「小林、お前の先輩? 初めまして、三ツ石商社営業三課新人の藤宮と申します!」

 目の前の彼は慣れたような手つきで名刺を差し出し、ニカッと笑う。きっと延々と名刺配りをさせられたのだろう、思わず見惚れてしまうような完璧な動作だった。

「初めまして、極東商社通関部の一瀬です。小林くんの同級生なのですね。彼の教育係をしています。これから関わりがあると思いますので、よろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします! ……しっかし、羨ましいなぁ~小林。こんな美人さんが先輩だなんて! 俺の先輩も上司も、いっつも怖ぇ顔して……痛ぇっ」
「なに油売ってるの、藤宮」

 いつの間にか奥のフロアから戻ってきた池野さんが自らより十数センチ高いはずの藤宮くんの背広の襟首を掴んでいる。彼女の顔は見慣れたはずの柔和な表情に見えているのに、般若はんにゃの表情にも見えるのがなんとも不思議だ。

「ぎゃっ、池野部長!」

 後方に引っ張られた藤宮くんは蛙が踏みつぶされたような悲鳴をあげた。そう、池野さんは営業統括部長なのだ。三ツ石商社の主事業である営業部の全てを取りまとめている。大学卒業後に数ヵ国を転々としたバイリンガルで、類稀なる営業の才能を発揮し貿易営業一本で統括部長にまで駆け上がった優秀な方。この食品流通業界に常に新たな風を吹き込んできたという実績を持つ、知る人ぞ知る人物でもある。

「藤宮。ムラカミ、見てない?」

 そんな彼女が満面の笑みを浮かべながらギリギリと藤宮くんの襟首を掴んでいる。これまでの彼女との付き合いで目にしたことがない苛烈な一面を目の当たりにし、思わず目を瞠る。

「せ、先輩だったらっ、例のプロジェクトの件で下請けに交渉に行ってから出社だそうですっ」

 藤宮くんが『降参』の声色をあげると彼女はぱっと手を離す。池野さんの華奢な身体から再び低い音程の声が響いた。

「……あの腑抜け、私の可愛い後輩に苦労させて」
「あ、あのぅ……池野さん?」

 上ずった私の呼びかけの直後には、柔和な笑みがこちらに向けられた。コインの裏表が切り替わるかのような様子に思わず呆気に取られる。

「ごめんなさいねぇ。あとで担当者から電話させるわね?」

 不備があった箇所は池野さんの筆跡で訂正されていることが見て取れた。迅速な対応に謝意を述べながら頭を下げ、その書類を受け取る。

「ところで一瀬さん。彼はそちらの新人くんかしら?」

 ふい、と池野さんが私の背後を覗き込んだ。会話の流れを見守っていた小林くんが意を決したように口を開き、池野さんへ硬い声色で自己紹介をしていく。藤宮くんに比べると名刺交換の所作もぎこちないものだけれど、初回としては合格点だと思う。

「池野さん、アポも取らずに押しかけてすみませんでした。ご挨拶もできて良かったです。これで私たちは失礼しますね」

 目的は果たせた。長居せず帰社しなければ。私はこの後に山崎部長との面談が控えている。この場を辞する挨拶を笑顔で口にしながらも、気分がずんと重くなっていく。
 あの男だけが結婚指輪それを嵌めていて――私が捨てられたことも、格好のゴシップネタになっているはずだ。低く垂れ込んでいく暗雲を振り払うように、心の中で頭を打ち振るってその考えを振り切る。

「いいのよ! こちらの手違いなのですから、むしろ呼びつけても良かったのに」

 池野さんが浮かべた悪戯っぽい微笑みに引っ張られ、不思議と私も笑顔が零れる。
 どんな結果であれ、なるようになるしかない。今は自分にそう言い聞かせることしかできなかった。


「はい、極東商社通関部三木です」

 三ツ石商社から戻り通関部のブースに足を踏み入れると、いつもの溌剌とした声が響いていた。声の主は後輩の三木ちゃん。常に快活で職場の空気を明るくしてくれる存在だ。その奥に、キリッとした銀縁メガネをかけたもう一人の上司である水野みずの課長代理の姿もあった。

「おはようございます」

 一礼して挨拶を交わし、私と小林くんの行動予定表のマグネットを『外出』から『在席』に戻していく。私たちが外出する直前まで席に着いていたはずの田邉部長の姿が見当たらないが、目の前の行動予定表は『在席』のまま。お手洗いかなと内心首をひねりながら自分のデスクに戻った。
 椅子に手をかけると、水野課長代理と視線がかち合った。耳にかかる程度に揃えられた黒髪は男性と思えないほど艶がよく、色っぽい。

「一瀬。田邉部長が第二研修ルームで待っていると言っていたぞ」

 唐突に投げかけられた、予想外の言葉。一瞬、返答に詰まる。外出前に告げられた面談は三者面談である、と。数秒遅れて理解した。

「……ありがとうございます」

 面談で根掘り葉掘り聴取されるのだろうか。そう思うだけで気が滅入る。
 気がつけば、真横の三木ちゃんが受話器を持ったまま物憂げな視線をこちらに向けていた。そんな彼女の表情は、明らかに気遣わしげなもの。
 やはり、もう噂となっているのだ。私には結婚指輪がない。大半の人間はこの事実だけで、私たちがどういう結末を迎えたか瞬時に理解するだろう。重い溜息とともに僅かに肩を落とす。
 それでも――負けたくない。
 気力を振り絞り、表情を曇らせたままの三木ちゃんを安心させるように、精一杯の笑みを送り返し、『大丈夫よ』と声を出さずに口だけを動かした。
 足早に向かった先の第二研修ルームは、すでに【使用中】に切り替わっていた。あの二人が先に入っているということ。緊張で跳ねる心臓を抑えながら扉の前で大きく息を吐く。

「おはようございます。通関部の一瀬です」
「入りなさい」

 私を招き入れる山崎部長の優しい声色を聞き届けて、ゆっくりとドアを開いた。

「失礼します」

 室内には二つの人影。大丈夫だ、と再び自分に言い聞かせて椅子に腰を下ろした。汗ばんだ両手を膝の上に乗せ、ぎゅっとハンカチを握り締める。
 極東商社は今年から海外に新たな拠点を作っている。史上最速で課長代理となった優秀な人材を人事部から失った責として、私がそういった僻地へ飛ばされる可能性も否めない。
 けれども、私は何一つ、一切、悪いことはしていないはず。だから、何を言われたって構わない。そんな感情を胸に抱いたまま、毅然とした態度を意識して背筋を伸ばし、目の前の二人をじっと見据えた。

「そう緊張しなさんな」

 山崎部長は穏やかな声色で言葉を紡ぎ、緊張する私を宥めるように苦笑した。その心配りに小さく頭を下げる。けれどもこの状況で緊張しないほうがどうかしていると思う。

「今回の顛末は本人から聞いているよ。彼は人事部からの異動を願い出ている」

 私と凌牙の醜聞がこの二人の耳に入っている。改めて知らされ、世界から消えたくなるほどの恥ずかしさと情けなさが込み上げる。何を言われても構わないと思っていたけれど、それとこれは別だ。思わずそっと目を伏せた。

「まぁ要するにだけども、今度、コーヒー豆を専門に扱う部門を立ち上げるという話が持ち上がっているのは知っているね。平山はそれに携わりたいのだそうだ。外向けのための良い理由ができた。そういうことだ。だから君はそんなに気にしなくて良い」
「……え」

 何を言われているのか。一瞬、理解が及ばなかった。目を伏せたまま呆然と固まっていると、田邉部長が私をじっと見据える様子を視界の端に捉えた。

「真面目な一瀬のことだからね。恐らく平山が異動を願い出たのは自分のせいだ、と。それで人事部が損失をしたと考えているのだろう?」

 田邉部長のその言葉を引き継ぐように、山崎部長が淡々と言葉を続けていく。

「平山は確かに私がまとめる人事部にとって重要な人物だ。でもね、一瀬さん。我々は平山だけに頼っていてはいけない。会社を大きくするために人事部の中でも人は育てなければならない。実はね、今年の新入社員を平山の下につけていたのだがこの社員も他人の本音を引き出すのが上手い。平たく言うと、彼を育てていくには平山が邪魔なんだ」
「……それは」

 凌牙が……邪魔。その言葉の意味が噛み砕けず緩慢な動作で伏せた顔を上げ、山崎部長に視線を合わせた。そこに浮かぶのは苦々しいともいえる表情。

「平山は他人の適性を見抜くというのは知っているね。この社員を採用したのも平山だが、その下につけたのは私だ。平山にとって初めての教育。上手くいけば彼ももっと伸びると期待していたのだが……ここ数ヵ月、平山が新人の成長を妨害している」

 仕事に対するプライドは誰よりも高い凌牙のことだ。私よりも年上のカレが、交際相手であった私よりも五歳年下の伸び盛りの人間に嫉妬していた。思わぬ事実を知らされて、かぁっと顔が熱を持つ。

「どうしようかと考えあぐねていたんだよ。我が強い平山を人事部から離れるよう、どう誘導するか。だから彼の申し出はちょうど良い機会だった」

 凌牙は順調に昇進を重ねていた。故に仕事がとてもできる人なのだと認識していたけれど、まさか……こんな風に周囲に迷惑をかけていた、だなんて。

「そしてね、この会社は社内恋愛が多いからね。私も痴情のもつれはこれまでもうんと、要は山ほど見てきたんだ。平山は自己弁護に徹していたが、小手先の論理で取り繕えると私たち年配者を侮ってもらっては困る。人の噂も七十五日とは本当によく言ったものだ」

 小さく肩をすくめた山崎部長が穏やかに微笑んだ。その言葉と力強い声色は、私にいらぬ悪感情など持たなくて良いのだと、私を納得させるだけの力を持っていた。込み上げた羞恥心を一旦押し込め唇を引き結んだ。私のその表情を確認し安堵したかのように山崎部長の肩が僅かに下りていく。

「今まで一瀬さんと平山が社内での接触を過剰なくらい避けていたから、交際をしていたと言うのを知っているのは、まぁある程度の人数はいるかもしれないが、本社内の全員ではない。ただ……腫れ物扱いをされる可能性も少なからずある。一瀬さんが希望するのであれば、来週の人事異動に君の名前を加えよう」

 唐突に選択肢を提示されて、思考が固まった。
 私は――これから、どうしたいのだろう。
 通関部での仕事は好きだ。けれども今回の件で異動辞令が出るならやむなしとして受け入れようと思っていた。

「優秀な君のことだ。どこに異動となってもすぐ馴染むだろう。本社外の食品開発部でも、子会社に出向という形だっていい」

 山崎部長の真意が朧げながら伝わってきた。本社内に身の置き場がなく、精神的に追い詰められ退職を選ばれる前に布石を打ちたい。自分で異動先を選んでいい、そう仰ってくださっているのはそういった思惑があるから、なのだろう。
 私は突然の話に当惑したまま何も言葉を紡ぎ出すことができなかった。山崎部長の含意を読み取っても、私自身はどうしたいのか、さっぱりわからない。思いが定まらず、膝の上の両手に視線をそっと落とした。

「通関部に在席したままが希望であれば、それでも良い。心のままに、正直に答えてほしい」

 再度。山崎部長が私に向かって、優しく問いを投げかけた。

「……私は……通関部の仕事が、大好きです」

 膝の上のハンカチをぎゅっと握り締め、震えそうになる喉を叱咤しゆっくりと顔を上げる。眼前に映る二人それぞれに視線を合わせながら、先ほどの問いに――心のままに声を紡ぎ出していく。

「私は一般職ですが、通関士である上司の補佐ができていることに誇りを持っています。後輩の三木や新人の小林も、育ってきています」

 三木ちゃんは昨年の新入社員。初めての後輩。同じ立場である一般職社員ということ、そしてお互いに波長が合ったことから、公私ともに昵懇の仲。彼女は水野課長代理や私のフォローがなくても十分なところまで成長し、今では通関部になくてはならない存在となっている。
 そして、小林くん。彼は私と立場が違う総合職。彼は今、一般職である私の指導のもとに貿易の基礎を学んでいるけれど、いずれは営業も含めた総合的な業務に従事することとなる。私たちの上司である田邉部長や水野課長代理が取得している国家資格である通関士試験に挑んで、いつかは私の手を離れて独り立ちをする。……だから。

「正直に言うと、小林が通関士に合格して、独り立ちするのを見たいのです」

 嘘偽りのない感情。自分が教育を受け持った後輩が成長し、独り立ちを見届けるまでは通関部に在籍していたい。
 私の言葉を聞き届けた田邉部長が満足そうに微笑み「一瀬が嫌ではないなら」、と前置きした上で驚くべき内容が提示されていく。

「通関部の組織改革を考えていたんだよ。二課に農産チーム、畜産チーム、水産チーム、という具合に取扱品目ごとにチーム分けをしたいんだ。業務効率が上がると思わないかい?」

 曰く、チーム制にするならばチームリーダーを立てることになる。そして業務の都合上、それは通関士がになうことになる。税関へ提出する書類は全て通関士の審査・署名が義務づけられているからだ。
 今の通関部二課では、通関士として勤務しているのは田邉部長と水野課長代理の二人。小林くんも勉強しているが、受験は来年だ。例え来年合格したとしても経験の浅い彼をチームリーダーに据えるのは少々気が引ける。
 そこまで説明されて、ピンと来るものがあった。

「私に、一般職から総合職に転換しないかということですか?」

 通関部に所属する私が一般職から総合職に転換すれば、遅かれ早かれ通関士試験を受験することとなる。そして、私が通関士資格を得れば、その組織再編と共に私をチームリーダーに据えることが容易となる。
 ――ただただ捨てられた女で終わるわけにはいかない。
 ポン、とその言葉が脳内に浮かぶ。見返してやりたいという強い気持ちが身体の奥底から湧き上がってくる。これが醜い感情であることも、不純な動機だということも理解している。
 けれど、砕け散った心を修復させるにはもうこの手段しかない。自分を磨いて『捨てなければ良かった』と思わせてやりたい。

「ご期待に添えられるよう精進いたします」

 私のその言葉に、山崎部長は私の覚悟を推しはかるように念押しの表情を見せた。

「……じゃあ、総合職に転換ということで、良いんだね?」

 一般職から総合職に転換する。たった十三文字の言葉。けれどその言葉が持つ意味は重い。残業が多くなりプライベートの時間が減ることはもちろん、責任ある仕事を任される反面、プレッシャーも高まる。業務内容も一変する。これまで担ってきた補佐業務だけではなく『営業』も引き受け、それらの成績が私の評価に直結していくのだ。人生の中でも大きな決断。

「はい。光栄なお話ですから。つつしんでお受けいたします」

 職種転換を希望する場合、希望者が申し出てから上長や役員会での検討が始まる。そして適性が見込まれれば試験を受け、転換が叶う。適性試験までのそれらの手順を飛ばし、提案してくれているのだ。これほど光栄な話はない。
 そののち、今後の業務内容についてや転換に必要な書類、そして試験の日程などの説明が進められていく。一息ついたころ、思い出したかのように山崎部長が声色を変えた。

「そうそう、一瀬さん。明日の懇談会は出席するかな?」

 思わず「あ」と小さく声が漏れた。
 多数の部所があるこの会社では一年に一度、全社員を集めての懇談会が開かれる。普段はほとんど接することができない取締役や執行部のメンバーと社員とが懇談する機会を設けるということらしい。近隣のホテル宴会場を貸し切り、男性社員も女性社員も正装し立食パーティーのような形式で行われる。
 金曜日に起こった出来事の大きさから、年一年に一度の大イベントが脳内から消え去っていた。苦笑いを零しながら小さく肩を竦める。

「……忘れておりました。でも、ここで欠席すれば結局は腫れ物扱いされる期間が伸びるだけですから、出席します。ご心配をおかけして申し訳ありません」

 腫れ物扱いはどうしたって受けるだろう。けれどここで逃げても一緒だ。予定通り出席を選ぶ方が合理的。私の返答に、田邉部長が笑いを噛み殺したような表情を浮かべていた。

「ふふ、一瀬のそういう潔いところも私は気に入っているんだよ。異動したいと言い出さなくて良かったとほっとしている」

 上司の言葉に、虚をつかれた。私は自分を潔いなんて一度も思ったことはない。半ば呆気に取られていると、目の前の二人がゆっくりと席を立っていく。

「今はキツイだろうけれど、しっかり頼むよ。今日は特に休日を挟んで仕事が溜まっているだろうから」
「……はい」

 二人に倣うように席を立つ。そのまま二人の背中を追って、第二研修ルームを退室した。
 フロアに戻る道すがら、ぼんやりと思考を巡らせる。これまでの社会人生活の中で考えたこともなかったけれど、私は総合職に転換することとなった。実感がまったく湧かない。突如訪れた衝撃的な出来事を発端とした――人生の転換期。
 凌牙との醜聞がきっかけになったとて、『適性がある』と見込まれていたからこそ、声をかけてもらえたのだ。私へ向けられている期待値の大きさとそれに伴う責任の大きさを噛み締めながら、ふわふわとした感覚のまま通関部のフロアに足を踏み入れる。
 短く「戻りました」と声を発した途端、心配そうな視線を小林くんから向けられた。三木ちゃんも私の姿を認めるなり泣きそうな顔をして席を立ち駆け寄ってくる。

「やっぱり異動の話だったんですか」

 彼女のその様子に、思わず眉を下げた。

「違うわ。私、総合職に転換するの。その最終面談だったのよ」

 途端、ぱぁぁっと三木ちゃんの目が輝いた。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が瞬時に潤んでいく。

「もし先輩がいなくなったらと思うと、私、私……うわぁあん」

 大きな瞳から小さなしずくこぼした三木ちゃんが私の胸の中に飛び込んできた。幼子のように私の胸元に顔をうずめてくる。肩につく程度の明るいボブヘアが視線の先で揺れていた。
 私に異動の可能性がある、というだけで、涙するほど気を揉んでくれていた。良い後輩を持ったなと改めて実感する。
 この人と未来を歩いていくのだろう、と思っていた。その人から捨てられたことで、まるで私はこの世界から必要ないと言われているように思えていた。感情の全てが凍り付いてしまったように感じていたけれど。
 他でもない、私のことで――私以外の人が、泣いてくれている。
 不謹慎ながらも面映おもはゆい気持ちが湧き上がり、口元と心がじんわりと綻んでいく。三木ちゃんの涙を落ち着かせたのちに感謝を伝え、自分のデスクに戻った。
 斜め前に座る小林くんも安堵した表情を浮かべている。声に出さずに『ありがとう』と口を動かすと、彼は小さく頭を下げた。


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