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本編・第三部
【小噺】Hold hands together as it is.
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昨晩の『雨』という天気予報が外れ、今日は絶好の野外フェス日和。会場待ちをしていた数時間前まで肌を刺すような真夏の日差しが青々とした芝生に照りつけていたけれど、日差しが西に傾き徐々に周囲が茜色に染まっていくと同時に、眼前に広がるステージに鮮やかな夕陽が舞台照明のように差し込んでいく。その景色にステージ上の演者たちが奏でる艶やかなジャズミュージックが調和し、圧巻ともいうべき空間が広がっていた。多彩なリズムに演者のアドリブも加わり、すでに終演間際だというのに全く飽きが来ない。目も耳も幸せ、というのはこのような状況を指すのだろうと思う。
今日は、私の誕生日――8月5日、土曜日。達樹が野外フェスのチケットをプレゼントする、と言ってくれたのが先々週の出来事。その申し出に甘えるように、Jazz系フェスのチケットを希望した。
あの日――近隣で大きな夏祭りが行われた日。「フェスには一緒に行こう」、と約束を交わした。どうせ一緒に行くなら私が普段行くようなモッシュが起こるフェスよりも、達樹も楽しめるような、ゆったりとしたフェスがいいと思ったのもひとつの要因だった、けれど。
「古都観光ついでに。せっかくですし、旅行気分でいかがでしょう」
てっきり、達樹は近郊にあるレンガ造りの港町で行われるジャズフェスのチケットをおさえているのだろうと思っていた。このフェスのチケットと一緒に新幹線のチケットが目の前に置かれ、先輩に私たちの関係を暴露した時と同じような、しらっとした表情で突然の宣告をされたのが昨晩の夕食後の出来事。想像もしなかったタイミングのサプライズに、一瞬口から心臓が飛び出るかと思った。
以前から関西圏の野外フェスのさきがけとなったこのJazzフェスに一生に一度は参加してみたいと思っていたものの、自宅から遠距離で行われるということもあり、なかなか機会に恵まれなかった。……けれど、まさかこんなタイミングで『旅行ついでに』というような展開になるとは、思ってもみなかった。
目の前に広がる光景に思考と感情、その全てが追い付かず、半ばパニックになった私の表情を視認したはずの達樹は――響介に嫉妬していたあの日と同じようにくすり、と。満足そうに笑っていた。
オープンにしていない社内恋愛中の私たちは、普段から一緒にどこかに出かけるということをあまりしてこなかった。けれど、こうした遠い街であれば町中をふたりで歩いていても会社内の誰かに見つかるということはほぼないはず。突然の出来事に驚きはしたものの、達樹のその心遣いはひどく嬉しかった。
「……晴れてよかった。雨でも開催はされるとは言ってましたけど、せっかくなら外でと思ってましたので」
事前に持ち込んだペットボトルに口を付けながら、達樹がぽつりと零した。芝生に敷いたレジャーシートに座って観覧するタイプのこのフェスは、雨天となっても近くのホールに会場を移して決行されるらしい。4月に畜産販売部に異動となってから商談やら取引先に提示する企画立案やらで忙しい日々を送っているはずだろうに、今日のためにと色々な案を考えてくれていたのだと察した。
その言葉を紐解いていけば――達樹自身も、この日を心待ちにしてくれていた。その事実に行き当たると、身体の奥底からあたたかい感情がじわりと込み上げてくる。気を抜けば口元が盛大に緩みそうになるのを必死に押し殺した。
『次が最後の一曲です。皆さま本当にありがとうございました!』
MCの人の掛け声とともに雨のような拍手が沸き上がる。それに倣い演者の人々に拍手を送りながら、そっと隣の達樹に視線を向けた。拍手を終えた達樹は身体を支えるために右手をレジャーシートについている。手を伸ばそうと腕に力をいれて、少しばかり躊躇う。
込み上げてくる小さな恥ずかしさに頬が僅かに熱を持つ。……でも。
(……ちょっと、ずつ)
達樹に対して、遠慮したり、我慢したりするのは、もうおしまいにしようと決めたから。躊躇いがちに伸ばした手のひらを、達樹の右手にそっと重ねる。
ゆっくりと……視線が絡み合った。重ねた手も、自然と絡まっていく。
お互いに小さく笑みを浮かべ、そっとステージに視線を戻した。トクトクとときめく心臓の音を聴きながら、そのままゆっくりと達樹の肩に頭を預ける。
「こうして外でジャズが聴けるなんて、贅沢ですよね」
「……ん」
このフェスは、終演前の最後の一曲は毎年同じ楽曲が演奏されるらしい。フェスの暑さや激しさとはひと味違う哀愁が漂う大人な演奏かと思えば、ジャズならではの自由なリズムで明るさが協調されたフリースタイルな演奏も響き、思わず感嘆のため息がこぼれ落ちていく。カフェなどでも流れるような有名な曲も、演者によってこんなに違うのだと改めて認識させられる。
こうしたライブ等に参加する度に思うのは、やはり生音は何にも変えられない。音だけではなく、その場の空気感も含めて『ライブ演奏』なのだ。これは会場にいなければ味わうことが出来ない、唯一のもの。
(……しあわせ、だな…)
音楽鑑賞の中での最大の贅沢。そんな贅沢な時間を、同じ音楽を。達樹と隣合ったまま、共有している。こんなに幸せなことはない。
来年この場所に聴きにきても、今とは違う感想を抱くのだろう。同じ楽曲だとしても、その日のその瞬間の演奏がこんなにも違うのだから。
それはきっと。この場に、何度だって聴きに来たくなるような――――
「……来年も、また来ましょうね。真梨さん」
ステージから奏でられた最後の一音の余韻。そこに、達樹の穏やかな声で紡がれた、倖せな一言が。
ゆっくりと……溶けて、いった。
今日は、私の誕生日――8月5日、土曜日。達樹が野外フェスのチケットをプレゼントする、と言ってくれたのが先々週の出来事。その申し出に甘えるように、Jazz系フェスのチケットを希望した。
あの日――近隣で大きな夏祭りが行われた日。「フェスには一緒に行こう」、と約束を交わした。どうせ一緒に行くなら私が普段行くようなモッシュが起こるフェスよりも、達樹も楽しめるような、ゆったりとしたフェスがいいと思ったのもひとつの要因だった、けれど。
「古都観光ついでに。せっかくですし、旅行気分でいかがでしょう」
てっきり、達樹は近郊にあるレンガ造りの港町で行われるジャズフェスのチケットをおさえているのだろうと思っていた。このフェスのチケットと一緒に新幹線のチケットが目の前に置かれ、先輩に私たちの関係を暴露した時と同じような、しらっとした表情で突然の宣告をされたのが昨晩の夕食後の出来事。想像もしなかったタイミングのサプライズに、一瞬口から心臓が飛び出るかと思った。
以前から関西圏の野外フェスのさきがけとなったこのJazzフェスに一生に一度は参加してみたいと思っていたものの、自宅から遠距離で行われるということもあり、なかなか機会に恵まれなかった。……けれど、まさかこんなタイミングで『旅行ついでに』というような展開になるとは、思ってもみなかった。
目の前に広がる光景に思考と感情、その全てが追い付かず、半ばパニックになった私の表情を視認したはずの達樹は――響介に嫉妬していたあの日と同じようにくすり、と。満足そうに笑っていた。
オープンにしていない社内恋愛中の私たちは、普段から一緒にどこかに出かけるということをあまりしてこなかった。けれど、こうした遠い街であれば町中をふたりで歩いていても会社内の誰かに見つかるということはほぼないはず。突然の出来事に驚きはしたものの、達樹のその心遣いはひどく嬉しかった。
「……晴れてよかった。雨でも開催はされるとは言ってましたけど、せっかくなら外でと思ってましたので」
事前に持ち込んだペットボトルに口を付けながら、達樹がぽつりと零した。芝生に敷いたレジャーシートに座って観覧するタイプのこのフェスは、雨天となっても近くのホールに会場を移して決行されるらしい。4月に畜産販売部に異動となってから商談やら取引先に提示する企画立案やらで忙しい日々を送っているはずだろうに、今日のためにと色々な案を考えてくれていたのだと察した。
その言葉を紐解いていけば――達樹自身も、この日を心待ちにしてくれていた。その事実に行き当たると、身体の奥底からあたたかい感情がじわりと込み上げてくる。気を抜けば口元が盛大に緩みそうになるのを必死に押し殺した。
『次が最後の一曲です。皆さま本当にありがとうございました!』
MCの人の掛け声とともに雨のような拍手が沸き上がる。それに倣い演者の人々に拍手を送りながら、そっと隣の達樹に視線を向けた。拍手を終えた達樹は身体を支えるために右手をレジャーシートについている。手を伸ばそうと腕に力をいれて、少しばかり躊躇う。
込み上げてくる小さな恥ずかしさに頬が僅かに熱を持つ。……でも。
(……ちょっと、ずつ)
達樹に対して、遠慮したり、我慢したりするのは、もうおしまいにしようと決めたから。躊躇いがちに伸ばした手のひらを、達樹の右手にそっと重ねる。
ゆっくりと……視線が絡み合った。重ねた手も、自然と絡まっていく。
お互いに小さく笑みを浮かべ、そっとステージに視線を戻した。トクトクとときめく心臓の音を聴きながら、そのままゆっくりと達樹の肩に頭を預ける。
「こうして外でジャズが聴けるなんて、贅沢ですよね」
「……ん」
このフェスは、終演前の最後の一曲は毎年同じ楽曲が演奏されるらしい。フェスの暑さや激しさとはひと味違う哀愁が漂う大人な演奏かと思えば、ジャズならではの自由なリズムで明るさが協調されたフリースタイルな演奏も響き、思わず感嘆のため息がこぼれ落ちていく。カフェなどでも流れるような有名な曲も、演者によってこんなに違うのだと改めて認識させられる。
こうしたライブ等に参加する度に思うのは、やはり生音は何にも変えられない。音だけではなく、その場の空気感も含めて『ライブ演奏』なのだ。これは会場にいなければ味わうことが出来ない、唯一のもの。
(……しあわせ、だな…)
音楽鑑賞の中での最大の贅沢。そんな贅沢な時間を、同じ音楽を。達樹と隣合ったまま、共有している。こんなに幸せなことはない。
来年この場所に聴きにきても、今とは違う感想を抱くのだろう。同じ楽曲だとしても、その日のその瞬間の演奏がこんなにも違うのだから。
それはきっと。この場に、何度だって聴きに来たくなるような――――
「……来年も、また来ましょうね。真梨さん」
ステージから奏でられた最後の一音の余韻。そこに、達樹の穏やかな声で紡がれた、倖せな一言が。
ゆっくりと……溶けて、いった。
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