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挿話

Don't need anything else. 〜 side 真梨

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 こちらのエピソードは第3章最後のあの事件に纏わる、小林くん×三木ちゃんカップルのそれぞれの視点です。『side真梨』は割と切なめ、『side達樹』は、微糖な仕上がりです。ちなみにですが番外編「Bright morning light.」の10話に絡んだエピソードになっております。お楽しみいただけましたら幸いです!





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 シャンデリアの光が天井から降り注ぐ煌びやかな空間。大勢の人が会場内に設置された丸テーブルを行き来している。胸元に金の名札が付いた黒いベストを身に纏った背の高い男性ホテルスタッフが、何も乗っていないお盆を手に持って会場内を縫うように歩きながらこちらに近づいてくる姿を視認した。手元の空いたグラスを預けようとそっと声をかける。

「すみません、これお願いします」
「はい、かしこまりました」

 にこりとした穏やかな笑みと、しっかりと教育されているような丁寧で落ち着いた声色が響く。その声にほっと息を吐き出しながら、腕を伸ばして空のグラスを手渡し、ゆっくりとこの宴会場の入り口に向かって踵を返した。

 足を動かす毎に沈むカーペット。ふっと足元に目を落とす。視界に飛び込んでくるのは、達樹が選んでくれた……私が今日着ているパーティドレスにそっくりな色の、深紅のカーペット。そこに浮かぶようなシャンパンゴールドのミュールも達樹が選んでくれたもの。

 今夜開かれている役員懇談会は普段はほとんど接することのできない取締役や執行部のメンバーと一般社員が懇談することが目的。けれども、同期たちとも接する事が出来る貴重な機会でもある。他の部所に所属する同期に会いに行くと、真っ先にこのドレスについて言及された。異口同音に「似合ってる」と褒めてくれた。

 達樹は私自身よりも私に似合う色やコーディネートがわかっている。それを噛み砕けば、彼がどれほどを見てくれているのかを改めて思い知らされるようで。かっと頬が熱を持ったような気がした。

(っ、お酒、飲んだから……)

 身体が熱いのは、きっとアルコールを口にした所為。心の中で反発を繰り返すように必死で違う事由を思い浮かべながら、会場からほど近いお手洗いを目指した。

 大宴会場に近いお手洗いは非常に混雑していた。それもそのはず、この懇談会には極東商社に所属する1,000人近い社員が集まるのだ。仕方ない、と僅かばかり肩を落としつつ、お手洗いから伸びる列の最後尾に並ぶ。

「あ、三木さん。久しぶり」
「……坪井つぼい? 本当、久しぶりね!」

 長蛇の列にぼうっと並んでいると、私と同じくらいの背の高さの、ネイビーのセットアップドレスを身に纏った女性が私に声を掛けながら背後に並んだ。それが同期のひとりであるということを認識し、思いのほか自分の声が弾んだ。彼女は他ビルに入る商品開発部に所属しており、普段は全く関わりがない。お手洗いを済ませたら商品開発部のテーブルにも足を運ぼうかと思っていたけれど、その必要はなさそうだった。

 ざわざわとした周囲の喧騒の中、並んでいる列の前の人が動けば私たちも隣り合って一歩を踏み出す。同期の女性社員同士、いろいろな話に花が咲いていく。

「ねぇねぇ三木さん。……そのドレス、どこで買ったの? すっごい似合ってる」

 その言葉とともに、坪井が興味津々、という視線をこちらに向けていた。宴会場を出る前に思い至った考えがふたたび脳裏をよぎり、顔が火照りそうになるのを強引に押し込んだ。

 今現在、恋人はいない、と……周囲にはそう言い張っている。達樹との関係社内恋愛を露呈させるわけにはいかないし、勘付かれないようにそつなく返答しなければ。そう小さく心に決め、息を吸い込んだ次の瞬間。不意に、懇談会会場の方向から甲高い……悲鳴のような声が響いた。あちらで何が起こっているのか把握出来ず、行列に並ぶ人たちの喧騒が一瞬静まった。互いに顔を見合わせて息をひそめ合う。

「……誰か…倒れたのかな…?」

 隣の坪井が宴会場の方向に視線を向け、ぽつりと呟く。何が起きたのかはさっぱりわからないが、視線を向けた先が尋常ではない空気感を漂わせていることは確かだ。私たちが入社した年は、同じ通関部の大迫係長が飲みすぎで倒れた。もしかすると今回もそうなのかもしれない。様子を見に行くべきだろうか、と……宴会場の方向を見つめながら考え込んでいると。

「おい、お前ら逃げろ!」

 宴会場の入り口から、バタバタと複数名が勢いよく飛び出してきた。周囲の空気がビリビリと震えるほどの大声に、びくりと身体が跳ねる。首元のネクタイがジャケットから飛び出て乱れているのも構わず、こちらに向かって全速力で走り込んでくる人が血相を変えて叫び声を上げた。


「刃物持った男が『通関部のテーブルどこだ』って暴れてるぞ! お前ら逃げろ!」


 こちらに向かって放たれた言葉は日本語のはずなのに、その意味を噛み砕くのにひどく時間を要した。ゆっくりと、でも確実に。宴会特有の酔って良い塩梅に綻んでいた周囲の空気が、凍り付くような冷えたものに切り替わっていく。

 お手洗いに並んでいた人たちが男女問わず我先にと列から離れだした。人のかたまりが正面玄関へと続く階段の方へ雪崩れ込んでいき、次第に阿鼻叫喚の様相を呈していく。

 けれど、私はその場に硬直したまましばらく動けずにいた。宴会場から逃げ出していく人の身体がどんっと勢いよくぶつかる。固まっていた身体が大きくよろめいて、ようやく我に返った。

「い、行こう、三木さん……」

 引き攣ったような声が真横から上がった。緩やかに顔をそちらへ向けると、血の気が引いた面持ちの坪井が震える手で私の赤いドレスの袖を引っ張っている。その声に思わず頷きそうになったけれど。

「わ、たし……先輩…探しに、行く」

 震える喉を叱咤して声を絞り出した。自然とその結論に辿り着いた。こんな混乱した状況でも、ひとりでこの場から逃げる、なんて選択肢は私の中にはなかった。


 だって―――さっきからこちらに向かって走って逃げ惑う人並みの中に。大事な後輩である加藤の姿も、私が大好きな先輩の姿も……見つけられないのだから。


「なに言ってんの……!?」

 血の気を失った真っ青な顔をして泣きじゃくりそうな表情を浮かべた坪井の、半狂乱ともいえる金切声が耳元で響いた。

「さっきっ、通関部って言ってた! 絶対戻っちゃダメ!!」

 女子らしい細身の坪井の身体からは想像もできない強い力で引っ張られて、身体が思いっきりつんのめるように動く。「でも、」という私の反論の言葉は周囲の逃げ惑う人たちの狂瀾の声に掻き消されてしまい、そのまま雲霞のごとく押し寄せる人並みに流されるように、階段を駆け下りるしかなかった。








 ラグジュアリーなソファがたくさん置いてある開放的な作りのロビー。そこにひしめき合う大勢の人混み。辺り一帯はひどく物々しい雰囲気に包まれている。坪井に引っ張られるままにこのロビーに降りてきてしまったけれど、思考回路は大きく乱されたまま。

 遠くから響くパトカーと救急車のサイレンの音。それが次第に近づいて来ていた。何が起こっているのか全く理解が出来ない。この日本という国は、安全で、治安も良い国のはずなのに。

「暴れてた男、血の付いたナイフ振り回してたらしいよ」
「誰か刺されたってこと? 誰?」
「わかんない……通関部の人?」

 周囲から怯えたような声でひそひそと囁かれていく……懇談会会場あの場のこと。ドクドクと、意味も分からず跳ねる心臓。つぅ、と、背筋を伝い落ちていく嫌な汗。

(……何が…起こってるの…)

 ニュースで見聞きするような、凄惨とも言える出来事が起きている…らしい。それも、私自身が所属する通関部を狙った殺傷事件、らしい。

「誰が……刺されたんだろ…」

 真横の坪井が、震えるような声で小さく呟いた。私のドレスの袖を掴んだままの坪井の手は、カタカタと小刻みに震えている。指先が真っ白だ。かなりの力をいれているのだろう。尋常ではない雰囲気に坪井自身が私に縋りたいのか、私が上の階に戻るのを阻止しようと思っているのかは定かではない。けれども、こんな雰囲気のなかで独りになりたくないという心理は、なんとなく理解できた。


 先輩はどこだろう。周囲を見回しても、加藤の姿も見えない。もしかすると―――刺されたのはこのふたりなのでは。


(……っ…)

 即座に悪い方へと傾く思考。ぎゅっと目を瞑り視界を遮断してぶんぶんと頭を振り、嫌な想像を必死に掻き消した。真っ暗な視界の中でふと思い浮かんだ……黒曜石のような黒い瞳。

(……達樹…)

 瞑った目を開くと、視界に映る大勢の人影。……今、達樹はどこにいるのだろうか。午前中は年末にロシアで開かれる展覧会に向けての準備、午後は社外にある取引先に商談に赴いてその足で役員懇談会に途中参加する……と。先週の金曜日の夜、達樹の家に泊った際にそう聞いていた。

(何時頃に合流するのか……聞いておけば良かった)

 達樹に連絡を取りたくても、スマホは懇談会に入る前にクロークに預けた鞄の中。きちんと確認しておくべきだったと後悔しても後の祭り。坪井と身を寄せ合いながら……ただただ時が過ぎるのを待つしかなかった。

 遠くから聞こえていたサイレンの音が大きくなっていく。バタバタと響くいくつもの足音と、「上です!」という切羽詰まった大声がロビーに響いた。警察や救急隊が到着したのだと理解し、騒然となっていた周囲の人たちから一斉に憂色が晴れていくのを肌で感じ取った。

「……良かった…」

 強い安堵感から今にも泣き出しそうな表情を浮かべた坪井から綻んだような声が零れ落ちていく。けれども私は、達樹の居場所や、先輩、加藤の安否が気がかりで。

 心の平安を得ることなんて―――出来るはずも、なかった。
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