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挿話
Rainy Day.
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こちらのエピソードは時系列的に本編完結から少々遡り、本編終章252話付近のエピソード。「あの方々」のクリスマスに関するお話しです。お楽しみいただけましたら幸いです!
- - - - - - - - -
ふっと意識が浮上した。パチリと目を開くと、もう随分と見慣れてしまった……ソファから見るリビングの景色。浴室の方向から聞こえてくるドライヤーの音を聞きながら、込み上げてきた欠伸を噛み殺した。
(また……うたた寝、してしまった…)
ここ最近眠れていないことがカナさんにバレてしまう。彼女がリビングに戻ってくる直前に目覚められたことは本当に僥倖と言えるだろう。そんな事を考えながらぼうっといつもの景色を見つめていると、不意に左の肩口がズキリと鈍く痛んだ。
「っ……」
唐突に訪れた、鈍痛。右の手のひらで左の肩口に触れて視界を遮断した。奥歯をぐっと噛み締めて痛みを堪える。眉間に皺が寄るのを自覚しつつ、痛みを逃がすように長く長く息を吐き出していく。
(……明日も…雨、だっけ…)
細く長く吐息を吐き出しつつ、薄目を開いて窓の外に視線を向けた。
12月のタンザニアは小雨期で、ここ数日雨の日が続いている。雨の日は昔から嫌いだ。……傷が、痛むから。
(痛み、止め……飲むほどじゃぁ、ない…けどね~ぇ……)
ゆっくりと痛みの位置を手のひらでさすりながら、心の中でため息をこぼす。昔から……いや、正確には成人して以降、雨の日は嫌いだった。軍隊や諜報機関に在籍していた時代から残る、全身の古傷が痛むから。今でこそ、この肩口以外は痛まないけれども。
裂傷というものは見た目は完治したように見えても、皮下組織や筋肉組織は完全に回復していない。だからこそ血液の循環が悪くなったり筋肉の動きが制限されてしまうと、痛みが生じやすくなる。特に、こうして雨が降り気圧が変化することで体内の血液循環機能が妨げられ、水分で膨張した組織が神経に触れて痛みが出るという説が有力。他にも諸説あるらしいのだけれども。
呼吸の間隔を意識して長くし痛みを逃しつつ、そっと目を開く。眼前に飛び込んできたのは、床に散らばったいくつもの書類。それを視認し、さっと血の気が引く。
(や、ば……)
カナさんから、シャワーを浴びている間に確認しておいて、と手渡された……近隣の教会からの、聖歌隊ユニフォームの依頼書一式。この辺りはクリスマス前になると聖歌隊がお揃いのユニフォームを誂えるのだそうだ。今朝、智くんにかけた電話を切ったその足で、教会にユニフォームを納品に行った。その後にカナさんが作ってくれた請求書に間違いがないか、こうしてソファで照合しているうちに眠ってしまったのだろう。それらが俺の手から落ちて散らばってしまったのだ、と、そう理解した。
(……コレ…見られると、不味い…)
カナさんには、隠していた全てが暴かれてしまう。それは日本にいた時から実証済みだ。この場面を見られてしまえば、俺が先週からあまり眠れていないこともカナさんには見抜かれてしまうだろう。それは勘弁願いたい。痛みを堪えるために唇を噛みながらソファから腰を浮かすと。
「やっぱり。マサ、肩が痛んで寝不足なんでしょう。しばらくそこで寝てなさい」
咎めるような鋭い声色と共にふわりと石鹸の香りが漂った。ソファから腰を浮かして床に手を伸ばしたまま、ぎくりと身体が強張る。
次の瞬間、ムニっと頬を引っ張られた。強制的に視線が絡み合った、琥珀色の瞳。中腰で俺を見つめている彼女のその瞳が、じとっとしたものに変わっていく。妙に居た堪れなくなり、そのじと目から思わず視線を外したくなった……けれど。
「……んん~。肩の所為じゃなくて、カナさんの仕事の振り方がおかしいからだと思うんだけど」
随分と久しぶりに作るように感じる、へらっとした笑みを意識して顔に貼り付けた。
タンザニアに移住して2ヶ月が過ぎようとしている。スワヒリ語の習得に加え、智くんからの依頼のタンザナイトの婚約指輪の手配、それが終わったと思ったら今度はこのユニフォームのデザイン案をいくつか出すように、と、仕事を振られた。これらは仕事の一環だから、不満はない。いつもそのタイミングが急すぎるだけで。
けれど、2ヶ月一緒に過ごして感じたのは……正直、カナさんは働きすぎだと思う。もうすぐ年末にかかるのだし、カナさんも少しばかり仕事をセーブして欲しい。正面からそれを伝えたところでカナさんは受け入れないだろうから、チクッと針を刺すように、それでいて誤魔化すように言葉を紡いでいく。
じとっとした目が不服そうに更に細まった。入浴を済ませたからか、いつもよりも血流が良く鮮やかにも思える赤い唇がゆっくりと開かれていく。
「嘘。だって目が充血してるもの。私の仕事の振り方が要因なら、夜は疲労からきちんと眠れているはずよ?」
「……」
脳内で色々と考えているうちに、スパッと勢いよく俺の嘘を暴かれた。……まさか、目の赤さから嘘がバレるとは思ってもみなかった。鋭い指摘に、反論の言葉さえ見つからない。思わず視線がふよふよと泳いでいく。
「請求書、本当は照合済んでるのよ。マサはすぐ無理するから」
カナさんは俺の頬を摘んでいた指を離し、とすん、と俺の右横に沈み込んだ。不機嫌そうに紡がれた言葉を噛み砕いて、俺は結局、彼女の手のひらの上で転がされていたのだ、と。そう察した。
気圧の変化からの鈍痛が要因で真夜中に度々起きてしまっていてこのところ睡眠が取れていないことがこんな形で露呈してしまうなんて。情なさと居心地の悪さからはぁっと大きくため息を吐き出し、右手でガシガシと頭を掻きながらソファに座り直す。
「……俺を嵌めたってワケ…」
「あら、人聞き悪いわね? 別に嵌めたつもりはないわよ?」
思ったよりも不機嫌な声が自分の喉から転がり落ちていったけれど、カナさんは俺の声色を意にも介さず、くすくす、と。悪戯っぽく笑みを浮かべた。そうして、俺の右腕を思いっきり引っ張っていく。
「!?」
頭を掻いていたこともあり、思いっきり腕を引かれたことで上半身のバランスを失った。そのまま、ぽすん、と彼女の膝の上に頭が乗る。視界に映り込む天井と、眩い照明。突拍子もない展開に自分の身に起きたことがさっぱり把握出来ず、パチパチと目を瞬かせた。
「こういう時はね、お姉さんに素直に甘えておくものよ?」
見上げた先には、カナさんの至極柔らかい微笑み。『お姉さん』、という言葉に……心の中に僅かに黒い靄が浮かぶ。
彼女は俺の事を。マスターと同じように、弟、と……そう思っている。同じ屋根の下で暮らしているけれど、家族同然というような……彼女が俺に向けている視線の中には、そんな空気が確かに存在しているのだ。
(この、感情だけは…)
温かい光を宿した琥珀色の瞳を見つめながら心の中で小さく独りごちた。この感情だけは、カナさんに察して欲しくない。だから。
「わかった。ちょっとだけ」
だから……素直に彼女の意思に従うことにした。琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据えて苦笑したように声を上げて、そのままゆっくりと瞳を閉じる。
ふっと。カナさんが穏やかに笑った声が、聞こえたような気がした。
「今日はクリスマスだし。マサも少し休みましょ」
「……ん…」
頭上から降ってくる、暖かくて心地良い声。カナさんが俺の左肩に手のひらを当ててくれている。入浴後だからか、その手のひらがとても暖かくて。ズキズキとした鈍痛が和らいでいくような気がした。
「日本語で『手当て』って言うでしょ? 語源はこうして手を当てるから、なんですって」
「へぇ……」
窓の外から、優しい雨音が耳に届く。静かで、穏やかで。やわらかな……久しぶりの、ゆっくりしたクリスマスの時間が過ぎていく。キリスト教では、愛と平和を持続していくための……そんな、日。
……雨の日は、やっぱり嫌いだ。けれどこうして……あたたかな時間が過ごせるなら。
(悪くは、ないの…かも……)
左肩をさすってくれているカナさんが、痛みを吸い取ってくれているような。そんな心地よい感覚に、意識が真っ白で……穏やかな空間に。
ふわふわした眠りに、落ちていった。
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ふっと意識が浮上した。パチリと目を開くと、もう随分と見慣れてしまった……ソファから見るリビングの景色。浴室の方向から聞こえてくるドライヤーの音を聞きながら、込み上げてきた欠伸を噛み殺した。
(また……うたた寝、してしまった…)
ここ最近眠れていないことがカナさんにバレてしまう。彼女がリビングに戻ってくる直前に目覚められたことは本当に僥倖と言えるだろう。そんな事を考えながらぼうっといつもの景色を見つめていると、不意に左の肩口がズキリと鈍く痛んだ。
「っ……」
唐突に訪れた、鈍痛。右の手のひらで左の肩口に触れて視界を遮断した。奥歯をぐっと噛み締めて痛みを堪える。眉間に皺が寄るのを自覚しつつ、痛みを逃がすように長く長く息を吐き出していく。
(……明日も…雨、だっけ…)
細く長く吐息を吐き出しつつ、薄目を開いて窓の外に視線を向けた。
12月のタンザニアは小雨期で、ここ数日雨の日が続いている。雨の日は昔から嫌いだ。……傷が、痛むから。
(痛み、止め……飲むほどじゃぁ、ない…けどね~ぇ……)
ゆっくりと痛みの位置を手のひらでさすりながら、心の中でため息をこぼす。昔から……いや、正確には成人して以降、雨の日は嫌いだった。軍隊や諜報機関に在籍していた時代から残る、全身の古傷が痛むから。今でこそ、この肩口以外は痛まないけれども。
裂傷というものは見た目は完治したように見えても、皮下組織や筋肉組織は完全に回復していない。だからこそ血液の循環が悪くなったり筋肉の動きが制限されてしまうと、痛みが生じやすくなる。特に、こうして雨が降り気圧が変化することで体内の血液循環機能が妨げられ、水分で膨張した組織が神経に触れて痛みが出るという説が有力。他にも諸説あるらしいのだけれども。
呼吸の間隔を意識して長くし痛みを逃しつつ、そっと目を開く。眼前に飛び込んできたのは、床に散らばったいくつもの書類。それを視認し、さっと血の気が引く。
(や、ば……)
カナさんから、シャワーを浴びている間に確認しておいて、と手渡された……近隣の教会からの、聖歌隊ユニフォームの依頼書一式。この辺りはクリスマス前になると聖歌隊がお揃いのユニフォームを誂えるのだそうだ。今朝、智くんにかけた電話を切ったその足で、教会にユニフォームを納品に行った。その後にカナさんが作ってくれた請求書に間違いがないか、こうしてソファで照合しているうちに眠ってしまったのだろう。それらが俺の手から落ちて散らばってしまったのだ、と、そう理解した。
(……コレ…見られると、不味い…)
カナさんには、隠していた全てが暴かれてしまう。それは日本にいた時から実証済みだ。この場面を見られてしまえば、俺が先週からあまり眠れていないこともカナさんには見抜かれてしまうだろう。それは勘弁願いたい。痛みを堪えるために唇を噛みながらソファから腰を浮かすと。
「やっぱり。マサ、肩が痛んで寝不足なんでしょう。しばらくそこで寝てなさい」
咎めるような鋭い声色と共にふわりと石鹸の香りが漂った。ソファから腰を浮かして床に手を伸ばしたまま、ぎくりと身体が強張る。
次の瞬間、ムニっと頬を引っ張られた。強制的に視線が絡み合った、琥珀色の瞳。中腰で俺を見つめている彼女のその瞳が、じとっとしたものに変わっていく。妙に居た堪れなくなり、そのじと目から思わず視線を外したくなった……けれど。
「……んん~。肩の所為じゃなくて、カナさんの仕事の振り方がおかしいからだと思うんだけど」
随分と久しぶりに作るように感じる、へらっとした笑みを意識して顔に貼り付けた。
タンザニアに移住して2ヶ月が過ぎようとしている。スワヒリ語の習得に加え、智くんからの依頼のタンザナイトの婚約指輪の手配、それが終わったと思ったら今度はこのユニフォームのデザイン案をいくつか出すように、と、仕事を振られた。これらは仕事の一環だから、不満はない。いつもそのタイミングが急すぎるだけで。
けれど、2ヶ月一緒に過ごして感じたのは……正直、カナさんは働きすぎだと思う。もうすぐ年末にかかるのだし、カナさんも少しばかり仕事をセーブして欲しい。正面からそれを伝えたところでカナさんは受け入れないだろうから、チクッと針を刺すように、それでいて誤魔化すように言葉を紡いでいく。
じとっとした目が不服そうに更に細まった。入浴を済ませたからか、いつもよりも血流が良く鮮やかにも思える赤い唇がゆっくりと開かれていく。
「嘘。だって目が充血してるもの。私の仕事の振り方が要因なら、夜は疲労からきちんと眠れているはずよ?」
「……」
脳内で色々と考えているうちに、スパッと勢いよく俺の嘘を暴かれた。……まさか、目の赤さから嘘がバレるとは思ってもみなかった。鋭い指摘に、反論の言葉さえ見つからない。思わず視線がふよふよと泳いでいく。
「請求書、本当は照合済んでるのよ。マサはすぐ無理するから」
カナさんは俺の頬を摘んでいた指を離し、とすん、と俺の右横に沈み込んだ。不機嫌そうに紡がれた言葉を噛み砕いて、俺は結局、彼女の手のひらの上で転がされていたのだ、と。そう察した。
気圧の変化からの鈍痛が要因で真夜中に度々起きてしまっていてこのところ睡眠が取れていないことがこんな形で露呈してしまうなんて。情なさと居心地の悪さからはぁっと大きくため息を吐き出し、右手でガシガシと頭を掻きながらソファに座り直す。
「……俺を嵌めたってワケ…」
「あら、人聞き悪いわね? 別に嵌めたつもりはないわよ?」
思ったよりも不機嫌な声が自分の喉から転がり落ちていったけれど、カナさんは俺の声色を意にも介さず、くすくす、と。悪戯っぽく笑みを浮かべた。そうして、俺の右腕を思いっきり引っ張っていく。
「!?」
頭を掻いていたこともあり、思いっきり腕を引かれたことで上半身のバランスを失った。そのまま、ぽすん、と彼女の膝の上に頭が乗る。視界に映り込む天井と、眩い照明。突拍子もない展開に自分の身に起きたことがさっぱり把握出来ず、パチパチと目を瞬かせた。
「こういう時はね、お姉さんに素直に甘えておくものよ?」
見上げた先には、カナさんの至極柔らかい微笑み。『お姉さん』、という言葉に……心の中に僅かに黒い靄が浮かぶ。
彼女は俺の事を。マスターと同じように、弟、と……そう思っている。同じ屋根の下で暮らしているけれど、家族同然というような……彼女が俺に向けている視線の中には、そんな空気が確かに存在しているのだ。
(この、感情だけは…)
温かい光を宿した琥珀色の瞳を見つめながら心の中で小さく独りごちた。この感情だけは、カナさんに察して欲しくない。だから。
「わかった。ちょっとだけ」
だから……素直に彼女の意思に従うことにした。琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据えて苦笑したように声を上げて、そのままゆっくりと瞳を閉じる。
ふっと。カナさんが穏やかに笑った声が、聞こえたような気がした。
「今日はクリスマスだし。マサも少し休みましょ」
「……ん…」
頭上から降ってくる、暖かくて心地良い声。カナさんが俺の左肩に手のひらを当ててくれている。入浴後だからか、その手のひらがとても暖かくて。ズキズキとした鈍痛が和らいでいくような気がした。
「日本語で『手当て』って言うでしょ? 語源はこうして手を当てるから、なんですって」
「へぇ……」
窓の外から、優しい雨音が耳に届く。静かで、穏やかで。やわらかな……久しぶりの、ゆっくりしたクリスマスの時間が過ぎていく。キリスト教では、愛と平和を持続していくための……そんな、日。
……雨の日は、やっぱり嫌いだ。けれどこうして……あたたかな時間が過ごせるなら。
(悪くは、ないの…かも……)
左肩をさすってくれているカナさんが、痛みを吸い取ってくれているような。そんな心地よい感覚に、意識が真っ白で……穏やかな空間に。
ふわふわした眠りに、落ちていった。
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