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外伝/I'll be with you in the spring.

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「お前らみたいにこの店が縁でくっついたやつらが将来的に来づらくなるだろう」



 呆れたような声色で紡がれた、想定もしていない言葉。紡がれたひとつひとつの単語は、俺にとってはもう聞き慣れた日本語言語のはずなのに。その言葉の意味を噛み砕いて……飲み込むことが、全く出来ない。理解が及ばない。思考回路に繋がれていた銅線が、鋭い鋏のような何かでばっさりと切断されてしまったように感じる。

「だから申請してねぇんだ。これから先も、申請そうするつもりはさらさらねぇよ」

 マスターは憮然たる面持ちのまま、俺がこれまで聞いたことがないような少々乱暴な声色で言葉を放ち、まっすぐにカナさんに視線を向けている。灯されていない煙草を指先で摘んだままのマスターの立ち姿を、どこか俯瞰したように眺めた。纏まらない思考の中で、そういえば、と……いつか見た新聞記事の内容を掘り起こす。

(……申請…したら、20歳ハタチ以上じゃないと入れなくなるんだっけ…)

 あの時読んだ新聞記事には。店内を全面喫煙可とした場合、日本の法律上で煙草が解禁される年齢に満たない人間は入店不可となる……というような解説が載っていた。それは、今のこの店のように家族子どもを連れてコーヒーを飲むことが出来なくなることと同意義イコールだ。


 ……その答えに行きついて。先ほどのマスターの言葉の意味を、今度ははっきりと理解した。理解、してしまった。ゆっくりと身体が固まっていく。


(…………は…?)

 想像もしていなかった現実に、呼吸ができなくなる。手続き関係を依頼している弁護士松本さん以外には、俺たちの真意は話していない、はずなのに。


 知らないはずと思っていた、マスターが―――俺たちのことを。知って、いる。


 予想外の出来事が起こっている。俺が自分を取り戻せないでいることに気がついているのか、気がついていないのか。隣に腰掛けたままのカナさんが愉しげに吐息を漏らして腕を組んだ。

「あら、知ってたの。……は邨上かしら?」

 ぼやけた視界の端に映り込む彼女は、小さく首を傾げて柔和に微笑んでいる。……この、やわらかくも般若のようにも見える笑い方は、やり場のない怒りや荒れ狂う感情をひた隠すためにも用いられる笑い方だと気がついたのはいつだっただろうか。

「おおっと、さとっちゃんに濡れ衣はやめてくれ。勘だ、勘」

 マスターが不機嫌そうな表情を瞬時に心底愉しそうなそれに切り替えて、苛立ったカナさんを制止するように空いた左手を横にひらひらと振っていく。

「あぁ、勘、っつぅのはちょっと語弊があるな。知香ちゃんにヒントは貰った」

 否定するように振られていた左手が、ゆっくりと白髪混じりの髭が生えた顎に添えられる。予想もしていなかった事態と、唐突に飛び出してきた思いもよらない人物の名前。与えられた情報量が多過ぎて、ふたたび混乱の沼に突き落とされたような感覚に陥った。

「知香ちゃん自身も気付いてはいない。これは断言できる。俺は彼女との会話の流れで気づいたが、この件に関してはさとっちゃんにも一切話してねぇからな」
「……ふぅん」

 右手に摘んだままの火の灯っていない煙草を指揮棒のように振りながら、マスターはむすっとしたようなカナさんに言い聞かせるように。ゆっくりと言葉を続けていく。俺は、ただただ呆然と……彼らの会話の行方を見守ることしか出来ない。

「この場所でを長々やってんだ、その辺は抜かりねぇぞ?」

 楽しげに続けられたその言葉が耳に届いた刹那、カラン、と。俺たちの間に置かれたグラスの氷が、マスターの言葉を肯定するように小さく音を立てた。マスターは水滴のついたそれに左手を伸ばし、ゆっくりと口付けていく。

 マスターの乾いた唇に吸い込まれたコーヒーが喉を通り、隆起した喉仏が上下に動く様子をぼんやりと見つめる。湿った唇から小さく吐かれた吐息が、無音の店内に紛れて消えていった。

「加奈子。お前、日本を発つ前に知香ちゃんとマサに接触したろう。そのときの話を知香ちゃんから聞いた。……それでピンと来たんだ」

 コトン、と。手に持ったグラスを珪藻土コースターの上に戻しながら、ゆっくりとマスターが言葉を続けた。告げられた言葉から、それは―――三井商社の株主総会の日のことだ、と。そう思い至った。

 俺は未だ自分の気持ちに気づいておらず。知香ちゃんあの子を護るために、いつものように道化を演じて彼女を待ち伏せし……共にオフィスビルの下の交差点に出た、あの時。カナさんが俺にライターを返しに会いに来て、『十二夜』のセリフを口にしたあの瞬間のシーンが。鮮明なはずの記憶が、セピア色の画面に流れていく。


 あの時のことを知香ちゃんがマスターにどのように話したのかは想像するしかない。けれど。

 たったそれだけの情報で。マスターは俺がカナさんに向けていた思慕を、察した。


「そう。じゃぁ私の用事も全部わかってるってことね」

 カナさんは薄く、それでも妖艶に笑みを浮かべ、組んでいた腕を崩してカウンターにひらりと薄い何かを置いた。


 それは―――俺たちが先ほど交互に書いた婚姻届。カウンターに頬杖をついたカナさんが、空いた左手の指先でその婚姻届の証人欄をするりと指さした。その動作に合わせて、マスターの視線もゆっくりとそこに落ちていく。


「ここ。署名お願い」
「……」

 カナさんは端的に、それだけをマスターに要求した。拒否はさせない、反対もさせない。たった10文字の言葉だけれども、そういった強い意思を孕んだ……強烈な一言。

「……」
「………」

 マスターはカナさんが指す婚姻届に視線を落としたまま。カナさんはそんなマスターを見据えたまま。言いようのない沈黙が、続く。この店内は光を取り込む構造になっているというのに、何故だか光が届かない深い海の底にいるような。そんな沈黙が、ひらりと、落ちていく。

 その沈黙を破って、不意に、ふぅ、と。マスターがため息を吐き出した。考え込むように伏せられていた顔が、ふっと上がる。感情の見えないマスターの……瞳。それが、真っ直ぐにカナさんに向けられていた。

「……条件がある」
「なに?」

 カウンターに頬杖をついたままのカナさんも、感情の篭っていない声で鋭く問いを返した。彼女自身も反対されるとは思っていなかっただろうから、ここで一度ストップをかけられるとは想定もしていなかったのだろう。

 無機質にも聞こえるマスターの声が、凛と店内に響いた。

「日本国籍を放棄しないこと。……タンザニアやイギリスに帰化しないこと」
「……」

 思ってもみなかった言葉に、俺は瞠目したままただただ絶句するしかなかった。真っ直ぐな位置にある琥珀色の瞳を見つめると、その瞳は言いようのない感情を湛えて僅かに揺れ動いている。

「タンザニアに骨を埋めるつもりなのは構わん。『池野』という苗字が途絶えることにも文句はない。マサと一緒になるためにクリスチャンに改宗するっつうならそれも勝手にしろ。……が、国籍だけは放棄してくれるな」

 マスターは抑揚のない声色で、それでも僅かばかりぶっきらぼうに。淡々とそれだけを主張した。ふい、と。カナさんに向けられていた視線が、流しのわきに置いてあるバインダーに移っていく。

「俺と……いや、俺たちを繋げる唯一のもの。それさえ守ってくれりゃ、俺はマサが義弟おとうとになることを反対しない」

 マスターが大きく息を吐いた。指先に摘まんだままだった煙草をふたたび口に咥え、視線の先のペンを空いた指先で握り締めた。そうして、腕を動かし、サラサラと……躊躇いもなく。婚姻届の証人欄に、『池野和宏』と。署名をしていく。

「……マ、スター…」

 掠れたような声が、自分の喉から零れ落ちていった。


 カナさんと俺の間には、決して小さくはない年齢差がある。そうして、俺とマスターは一回りほど違うはず。さらに言えば、彼は俺のことを何度も「精神的に幼い」と窘めていた。三者ともにいい大人で、大っぴらに反対されることはないであろうと予想はしていたけれど。……マスターから見れば未熟で幼い俺に対する『小言』を言われる可能性は、覚悟していた、のに。


 驚いたような俺の声に、マスターは琥珀色の瞳をやわらかく細めながらふわりと柔和に微笑んだ。そのままカウンターの内側から腕を伸ばして。混乱したままの俺の頭を、ぽんぽん、と優しくたたいていく。


「……妹を、よろしく頼む」


 マスターは、俺の頭に置いた手をゆっくりと動かして。俺の髪を、くしゃりと撫でた。火の灯っていない煙草を口に咥えたまま、やわらかな声色で投げかけられたマスターの願い。その意味が理解出来ないほど……俺は、幼くはない、はずで。


「……うん」


 滲む視界を堪えることもなく。はらりと落ちる熱い雫とともに、こくん、と。小さく頷いた。







 マスターが淹れてくれたジャバロブスタ。アイスで淹れられたそれを口に含むと、強い苦みが全面に押し出されるコーヒーだった。けれども野性味もありストロングな味わいが癖になる。

「アイスのジャバロブスタはチョコレートクッキーと合わせると美味いんだ。食うか?」

 まるで誂えたように準備してあったそれを、マスターがするりと俺に向かって差し出した。きっと、甘いものに目が無いカナさんのためにマスターが準備してくれていたのだろう。案の定、カナさんが嬉々としてそれに手を伸ばし、「俺はマサのために買ってきたつもりだったのだが」と。マスターが呆れたように、それでいて嬉しそうに、彼女の様子を眺めていた。

 サクサクのチョコレートと同時にコーヒーを口に含むと、口の中でクッキーにコーヒーが吸収されていく。チョコレートがコーヒーに溶け、甘みと苦味が極上とも思えるハーモニーを奏でている。

「……美味しい」

 俺は、甘いものは好きではない。事実、知香ちゃんを揺さぶるためにホワイトデーにかこつけたお菓子を用意して、それを突き返されそうになった時。甘いものは食べられないから返品不可、と突っぱねた。苦みの強いコーヒーと、ひたすらに甘いお菓子を合わせて食べるとこんなに美味しいなんて。

「こうすればマサも甘いもの食べられるのね? じゃぁもう取り上げられることもなくなるかしら」
「加奈子。お前子どもじゃあるまいし少しは自制しろ。俺の義弟おとうとに迷惑かけるんじゃねぇ」

 浮き足立ったようなカナさんが上機嫌に、歌うように言葉を紡げばマスターがそれを制していく。カナさんが嬉しそうな表情から一転して不満げな表情を浮かべて。

「ちょっと兄さん。そんな言い方しなくていいじゃない」
「俺は間違ったことは言ってねぇはずだぞ?」
「だいたい兄さんは私には厳しいくせに、マサや邨上には甘いわよね。私、あなたの血の繋がった妹なんだけど」

 そうして次の瞬間には正真正銘の兄妹喧嘩が始まり、思わず困ったように笑みを零す。穏やかで、優しい時間がゆっくりと過ぎていく。



 半年ぶりに顔を合わせた3人で他愛もない話に花が咲き、気が付けば西日が差し込む頃合いだった。マスターが窓の外に視線を向け、琥珀色の瞳を眩しそうに細めて空になったグラスたちを手に取り下げていく。

「そういや、マサ。お前、加奈子に煙草な?」

 カタン、と小さな音を立てて汗をかいたグラスたちが流しに置かれるとともに、マスターがニヤニヤと揶揄うように笑みを浮かべた。

「失礼ね。別に無理にやめさせたわけじゃないわよ」

 カナさんがむすっとしたように腕と足を組んで、背もたれに身体の重心を預けていく。気が強いカナさんが俺のことを、と、マスターはそう言いたいのだろう。そしてカナさんはそれが気に喰わない、ということなのだと思う。思わず零れ落ちた苦笑いとともに「違うよ」と言葉を続けて頬を掻いた。

「入院していた時にやめたんだ。カナさんのせいじゃないよ」

 あの事件を受けて―――俺は生死の境を彷徨い、しばらくは入院生活だった。肺が傷ついていたこともあり、煙草はもちろんDoctor’s ordersドクターストップがかけられた。そのタイミングでカナさんにヘッドハンティングされたのだ。彼女も5年ほど前に禁煙したと言っていたし、丁度いい機会かと思ったことがきっかけで本格的に禁煙を決意して実行に移したところ。

(……あ)

 そうして……長い間。どうしようかと考えあぐねていた『理由』に、それらが脳内で急速に結びついていく。

 早鐘を打ち始めた心臓を抑えるようにゆっくり息を吸い込む。真横のカナさんに視線を向けて、必死に平静を装いながらそっと問いかけた。

「カナさん。明日、1時間……いや、2時間くらいかな。一人行動してきていい?」
「うん? どうしたの?」

 俺の突拍子もないお願いに、カナさんはパチパチと目を瞬かせている。表情筋が感情に直結しているような今の彼女には、恐らくそういった表情をされるだろうな、と考えてはいたけれど。予想を外さない、きょとんとしたような表情に思わずふっと口元が緩む。

「大使館に行く前に。ちょっと……お世話になった病院とか、刑事さんとかに挨拶に行きたくて。カナさんをひとりにしちゃって申し訳ないんだけど…」

 心の中で「嘘ついてごめん」と平身低頭謝りながら、困ったように眉を下げた表情を作る。


 カナさんには隠していた全てが暴かれてしまう。それは心の何処かではわかっていることだ。きっと、この嘘もいつかは暴かれてしまうだろう。けれど、今だけは―――赦して欲しい。

 
 心の中でひとりごちつつ、じっと。不思議そうな表情を浮かべたカナさんの琥珀色の瞳を見つめた。

「マサって変なところで日本人っぽいわよねぇ。義理堅いというか」

 俺の思惑を知ってか知らずか。カナさんはくすくすと笑みを浮かべて、小さく首を傾げた。ふわり、と、アーモンド色の髪が揺れ動いていく。

「イギリスも島国だからな。マサが日本人に近い考え方になるのも納得だ」
「そっか。それもそうねぇ」

 流しでグラスたちを洗っていたマスターも愉しげに声を上げた。その声にカナさんは納得したような笑みを浮かべてするりと席を立った。つられるように俺も席を立つ。


「……またな。マサ、加奈子」


 カウンターから向けられた、優しい声色と……沁み入るような眼差し。



 手を伸ばせば必ずそばにある、些細な幸せを噛み締めながら。俺もくしゃりと笑顔を返した。
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