俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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外伝/I'll be with you in the spring.

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 ブラウンの扉の内側にかかっている、黒い黒板調のプレート。今日はそのプレートが『closed』となっている。それはそうだろう、今日と明日はマスターのお店は定休日だ。本業は周辺のレストランに卸すためのコーヒー豆の販売だけれど、喫茶店も兼ねているこのお店、土日は営業しているが、その代わり平日に2日間の定休日を設けている。透明な窓ガラス越しに見えるそれを認識して、機嫌良さそうに歩くカナさんの背中に問いかけた。

「お店、今日は休みでしょ?」

 俺の少し前を歩くカナさんが俺を振り返って、アーモンド色の髪がふわりと翻っていく。

「店の奥が兄さんの自宅いえなの。だからあれが自宅の玄関でもあるのよ。知らなかったでしょ?」

 くすくす、と。悪戯っぽく微笑みながら弾むような声色で返された答えに、俺はその場で足を止めてパチパチと目を瞬かせる。

 この喫茶店は、本業である豆を卸す飲食店経営者に繋げるための手段なのだろうというのに、店内には6席しか設けていない、非常にこぢんまりとしたお店で。欲が無いようにみえて勿体ないと思っていた。けれどまさか、この場所が店舗兼自宅だとは……夢にも思っていなかった。

 半ば呆気に取られたままでいると、カナさんはくるりと身体を反転させ、俺に背中を向けた。そうして扉の取っ手に手を伸ばし、その扉を押し開いていく。

 久方ぶりに聞く、チリチリと軽い音が耳に届いた。その音に我に返り、カナさんの背中を追って真っ白な壁紙に囲まれた店内に足を踏み入れる。

「いらっしゃい」

 眩い店内から、やわらかな声色が響いた。目尻に皺を作って、いつものように、優しげに。カウンターの内側に立つマスターが、変わらない穏やかな笑みを浮かべている。

 普段はたくさんのボールペンが刺さった黒いエプロンと深いグリーンのベレー帽を被っているマスターだけれど、今日はベレー帽もエプロンも身につけていない。グレーのポロシャツにベージュパンツという、ラフで、それでいて渋みと若々しさを共存させた、カジュアルな扮装いでたち。マスターはプライベートではこんな格好をしているのか、と、カナさんとそっくりの柔和な笑みをぼんやり眺めていると。

「兄さん、こう言う時の第一声は『おかえり』って言うものじゃないかしら?」

 先に店内に入ってカウンターの前まで歩いていたカナさんが、腰に手を当てて不満げに口の先を尖らせていた。咎めるようなその口調に、マスターが困ったように頬を掻いている。

「あぁ、すまんすまん。どうも癖でなぁ。……マサも、おかえり」

 マスターは苦笑いを浮かべたまま、するりと視線を俺に滑らせて、次の瞬間には思いっきり破顔した表情を俺に向けた。

「…………うん。ただいま」

 じわりと胸の奥に浮かぶ、あたたかい感情。ほとんどの身内を亡くした俺に、ただいま、といえる場所が……タンザニアだけでなく、日本にもあること。その事実に、少しばかりこそばゆいような、そんな感覚がする。

 カナさんはコツコツとヒールの音を鳴らしながら勝手知ったるという風にカウンター席に陣取った。俺もそれも倣って、カナさんの隣にゆっくりと腰を下ろす。

「日焼けしたなぁ、お前ら」

 マスターが苦笑しながら俺たちの顔を見比べるように視線を動かしている。アフリカ大陸に位置するタンザニアに移住したのだから、日本にいた頃から比べてみれば日焼けしたのも当然といえば当然だろうけれども。

「何がいい?」

 ドリップポットを手に取ったマスターから投げられた問い。店休日でもマスターが淹れたコーヒーが飲めるのは、本当に身内特権以外の何物でもない。マスターは以前、俺の事を『この店で繋がった家族』だと言ってくれた。それが俺を励ますためのお世辞でもなんでもないということを、改めて突きつけられたような気がする。

(……)


 この人が。兄のように思っている、マスターが。文字通り、俺の正真正銘の義兄になる。三者ともにいい大人、反対……されることはないだろうけれども。妙な緊張感から心が急いていくようで、己を取り繕うようにカウンターにそっと頬杖をついた。


「ん~……マサ、決めてくれない?」
「……え」

 真横から唐突に飛んできたカナさんの声。柄にもなく緊張する自分を落ち着かせることに集中していたからか、一瞬何を言われたのかが分からなくて。思わずぽかんと口が開いた。

 数秒置いて、どの豆にするかを決めて欲しい、と言われていることに行き着いた。ふい、と、戸棚の寸胴の瓶に視線を向ける。俺が携わったであろう、タンザニアのブラックバーン農園の豆とモンデュール農園の豆の他にも、いくつかの産地の豆が天窓から降り注ぐ太陽の光を浴びて、いつものようにツヤツヤと輝いていた。

「……じゃぁ、ジャバロブスタ」
「ん」

 少しばかり逡巡し、俺たちの手を経ていないであろうインドネシア産の銘柄を口にすると、マスターは手際良くコーヒーを淹れる準備を進めていく。

「これは酸味も香りもあまり感じない豆だが、苦味が強い。アイスで飲むのをオススメしているんだが、アイスでいいか?」
「兄さんが言うならそれで」

 マスターの問いにカナさんが楽しそうな声色で即答していく。その声に、カナさんはマスターに対して絶大な信頼を寄せているのだ、と……改めて実感した。

 コーヒー豆を砕くミルの音がして、深く炒られた豆の良い香りが鼻腔をくすぐっていく。

「ほい」
「……?」

 蒸らしのためのお湯を投下し、ポットを一旦置いたマスターから差し出されたのは真新しい新聞。目の前のマスターの意図が掴めず疑問符を顔に浮かべながら腕を伸ばしてそれを受け取った。そうして、ゆっくりと手元に視線を落とす。

(……)

 マスターから手渡されたそれは今朝の朝刊だった。一面に載っていたのは、昨日開かれたあの事件の裁判のこと。俺に対する殺人未遂容疑、知香ちゃんとりぃちゃんに対する暴力行為等処罰法違反容疑、そして銃刀法違反の罪に問われている黒川の初公判が開かれ、被告は全面的に起訴内容を認めている……という、そんな内容の記事。

「……ふぅん…」

 あの事件から……半年が過ぎようとしている。けれども、自分に関わる事件のことだというのに、これまで黒川のその後に関してはこれっぽっちも興味が湧かなかった。そして、この裁判の行方についても。正直、どうでもいい、と。そう思っている。

 しばらく視線を滑らせていくと、思いもよらぬ一文が視界に飛び込んできた。黒川があの時持っていたナイフは「被害者脅すつもりだった」らしく「殺意はなかった」と主張しているらしい。刺した場所が致命傷に繋がる場所ではなかったことを理由に、被告側は「殺人未遂ではなく傷害罪が適当では」と、『殺意の有無』については争う姿勢を見せている……とのことだった。

 刺されるあの時、急所を外したのは黒川ではなくだ。直感から身体を右に動かして、致命傷になることを避けた。あの数秒間、いや、ミリ秒間で浮かんだ咄嗟の判断がなければ、より心臓に近い箇所を刺されていたはず。それでいて「殺意はなかった」と言うのだから、呆れてものも言えない。

 明確に殺意を向けられた俺や知香ちゃんからしてみれば……実に黒川らしい、吹けば飛ぶような薄っぺらで白々しい主張だ。思わず乾いた笑いと小さな吐息が零れ落ちていく。そのまま手元の新聞をカウンターに置くと、それをカナさんがするりと手に取って眺めだした。

「銃刀法違反に殺人未遂と、暴力なんちゃら違反、だったか? 自縄自縛っつうやつだな」

 マスターが皮肉ったように冷笑し、続けて吐き捨てるように言葉を紡いだ。そうして、一度置いていたドリップポットをふたたび手に取り、ゆっくりとお湯を投下していく。

「まさに身から出た錆だ。知香ちゃんに対する示談も成立してねぇし、実刑は免れんだろう」

 手元から視線を外さず続けられたマスターの一言に、ゆっくりと瞠目した。

「……示談…して、ないんだ?」

 知香ちゃんやりぃちゃんに対する示談の余地はある。俺自身が黒川に対する傷害罪で捜査されているときに、俺についていた弁護士さんからそう聞いていた。示談は相手に罪を認めさせて謝罪させ、1日も早く問題を解決して、被害者が日常生活に戻ることが出来る手段。きっと、知香ちゃんもりぃちゃんも、示談の申し出を受けている、と。そう思っていたのに。

「申し出はあったが受けなかったっつぅのは知香ちゃんから聞いた。もうひとりの子も同じく、だそうだ」
「結構な金額になるはずよ? アレから出来る限り踏んだくって新婚旅行の足しにでもすればよかったのに」

 目を通していた新聞から顔を上げたカナさんが、少しばかり呆れたように声を上げた。カナさんが口にした考えは最もだろう。あのような大きな事件の示談なのだから、相当な金額になったはず。それを智くんとの新婚旅行に使って、悪い思い出や記憶を昇華するという手段もあっただろうに。

 俺やカナさんの真意を読み切ったであろうマスターが、ふっと吐息を漏らす。そうして、コトリ、と、コーヒーポットを置いた。

「『きちんと裁きを受けて私の知らないところで私の知らない幸せを掴んで欲しい』だとさ。……実に知香ちゃんらしい考えだよなぁ」

 顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら、心底愉しげな声色でマスターは言葉を続ける。そして僅かに腰を下ろしていく。カウンター内の小さな冷凍庫から氷の入ったグラスを取り出し、それに淹れたてのコーヒーを移しながら顔を上げた。

 マスターが口にした言葉の意味を噛み砕いて、俺も思わず口の端がつり上がっていく。

「……そう、だね…」

 本当に……知香ちゃんらしい発想だ。アイボリーの珪藻土けいそうどコースターに冷えたグラスが乗せられ、俺の目の前にするりと差し出される。それを受け取りながら心のままに返答すると、カナさんがぱさりと新聞をカウンターに置いた。

「示談成立はそれと引き換えに宥恕ゆうじょを求められることが大半だものねぇ。それを考えると、邨上自身も一瀬さんに示談は受けさせたくなかったのかもしれないわね……」

 カナさんがカウンターに頬杖を突き、興味を失ったような声色で淡々と言葉を続けた。俺たちの目の前には3つのグラス。カナさんがそのひとつに手を伸ばした。もうひとつは俺、そして……もうひとつは、きっとマスターの分。営業時間中はマスターがこうしてコーヒーを飲む姿なんて見たことがなかったけれど、これも休日だから、だろう。そんなことをぼうっと考えていると、カラン、と軽い音を立ててグラスの氷が音楽を奏でた。

「いずれにせよ、しばらくあいつはだろう。ほんっとに、自業自得、因果応報とはこのことだな」

 マスターがドリッパーなどの道具を流しに移しながら、冷淡なトーンでばっさりと斬り捨てた。その声色に、一瞬の違和感を抱いて。気がつけば小さく息を飲んで、胸の中に浮かんだ疑問を投げかけていた。

「マスター。なんか……怒って、る?」

 道具を移動させるために視線を落としていた彼が、俺の問いに小さく身動ぎをした。ゆっくりと、その顔が上がっていく。視線が絡み合った琥珀色の瞳には、一目でわかる……激しい感情が渦巻いているように思えた。

「当たり前だ。俺のが殺されかかったっつうのに平静でいられるか」
「……」

 人当たりがよく、初対面の人間にも気安さとソフトな印象を与えるような、穏やかな雰囲気を常に身に纏っているマスター。そんなマスターが……こんなにも、苛烈な感情を剥き出しにしている。それも。

(赤の他人の……俺の…こと、で…)

 他の誰でもなく、俺の身に起こったことで。昨年の夏、マスターに心情を吐露しに来店した時にも……この人がどれほど愛情深い人なのかを実感したけれど。あの時以上に込み上げてくる何かを抑えられなくて、じわり、と……世界が歪む。

「ん」

 短い声とともに、マスターが見慣れない小さな器をコトリとカウンターに置いた。マスターはそのまま、ポロシャツの胸ポケットから赤と金で彩られた小箱を取り出し、そこから細いそれを1本抜き去った。目の前に差し出された器は、きっと灰皿だ。今にも泣き出しそうな俺の感情を落ち着かせるために、一緒に一服つけるか、と……彼はそう言いたいのだろう。マスターは乾いた唇にいつもの煙草ガラムをするりと咥えていく。……けれども。

「この店、禁煙じゃなかった?」

 昨年の春だったか。日本では健康増進法が施行されこの店でも煙草は吸えなくなった、はず。込み上げる嗚咽を噛み殺しながら眦に浮かんだ涙を親指でゆっくりとぬぐい、震えるような声でマスターに問いかける。

俺の自宅だ」

 俺の問いを受けたマスターは、心底愉し気に口の端を歪めた。ライターの横車を擦ろうと、節ばった親指が動いた次の瞬間。俺の隣に座っていたカナさんが椅子から腰を浮かせて手を伸ばし、すかさずマスターの右手からライターを取り上げていく。

 ライターを奪われた当のマスターは驚いたように目を丸くさせている。その様子を眺めていたカナさんが、咎めるように琥珀色の瞳を細めて赤い唇を動かしていた。

「呆れた。兄さん、それ屁理屈っていうのよ」

 マスターのある種の暴論のような主張。それは、営業時間中の店内は禁煙だけれども今は営業時間外。今はこの店内も『自宅』に区分しても差し支えないはず、という事。今しがたカナさんが口にしたように、それは屁理屈に近いと俺も思う。

「きちんと保健所に申請すれば店舗側こっちでも堂々と吸えるでしょうに」

 取り上げたライターを右手で弄びながら、カナさんがとすんと黒い椅子に腰をおろした。確かに、国が定めた一定の条件を満たして保健所に申請をすることで『喫煙可能店』として認められる……という新聞記事はいつだったか見かけた気がする。マスターはヘビースモーカーを自称するほどの愛煙家なのに何故申請それをしないのだろうか、という疑問は常々持っていた。

 カナさんの言葉を受けたマスターが、呆れたように眉を顰めた。不服そうに細められた琥珀色の瞳が彼女に向けられ、彼は一度口に咥えた煙草を節ばった指先で摘んでいく。

 そうして、目の前のマスターから放たれた、その一言に。俺はしばらくの間、声を失ってしまった。
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