255 / 273
番外編/Bright morning light.
8
しおりを挟む
ぱちりと目を開くと、背後からうっすらと太陽の光が差し込んでいた。ベッドサイドの時計は、いつも知香が平日に起きる時刻を指している。
(……起こすか…)
込み上げる欠伸を我慢することなく吐き出し、背中から抱き締めて抱き枕にしている知香の様子を窺った。昨晩コーヒーを飲みながらソファで会話を交わした今日の予定をぼんやりと思い返す。
知香は今日は後輩ふたりに通関士試験の座学講座をするために外出するらしい。知香は先月受験したが、今年入社の後輩は来年受験。そして、知香も同様に水野さんに座学講座を開いてもらっていた。合格発表は未だだが、その座学講座を水野さんから引き継いだ形なのだそう。
今日、こうして知香が外出するのは俺に取っては非常に好都合だった。知香に悟られることなく池野課長、そして片桐に連絡が取れるから。
ぼうっと考え事をしていると、腕の中の知香が小さく身動ぎをした。
「……おはよ、知香」
囁くように声帯を動かすと、知香は俺の腕の中でくるりと振り返った。焦げ茶色の瞳と視線が絡み合うが、その瞳は明らかに焦点が合っていない寝惚け眼。しばらくすると、そのまま焦げ茶色の瞳が閉ざされた。
(無理、させたもんな……)
込み上げてくる苦笑いを噛み殺していく。昨晩、眠りに落ちたら絶対に起きないように、と、いつもよりも激しく抱いた。それこそ、抱き潰す、という表現が正しいような勢いで。
警戒心の欠片もない、穏やかな表情で眠る知香。不意にもぞもぞと動き出した。今度こそ覚醒したのかと顔を覗き込んでみるものの、目を開けている様子はない。身動ぎしつつ、俺の腕の中で何度か体勢を変えている。
(……あぁ)
何となく、知香の無意識下の考えが読めた。心の内で納得したような声が零れ落ちていく。
普段は知香を後ろから抱き締めて眠ることが多い。こうして互いの顔が向き合うような、正面から抱き合うというのは数えるほどしか機会がなかった。慣れない体勢の中でも違和感のない位置を探しているのだと察する。
そのまま観察していると、首の位置や肩の位置を幾度も変え、やがて納得したのか、俺の胸に手のひらを当ててすりすりと額を寄せた。そうして至極満足気な表情を浮かべ……ふたたび夢の世界へ旅立って行ったようだった。
(……もう少し…)
あどけない表情で寝入る知香。その表情をもう少しだけ眺めていたい。そんな欲望に根負けして、知香がいつも起きる時間だとわかっていても知香を起こす気にはなれなかった。
艶のある真っ直ぐな黒髪に指を差し込み、さらりとしたその感覚を味わう。カーテンの隙間からレンブラント光線が差し込んでいるのを横目に、飽きることなく何度も髪を梳いていくと、不意に。池野課長から掛けられたあの一言が脳裏に蘇る。
『欲張って悲しみを抱えたままだと、一瀬さんと過ごす些細な日常も幸せだと感じられなくなるわよ? もうそろそろ、自分を赦してあげなさいね』
(……本当、ですね。池野課長…)
悲しみは、欲張らなくていい。『赦す』という言葉の重みと、この腕の中にある些細な幸せを噛み締めながら―――腕の中の知香を、深く抱き込んだ。
「じゃ、行ってくるね」
助手席の足元に置いていた荷物を纏めていく動作に合わせて、さらり、と、黒髪が揺れ動いた。今日の後輩たちとの座学講座はオフィス街にある喫茶店の個室を予約しているらしく、俺はそのあとの予定のこともあり送り迎えを買って出た。
「ん。行ってらっしゃい」
にこりと笑みを浮かべ緩やかに返答をすると、困ったように細められた焦げ茶色の瞳と視線が交差する。
「……ごめんね。お休みの日なのに。智置いてきぼりで、しかも送り迎えまでしてもらって」
明らかに、しゅん、と縮こまるような声色で紡がれた言葉にふっと笑みが漏れた。
「大丈夫、俺だって部長に上がった直後は知香ひとりにさせっぱなしだったろう? だからおあいこ」
運転席から手を伸ばし、手のひらで知香の頬にそっと触れる。俺も部長に上がった直後、統率が乱れた営業課を整えるために休日も時間を使って動いていた。後輩たちと花火大会に行ったり、夕食会を開いたり。だから知香が罪悪感を抱く必要はない、と、言葉でも擦り込んでいく。
「……ん。ありがとう」
はにかんだように、それでも少しだけ困ったように知香が微笑んだ。シートベルトが外され、知香が助手席から降車する。……あの事件の被害者でもあった後輩と合流した知香の背中を見届けて、俺は車を少し先に走らせた。
コインパーキングに入りギアをリバースに入れて車を定位置に停めていく。サイドブレーキを引くと独特のギアが噛みあう音が響き、エンジンを切る。
シートベルトを外し足元のレバーを引いて、座席を下げながらジーパンからスマホを取り出した。ディスプレイに表示された時刻は、昼下がりの13時。……マスターの店の開店時間。ちょうどいい時間に辿り着けたな、と安堵のため息を吐き出すと、その下には15分ほど前にメールを受信しているという通知が表示されていた。
その通知をタップするとメール画面が開かれる。差出人は池野課長。タイトルは『Re:サイズの件』となっている。昨晩測った知香の指のサイズを今朝池野課長に知らせたメールについての返信だろう。ゆっくりと視線を下に滑らせていく。
『了解。他にも打ち合わせたいことがあるので都合の良い時に電話願います。可能であれば本日中希望。 片桐』
目を通した本文には、そう綴られていた。
「……」
打ち合わせたいこと。本日中。俺の都合が良いのは、……今、このタイミングだ。
身体を緩ませるように長く息を吐き出した。メール画面を電話画面に切り替えて発信履歴から池野課長を探し出し、それをタップする。
ディスプレイに発信画面が表示されたことを確認してスマホを左耳に当てた。無機質な呼び出し音をただただ聞いていると、ふつりと呼び出し音が途切れて。
『あら。おはよう、邨上』
ふわり、と。池野課長の柔らかな声が耳元で響いた。その声に、僅かばかり強張っていた心が解れたように感じる。
昨日のように片桐が電話に出る可能性もあった。未だ複雑な感情を抱いている男が電話を取るかもしれない、という妙な緊張感が無意識に身体を硬くさせていたのだろう。
いつものように「お疲れ様です」と第一声を放ちそうになり、我に返る。もう、この人は……俺の上司ではない。互いに、別々の商社に勤める人間だ。
今、日本は昼過ぎ。ということは、タンザニアは朝だ。池野課長の第一声がそれを物語っている。先ほど片桐から届いていたメールは、片桐が池野課長の商社に出勤して初めての仕事だったのではないのだろうか。
「おはよう、ございます。……片桐、いますか?」
ゆっくりと朝の挨拶を返し、目的を告げる。すると、歌うような声で思わぬ一言が返ってきた。
『マサ、シャワー中』
その一言に、思考回路がぴしりと音を立てて停止する。
シャワー……中。何故そのような片桐のプライベートな行動を彼女が知っているのだろう。
片桐は彼女にヘッドハンティングされた。それは、ビジネスパートナーとして、ということ。今の彼らは上司と部下、というような関係性……のはずでは。というより、彼らは職場にいるのではないのだろうか。
あちら側の状況に理解が及ばず言葉を失くしていると、池野課長の声が真剣なそれに切り替わった。
『マサがさっき送ってたメールの件よね? どれくらいのカラット数が希望なのかを確認したかったの』
「……え、あ…カラット、数」
カラット数。現実的な単語に、焼きついた思考回路が急速に復旧していく。パチパチと目を瞬かせながら池野課長の言葉を復唱した。
確か宝石の重量のことだ。重量が増す毎に宝石の外周、所謂大きさ、そして相対的に価値も上がっていく。
(……んなもん、全く考えてねぇよ…)
婚約指輪を用意したい、という希望を持った場所で壁にぶち当たっていたのだ。そういった事項には全く考えが及んでいなかった。空いた右腕を肘置きに置いて、深い皺が寄った眉間を揉んでいく。
「……昨日お伝えした予算だと、どれくらいから用意出来ますか?」
一般的に贈られるダイヤモンドの平均カラット。インターネットで調べればすぐわかるのだろうが、その手段は通話で使用しており、今は全く見当がつかない。答えを出す前に池野課長に向かって質問を重ねてしまう。
『そうねぇ、1カラットアップのものは用意出来ると思うけれど。……あ、マサ。お帰り』
『……ん。ただいま』
左耳のスピーカーは片桐の声を綺麗に拾っている。俺が聞いたことがない、至極やわらかい声色。思わず意表を突かれた。
『カラット数、希望がないなら一瀬さんとの記念日とかに纏わる数字にしたらどうかしら?』
『……え、ちょ、カナさん!?』
やわらかかった片桐の声が、ひっくり返ったような声色に切り替わった。その落差にも呆気に取られる。
『その電話、智くんなワケ?』
『え? そうだけど』
『……』
彼女の不思議そうな即答ののち、盛大なため息が聞こえてくる。そのため息に込められた感情を読み取ろうと試みるが、生憎今の俺には考えることが多すぎて。それは一旦思考から外すことにした。
(……記念日……)
知香と想いが通じたのは、12月24日、だけれども。俺が正式に交際を申し込んだのが……知香の誕生日。数字にダブルミーニングを持たせるならば。
「……1.225カラットとか、可能でしょうか」
俺は宝石関係の知識は全く持ち合わせていない。こんな細かい数字が指定できるのかもわからなかったが、ひとまず口にしてみることにした。
『1.225カラット? ……あぁ、一瀬さんのお誕生日! いいわね、ロマンチックで』
ひどく上機嫌な池野課長の声色が耳に届く。「可能であればそれでお願いしたい」と言葉を続けると、上擦ったような声色と抵抗の言葉がスピーカーから響いてくる。
『カナさん、全く良くない。納期も短いのにそんな細かすぎる数字、』
『邨上、それでいきましょう』
片桐の反論の声に被せるように池野課長の承允の声が聞こえてきた。彼女が立つ舞台が世界に変わったとしても、突拍子もない提案を強引に押し通す癖は全く変わらないようで。思わずぷっと吹き出してしまった。
『~~~~っ、あぁ、もう……』
昨日の夕方と同じような、観念したような片桐の声が耳元で響いていく。その言葉を発した片桐の表情は、昨日とは違ってなんとなく……想像が出来た。
ブラウンの扉の内側にかかっている、黒い黒板調のプレート。透明な窓ガラス越しに見える『open』と記されたそれを認識して、ゆっくりとその扉に手をかけた。チリチリと軽い音がして、真っ白な壁紙に包まれた店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃ………あぁ、さとっちゃんか」
カウンターの中に立って豆を袋詰めしていたマスターがこちらに視線を向けていた。驚いたような表情を浮かべたのちに、ひどく面白そうに瞳を細めていく。
「ひとりとは珍しいな。知香ちゃんはどうした?」
マスターの楽しげな声色に思わず苦笑いが漏れていく。相変わらずマスターは俺を揶揄うのが好きらしい。
「今日は後輩たちとお出かけ」
小さく肩を竦めながら店内に歩みを進めて、勝手知ったるという風にカウンター席に陣取った。
「はは~ん。で、暇つぶしにここに来たっつうわけか」
心底楽しそうな表情を浮かべたマスターは、手元の袋や豆を片付けて流れるような動作でケトルに水を注いでいく。俺がカウンター席に座るということは、飲んでいく、という意思表示の表れでもあるからだ。
「まぁ、暇つぶしでもあるが。マスターに話したいことと……聞きたいことがあったから」
「……」
マスターは意味ありげな笑みを浮かべたまま、動揺の色を見せない。きっと、俺がこうして疑問をぶつけるために来訪することは予見していたのだろう。そのタイミングまでは……読めていなかっただけで。
すっと小さく息を飲んで、真っ直ぐにマスターを見据えた。
(……起こすか…)
込み上げる欠伸を我慢することなく吐き出し、背中から抱き締めて抱き枕にしている知香の様子を窺った。昨晩コーヒーを飲みながらソファで会話を交わした今日の予定をぼんやりと思い返す。
知香は今日は後輩ふたりに通関士試験の座学講座をするために外出するらしい。知香は先月受験したが、今年入社の後輩は来年受験。そして、知香も同様に水野さんに座学講座を開いてもらっていた。合格発表は未だだが、その座学講座を水野さんから引き継いだ形なのだそう。
今日、こうして知香が外出するのは俺に取っては非常に好都合だった。知香に悟られることなく池野課長、そして片桐に連絡が取れるから。
ぼうっと考え事をしていると、腕の中の知香が小さく身動ぎをした。
「……おはよ、知香」
囁くように声帯を動かすと、知香は俺の腕の中でくるりと振り返った。焦げ茶色の瞳と視線が絡み合うが、その瞳は明らかに焦点が合っていない寝惚け眼。しばらくすると、そのまま焦げ茶色の瞳が閉ざされた。
(無理、させたもんな……)
込み上げてくる苦笑いを噛み殺していく。昨晩、眠りに落ちたら絶対に起きないように、と、いつもよりも激しく抱いた。それこそ、抱き潰す、という表現が正しいような勢いで。
警戒心の欠片もない、穏やかな表情で眠る知香。不意にもぞもぞと動き出した。今度こそ覚醒したのかと顔を覗き込んでみるものの、目を開けている様子はない。身動ぎしつつ、俺の腕の中で何度か体勢を変えている。
(……あぁ)
何となく、知香の無意識下の考えが読めた。心の内で納得したような声が零れ落ちていく。
普段は知香を後ろから抱き締めて眠ることが多い。こうして互いの顔が向き合うような、正面から抱き合うというのは数えるほどしか機会がなかった。慣れない体勢の中でも違和感のない位置を探しているのだと察する。
そのまま観察していると、首の位置や肩の位置を幾度も変え、やがて納得したのか、俺の胸に手のひらを当ててすりすりと額を寄せた。そうして至極満足気な表情を浮かべ……ふたたび夢の世界へ旅立って行ったようだった。
(……もう少し…)
あどけない表情で寝入る知香。その表情をもう少しだけ眺めていたい。そんな欲望に根負けして、知香がいつも起きる時間だとわかっていても知香を起こす気にはなれなかった。
艶のある真っ直ぐな黒髪に指を差し込み、さらりとしたその感覚を味わう。カーテンの隙間からレンブラント光線が差し込んでいるのを横目に、飽きることなく何度も髪を梳いていくと、不意に。池野課長から掛けられたあの一言が脳裏に蘇る。
『欲張って悲しみを抱えたままだと、一瀬さんと過ごす些細な日常も幸せだと感じられなくなるわよ? もうそろそろ、自分を赦してあげなさいね』
(……本当、ですね。池野課長…)
悲しみは、欲張らなくていい。『赦す』という言葉の重みと、この腕の中にある些細な幸せを噛み締めながら―――腕の中の知香を、深く抱き込んだ。
「じゃ、行ってくるね」
助手席の足元に置いていた荷物を纏めていく動作に合わせて、さらり、と、黒髪が揺れ動いた。今日の後輩たちとの座学講座はオフィス街にある喫茶店の個室を予約しているらしく、俺はそのあとの予定のこともあり送り迎えを買って出た。
「ん。行ってらっしゃい」
にこりと笑みを浮かべ緩やかに返答をすると、困ったように細められた焦げ茶色の瞳と視線が交差する。
「……ごめんね。お休みの日なのに。智置いてきぼりで、しかも送り迎えまでしてもらって」
明らかに、しゅん、と縮こまるような声色で紡がれた言葉にふっと笑みが漏れた。
「大丈夫、俺だって部長に上がった直後は知香ひとりにさせっぱなしだったろう? だからおあいこ」
運転席から手を伸ばし、手のひらで知香の頬にそっと触れる。俺も部長に上がった直後、統率が乱れた営業課を整えるために休日も時間を使って動いていた。後輩たちと花火大会に行ったり、夕食会を開いたり。だから知香が罪悪感を抱く必要はない、と、言葉でも擦り込んでいく。
「……ん。ありがとう」
はにかんだように、それでも少しだけ困ったように知香が微笑んだ。シートベルトが外され、知香が助手席から降車する。……あの事件の被害者でもあった後輩と合流した知香の背中を見届けて、俺は車を少し先に走らせた。
コインパーキングに入りギアをリバースに入れて車を定位置に停めていく。サイドブレーキを引くと独特のギアが噛みあう音が響き、エンジンを切る。
シートベルトを外し足元のレバーを引いて、座席を下げながらジーパンからスマホを取り出した。ディスプレイに表示された時刻は、昼下がりの13時。……マスターの店の開店時間。ちょうどいい時間に辿り着けたな、と安堵のため息を吐き出すと、その下には15分ほど前にメールを受信しているという通知が表示されていた。
その通知をタップするとメール画面が開かれる。差出人は池野課長。タイトルは『Re:サイズの件』となっている。昨晩測った知香の指のサイズを今朝池野課長に知らせたメールについての返信だろう。ゆっくりと視線を下に滑らせていく。
『了解。他にも打ち合わせたいことがあるので都合の良い時に電話願います。可能であれば本日中希望。 片桐』
目を通した本文には、そう綴られていた。
「……」
打ち合わせたいこと。本日中。俺の都合が良いのは、……今、このタイミングだ。
身体を緩ませるように長く息を吐き出した。メール画面を電話画面に切り替えて発信履歴から池野課長を探し出し、それをタップする。
ディスプレイに発信画面が表示されたことを確認してスマホを左耳に当てた。無機質な呼び出し音をただただ聞いていると、ふつりと呼び出し音が途切れて。
『あら。おはよう、邨上』
ふわり、と。池野課長の柔らかな声が耳元で響いた。その声に、僅かばかり強張っていた心が解れたように感じる。
昨日のように片桐が電話に出る可能性もあった。未だ複雑な感情を抱いている男が電話を取るかもしれない、という妙な緊張感が無意識に身体を硬くさせていたのだろう。
いつものように「お疲れ様です」と第一声を放ちそうになり、我に返る。もう、この人は……俺の上司ではない。互いに、別々の商社に勤める人間だ。
今、日本は昼過ぎ。ということは、タンザニアは朝だ。池野課長の第一声がそれを物語っている。先ほど片桐から届いていたメールは、片桐が池野課長の商社に出勤して初めての仕事だったのではないのだろうか。
「おはよう、ございます。……片桐、いますか?」
ゆっくりと朝の挨拶を返し、目的を告げる。すると、歌うような声で思わぬ一言が返ってきた。
『マサ、シャワー中』
その一言に、思考回路がぴしりと音を立てて停止する。
シャワー……中。何故そのような片桐のプライベートな行動を彼女が知っているのだろう。
片桐は彼女にヘッドハンティングされた。それは、ビジネスパートナーとして、ということ。今の彼らは上司と部下、というような関係性……のはずでは。というより、彼らは職場にいるのではないのだろうか。
あちら側の状況に理解が及ばず言葉を失くしていると、池野課長の声が真剣なそれに切り替わった。
『マサがさっき送ってたメールの件よね? どれくらいのカラット数が希望なのかを確認したかったの』
「……え、あ…カラット、数」
カラット数。現実的な単語に、焼きついた思考回路が急速に復旧していく。パチパチと目を瞬かせながら池野課長の言葉を復唱した。
確か宝石の重量のことだ。重量が増す毎に宝石の外周、所謂大きさ、そして相対的に価値も上がっていく。
(……んなもん、全く考えてねぇよ…)
婚約指輪を用意したい、という希望を持った場所で壁にぶち当たっていたのだ。そういった事項には全く考えが及んでいなかった。空いた右腕を肘置きに置いて、深い皺が寄った眉間を揉んでいく。
「……昨日お伝えした予算だと、どれくらいから用意出来ますか?」
一般的に贈られるダイヤモンドの平均カラット。インターネットで調べればすぐわかるのだろうが、その手段は通話で使用しており、今は全く見当がつかない。答えを出す前に池野課長に向かって質問を重ねてしまう。
『そうねぇ、1カラットアップのものは用意出来ると思うけれど。……あ、マサ。お帰り』
『……ん。ただいま』
左耳のスピーカーは片桐の声を綺麗に拾っている。俺が聞いたことがない、至極やわらかい声色。思わず意表を突かれた。
『カラット数、希望がないなら一瀬さんとの記念日とかに纏わる数字にしたらどうかしら?』
『……え、ちょ、カナさん!?』
やわらかかった片桐の声が、ひっくり返ったような声色に切り替わった。その落差にも呆気に取られる。
『その電話、智くんなワケ?』
『え? そうだけど』
『……』
彼女の不思議そうな即答ののち、盛大なため息が聞こえてくる。そのため息に込められた感情を読み取ろうと試みるが、生憎今の俺には考えることが多すぎて。それは一旦思考から外すことにした。
(……記念日……)
知香と想いが通じたのは、12月24日、だけれども。俺が正式に交際を申し込んだのが……知香の誕生日。数字にダブルミーニングを持たせるならば。
「……1.225カラットとか、可能でしょうか」
俺は宝石関係の知識は全く持ち合わせていない。こんな細かい数字が指定できるのかもわからなかったが、ひとまず口にしてみることにした。
『1.225カラット? ……あぁ、一瀬さんのお誕生日! いいわね、ロマンチックで』
ひどく上機嫌な池野課長の声色が耳に届く。「可能であればそれでお願いしたい」と言葉を続けると、上擦ったような声色と抵抗の言葉がスピーカーから響いてくる。
『カナさん、全く良くない。納期も短いのにそんな細かすぎる数字、』
『邨上、それでいきましょう』
片桐の反論の声に被せるように池野課長の承允の声が聞こえてきた。彼女が立つ舞台が世界に変わったとしても、突拍子もない提案を強引に押し通す癖は全く変わらないようで。思わずぷっと吹き出してしまった。
『~~~~っ、あぁ、もう……』
昨日の夕方と同じような、観念したような片桐の声が耳元で響いていく。その言葉を発した片桐の表情は、昨日とは違ってなんとなく……想像が出来た。
ブラウンの扉の内側にかかっている、黒い黒板調のプレート。透明な窓ガラス越しに見える『open』と記されたそれを認識して、ゆっくりとその扉に手をかけた。チリチリと軽い音がして、真っ白な壁紙に包まれた店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃ………あぁ、さとっちゃんか」
カウンターの中に立って豆を袋詰めしていたマスターがこちらに視線を向けていた。驚いたような表情を浮かべたのちに、ひどく面白そうに瞳を細めていく。
「ひとりとは珍しいな。知香ちゃんはどうした?」
マスターの楽しげな声色に思わず苦笑いが漏れていく。相変わらずマスターは俺を揶揄うのが好きらしい。
「今日は後輩たちとお出かけ」
小さく肩を竦めながら店内に歩みを進めて、勝手知ったるという風にカウンター席に陣取った。
「はは~ん。で、暇つぶしにここに来たっつうわけか」
心底楽しそうな表情を浮かべたマスターは、手元の袋や豆を片付けて流れるような動作でケトルに水を注いでいく。俺がカウンター席に座るということは、飲んでいく、という意思表示の表れでもあるからだ。
「まぁ、暇つぶしでもあるが。マスターに話したいことと……聞きたいことがあったから」
「……」
マスターは意味ありげな笑みを浮かべたまま、動揺の色を見せない。きっと、俺がこうして疑問をぶつけるために来訪することは予見していたのだろう。そのタイミングまでは……読めていなかっただけで。
すっと小さく息を飲んで、真っ直ぐにマスターを見据えた。
0
お気に入りに追加
1,544
あなたにおすすめの小説
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
独占欲強めな極上エリートに甘く抱き尽くされました
紡木さぼ
恋愛
旧題:婚約破棄されたワケアリ物件だと思っていた会社の先輩が、実は超優良物件でどろどろに溺愛されてしまう社畜の話
平凡な社畜OLの藤井由奈(ふじいゆな)が残業に勤しんでいると、5年付き合った婚約者と破談になったとの噂があるハイスペ先輩柚木紘人(ゆのきひろと)に声をかけられた。
サシ飲みを経て「会社の先輩後輩」から「飲み仲間」へと昇格し、飲み会中に甘い空気が漂い始める。
恋愛がご無沙汰だった由奈は次第に紘人に心惹かれていき、紘人もまた由奈を可愛がっているようで……
元カノとはどうして別れたの?社内恋愛は面倒?紘人は私のことどう思ってる?
社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。
「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」
ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。
仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。
ざまぁ相手は紘人の元カノです。
あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお断りいたします。
汐埼ゆたか
恋愛
旧題:あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお受けいたしかねます。
※現在公開の後半部分は、書籍化前のサイト連載版となっております。
書籍とは設定が異なる部分がありますので、あらかじめご了承ください。
―――――――――――――――――――
ひょんなことから旅行中の学生くんと知り合ったわたし。全然そんなつもりじゃなかったのに、なぜだか一夜を共に……。
傷心中の年下を喰っちゃうなんていい大人のすることじゃない。せめてもの罪滅ぼしと、三日間限定で家に置いてあげた。
―――なのに!
その正体は、ななな、なんと!グループ親会社の役員!しかも御曹司だと!?
恋を諦めたアラサーモブ子と、あふれる愛を注ぎたくて堪らない年下御曹司の溺愛攻防戦☆
「馬鹿だと思うよ自分でも。―――それでもあなたが欲しいんだ」
*・゚♡★♡゚・*:.。奨励賞ありがとうございます 。.:*・゚♡★♡゚・*
▶Attention
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。