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番外編/Bright morning light.

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 ぱちりと目を開くと、背後からうっすらと太陽の光が差し込んでいた。ベッドサイドの時計は、いつも知香が平日に起きる時刻を指している。

(……起こすか…)

 込み上げる欠伸を我慢することなく吐き出し、背中から抱き締めて抱き枕にしている知香の様子を窺った。昨晩コーヒーを飲みながらソファで会話を交わした今日の予定をぼんやりと思い返す。

 知香は今日は後輩ふたりに通関士試験の座学講座をするために外出するらしい。知香は先月受験したが、今年入社の後輩は来年受験。そして、知香も同様に水野さんに座学講座を開いてもらっていた。合格発表は未だだが、その座学講座を水野さんから引き継いだ形なのだそう。

 今日、こうして知香が外出するのは俺に取っては非常に好都合だった。知香に悟られることなく池野課長、そして片桐に連絡が取れるから。

 ぼうっと考え事をしていると、腕の中の知香が小さく身動ぎをした。

「……おはよ、知香」

 囁くように声帯を動かすと、知香は俺の腕の中でくるりと振り返った。焦げ茶色の瞳と視線が絡み合うが、その瞳は明らかに焦点が合っていない寝惚け眼。しばらくすると、そのまま焦げ茶色の瞳が閉ざされた。

(無理、させたもんな……)

 込み上げてくる苦笑いを噛み殺していく。昨晩、眠りに落ちたら絶対に起きないように、と、いつもよりも激しく抱いた。それこそ、抱き潰す、という表現が正しいような勢いで。

 警戒心の欠片もない、穏やかな表情で眠る知香。不意にもぞもぞと動き出した。今度こそ覚醒したのかと顔を覗き込んでみるものの、目を開けている様子はない。身動ぎしつつ、俺の腕の中で何度か体勢を変えている。

(……あぁ)

 何となく、知香の無意識下の考えが読めた。心の内で納得したような声が零れ落ちていく。

 普段は知香を後ろから抱き締めて眠ることが多い。こうして互いの顔が向き合うような、正面から抱き合うというのは数えるほどしか機会がなかった。慣れない体勢の中でも違和感のない位置を探しているのだと察する。

 そのまま観察していると、首の位置や肩の位置を幾度も変え、やがて納得したのか、俺の胸に手のひらを当ててすりすりと額を寄せた。そうして至極満足気な表情を浮かべ……ふたたび夢の世界へ旅立って行ったようだった。

(……もう少し…)

 あどけない表情で寝入る知香。その表情をもう少しだけ眺めていたい。そんな欲望に根負けして、知香がいつも起きる時間だとわかっていても知香を起こす気にはなれなかった。

 艶のある真っ直ぐな黒髪に指を差し込み、さらりとしたその感覚を味わう。カーテンの隙間からレンブラント薄明光線が差し込んでいるのを横目に、飽きることなく何度も髪を梳いていくと、不意に。池野課長から掛けられたあの一言が脳裏に蘇る。


『欲張って悲しみを抱えたままだと、一瀬さんと過ごす些細な日常も幸せだと感じられなくなるわよ? もうそろそろ、自分を赦してあげなさいね』


(……本当、ですね。池野課長…)

 悲しみは、欲張らなくていい。『赦す』という言葉の重みと、この腕の中にある些細な幸せを噛み締めながら―――腕の中の知香を、深く抱き込んだ。










「じゃ、行ってくるね」

 助手席の足元に置いていた荷物を纏めていく動作に合わせて、さらり、と、黒髪が揺れ動いた。今日の後輩たちとの座学講座はオフィス街にある喫茶店の個室を予約しているらしく、俺はそのあとの予定のこともあり送り迎えを買って出た。

「ん。行ってらっしゃい」

 にこりと笑みを浮かべ緩やかに返答をすると、困ったように細められた焦げ茶色の瞳と視線が交差する。

「……ごめんね。お休みの日なのに。智置いてきぼりで、しかも送り迎えまでしてもらって」

 明らかに、しゅん、と縮こまるような声色で紡がれた言葉にふっと笑みが漏れた。

「大丈夫、俺だって部長に上がった直後は知香ひとりにさせっぱなしだったろう? だからおあいこ」

 運転席から手を伸ばし、手のひらで知香の頬にそっと触れる。俺も部長に上がった直後、統率が乱れた営業課を整えるために休日も時間を使って動いていた。後輩たちと花火大会に行ったり、夕食会を開いたり。だから知香が罪悪感を抱く必要はない、と、言葉でも擦り込んでいく。

「……ん。ありがとう」

 はにかんだように、それでも少しだけ困ったように知香が微笑んだ。シートベルトが外され、知香が助手席から降車する。……あの事件の被害者でもあった後輩と合流した知香の背中を見届けて、俺は車を少し先に走らせた。






 コインパーキングに入りギアをリバースに入れて車を定位置に停めていく。サイドブレーキを引くと独特のギアが噛みあう音が響き、エンジンを切る。

 シートベルトを外し足元のレバーを引いて、座席を下げながらジーパンからスマホを取り出した。ディスプレイに表示された時刻は、昼下がりの13時。……マスターの店の開店時間。ちょうどいい時間に辿り着けたな、と安堵のため息を吐き出すと、その下には15分ほど前にメールを受信しているという通知が表示されていた。

 その通知をタップするとメール画面が開かれる。差出人は池野課長。タイトルは『Re:サイズの件』となっている。昨晩測った知香の指のサイズを今朝池野課長に知らせたメールについての返信だろう。ゆっくりと視線を下に滑らせていく。

『了解。他にも打ち合わせたいことがあるので都合の良い時に電話願います。可能であれば本日中希望。 片桐』

 目を通した本文には、そう綴られていた。

「……」

 打ち合わせたいこと。本日中。俺の都合が良いのは、……今、このタイミングだ。

 身体を緩ませるように長く息を吐き出した。メール画面を電話画面に切り替えて発信履歴から池野課長を探し出し、それをタップする。

 ディスプレイに発信画面が表示されたことを確認してスマホを左耳に当てた。無機質な呼び出し音をただただ聞いていると、ふつりと呼び出し音が途切れて。

『あら。おはよう、邨上』

 ふわり、と。池野課長の柔らかな声が耳元で響いた。その声に、僅かばかり強張っていた心が解れたように感じる。

 昨日のように片桐が電話に出る可能性もあった。未だ複雑な感情を抱いている男が電話を取るかもしれない、という妙な緊張感が無意識に身体を硬くさせていたのだろう。

 いつものように「お疲れ様です」と第一声を放ちそうになり、我に返る。もう、この人は……俺の上司ではない。互いに、別々の商社に勤める人間だ。

 今、日本は昼過ぎ。ということは、タンザニアは朝だ。池野課長の第一声がそれを物語っている。先ほど片桐から届いていたメールは、片桐が池野課長の商社に出勤して初めての仕事だったのではないのだろうか。

「おはよう、ございます。……片桐、いますか?」

 ゆっくりと朝の挨拶を返し、目的を告げる。すると、歌うような声で思わぬ一言が返ってきた。

『マサ、シャワー中』

 その一言に、思考回路がぴしりと音を立てて停止する。


 シャワー……中。何故そのような片桐のプライベートな行動を彼女が知っているのだろう。

 片桐は彼女にヘッドハンティングされた。それは、ビジネスパートナーとして、ということ。今の彼らは上司と部下、というような関係性……のはずでは。というより、彼らは職場にいるのではないのだろうか。


 あちら側の状況に理解が及ばず言葉を失くしていると、池野課長の声が真剣なそれに切り替わった。

『マサがさっき送ってたメールの件よね? どれくらいのカラット数が希望なのかを確認したかったの』
「……え、あ…カラット、数」

 カラット数。現実的な単語に、焼きついた思考回路が急速に復旧していく。パチパチと目を瞬かせながら池野課長の言葉を復唱した。

 確か宝石の重量のことだ。重量が増す毎に宝石の外周、所謂大きさ、そして相対的に価値も上がっていく。

(……んなもん、全く考えてねぇよ…)

 婚約指輪を用意したい、という希望を持った場所で壁にぶち当たっていたのだ。そういった事項には全く考えが及んでいなかった。空いた右腕を肘置きに置いて、深い皺が寄った眉間を揉んでいく。

「……昨日お伝えした予算だと、どれくらいから用意出来ますか?」

 一般的に贈られるダイヤモンドの平均カラット。インターネットで調べればすぐわかるのだろうが、その手段スマホは通話で使用しており、今は全く見当がつかない。答えを出す前に池野課長に向かって質問を重ねてしまう。

『そうねぇ、1カラットアップのものは用意出来ると思うけれど。……あ、マサ。お帰り』
『……ん。ただいま』

 左耳のスピーカーは片桐の声を綺麗に拾っている。俺が聞いたことがない、至極やわらかい声色。思わず意表を突かれた。

『カラット数、希望がないなら一瀬さんとの記念日とかに纏わる数字にしたらどうかしら?』
『……え、ちょ、カナさん!?』

 やわらかかった片桐の声が、ひっくり返ったような声色に切り替わった。その落差にも呆気に取られる。

『その電話、智くんなワケ?』
『え? そうだけど』
『……』

 彼女の不思議そうな即答ののち、盛大なため息が聞こえてくる。そのため息に込められた感情を読み取ろうと試みるが、生憎今の俺には考えることが多すぎて。それは一旦思考から外すことにした。

(……記念日……)

 知香と想いが通じたのは、12月24日、だけれども。俺が正式に交際を申し込んだのが……知香の誕生日。数字にダブルミーニングを持たせるならば。

「……1.225カラットとか、可能でしょうか」

 俺は宝石関係の知識は全く持ち合わせていない。こんな細かい数字が指定できるのかもわからなかったが、ひとまず口にしてみることにした。

『1.225カラット? ……あぁ、一瀬さんのお誕生日! いいわね、ロマンチックで』

 ひどく上機嫌な池野課長の声色が耳に届く。「可能であればそれでお願いしたい」と言葉を続けると、上擦ったような声色と抵抗の言葉がスピーカーから響いてくる。

『カナさん、全く良くない。納期も短いのにそんな細かすぎる数字、』
『邨上、それでいきましょう』

 片桐の反論の声に被せるように池野課長の承允の声が聞こえてきた。彼女が立つ舞台が世界に変わったとしても、突拍子もない提案を強引に押し通す癖は全く変わらないようで。思わずぷっと吹き出してしまった。

『~~~~っ、あぁ、もう……』

 昨日の夕方と同じような、観念したような片桐の声が耳元で響いていく。その言葉を発した片桐の表情は、昨日とは違ってなんとなく……想像が出来た。





 ブラウンの扉の内側にかかっている、黒い黒板調のプレート。透明な窓ガラス越しに見える『open』と記されたそれを認識して、ゆっくりとその扉に手をかけた。チリチリと軽い音がして、真っ白な壁紙に包まれた店内に足を踏み入れる。

「いらっしゃ………あぁ、さとっちゃんか」

 カウンターの中に立って豆を袋詰めしていたマスターがこちらに視線を向けていた。驚いたような表情を浮かべたのちに、ひどく面白そうに瞳を細めていく。

「ひとりとは珍しいな。知香ちゃんはどうした?」

 マスターの楽しげな声色に思わず苦笑いが漏れていく。相変わらずマスターこの人は俺を揶揄うのが好きらしい。

「今日は後輩たちとお出かけ」

 小さく肩を竦めながら店内に歩みを進めて、勝手知ったるという風にカウンター席に陣取った。

「はは~ん。で、暇つぶしにここに来たっつうわけか」

 心底楽しそうな表情を浮かべたマスターは、手元の袋や豆を片付けて流れるような動作でケトルに水を注いでいく。俺がカウンター席に座るということは、飲んでいく、という意思表示の表れでもあるからだ。

「まぁ、暇つぶしでもあるが。マスターに話したいことと……聞きたいことがあったから」
「……」

 マスターは意味ありげな笑みを浮かべたまま、動揺の色を見せない。きっと、俺がこうして疑問をぶつけるために来訪することは予見していたのだろう。そのタイミングまでは……読めていなかっただけで。

 すっと小さく息を飲んで、真っ直ぐにマスターを見据えた。
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