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番外編/Bright morning light.
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「聞きたいのは、片桐のこと。話したいこともそれに関連している」
「……」
感情を読ませない琥珀色の瞳が、俺をじっと見つめている。……長い沈黙を経て、マスターが静かな声色で俺に語りかけた。
「俺に話せる範囲で、な。それでいいか?」
「……ん」
こくん、と、小さく頷く。それは承知の上だ。
俺の強張ったような表情を見遣ったマスターは、ふぅ、とため息を吐き出した。そうして、ゆっくりとカウンターの内側からこちら側に足を動かしていく。足を踏み出すたびに、履いているスニーカーの音が木目張りの床に響いた。マスターは出入り口に扉に掛けてある『open』と記された黒板調のパネルに向かって手を伸ばし、それを『closed』にひっくり返していく。
「……お前もあいつも、あの事件の関係者だ」
無機質な声が真っ白な壁に反響する。全国ニュースで報道されてしまった事件の関係者に纏わる話でもあるから、他の客を巻き込むことはしない、と。マスターはそう言いたいのだろう。その配慮はひどくありがたかった。
カウンターの内側に戻ったマスターがドリッパーやペーパーの準備をしているのを横目に、マスターの背後に位置する戸棚に視線を向ける。太陽の陽射しを反射する寸胴の瓶たち。その中で目に留まったのは「ブラックバーン」。池野課長の手を経由しこの場所に並んでいるはずの、タンザニア産の……俺が一番好きな農園の、豆。
「ブラックバーン」
「だろうなと思った」
マスターは俺の注文に苦笑しながら即座に言葉を返した。その瞬間、この人には……俺がこれから話したいことも、聞きたいことも。きっとお見通しなのだろう、と。なんとなく、そう感じた。
背後の戸棚に手を伸ばし、ペーパーにコーヒー豆を入れてくるりと振り向いたマスターに向かって。俺は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……知香に指輪を渡そうと思って」
「お、ついにか! おめでとう。式には呼べよ? 店閉めて絶対参列するから」
ミルを回しながらマスターが心から嬉しそうに思いっきり破顔した表情を俺に向けた。その言葉に、思わず苦い表情を浮かべる。
「……まだ返事は貰ってねぇよ」
来る日の俺の投げかけに、快諾しか返ってこないと信じてはいる。が、今はまだ……その前の段階だ。
「あぁ、確かに。すまんすまん。気が早かったな」
俺の憮然たる面持ちにマスターが困ったように小さく肩を竦めて琥珀色の瞳を細めた。深く炒られた豆の良い香りが鼻腔をくすぐっていく。……その香りを肺に取り込み、一気に言葉を吐きだした。
「指輪を頼もうと思って、池野課長に連絡を取った。その時に……片桐が窓口になることになった」
「……」
俺が吐き出した言葉にマスターは反応しない。淡々と、挽いたコーヒー豆をミルからペーパーフィルターに移し替えている。
その様子を無感動に眺めながら、カウンターに肘をつき、覚悟を決めるようにぐっと拳を握った。
「片桐と話している間。これまでとは違う違和感があった。……この違和感を言葉では表現出来ねぇ。そういう類いの……違和感だった」
「……」
マスターは作業する手を止めずに俺の話を聞いている。その様子を眺めていると、……この先の言葉は予測されている、と。そして、目の前のマスターは、その問いの答えを知っている、と。妙な確信を持った。
「……マスター。片桐の、本心。あんただけは、知っているんだろう?」
昨日……言葉を交わしているときに抱いた、あの違和感。その正体を、あれからずっと考えていた。先ほどの電話でも感じたこれまでと違う違和感が、胸の中に強烈に残っている。
そうして……辿り着いた、俺なりの答え。片桐は知香を見ているからこそ、心から想っているからこそ。自分を犠牲にする行動を起こしていたのだ、と……そう考えていた。けれども、知香の言葉を借りれば……片桐は実のところ、知香を見ていないように思えたのだ。
片桐は俺と同じく、ここの常連。マスターは他人の本音を引き出せる不思議な力を持っている。ここに訪れる人間はマスターにだけは、隠していた本音を零していく。きっと片桐は、愛した人間を失くしたことも、それ以外の事も話しているはずだ。……あの事件が起きる前に。
マスターがコーヒーを淹れていく作業音だけが、静かに響いている。そうして、マスターが蒸らしのためのお湯を注いだコーヒーポットを置いた。顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら、射抜くような視線をこちらに向けている。
沈黙が、はらりと落ちていく。荒廃した世界で、ただただ静寂だけがそこにあるかのようだった。
「……それを俺に聞くのはルール違反っつうやつだ、さとっちゃん」
「……」
光の届かない海の底のような沈黙の向こう側から、咎めるような言葉が静かに飛んできた。届けられた言葉はまるで、親が子どもに『ズルをするな』と窘めるような口調。……そうして、その口調でマスターはやはり答えを知っている、と。
俺が―――辻褄合わせに苦労して、何となく曖昧に自分を納得させていたあの解釈は、間違っているのだ、と。そう感じた。
ルール違反、と。マスターは口にした。それは、俺がここからどう足掻いてもマスターは口を割らない、ということを意味している。詰んだ、と感じて思わず顔を歪めて盛大に舌打ちをすると、マスターは心底愉し気に口の端を歪めて言葉を紡いだ。
「マサが加奈子のヘッドハンティングを受けた心理。それを当ててみろ」
「……心、理…」
片桐が一歩を踏み出した、心理。もう住み慣れたはず日本を発ち遠い異国の地で全てをリセットし、ゼロから始めると決意した、きっかけ。
知香を愛しているからこそ、片桐は生命をかけて知香を護ろうとした、と。そう思い込んでいた。そうでなければ片桐のこれまでの行動に理由がつけられない、と。……そう思っていたのに。この前提が予期せぬタイミングで覆された。
(……きっかけ…)
全てを投げ打つほど、片桐の感情を揺さぶる何かがあった。それを……マスターは知っている。
考えが纏まらず頭を掻きはぁっとため息を零すと、マスターは笑みを浮かべたままふたたびコーヒーポットを手に取った。
「そうすれば自ずと答えは見える。お前が悩んでいることも解決する。俺から言えるのは、『錆びて固まっていた時計の針が動きだした』、……ということだけだ」
時計の……針。どういう意味なのだろう。何を言われているのかさっぱり掴めない。昨日も、池野課長は『夜を切り取る仕事』と口にしていた。……この兄妹の言葉は、いつだって抽象的すぎる。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている俺を見遣ったマスターはコーヒーポットから細く細くお湯を注いでいく。ブラックバーン特有の柑橘系の香りが店内に充満していく。その香りを吸込み、紡がれた抽象的な言葉を噛み砕こうと思考を回転させた。
動き始めた、時計の針。それは、片桐が変わった、ということを意味しているのだろうか。
ぼうっと考えを巡らせていると、マスターがコーヒーポットをふたたび置いてサーバーからコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを移し替えていく。俺を見つめている琥珀色の瞳が優しげに細まった。その、次の瞬間。
「……ヒントだけはやろう」
ニヤリ、と。意味ありげな視線をこちらに向けたマスターが。緩く握った拳の人差し指を唇にあて、軽やかに声を発した。その手が解かれ、コトリ、と小さな音を立てて、目の前にコーヒーがなみなみと注がれた白いコーヒーカップが置かれていく。
「あいつの時計の針が動き出したのは、間違いなくお前と出会ったからだ」
「……は…?」
昨日の帰り際。浅田から投げかけられた一言と立場を入れ替えた同等の一言に。目を見張ることしか、出来なかった。
パタン、と小さな音を立てて扉が閉まる。踵を返し、左手を口元に当ててコインパーキングへ向かって歩みを進めた。
「……」
絶対に相容れない、と。そう思っていた。けれど、時を経て……池野課長を通して、だが。それでもこんな風に穏やかに会話を交わせるような……こんな関係に落ち着くとは思ってもみなかった。
知香の心を触り、感情を捻じ曲げようとしたことを赦せるか、と言われれば……今も難しい。けれど。
(……時計の、針)
先ほどマスターが口にしたこと。俺と出会って……時計の針が動き出した、という第2の父親の私見。
(……赦す、こと…)
俺のことを良く知っている池野課長に告げられた、この言葉。そして、俺だけが抱いているはずの、この―――黒い感情。
遅かれ早かれ、向き合わなければならない。いつまでも逃げていても、俺は前に進めない。
片桐は……前に進んでいく。時計の針の錆を自らの手で落としながら。
(……癪に触るな…)
思わず大きく舌打ちをして顔を顰めた。片桐だけ前に進ませる、というのは。同族だからこそ……癪に触る。
纏まらない考えが脳内を駆け巡っていく中、ジーパンのポケットに入れていたスマホが震えた。するりとそれを手に取ると、池野課長からメールが届いているということを知らせてくれている。
きっと、このメールの本文を書いたのは片桐だろう。何気なくそう考えながら、ディスプレイをタップした。
『宝石の原石を加工するにあたっては、その原石が内包するインクルージョンを避けながら最適な形を算出してカットされていく。だから指定されたカラット数に持っていくのは本来難しいのだけれども、タンザナイトの結晶はインクルージョンが少ない。故に、最適なサイズの原石を見つけられれば1.225カラットに加工するのも可能だろう、という回答を加工場からもらった。原石を見つけ次第、こちらから連絡を入れます。 片桐』
淡々とした文章が目の前に綴られていた。その文章に目を通しながら、ペガサスに振り回されているはずの……前に向かって歩み始めたはずの、ヘーゼル色の瞳を脳裏に思い浮かべ。マスターのヒントを胸に悶々と考えても―――答えは一向に導き出せなかった。
それから10日ほど過ぎると、不意に片桐からメールを受信した。そのメールにはひとつの画像が添付されており、画像を開いて思わず息を飲んだ。
歪な形をしている宝石の『原石』と思しきそれ。全体は紫とも言えない、そして群青色とも言えない複雑な色味だが、赤褐色の部分、そして黒ずんでいる部分も見受けられる。
「……」
あまりの美しさに、俺はデスクに腰をおろしたまま言葉が出なかった。視界を占領する、夕暮れ時の空を映し出したような美しい色。原石だけでこれほど美しければ加工した時にはどれほどの神秘的な煌めきを放つのだろうか。しばらく放心したようにそれを眺め、その画像を閉じて本文に目を通すと、この原石だとラウンドカットで1.225カラットに加工可、ということが綴られていた。
その文章に目を通して、別データを開いた。片桐が描いたと思しき手書きのデザイン画。知香の薬指にこの煌めきが宿るのだと思うと、何とも言えない高揚感が湧き上がってくる。
その後、デザインについてと納期についてメールを交わし、こちらから最後のメールを送る際に。
『納品されたのちにこちらから連絡する。その時に、一対一で。お前と話したいことがある』
……この文章を、付け加えた。
「……」
感情を読ませない琥珀色の瞳が、俺をじっと見つめている。……長い沈黙を経て、マスターが静かな声色で俺に語りかけた。
「俺に話せる範囲で、な。それでいいか?」
「……ん」
こくん、と、小さく頷く。それは承知の上だ。
俺の強張ったような表情を見遣ったマスターは、ふぅ、とため息を吐き出した。そうして、ゆっくりとカウンターの内側からこちら側に足を動かしていく。足を踏み出すたびに、履いているスニーカーの音が木目張りの床に響いた。マスターは出入り口に扉に掛けてある『open』と記された黒板調のパネルに向かって手を伸ばし、それを『closed』にひっくり返していく。
「……お前もあいつも、あの事件の関係者だ」
無機質な声が真っ白な壁に反響する。全国ニュースで報道されてしまった事件の関係者に纏わる話でもあるから、他の客を巻き込むことはしない、と。マスターはそう言いたいのだろう。その配慮はひどくありがたかった。
カウンターの内側に戻ったマスターがドリッパーやペーパーの準備をしているのを横目に、マスターの背後に位置する戸棚に視線を向ける。太陽の陽射しを反射する寸胴の瓶たち。その中で目に留まったのは「ブラックバーン」。池野課長の手を経由しこの場所に並んでいるはずの、タンザニア産の……俺が一番好きな農園の、豆。
「ブラックバーン」
「だろうなと思った」
マスターは俺の注文に苦笑しながら即座に言葉を返した。その瞬間、この人には……俺がこれから話したいことも、聞きたいことも。きっとお見通しなのだろう、と。なんとなく、そう感じた。
背後の戸棚に手を伸ばし、ペーパーにコーヒー豆を入れてくるりと振り向いたマスターに向かって。俺は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……知香に指輪を渡そうと思って」
「お、ついにか! おめでとう。式には呼べよ? 店閉めて絶対参列するから」
ミルを回しながらマスターが心から嬉しそうに思いっきり破顔した表情を俺に向けた。その言葉に、思わず苦い表情を浮かべる。
「……まだ返事は貰ってねぇよ」
来る日の俺の投げかけに、快諾しか返ってこないと信じてはいる。が、今はまだ……その前の段階だ。
「あぁ、確かに。すまんすまん。気が早かったな」
俺の憮然たる面持ちにマスターが困ったように小さく肩を竦めて琥珀色の瞳を細めた。深く炒られた豆の良い香りが鼻腔をくすぐっていく。……その香りを肺に取り込み、一気に言葉を吐きだした。
「指輪を頼もうと思って、池野課長に連絡を取った。その時に……片桐が窓口になることになった」
「……」
俺が吐き出した言葉にマスターは反応しない。淡々と、挽いたコーヒー豆をミルからペーパーフィルターに移し替えている。
その様子を無感動に眺めながら、カウンターに肘をつき、覚悟を決めるようにぐっと拳を握った。
「片桐と話している間。これまでとは違う違和感があった。……この違和感を言葉では表現出来ねぇ。そういう類いの……違和感だった」
「……」
マスターは作業する手を止めずに俺の話を聞いている。その様子を眺めていると、……この先の言葉は予測されている、と。そして、目の前のマスターは、その問いの答えを知っている、と。妙な確信を持った。
「……マスター。片桐の、本心。あんただけは、知っているんだろう?」
昨日……言葉を交わしているときに抱いた、あの違和感。その正体を、あれからずっと考えていた。先ほどの電話でも感じたこれまでと違う違和感が、胸の中に強烈に残っている。
そうして……辿り着いた、俺なりの答え。片桐は知香を見ているからこそ、心から想っているからこそ。自分を犠牲にする行動を起こしていたのだ、と……そう考えていた。けれども、知香の言葉を借りれば……片桐は実のところ、知香を見ていないように思えたのだ。
片桐は俺と同じく、ここの常連。マスターは他人の本音を引き出せる不思議な力を持っている。ここに訪れる人間はマスターにだけは、隠していた本音を零していく。きっと片桐は、愛した人間を失くしたことも、それ以外の事も話しているはずだ。……あの事件が起きる前に。
マスターがコーヒーを淹れていく作業音だけが、静かに響いている。そうして、マスターが蒸らしのためのお湯を注いだコーヒーポットを置いた。顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら、射抜くような視線をこちらに向けている。
沈黙が、はらりと落ちていく。荒廃した世界で、ただただ静寂だけがそこにあるかのようだった。
「……それを俺に聞くのはルール違反っつうやつだ、さとっちゃん」
「……」
光の届かない海の底のような沈黙の向こう側から、咎めるような言葉が静かに飛んできた。届けられた言葉はまるで、親が子どもに『ズルをするな』と窘めるような口調。……そうして、その口調でマスターはやはり答えを知っている、と。
俺が―――辻褄合わせに苦労して、何となく曖昧に自分を納得させていたあの解釈は、間違っているのだ、と。そう感じた。
ルール違反、と。マスターは口にした。それは、俺がここからどう足掻いてもマスターは口を割らない、ということを意味している。詰んだ、と感じて思わず顔を歪めて盛大に舌打ちをすると、マスターは心底愉し気に口の端を歪めて言葉を紡いだ。
「マサが加奈子のヘッドハンティングを受けた心理。それを当ててみろ」
「……心、理…」
片桐が一歩を踏み出した、心理。もう住み慣れたはず日本を発ち遠い異国の地で全てをリセットし、ゼロから始めると決意した、きっかけ。
知香を愛しているからこそ、片桐は生命をかけて知香を護ろうとした、と。そう思い込んでいた。そうでなければ片桐のこれまでの行動に理由がつけられない、と。……そう思っていたのに。この前提が予期せぬタイミングで覆された。
(……きっかけ…)
全てを投げ打つほど、片桐の感情を揺さぶる何かがあった。それを……マスターは知っている。
考えが纏まらず頭を掻きはぁっとため息を零すと、マスターは笑みを浮かべたままふたたびコーヒーポットを手に取った。
「そうすれば自ずと答えは見える。お前が悩んでいることも解決する。俺から言えるのは、『錆びて固まっていた時計の針が動きだした』、……ということだけだ」
時計の……針。どういう意味なのだろう。何を言われているのかさっぱり掴めない。昨日も、池野課長は『夜を切り取る仕事』と口にしていた。……この兄妹の言葉は、いつだって抽象的すぎる。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている俺を見遣ったマスターはコーヒーポットから細く細くお湯を注いでいく。ブラックバーン特有の柑橘系の香りが店内に充満していく。その香りを吸込み、紡がれた抽象的な言葉を噛み砕こうと思考を回転させた。
動き始めた、時計の針。それは、片桐が変わった、ということを意味しているのだろうか。
ぼうっと考えを巡らせていると、マスターがコーヒーポットをふたたび置いてサーバーからコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを移し替えていく。俺を見つめている琥珀色の瞳が優しげに細まった。その、次の瞬間。
「……ヒントだけはやろう」
ニヤリ、と。意味ありげな視線をこちらに向けたマスターが。緩く握った拳の人差し指を唇にあて、軽やかに声を発した。その手が解かれ、コトリ、と小さな音を立てて、目の前にコーヒーがなみなみと注がれた白いコーヒーカップが置かれていく。
「あいつの時計の針が動き出したのは、間違いなくお前と出会ったからだ」
「……は…?」
昨日の帰り際。浅田から投げかけられた一言と立場を入れ替えた同等の一言に。目を見張ることしか、出来なかった。
パタン、と小さな音を立てて扉が閉まる。踵を返し、左手を口元に当ててコインパーキングへ向かって歩みを進めた。
「……」
絶対に相容れない、と。そう思っていた。けれど、時を経て……池野課長を通して、だが。それでもこんな風に穏やかに会話を交わせるような……こんな関係に落ち着くとは思ってもみなかった。
知香の心を触り、感情を捻じ曲げようとしたことを赦せるか、と言われれば……今も難しい。けれど。
(……時計の、針)
先ほどマスターが口にしたこと。俺と出会って……時計の針が動き出した、という第2の父親の私見。
(……赦す、こと…)
俺のことを良く知っている池野課長に告げられた、この言葉。そして、俺だけが抱いているはずの、この―――黒い感情。
遅かれ早かれ、向き合わなければならない。いつまでも逃げていても、俺は前に進めない。
片桐は……前に進んでいく。時計の針の錆を自らの手で落としながら。
(……癪に触るな…)
思わず大きく舌打ちをして顔を顰めた。片桐だけ前に進ませる、というのは。同族だからこそ……癪に触る。
纏まらない考えが脳内を駆け巡っていく中、ジーパンのポケットに入れていたスマホが震えた。するりとそれを手に取ると、池野課長からメールが届いているということを知らせてくれている。
きっと、このメールの本文を書いたのは片桐だろう。何気なくそう考えながら、ディスプレイをタップした。
『宝石の原石を加工するにあたっては、その原石が内包するインクルージョンを避けながら最適な形を算出してカットされていく。だから指定されたカラット数に持っていくのは本来難しいのだけれども、タンザナイトの結晶はインクルージョンが少ない。故に、最適なサイズの原石を見つけられれば1.225カラットに加工するのも可能だろう、という回答を加工場からもらった。原石を見つけ次第、こちらから連絡を入れます。 片桐』
淡々とした文章が目の前に綴られていた。その文章に目を通しながら、ペガサスに振り回されているはずの……前に向かって歩み始めたはずの、ヘーゼル色の瞳を脳裏に思い浮かべ。マスターのヒントを胸に悶々と考えても―――答えは一向に導き出せなかった。
それから10日ほど過ぎると、不意に片桐からメールを受信した。そのメールにはひとつの画像が添付されており、画像を開いて思わず息を飲んだ。
歪な形をしている宝石の『原石』と思しきそれ。全体は紫とも言えない、そして群青色とも言えない複雑な色味だが、赤褐色の部分、そして黒ずんでいる部分も見受けられる。
「……」
あまりの美しさに、俺はデスクに腰をおろしたまま言葉が出なかった。視界を占領する、夕暮れ時の空を映し出したような美しい色。原石だけでこれほど美しければ加工した時にはどれほどの神秘的な煌めきを放つのだろうか。しばらく放心したようにそれを眺め、その画像を閉じて本文に目を通すと、この原石だとラウンドカットで1.225カラットに加工可、ということが綴られていた。
その文章に目を通して、別データを開いた。片桐が描いたと思しき手書きのデザイン画。知香の薬指にこの煌めきが宿るのだと思うと、何とも言えない高揚感が湧き上がってくる。
その後、デザインについてと納期についてメールを交わし、こちらから最後のメールを送る際に。
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……この文章を、付け加えた。
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