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番外編/Bright morning light.
5 ぽかんと口が開いた。(下)
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『…………か、たぎり…?』
しばらくの沈黙ののち、智くんの掠れた声がスピーカーから響いていく。ひどく驚いている、というのが伝わってくるその声色。それはそうだろう。だって彼はカナさんに連絡を取ろうとしていたのだろうし、その電話を俺が取るなんて、彼にとっては想定外の何物でもない。
「カナさん、運転中。だから俺が出ただけ。で、何の用?」
この場所から遠い日本の地で混乱しているであろう智くんに向かって、少しばかり突き放すように声をあげた。けれども彼は、俺の短い説明で自分を取り戻すことなど出来なかったらしい。その後も……何とも言えない沈黙が続いていく。
「用が無いなら切るよ?」
はぁっとため息をつきながら呆れたような声色で言葉を放っていく。彼が自分を取り戻せていないのはたくさんの感情が綯い交ぜになったまま放った、先ほどの俺の説明の仕方が悪かった所為なのだろうけれど。……今の俺には、自分の非を素直に受け入れる余裕なんてものはあるわけも無かった。
もわん、と。音もなく広がっていく、胸の中に浮かんだ黒い靄。
彼が知香ちゃんしか見ていないことも、俺は理解しているのに。それでも、……彼はカナさんの元部下。約10年、カナさんの近くにいた人間。俺が知らないカナさんを知っている、人間。
俺の心が恐ろしく狭いこと、それに加えて性格が歪んでいることなど、とうの昔から自覚している。
智くんに、カナさんに。双方にその気がなくても。彼らの間には長い時間を経て築かれてきた上司と部下という特別な絆がある。それは春先に中川部長とともに商談に赴いた際にひしひしと肌で感じたことだ。
そんな特別な絆を持つ同士など、繋がらせたくもない。全く意味もない、そして見当違いの、さらに言えば言いがかりに近い嫉妬だとはわかっているけれど。
『ちょっ、おまっ……態度悪ぃな』
「うるさいな。俺、さっきタンザニアに着いたばっかりで眠いの」
焦ったような智くんの声が左の耳元で響いた。その声にも言葉にも、何故だかひどく苛立ちが募って、腹立ち紛れに空いた右手でガシガシと頭を掻いていく。
苛立っている本当の理由は誰にも悟らせたくない。先ほど到着したのは嘘偽りではないし、移動には丸一日かかった。飛行機の中ではあまり寝ることが出来ず、眠さから苛立っている、ということに……今はそういうことに、しておきたかった。
勢いよく投げつけるように放った俺の八つ当たりの言葉に、くすくす、と。運転席から楽し気な笑い声があがった。すっと視線だけを隣に向けると、カナさんはハンドルを握ったまま苦笑したように肩を竦めていた。それはまるで、目の前で兄弟喧嘩が始まった、とでもいうような……そんな仕草。
俺たちふたりに向けられている、慈愛に満ちた空気感。妙に居た堪れなくなる。……己を取り繕う仮面の被り方を思いっきり忘れてしまっているような気がするのは―――気の所為、なんかじゃない気がした。
(いつから……だろう…)
つい1ヶ月前までは、罅割れた仮面ですらも被れていたのに。いつから忘れてしまったのだろうか。そんなことをぼうっと考えながら己を落ち着けるように深く息を吐き出していくと、電話口からも深い吐息が零れ落ちていった。
『無事に着いたのか』
「……」
彼の問いに、こくんと首を縦に振りながら短く声を返した。
「ん」
『……そう、か』
ほっとしたような智くんの返答に、そっと視線を窓の外に向けていく。
彼には……いや、彼と知香ちゃんには、感謝している。彼らはそういうつもりは一切なかっただろうけれど、ずっと時が止まって、道化を演じて生きてきた俺を“人間”に戻してくれたのは、紛れもなく彼らと出会って……カナさんとの縁が繋がったから、だ。
「……喋ってないよね?」
カナさんから渡されたサングラス越しに窓の外を見つめながら、小さく問いかけた。この言葉だけで彼には俺が何を聞きたいのか伝わるだろう。俺と智くんは―――背中合わせの同族だから。
『……ん』
左耳元から聞こえる短い返答。それを聞き届け、そっと胸を撫で下ろした。
知香ちゃんにだけは、俺がタンザニアに移住することを知られたくなかった。在宅捜査を受けている時、担当の刑事さんから……俺が供述した内容は参考人である彼女に話さざるを得ない、と。そのように聞いていたから。
俺があの事件を経て生死の境を彷徨っていたときも、自分の所為でと自責の念を抱いていた彼女のことだ。もしかすると、心優しい彼女は自分の存在自体が片桐さんの人生を捻じ曲げてしまった、と……そういった結論に辿り着いている可能性も有り得た。
俺が嘘の行動を起こしていた真意を知った上で、俺が日本から離れたと知れば。……彼女のその感情に拍車をかけてしまうことは明白だった。そうなれば、そばに居るはずの智くんとの関係が拗れてしまうやもしれない。
どんな些細な出来事でも、少しでも遺恨を残せば後々大きな災いになりかねない。
仕事でも、プライベートでも。悪い芽は……早いうちに摘んだ方が、いいと。相場が決まっているのだ。
彼女にだけは知られたくなかった。カナさんのヘッドハンティングを受ける条件として、『この件を知香ちゃんに報せない』という条件を提示した。カナさんは俺の状況を知るために智くんにコンタクトを取ったと言っていた。知香ちゃんへ情報が渡る可能性が一番高いのは、彼から漏れること。だから、カナさん自らが彼にも口止めをするように。
そうして、生粋の人誑しである知香ちゃんにどこから情報が漏れるかわからないから……唯一の身内である槻山取締役にも、極東商社内でも話すなと厳命した。
その後は俺が想定した通りに事が運んだ。限られた人間しか俺の行方は知らないはず。その確証を得られたように感じて、ふぅ、と、安堵のため息を零した。
「んで? 用は?」
ずっと仮面を被ったまま接してきていた彼に、今更自分の素を曝け出す、というのはどうしても落ち着かなさを感じる。彼に対して感謝の念は抱いているけれども、嫉妬の感情も持ち合わせているのだ。どう応対していいのかも判断できず、結局、先ほどと同じように突き放すような声色で言葉を投げかけた。
ふたたび、電話口の向こうで大きなため息が聞こえてきた。それは、あの日彼が面会に来てくれた病室で……俺に向かって頭を下げた時と同じような空気感を孕んでいた。
何かの覚悟を決めるかのようなそのため息に、この電話はそんなに大仰な用事なのかと内心小首を傾げていると。
『……池野課長に、指輪を依頼したいと思ってな』
「……」
少しばかり、強張ったような智くんの声。告げられた言葉を噛み砕いて、「あぁ」と納得したような声が漏れ出ていった。
彼とは同族だからこそ、思考回路がほぼ同じだからこそ。深く説明されずとも、智くんが何を言いたいのか、カナさんに何の用だったのかが瞬時に掴めた。左耳に当てたスマホを少しだけ外し、顔を運転席の上司に向けた。
「カナさん。邨上さんから依頼。一瀬さんに指輪を贈るから、ダイヤの選定から加工までをお願いしたい、だそうです」
智くんのこの用件は、カナさんにとってビジネスに値する。ならば、今、この瞬間だけは俺も……プライベートではなく助手として彼女と接するべきだろう。そう判断して自分の中の黒い感情を切り離し、敢えて智くんや知香ちゃんの名前の呼び方も、彼女に向ける口調も、何もかもを変えて。淡々とカナさんに智くんの用件を伝えた。
一般的に婚約指輪のルースとして選ばれるダイヤモンド。その中でも「最高の品質」と謳われているのがタンザニアからほど近いボツワナのジュワネング鉱山にて採掘される原石だ。恐らく智くんはその最高品質のものを手に入れたいと考えて、カナさんに商談を持ち掛けたのだろう。
運転席に座る彼女が立ち上げているのは、総合商社。『食品から機械まで』何でも取り扱っていく予定らしい。今はマスターの店に納めるコーヒー豆とこれまでの伝手を使った加工食品の商売をしているそうだけれど、ゆくゆくは幅広い分野の商売をやっていくつもりなのだ、と……そう、聞いている。智くんから持ち掛けられたこの商売。宝石類の取り扱いにも手を付けていく良いきっかけになるはずだ。
『あ、いや。ダイヤじゃない方がいい』
「ん?」
少し離したスマホから、張り上げたような声が聞こえた。ダイヤモンドじゃない方がいい、という彼の真意は同族であれどもさすがに読めやしない。けれども、顧客の要望だ。先ほど伝えた内容に淡々と訂正をかけていく。
「カナさん、訂正。ダイヤじゃない方がいいそうです」
真っ直ぐに進行方向を向いたままの彼女の表情は、いつの間にか真剣なそれに切り替わっていた。
「……この時期に依頼ってことは、納期はクリスマスの少し前までってことかしら。確か一瀬さんのお誕生日ってそのあたりだったわよね?」
その言葉だけで、カナさんは智くんからの依頼を受けるつもりなのだと察した。記憶の中から年明けに手に入れた情報をざっと掘り起こし、カナさんへ返答する。
「うん。クリスマスの日が彼女の誕生日」
知香ちゃんの誕生日は把握済みだ。智くんのことを調べたあの時に、彼女の基本的な情報も集めていたのだから。
(……それにしても…)
カナさんの声色も身に纏う雰囲気も。先ほど俺たちの会話の行方をじっと見守っていた穏やかな雰囲気とは全く違う。俺が三井商社に赴いた時に見た、自分自身に確固たる芯を持っていると一眼でわかる真剣な表情。気高いとも表現できるような、凛とした姿。
俺と智くんは同族だから、お互いに何を考えているのかがある程度わかるけれど。彼女はそうではないはずなのに、俺の説明の中の点と点だけから汲み取った顧客のニーズ把握の速さには舌を巻いてしまう。
その上、今の時期に婚約指輪の選定を依頼された、ということから即座に言及されていない納期までをも弾き出した。改めてカナさんの『腕』を見せつけられているように感じる。思わず、ほぅ、と心の中で感嘆のため息が漏れでていった。
きちんとしたビジネスを軸にして、叶えたい夢があるのだ、と。あの病院の屋上で、琥珀色の瞳を細めながら楽し気に彼女は口にしていた。黒人が多く住むアフリカではアパルトヘイトから脱したものの劣悪な労働条件下で働いている人たちは多い。貧困の輪から脱するために、先進国とも渡り合えるビジネス環境を整える。それが……タンザニアに移住してきたカナさんの夢。搾取されている貧困層の人たちを手助けしたい、と。そう話していた。
俺は……一時期、アウトローな世界に身を置いていたから。富豪と言われる富裕層の世界も見てきたし、貧困層の世界も見てきた。それでも心は何も動かなかった。ただただ、愛した人がいない世界を生き抜くために、淡々と任務を遂行しているに過ぎなかった。
けれども、彼女は違った。世界を飛び回り、自分とはかけ離れた価値観の世界に触れて、そして自分の成し遂げたいことを見つけた。
「貧富の差があるのは仕方ない。経済活動が根幹である人間だもの。けれどもそれを笠にして富裕層が貧しい者を蹂躙するのは違う。かといって、富裕層が無差別に施すのは以ての外。……私は、誰も置き去りにしない世界を作りたい。綺麗事だけれど、誰もが隣に立って笑い合える世界を作りたい。みんなみんな、スポットライトを浴びるべきだと思っているの」
嬉しそうに、それでいてはにかんだように夢を語る彼女は、眩しかった。眩しくて、それでいて、美しくて。その隣に立ちたい、と。素直にそう思った。
そんなことを考えつつ、ぼうっと彼女の真剣な横顔を見つめていると。口紅を纏わずとも妖艶な赤い唇が、楽しそうに弧を描いた。
そうして、上司から飛ばされた突拍子もない指示に。ぽかんと口が開いた。
しばらくの沈黙ののち、智くんの掠れた声がスピーカーから響いていく。ひどく驚いている、というのが伝わってくるその声色。それはそうだろう。だって彼はカナさんに連絡を取ろうとしていたのだろうし、その電話を俺が取るなんて、彼にとっては想定外の何物でもない。
「カナさん、運転中。だから俺が出ただけ。で、何の用?」
この場所から遠い日本の地で混乱しているであろう智くんに向かって、少しばかり突き放すように声をあげた。けれども彼は、俺の短い説明で自分を取り戻すことなど出来なかったらしい。その後も……何とも言えない沈黙が続いていく。
「用が無いなら切るよ?」
はぁっとため息をつきながら呆れたような声色で言葉を放っていく。彼が自分を取り戻せていないのはたくさんの感情が綯い交ぜになったまま放った、先ほどの俺の説明の仕方が悪かった所為なのだろうけれど。……今の俺には、自分の非を素直に受け入れる余裕なんてものはあるわけも無かった。
もわん、と。音もなく広がっていく、胸の中に浮かんだ黒い靄。
彼が知香ちゃんしか見ていないことも、俺は理解しているのに。それでも、……彼はカナさんの元部下。約10年、カナさんの近くにいた人間。俺が知らないカナさんを知っている、人間。
俺の心が恐ろしく狭いこと、それに加えて性格が歪んでいることなど、とうの昔から自覚している。
智くんに、カナさんに。双方にその気がなくても。彼らの間には長い時間を経て築かれてきた上司と部下という特別な絆がある。それは春先に中川部長とともに商談に赴いた際にひしひしと肌で感じたことだ。
そんな特別な絆を持つ同士など、繋がらせたくもない。全く意味もない、そして見当違いの、さらに言えば言いがかりに近い嫉妬だとはわかっているけれど。
『ちょっ、おまっ……態度悪ぃな』
「うるさいな。俺、さっきタンザニアに着いたばっかりで眠いの」
焦ったような智くんの声が左の耳元で響いた。その声にも言葉にも、何故だかひどく苛立ちが募って、腹立ち紛れに空いた右手でガシガシと頭を掻いていく。
苛立っている本当の理由は誰にも悟らせたくない。先ほど到着したのは嘘偽りではないし、移動には丸一日かかった。飛行機の中ではあまり寝ることが出来ず、眠さから苛立っている、ということに……今はそういうことに、しておきたかった。
勢いよく投げつけるように放った俺の八つ当たりの言葉に、くすくす、と。運転席から楽し気な笑い声があがった。すっと視線だけを隣に向けると、カナさんはハンドルを握ったまま苦笑したように肩を竦めていた。それはまるで、目の前で兄弟喧嘩が始まった、とでもいうような……そんな仕草。
俺たちふたりに向けられている、慈愛に満ちた空気感。妙に居た堪れなくなる。……己を取り繕う仮面の被り方を思いっきり忘れてしまっているような気がするのは―――気の所為、なんかじゃない気がした。
(いつから……だろう…)
つい1ヶ月前までは、罅割れた仮面ですらも被れていたのに。いつから忘れてしまったのだろうか。そんなことをぼうっと考えながら己を落ち着けるように深く息を吐き出していくと、電話口からも深い吐息が零れ落ちていった。
『無事に着いたのか』
「……」
彼の問いに、こくんと首を縦に振りながら短く声を返した。
「ん」
『……そう、か』
ほっとしたような智くんの返答に、そっと視線を窓の外に向けていく。
彼には……いや、彼と知香ちゃんには、感謝している。彼らはそういうつもりは一切なかっただろうけれど、ずっと時が止まって、道化を演じて生きてきた俺を“人間”に戻してくれたのは、紛れもなく彼らと出会って……カナさんとの縁が繋がったから、だ。
「……喋ってないよね?」
カナさんから渡されたサングラス越しに窓の外を見つめながら、小さく問いかけた。この言葉だけで彼には俺が何を聞きたいのか伝わるだろう。俺と智くんは―――背中合わせの同族だから。
『……ん』
左耳元から聞こえる短い返答。それを聞き届け、そっと胸を撫で下ろした。
知香ちゃんにだけは、俺がタンザニアに移住することを知られたくなかった。在宅捜査を受けている時、担当の刑事さんから……俺が供述した内容は参考人である彼女に話さざるを得ない、と。そのように聞いていたから。
俺があの事件を経て生死の境を彷徨っていたときも、自分の所為でと自責の念を抱いていた彼女のことだ。もしかすると、心優しい彼女は自分の存在自体が片桐さんの人生を捻じ曲げてしまった、と……そういった結論に辿り着いている可能性も有り得た。
俺が嘘の行動を起こしていた真意を知った上で、俺が日本から離れたと知れば。……彼女のその感情に拍車をかけてしまうことは明白だった。そうなれば、そばに居るはずの智くんとの関係が拗れてしまうやもしれない。
どんな些細な出来事でも、少しでも遺恨を残せば後々大きな災いになりかねない。
仕事でも、プライベートでも。悪い芽は……早いうちに摘んだ方が、いいと。相場が決まっているのだ。
彼女にだけは知られたくなかった。カナさんのヘッドハンティングを受ける条件として、『この件を知香ちゃんに報せない』という条件を提示した。カナさんは俺の状況を知るために智くんにコンタクトを取ったと言っていた。知香ちゃんへ情報が渡る可能性が一番高いのは、彼から漏れること。だから、カナさん自らが彼にも口止めをするように。
そうして、生粋の人誑しである知香ちゃんにどこから情報が漏れるかわからないから……唯一の身内である槻山取締役にも、極東商社内でも話すなと厳命した。
その後は俺が想定した通りに事が運んだ。限られた人間しか俺の行方は知らないはず。その確証を得られたように感じて、ふぅ、と、安堵のため息を零した。
「んで? 用は?」
ずっと仮面を被ったまま接してきていた彼に、今更自分の素を曝け出す、というのはどうしても落ち着かなさを感じる。彼に対して感謝の念は抱いているけれども、嫉妬の感情も持ち合わせているのだ。どう応対していいのかも判断できず、結局、先ほどと同じように突き放すような声色で言葉を投げかけた。
ふたたび、電話口の向こうで大きなため息が聞こえてきた。それは、あの日彼が面会に来てくれた病室で……俺に向かって頭を下げた時と同じような空気感を孕んでいた。
何かの覚悟を決めるかのようなそのため息に、この電話はそんなに大仰な用事なのかと内心小首を傾げていると。
『……池野課長に、指輪を依頼したいと思ってな』
「……」
少しばかり、強張ったような智くんの声。告げられた言葉を噛み砕いて、「あぁ」と納得したような声が漏れ出ていった。
彼とは同族だからこそ、思考回路がほぼ同じだからこそ。深く説明されずとも、智くんが何を言いたいのか、カナさんに何の用だったのかが瞬時に掴めた。左耳に当てたスマホを少しだけ外し、顔を運転席の上司に向けた。
「カナさん。邨上さんから依頼。一瀬さんに指輪を贈るから、ダイヤの選定から加工までをお願いしたい、だそうです」
智くんのこの用件は、カナさんにとってビジネスに値する。ならば、今、この瞬間だけは俺も……プライベートではなく助手として彼女と接するべきだろう。そう判断して自分の中の黒い感情を切り離し、敢えて智くんや知香ちゃんの名前の呼び方も、彼女に向ける口調も、何もかもを変えて。淡々とカナさんに智くんの用件を伝えた。
一般的に婚約指輪のルースとして選ばれるダイヤモンド。その中でも「最高の品質」と謳われているのがタンザニアからほど近いボツワナのジュワネング鉱山にて採掘される原石だ。恐らく智くんはその最高品質のものを手に入れたいと考えて、カナさんに商談を持ち掛けたのだろう。
運転席に座る彼女が立ち上げているのは、総合商社。『食品から機械まで』何でも取り扱っていく予定らしい。今はマスターの店に納めるコーヒー豆とこれまでの伝手を使った加工食品の商売をしているそうだけれど、ゆくゆくは幅広い分野の商売をやっていくつもりなのだ、と……そう、聞いている。智くんから持ち掛けられたこの商売。宝石類の取り扱いにも手を付けていく良いきっかけになるはずだ。
『あ、いや。ダイヤじゃない方がいい』
「ん?」
少し離したスマホから、張り上げたような声が聞こえた。ダイヤモンドじゃない方がいい、という彼の真意は同族であれどもさすがに読めやしない。けれども、顧客の要望だ。先ほど伝えた内容に淡々と訂正をかけていく。
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その言葉だけで、カナさんは智くんからの依頼を受けるつもりなのだと察した。記憶の中から年明けに手に入れた情報をざっと掘り起こし、カナさんへ返答する。
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(……それにしても…)
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俺と智くんは同族だから、お互いに何を考えているのかがある程度わかるけれど。彼女はそうではないはずなのに、俺の説明の中の点と点だけから汲み取った顧客のニーズ把握の速さには舌を巻いてしまう。
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嬉しそうに、それでいてはにかんだように夢を語る彼女は、眩しかった。眩しくて、それでいて、美しくて。その隣に立ちたい、と。素直にそう思った。
そんなことを考えつつ、ぼうっと彼女の真剣な横顔を見つめていると。口紅を纏わずとも妖艶な赤い唇が、楽しそうに弧を描いた。
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