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番外編/Bright morning light.
4 ぽかんと口が開いた。(上)
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飛行機を降りボーディング・ブリッジに足を踏み入れた。左右の窓から差し込む眩しい光に目を焼かれ、思わず空いた左手で目を庇う。前方にあるはずの到着ゲートから肌に吹き付ける、湿気を孕んだ熱い風。
約1日前に飛び発った日本は秋と冬の狭間の季節だったけれど、降り立ったタンザニアは小雨季。半袖に長袖の上着を重ねるという扮装で正解だった。
期待と不安が交錯する中、周囲の人たちに流されるように入国ゲートへと向かう。途中、長袖の上着を脱いで腕にかける。そのポケットから目的の書類を引っ張り出して左手に持った。……今回は事前に日本でタンザニアのシングルビザを取得してきているから、入国手続きも特に支障なく終えるだろう、と。そう思っていたけれど。
(……人、多すぎ…)
下の階の到着ロビーに辿り着くも、かなりの旅行者が到着していた。半ばげんなりしながら入国カードに記入をする。タンザニアは半世紀前までイギリスの植民地だったからか、今も色々な場面でイギリス式の習慣が残っているようで、この入国カードに綴られた英語も漏れなくイギリス式。難なく書き終えた。
記入したばかり入国カードを手に持ち、入国審査の長い行列の最後尾に並んでいく。
(……)
ざわざわとした喧騒の中、並んでいる列の前の人が動けば俺も一歩を踏み出す。周囲から聞こえてくるのは、聞き馴染みのあるイギリス英語と……何を話しているのか全くわからない言語。恐らく後者はこの国の公用語のひとつであるスワヒリ語だろう。
30分以上は並んだだろうか。ようやく俺の順番となりパスポートを窓口に提出するが、かなり長いこと入国審査に時間が掛かっているようだった。
(……不起訴…にはなったけど…)
カナさんが予想したように俺は検察で不起訴処分となったけれど、そもそもそういった『歴』があること自体が入国審査でひっかかっているのだろうか。
不意に心臓がドクドクと不快な速度で鼓動を刻みだす。係の人たちの間で交わされていくスワヒリ語は俺には全く理解できず、あれの影響で入国審査が長いのか、そうでないのかがわからない。つぅ、と、嫌な汗が背筋を滑り降りていった、次の瞬間。
「Let me take your fingerprint at the end. You can go.」
特に何を聞かれる訳でもなく指紋を取り、手渡したパスポートに入国の証印が捺印され、タンザニアに入国出来たことを認識する。
そのことについて根掘り葉掘り聞かれるかもしれない、と覚悟していたから、些か拍子抜けしてしまった。
係の人に促されるままゲートを抜けて荷物受取所に行くと、俺が乗ってきた飛行機に搭載されていた荷物は既にひとつの場所に纏めて置いてあった。俺のトランクを見つけ、それに手を伸ばす。日本からドバイを経由してタンザニアに入国したものの、ロストバゲッジなども起こらず無事に辿り着いていたようで安堵のため息を零す。
手に持ったトランクを転がしつつ、手元の資金を『タンザニア・シリング』に両替して空港の外に出ると、そこは非常に混雑していた。旅行者を待っている現地のドライバーやツアーコンダクターと思しき人たち。ネームプレートを頭上に掲げながら勢いよくアピールしてくるその姿はかなり迫力がある。
俺が降り立った国際空港はタンザニアの実質首都に立地する空港ではあるけれども、設備はとても素朴な印象を受けた。観光地だろうに規模的も比較的小さく感じる。こじんまりとした空港にこの人の山。これから向かうダルエスサラームは大都会らしいという情報の裏付けのようにも感じた。
その人なみを縫うように歩き、ロータリーに出ると。
「はぁい、マサ」
声がする方向に視線を向けると、濃い色のサングラスを手に持ったカナさんが、古そうな日本車の車体に凭れかかって俺に手を振っていた。むわりとした熱い風が吹き抜けるたび、アーモンド色の髪がさらさらと揺れている。1ヶ月ぶりに見る彼女の変わらない穏やかな笑みに、無意識のうちに緊張で強張っていた心が解れていく気がした。
「入国審査にえらく時間がかかっててね。あの件が関係してるのかなってヒヤッとした」
苦笑したように肩を竦めながら言葉を紡ぐと、きょとんとした表情のカナさんが小さく首を傾げた。
「イギリスのパスポートだからじゃない?」
「……あぁ、なるほど」
その言葉に、ストン、と腑に落ちる感覚があった。国籍はイギリスのままで日本に年単位で滞在しており、そしてイギリスに戻ることなくタンザニアに入国、という渡航歴が珍しいものだったのかもしれない。
カナさんが凭れかかっていた身体を起こして車の後部座席を開いた。荷物はここに載せて、という指示だと受け取り、転がしてきたトランクをぐっと持ち上げる。
「……係の会話がスワヒリ語だったから、時間がかかっている理由が全然わからなかったよ」
とすん、と音を立てながらトランクを滑り込ませて苦笑したように言葉を続けると、カナさんがくすくすと楽し気に笑い声を上げた。
「意外と心配性なのね、マサって。私も最初の入国の時はすごく時間がかかったわ。到着から入国審査が終わるまで余裕で1時間はかかったんじゃないかしら」
するりとカナさんが運転席に乗り込んだ。前方に視線を向けると、助手席にはカナさんの鞄が無造作に置いてあった。このままトランクの隙間に入り込むように後部座席に乗り込んだ方がいいのかと逡巡したけれど。
「それ、膝の上に置いておいて。商談の電話かかってきたりするかもしれないし」
カチャン、とシートベルトを締める音とともに投げかけられた言葉で、カナさんの意図を朧気ながらに掴む。病院の屋上で再会した後に詳細を聞いたけれども、カナさんがここで立ち上げているのは日本で言うところの総合商社に近いもの、らしい。個人で運営しているからいつそう言った電話がかかるかわからない、故に今は助手席に座って文字通り助手業務をしてくれ、と……きっとそういうことだ。
素直に後部座席のドアを閉めると、湿った熱風が何も纏っていない腕に触れる。頬を滑り落ちていく汗。首を動かしてそれを半袖のTシャツの襟首で拭い、助手席のドアを開いてカナさんの鞄を膝の上で預かった。
「ん」
不意に、カナさんが小さく声を上げて俺に何かを差し出してくる。目の前に差し出されたカナさんの手にあったのは、先ほどカナさんが目印代わりに頭上で振っていた、濃い色のサングラス。
「……?」
これを鞄に入れておいて、ということだろうか。彼女の行動の思惑が読めず、差し出されたサングラスとカナさんを交互に見遣った。目の前のカナさんは、琥珀色の瞳を細めながらやわらかく微笑んでいる。
「マサ、日光に弱いでしょ。タンザニアの日差し、キツいのよ?」
「……あ…」
俺はいわゆる日英ハーフ。虹彩のメラニン色素が薄く、日本の真夏の太陽の眩しさは堪えるものがあった。このタンザニアはアフリカ大陸に位置しているから、さらに日差しが厳しい。カナさんはそれを気遣ってくれているのだろう。
「……ありがと、カナさん」
目の前に差し出されたサングラスを手に取って耳にかけた。気を抜けば緩みそうになる口元を意識して引き締めていく。
ただただ―――カナさんに気を遣って貰っただけ、なのに。些細な出来事でしかないはずなのに。
心の底から湧きあがってくるような、この温かくてやわらかい感情をどう表現して、なんと名付けたら良いのだろうか。
サングラスを受け取った俺がシートベルトを締めたのを確認したカナさんが、ゆっくりと車を走らせ始めた。広々とした荒野をしばらく走ると、前方に見えてくるのは日本でもよく見ていた高層ビルが乱立している風景。ダルエスサラームの中心部に入ったのだ、と認識する。
「今持ってるビザが切れる前に、入国管理局にクラスBの滞在許可を貰いに行かなきゃね」
「……うん?」
後ろに飛んでいく景色をぼうっと眺めていると、カナさんが運転席から歌うように声を上げた。クラスB、という言葉は俺には聞き馴染みがなく、視線を隣に向けながらもなんとなく曖昧に返答する。
「私の商社で働く従業員、という申請をして、就労ビザを交付して貰うの。2年更新になるから、その方が楽だと思うわ?」
俺がこちらに来る際の飛行機の代金なども経費で落とすつもり、と口にしていた彼女だ。そういったことに関して特に取り決めはしていないけれど、もう既に俺と彼女間で雇用契約は締結済みである、ということの意思表示だろう。
「当面の間、マサにはコーヒー豆の商売について手伝ってもらおうと思っているの。農産の仕事の知識、そのまま活かせるでしょ?」
「……ん、わかった」
こくんと首を縦に振りながら返答し、ふい、と、ふたたび視線を窓の外に向けた。その途端、視界に映り込む景色に目を奪われる。
(交差点……環状交差点になってる)
まさかこのアフリカの地でイギリス発祥の文化を目にすることになるとは夢にも思ってもいなかった。半世紀ほど前までイギリス領だった影響だろうか。この街が大都会、といわれるだけはあるなとぼんやり考えていると、膝の上に置いていたカナさんの鞄の中から鈍い音とともに小刻みに震える振動が太ももに伝わってきた。十中八九、スマホの着信だろう。
「カナさん、電話」
ふい、と運転席に視線を向けて短くそれだけを伝える。きっとカナさんはどこかで路上駐車して鞄を受け取って、電話に出るつもりだろうと思っていたから。真っ直ぐに進行方向を見つめたまま告げられた言葉に意表を突かれた。
「あら。マサ、見てちょうだい」
「……」
思わず、ぱちぱちと目を瞬かせる。身内でも何でもない、まして赤の他人である俺にこうも簡単に自分の鞄の中を触らせるなんて。カナさんが俺に向けている信頼度の高さを遠回しに突き付けられたようで、じんわりと心が綻んでいく……けれど。
(……伝わって、は、ない…はず……)
俺がカナさんに向けている慕情は、……今は未だ、彼女に悟られたくない。俺の周囲にいた人間は、誰一人として。俺のこの感情には、誰一人として気が付いていないはずなのだから。
カナさんが俺に向けているのは―――あくまでもビジネスパートナーとしての信頼。
そんな風に、ただただ、自分に言い聞かせて。少しだけ早鐘を打つ心臓とともに込み上げた感情を一旦押し込め、そっと視線を膝の上に落とした。そのままゆっくりと鞄を開いていく。
カナさんの几帳面な性格が表れているのか、鞄の中は綺麗に整頓されていた。その中でじわりと光を放つスマホを手に取ってディスプレイを確認し、……思わず顔を顰める。
「……智くん」
水を差された。心のどこかで、その言葉が浮かんでは消えていく。
日本を離れた俺が彼とどこかで繋がることなんて、もう無いだろうと思っていたのに。というより、カナさんに何の用だろう。彼女が去った三井商社については、これまで彼ひとりで難なく引っ張ってきただろうに……半年が過ぎようとした今頃になって、彼女に泣き言でも伝えに来たのだろうか。
胸の中に黒い靄が浮かぶのを自覚した。その感情の正体を言葉にするのは、先ほど込み上げた名付けようのない感情とは対照的に造作もなかった。思わず舌打ちしそうになる自分を必死に抑え込む。
彼が―――あの事件の後。俺の状況をカナさんに伝えてくれたからこそ、俺はこうしてカナさんの隣に居られるということも理解している。けれども……俺が知らない間に。こうしてカナさんと連絡を取っていたのかと思うと、心の中に大きな波が立っていくようで。
「邨上? 何の用かしら。その電話、マサが受けてくれない?」
「……は?」
運転席のカナさんから投げかけられた想定外の言葉に。彼女のスマホを手に持ったまま、彼女を二度見した。
「私、運転中でしょ? ほら、助手さん。早く取らないと切れちゃうわ?」
くすくす、と。悪戯っぽく笑う彼女の横顔は、あの―――オフィスビルの前の交差点でライターを返された時のような。カナさんと再会した屋上で、手を伸ばされた時のような。そんな表情で。
どくん、と、心臓が大きく脈を打った。瞬時に、心の中だけで大きく頭を振ってその強い鼓動の感覚を打ち消していく。
『助手さん』と。彼女はそう口にした。確かに、俺は彼女の助手だ。その名目で、俺は彼女にあの屋上でヘッドハンティングされたのだから。
けれども。……助手、という立場に甘んじたくはない、と。そう願っている自分がいることは、もう否定することなんて出来ない。その材料も俺の手元にはない。先ほど胸の中に浮かんだ黒い靄が何よりの証拠なのだから。
執拗いほど震えているスマホを前に、心の中で小さくため息を零した。
自分でも、ひどく矛盾している、とは思う。彼女に密かな恋慕を寄せていることを、彼女に悟られたくはない。けれど、助手という立場のままではいたくない。
(……やっぱり、俺は欲張り…なんだね~ぇ…)
俺はずっとずっと、欲張っていた。欲張って、悲しみを抱えすぎていた。タンザニアに来て……カナさんが病院の屋上で言ってくれたように。欲張りだった俺の人生を、やり直そう、と。ふたたびゼロから始めよう、と……そう、思っていたのに。
欲張りな俺の根本は―――何ひとつ。変わってなど、いなくて。
胸の中に去来するたくさんの感情。変われない自分に対する、苛立ち。穏やかだった時間を相容れない男に邪魔されたことも……癪に障る。
けれども。カナさんのそばにいるために―――今は投げられたこの助手業務を、遂行しなければ。
ぎゅっと唇を結び、緩やかな動作でディスプレイに表示されている『応答』のボタンを静かにタップする。ゆっくりと左耳にスマホを当て、すっと空気を吸い込んだ。
「………なに? 智くん」
思ったよりも不機嫌な声が己の喉から転がり落ちていく。電話の向こう側で―――ひゅっと息を飲む音がした。
約1日前に飛び発った日本は秋と冬の狭間の季節だったけれど、降り立ったタンザニアは小雨季。半袖に長袖の上着を重ねるという扮装で正解だった。
期待と不安が交錯する中、周囲の人たちに流されるように入国ゲートへと向かう。途中、長袖の上着を脱いで腕にかける。そのポケットから目的の書類を引っ張り出して左手に持った。……今回は事前に日本でタンザニアのシングルビザを取得してきているから、入国手続きも特に支障なく終えるだろう、と。そう思っていたけれど。
(……人、多すぎ…)
下の階の到着ロビーに辿り着くも、かなりの旅行者が到着していた。半ばげんなりしながら入国カードに記入をする。タンザニアは半世紀前までイギリスの植民地だったからか、今も色々な場面でイギリス式の習慣が残っているようで、この入国カードに綴られた英語も漏れなくイギリス式。難なく書き終えた。
記入したばかり入国カードを手に持ち、入国審査の長い行列の最後尾に並んでいく。
(……)
ざわざわとした喧騒の中、並んでいる列の前の人が動けば俺も一歩を踏み出す。周囲から聞こえてくるのは、聞き馴染みのあるイギリス英語と……何を話しているのか全くわからない言語。恐らく後者はこの国の公用語のひとつであるスワヒリ語だろう。
30分以上は並んだだろうか。ようやく俺の順番となりパスポートを窓口に提出するが、かなり長いこと入国審査に時間が掛かっているようだった。
(……不起訴…にはなったけど…)
カナさんが予想したように俺は検察で不起訴処分となったけれど、そもそもそういった『歴』があること自体が入国審査でひっかかっているのだろうか。
不意に心臓がドクドクと不快な速度で鼓動を刻みだす。係の人たちの間で交わされていくスワヒリ語は俺には全く理解できず、あれの影響で入国審査が長いのか、そうでないのかがわからない。つぅ、と、嫌な汗が背筋を滑り降りていった、次の瞬間。
「Let me take your fingerprint at the end. You can go.」
特に何を聞かれる訳でもなく指紋を取り、手渡したパスポートに入国の証印が捺印され、タンザニアに入国出来たことを認識する。
そのことについて根掘り葉掘り聞かれるかもしれない、と覚悟していたから、些か拍子抜けしてしまった。
係の人に促されるままゲートを抜けて荷物受取所に行くと、俺が乗ってきた飛行機に搭載されていた荷物は既にひとつの場所に纏めて置いてあった。俺のトランクを見つけ、それに手を伸ばす。日本からドバイを経由してタンザニアに入国したものの、ロストバゲッジなども起こらず無事に辿り着いていたようで安堵のため息を零す。
手に持ったトランクを転がしつつ、手元の資金を『タンザニア・シリング』に両替して空港の外に出ると、そこは非常に混雑していた。旅行者を待っている現地のドライバーやツアーコンダクターと思しき人たち。ネームプレートを頭上に掲げながら勢いよくアピールしてくるその姿はかなり迫力がある。
俺が降り立った国際空港はタンザニアの実質首都に立地する空港ではあるけれども、設備はとても素朴な印象を受けた。観光地だろうに規模的も比較的小さく感じる。こじんまりとした空港にこの人の山。これから向かうダルエスサラームは大都会らしいという情報の裏付けのようにも感じた。
その人なみを縫うように歩き、ロータリーに出ると。
「はぁい、マサ」
声がする方向に視線を向けると、濃い色のサングラスを手に持ったカナさんが、古そうな日本車の車体に凭れかかって俺に手を振っていた。むわりとした熱い風が吹き抜けるたび、アーモンド色の髪がさらさらと揺れている。1ヶ月ぶりに見る彼女の変わらない穏やかな笑みに、無意識のうちに緊張で強張っていた心が解れていく気がした。
「入国審査にえらく時間がかかっててね。あの件が関係してるのかなってヒヤッとした」
苦笑したように肩を竦めながら言葉を紡ぐと、きょとんとした表情のカナさんが小さく首を傾げた。
「イギリスのパスポートだからじゃない?」
「……あぁ、なるほど」
その言葉に、ストン、と腑に落ちる感覚があった。国籍はイギリスのままで日本に年単位で滞在しており、そしてイギリスに戻ることなくタンザニアに入国、という渡航歴が珍しいものだったのかもしれない。
カナさんが凭れかかっていた身体を起こして車の後部座席を開いた。荷物はここに載せて、という指示だと受け取り、転がしてきたトランクをぐっと持ち上げる。
「……係の会話がスワヒリ語だったから、時間がかかっている理由が全然わからなかったよ」
とすん、と音を立てながらトランクを滑り込ませて苦笑したように言葉を続けると、カナさんがくすくすと楽し気に笑い声を上げた。
「意外と心配性なのね、マサって。私も最初の入国の時はすごく時間がかかったわ。到着から入国審査が終わるまで余裕で1時間はかかったんじゃないかしら」
するりとカナさんが運転席に乗り込んだ。前方に視線を向けると、助手席にはカナさんの鞄が無造作に置いてあった。このままトランクの隙間に入り込むように後部座席に乗り込んだ方がいいのかと逡巡したけれど。
「それ、膝の上に置いておいて。商談の電話かかってきたりするかもしれないし」
カチャン、とシートベルトを締める音とともに投げかけられた言葉で、カナさんの意図を朧気ながらに掴む。病院の屋上で再会した後に詳細を聞いたけれども、カナさんがここで立ち上げているのは日本で言うところの総合商社に近いもの、らしい。個人で運営しているからいつそう言った電話がかかるかわからない、故に今は助手席に座って文字通り助手業務をしてくれ、と……きっとそういうことだ。
素直に後部座席のドアを閉めると、湿った熱風が何も纏っていない腕に触れる。頬を滑り落ちていく汗。首を動かしてそれを半袖のTシャツの襟首で拭い、助手席のドアを開いてカナさんの鞄を膝の上で預かった。
「ん」
不意に、カナさんが小さく声を上げて俺に何かを差し出してくる。目の前に差し出されたカナさんの手にあったのは、先ほどカナさんが目印代わりに頭上で振っていた、濃い色のサングラス。
「……?」
これを鞄に入れておいて、ということだろうか。彼女の行動の思惑が読めず、差し出されたサングラスとカナさんを交互に見遣った。目の前のカナさんは、琥珀色の瞳を細めながらやわらかく微笑んでいる。
「マサ、日光に弱いでしょ。タンザニアの日差し、キツいのよ?」
「……あ…」
俺はいわゆる日英ハーフ。虹彩のメラニン色素が薄く、日本の真夏の太陽の眩しさは堪えるものがあった。このタンザニアはアフリカ大陸に位置しているから、さらに日差しが厳しい。カナさんはそれを気遣ってくれているのだろう。
「……ありがと、カナさん」
目の前に差し出されたサングラスを手に取って耳にかけた。気を抜けば緩みそうになる口元を意識して引き締めていく。
ただただ―――カナさんに気を遣って貰っただけ、なのに。些細な出来事でしかないはずなのに。
心の底から湧きあがってくるような、この温かくてやわらかい感情をどう表現して、なんと名付けたら良いのだろうか。
サングラスを受け取った俺がシートベルトを締めたのを確認したカナさんが、ゆっくりと車を走らせ始めた。広々とした荒野をしばらく走ると、前方に見えてくるのは日本でもよく見ていた高層ビルが乱立している風景。ダルエスサラームの中心部に入ったのだ、と認識する。
「今持ってるビザが切れる前に、入国管理局にクラスBの滞在許可を貰いに行かなきゃね」
「……うん?」
後ろに飛んでいく景色をぼうっと眺めていると、カナさんが運転席から歌うように声を上げた。クラスB、という言葉は俺には聞き馴染みがなく、視線を隣に向けながらもなんとなく曖昧に返答する。
「私の商社で働く従業員、という申請をして、就労ビザを交付して貰うの。2年更新になるから、その方が楽だと思うわ?」
俺がこちらに来る際の飛行機の代金なども経費で落とすつもり、と口にしていた彼女だ。そういったことに関して特に取り決めはしていないけれど、もう既に俺と彼女間で雇用契約は締結済みである、ということの意思表示だろう。
「当面の間、マサにはコーヒー豆の商売について手伝ってもらおうと思っているの。農産の仕事の知識、そのまま活かせるでしょ?」
「……ん、わかった」
こくんと首を縦に振りながら返答し、ふい、と、ふたたび視線を窓の外に向けた。その途端、視界に映り込む景色に目を奪われる。
(交差点……環状交差点になってる)
まさかこのアフリカの地でイギリス発祥の文化を目にすることになるとは夢にも思ってもいなかった。半世紀ほど前までイギリス領だった影響だろうか。この街が大都会、といわれるだけはあるなとぼんやり考えていると、膝の上に置いていたカナさんの鞄の中から鈍い音とともに小刻みに震える振動が太ももに伝わってきた。十中八九、スマホの着信だろう。
「カナさん、電話」
ふい、と運転席に視線を向けて短くそれだけを伝える。きっとカナさんはどこかで路上駐車して鞄を受け取って、電話に出るつもりだろうと思っていたから。真っ直ぐに進行方向を見つめたまま告げられた言葉に意表を突かれた。
「あら。マサ、見てちょうだい」
「……」
思わず、ぱちぱちと目を瞬かせる。身内でも何でもない、まして赤の他人である俺にこうも簡単に自分の鞄の中を触らせるなんて。カナさんが俺に向けている信頼度の高さを遠回しに突き付けられたようで、じんわりと心が綻んでいく……けれど。
(……伝わって、は、ない…はず……)
俺がカナさんに向けている慕情は、……今は未だ、彼女に悟られたくない。俺の周囲にいた人間は、誰一人として。俺のこの感情には、誰一人として気が付いていないはずなのだから。
カナさんが俺に向けているのは―――あくまでもビジネスパートナーとしての信頼。
そんな風に、ただただ、自分に言い聞かせて。少しだけ早鐘を打つ心臓とともに込み上げた感情を一旦押し込め、そっと視線を膝の上に落とした。そのままゆっくりと鞄を開いていく。
カナさんの几帳面な性格が表れているのか、鞄の中は綺麗に整頓されていた。その中でじわりと光を放つスマホを手に取ってディスプレイを確認し、……思わず顔を顰める。
「……智くん」
水を差された。心のどこかで、その言葉が浮かんでは消えていく。
日本を離れた俺が彼とどこかで繋がることなんて、もう無いだろうと思っていたのに。というより、カナさんに何の用だろう。彼女が去った三井商社については、これまで彼ひとりで難なく引っ張ってきただろうに……半年が過ぎようとした今頃になって、彼女に泣き言でも伝えに来たのだろうか。
胸の中に黒い靄が浮かぶのを自覚した。その感情の正体を言葉にするのは、先ほど込み上げた名付けようのない感情とは対照的に造作もなかった。思わず舌打ちしそうになる自分を必死に抑え込む。
彼が―――あの事件の後。俺の状況をカナさんに伝えてくれたからこそ、俺はこうしてカナさんの隣に居られるということも理解している。けれども……俺が知らない間に。こうしてカナさんと連絡を取っていたのかと思うと、心の中に大きな波が立っていくようで。
「邨上? 何の用かしら。その電話、マサが受けてくれない?」
「……は?」
運転席のカナさんから投げかけられた想定外の言葉に。彼女のスマホを手に持ったまま、彼女を二度見した。
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くすくす、と。悪戯っぽく笑う彼女の横顔は、あの―――オフィスビルの前の交差点でライターを返された時のような。カナさんと再会した屋上で、手を伸ばされた時のような。そんな表情で。
どくん、と、心臓が大きく脈を打った。瞬時に、心の中だけで大きく頭を振ってその強い鼓動の感覚を打ち消していく。
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けれども。……助手、という立場に甘んじたくはない、と。そう願っている自分がいることは、もう否定することなんて出来ない。その材料も俺の手元にはない。先ほど胸の中に浮かんだ黒い靄が何よりの証拠なのだから。
執拗いほど震えているスマホを前に、心の中で小さくため息を零した。
自分でも、ひどく矛盾している、とは思う。彼女に密かな恋慕を寄せていることを、彼女に悟られたくはない。けれど、助手という立場のままではいたくない。
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欲張りな俺の根本は―――何ひとつ。変わってなど、いなくて。
胸の中に去来するたくさんの感情。変われない自分に対する、苛立ち。穏やかだった時間を相容れない男に邪魔されたことも……癪に障る。
けれども。カナさんのそばにいるために―――今は投げられたこの助手業務を、遂行しなければ。
ぎゅっと唇を結び、緩やかな動作でディスプレイに表示されている『応答』のボタンを静かにタップする。ゆっくりと左耳にスマホを当て、すっと空気を吸い込んだ。
「………なに? 智くん」
思ったよりも不機嫌な声が己の喉から転がり落ちていく。電話の向こう側で―――ひゅっと息を飲む音がした。
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