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番外編/Bright morning light.
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「世界から選べばいい! 池野課長が興した総合商社、あの人の伝手だったら何だっていけんだろ!」
ニヤリ、と、心底愉しげに口の端をつり上げた浅田の表情を呆然と見つめていると、あの事件の直後にかかってきた電話の様子が脳内で鮮明に再生されていく。
片桐の意識が戻った数日後。唐突に社用のスマホに未登録の電話番号から着信があった。あの時の俺も、この席に座ったまま報道対応のための外線電話を取っておりその電話を取ることが出来なかった。知らない番号からの着信に首を捻りながらも折り返す形となり。
『ねぇ邨上。ちょっと教えて欲しいことがあるの』
楽しげで、それでいて少し不満げな声がスピーカーから響いた。声の主は名乗ることさえしなかったが、数秒ののちに電話の相手が誰なのかを悟り、呼吸が止まった。驚きのあまり、ひゅう、と引き攣れた音が自分の喉から飛び出ていく。
それは―――あの時。俺が『部長 兼 課長』という役職に昇進したあの日の夜に。この企画開発部のブースの照明を落とす時に聞こえた幻聴の、声の主。それでも今は、幻聴でも何でも無かった。
「……い、けの…か、ちょう……?」
『あら。私、もう課長じゃないわよ?』
くすくす、と、楽しげな笑い声が耳朶をくすぐっていく。
瞬時に数多の疑問が脳内を駆け巡った。今、この人は何処にいるのか。別れさえ告げずに去っていった彼女が、何故今のタイミングで俺にコンタクトを取りにきたのか。脳内に浮かんでは言葉にすら出来ず消えていく疑問たち。
想起し得ないタイミングで混乱の渦中に巻き込まれ、俺はスマホを左耳にあてたまま何も言葉を紡ぎ出せずにいた。動揺を隠しきれず、椅子に沈み込んだまま硬直している俺に構うことなく、電話口の彼女が……先ほどの楽しげな声色とは対照的に、無機質な声色で言葉を続けていく。
『野暮用で今朝日本に帰ってきたの。……まさか黒川がこんな事件を引き起こすなんて想像もしてなかったわ。後始末で色々と大変な時期にごめんなさいね』
「……」
電話口からカサカサと紙が擦れる音がした。その音で、彼女は今、あの事件のことが書かれた新聞記事か何かを手元に持っているのだろう、と察する。数ヶ月ぶりに聞く声にひどく混乱した頭を落ち着かせようと、深く息を吸い込んで脳に酸素を送る。そして、目を伏せながらゆっくりと口を開いた。
「……池野課長がこれまで護ってきた三井商社の名前に泥を塗ってしまったのは私の責任です。黒川が何かを起こすかもしれない、という予感のようなものはありました。警察にも相談しましたが、周囲の協力を得るのは憚られて……結局ひとりで抱え込んでしまっていたので」
この人は、俺に全てを託していった。あの日に……彼女が俺たちに別れさえ告げずに姿を消し、マスターに八つ当たりのような電話をした、あの時。マスターは彼女の想いを代弁してくれていた。
俺は彼女の想いを踏み躙ってしまったも同然だ。黒川の不正を暴いた際、この人は即刻関係各所に謝罪行脚に飛び回った。三井商社を護るために。
俺がもっと上手く立ち回ることが出来ていれば、三井商社の名前をこういった不名誉な形で世間に晒すこともなかった。それだけが、ずっと……あの事件があった日から、ずっと。嵐の海に生まれた渦潮のように、ぐるぐると俺を苛んでいる。
込み上げてきた自分への悔しさとやるせなさを堪えて、テーブルの上に無造作に置いていた拳をぐっと握り締めた。
三井商社を護ってきた彼女から託された期待に応えることが出来なかった。彼女が口にした『教えて欲しいこと』とは、俺が上手く立ち回れなかったことに対する弁明について……そして、彼女の大切な存在である知香を危険に晒したことについて、なのだろうと思う。その弁明の後、以前険しい表情で『人間関係は鏡』と窘められた時と同様に……叱責される、と。直感でそう思った。
電話口の向こうから盛大なため息が聞こえてくる。思わず幼い子どもが親に怒られる直前のように、ぐっと目を瞑り視界を遮断した。
『……根が真面目な邨上のことだから、そう考えているだろうとは思っていたわ。けれど、今回に関してはあなたの過失はゼロに等しい』
「……」
何を言われたのか。一瞬、よく理解できなかった。思わず瞑った目を見開く。
『邨上が悪いわけじゃない。悪いのは犯罪に手を染めた黒川本人。そしてその罪を背負うのも黒川本人よ」
「で、すが……」
彼女の言葉を否定するように紡ぎだした言葉は、俺の意に反して掠れていた。
下手を打ったのは、紛れもなく俺でしかない。警察に相談に行ったものの証拠は揃えられず、警察を動かせるような法的根拠さえ何一つ提示出来なかった。あの相談をきっかけにこの周辺のパトカーの巡回が増え、手詰まりになった黒川が―――あの日に、あのホテルに乗り込んだ。だから俺が相談に行った際にきちんと証拠を提示出来ていれば、こんな最悪の事態にはならなかったはずなのだ。
この結果に繋がったのは、すべては―――俺の責任、だというのに。
電話口の向こうで、不意に。くすり、と笑う声がした。
『男の人って、本当に悲しみに関しては欲張りよねぇ』
「は……?」
思わず呆けたような声が、自分の喉から上がった。ぽかん、と口が開いている間にも、電話口からは楽し気な笑い声が漏れてきている。
『いいえ、こちらの話よ』
軽やかに言葉を発していく彼女の声。先ほどから、何が何だかさっぱり理解が出来ない。そんな俺を遠くに置いたまま、くすくす、と。ひとしきり笑い終えた彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
『もし邨上が本当に悪かったのなら、それ相応の社会的な処罰を受けているはずなの。……あなたは自分の落ち度を過大に考え過ぎているだけよ』
幼い子どもを宥めすかすように。穏やかで、それでいて強い意思を孕んだ声色で紡がれたその言葉。
『邨上が悪いわけじゃない。悪いのは黒川ひとりだけ。営業課の人間もあなたが悪いとは思っていない。これは断言できる。だって私の元部下だもの。私は事件の後始末を必死に頑張っている人間に理不尽に責任を擦り付けるような、そんな薄情な部下達を持った覚えはないわよ?』
目の前に彼女はいないのに。俺の目の前の予備デスクに腰かけた彼女が、デスクに頬杖をついてアーモンド色の髪を揺らしながら。琥珀色の瞳にあたたかい光を宿して……柔和に微笑んでいるように、思えた。
『本当、頑張ってるわね、邨上。やっぱり私の後をあなたに託してよかったわ』
その一言に、胸の奥がズンと痛んだ。鼻の奥がツンとして、世界がゆっくりと歪んでいく。
批難される、と思っていた。その時に証拠を提示出来なかったお前のせいだ、と。俺がこの事態を招いたのだ、と。だから俺は批難されるべきだし、どんな謗りも受け入れなければ、と。……そう思っていた。
自宅に帰っても、知香は俺を責めない。黒川に刃物を向けられ、明確な殺意を突きつけられ、死が迫る恐怖を味わったというのに。まして―――他人の生命の灯火が、目の前で消えてしまいそうな瞬間に立ち会ってしまった、というのに。
営業課の人間も、俺を誰一人として責めない。不名誉な形で社名が晒され、商談の場でも取引先から質問攻めにあったりしているという報告を受けているのに。
誰ひとりとして、俺を責めたりはしなかった。だからこそ……だからこそ、俺の中に渦巻く呵責の念を加速させていた。
けれど―――彼女は。頑張っている、と。迷いなく、そう言い切ってくれた。歴史のバトンが手渡された当人からの、たったその一言だけで。胸の中に渦巻く黒いしこりが、ほろほろと霧散していくような気がした。
『欲張って悲しみを抱えたままだと、一瀬さんと過ごす些細な日常も幸せだと感じられなくなるわよ? もうそろそろ、自分を赦してあげなさいね』
その声に、その言葉に。スマホを耳元に当てたたまま、くしゃりと顔が歪む。泣きたいのか、笑いたいのか、そのどちらでもないのか、自分でも全くわからない。
込み上げてくる感情を制御できず、小さく感謝の言葉を紡ぎ出そうとした、刹那。穏やかな声色が、第一声のような楽し気な声色に瞬時に切り替わった。
『それはさておき、ここからが本題。極東商社の片桐さん。私、彼に用事があって帰国したの』
「は……?」
唐突に投げかけられた言葉に俺の眦に生まれた涙は一瞬で引っ込み、ふたたび素っ頓狂な声が漏れ出ていく。
『アポ取ろうと思って農産販売部に電話をかけたら休職中って言われてびっくりしちゃったのよ。彼がどの病院に入院しているのかを知りたいの。邨上なら知っているわよね?』
池野課長が、片桐に……用事。つい先ほど……野暮用で今朝帰国した、と彼女は口にしていたが、その内容がそれだとは夢にも思っていなかった。というより、何故……彼女が片桐に用事があるのか、全く理解が出来ない。
『あぁ、でもこの記事、傷害で捜査中って書いてあるわね。じゃ、今は面会謝絶中ってこと?』
すっと低くなった声色とともに、電話口からカサカサと紙が擦れるような音がしている。投げかけられた問いから俺も目を通した今朝の朝刊の記事が彼女の手元にあるのだろう、と、混乱した思考回路とは遠く別の場所で理解が及ぶ。
以前と変わらず、洞察力に富んだ人物だ。新聞記事に目を通しただけで、生死の境を彷徨い意識を取り戻した片桐が、今現在、警察の捜査によって面会謝絶ということまで汲み取った。……だが。
「……す、みません、私には、全く話が見えないのですが」
電話口の彼女は、話題を切り替える際に『本題』と口にした。その言葉で彼女が俺にコンタクトを取りに来た理由は窺い知ることが出来た。けれども、その『目的』に関しては話が一切見えてこない。思わず目を瞑り、空いた右手で深い皺が寄った眉間を揉んでいく。
そもそも、この人は今どこで生活しているのだろうか。帰国した、ということは、生活拠点は日本の外である、ということと同意義だ。
彼女は遠い異国の地で、貧しい国に生きる人々を支援する活動をしていた両親の―――あの大規模テロを発端とした戦争で亡くなった、彼らの遺志を継いだ何かを興そうとしているのだろう、と。彼女が三井商社を去ったあの時にそう予想はしていた、けれども。
『私ね。タンザニアで総合商社を興したの。まぁ、法人として認められる規模ではないし、今はコーヒーと加工食品しか取り扱っていないけれど。これから他の分野にも色々と手を広げていくつもりなの』
「…………」
タンザニア。アフリカ大陸に位置する、共和制国家。法律上の首都はドドマで、実際の中心都市は確かダルエスサラームだったか、と、真っ暗な視界の中でそれに思い至った瞬間。
年始に知香を初めてマスターに対面させたあの日の―――マスターの言葉が脳裏に蘇って。ゆっくりと瞠目した。
『今年はタンザニアに伝手が出来るはずだから、多少は強気に買い付け出来ると思うぜ』
あの会話を交わした時から。この池野兄妹から……俺は、ずっと。ヒントを与えられていたのだ、と。そう察して、ふっと全身から力が抜けていく。
このペガサス兄妹には、昔からずっと翻弄されっぱなしだ。ふたりともいつだって自由奔放で、何物にも束縛されない。強い信念の元、心の赴くままに行動を起こしていく―――規格外の人間だ。
電話口から零れ落ちて楽し気に踊る単語たちは、更に俺の思考回路を搔き乱していく。
『でね? 私、その商社に片桐さんをヘッドハンティングしようと思って帰国したの』
「…………は…?」
俺の元上司は。以前と全く変わらず―――俺の理解の範疇を超えたひと、だった。
ニヤリ、と、心底愉しげに口の端をつり上げた浅田の表情を呆然と見つめていると、あの事件の直後にかかってきた電話の様子が脳内で鮮明に再生されていく。
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『ねぇ邨上。ちょっと教えて欲しいことがあるの』
楽しげで、それでいて少し不満げな声がスピーカーから響いた。声の主は名乗ることさえしなかったが、数秒ののちに電話の相手が誰なのかを悟り、呼吸が止まった。驚きのあまり、ひゅう、と引き攣れた音が自分の喉から飛び出ていく。
それは―――あの時。俺が『部長 兼 課長』という役職に昇進したあの日の夜に。この企画開発部のブースの照明を落とす時に聞こえた幻聴の、声の主。それでも今は、幻聴でも何でも無かった。
「……い、けの…か、ちょう……?」
『あら。私、もう課長じゃないわよ?』
くすくす、と、楽しげな笑い声が耳朶をくすぐっていく。
瞬時に数多の疑問が脳内を駆け巡った。今、この人は何処にいるのか。別れさえ告げずに去っていった彼女が、何故今のタイミングで俺にコンタクトを取りにきたのか。脳内に浮かんでは言葉にすら出来ず消えていく疑問たち。
想起し得ないタイミングで混乱の渦中に巻き込まれ、俺はスマホを左耳にあてたまま何も言葉を紡ぎ出せずにいた。動揺を隠しきれず、椅子に沈み込んだまま硬直している俺に構うことなく、電話口の彼女が……先ほどの楽しげな声色とは対照的に、無機質な声色で言葉を続けていく。
『野暮用で今朝日本に帰ってきたの。……まさか黒川がこんな事件を引き起こすなんて想像もしてなかったわ。後始末で色々と大変な時期にごめんなさいね』
「……」
電話口からカサカサと紙が擦れる音がした。その音で、彼女は今、あの事件のことが書かれた新聞記事か何かを手元に持っているのだろう、と察する。数ヶ月ぶりに聞く声にひどく混乱した頭を落ち着かせようと、深く息を吸い込んで脳に酸素を送る。そして、目を伏せながらゆっくりと口を開いた。
「……池野課長がこれまで護ってきた三井商社の名前に泥を塗ってしまったのは私の責任です。黒川が何かを起こすかもしれない、という予感のようなものはありました。警察にも相談しましたが、周囲の協力を得るのは憚られて……結局ひとりで抱え込んでしまっていたので」
この人は、俺に全てを託していった。あの日に……彼女が俺たちに別れさえ告げずに姿を消し、マスターに八つ当たりのような電話をした、あの時。マスターは彼女の想いを代弁してくれていた。
俺は彼女の想いを踏み躙ってしまったも同然だ。黒川の不正を暴いた際、この人は即刻関係各所に謝罪行脚に飛び回った。三井商社を護るために。
俺がもっと上手く立ち回ることが出来ていれば、三井商社の名前をこういった不名誉な形で世間に晒すこともなかった。それだけが、ずっと……あの事件があった日から、ずっと。嵐の海に生まれた渦潮のように、ぐるぐると俺を苛んでいる。
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何を言われたのか。一瞬、よく理解できなかった。思わず瞑った目を見開く。
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「で、すが……」
彼女の言葉を否定するように紡ぎだした言葉は、俺の意に反して掠れていた。
下手を打ったのは、紛れもなく俺でしかない。警察に相談に行ったものの証拠は揃えられず、警察を動かせるような法的根拠さえ何一つ提示出来なかった。あの相談をきっかけにこの周辺のパトカーの巡回が増え、手詰まりになった黒川が―――あの日に、あのホテルに乗り込んだ。だから俺が相談に行った際にきちんと証拠を提示出来ていれば、こんな最悪の事態にはならなかったはずなのだ。
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電話口の向こうで、不意に。くすり、と笑う声がした。
『男の人って、本当に悲しみに関しては欲張りよねぇ』
「は……?」
思わず呆けたような声が、自分の喉から上がった。ぽかん、と口が開いている間にも、電話口からは楽し気な笑い声が漏れてきている。
『いいえ、こちらの話よ』
軽やかに言葉を発していく彼女の声。先ほどから、何が何だかさっぱり理解が出来ない。そんな俺を遠くに置いたまま、くすくす、と。ひとしきり笑い終えた彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
『もし邨上が本当に悪かったのなら、それ相応の社会的な処罰を受けているはずなの。……あなたは自分の落ち度を過大に考え過ぎているだけよ』
幼い子どもを宥めすかすように。穏やかで、それでいて強い意思を孕んだ声色で紡がれたその言葉。
『邨上が悪いわけじゃない。悪いのは黒川ひとりだけ。営業課の人間もあなたが悪いとは思っていない。これは断言できる。だって私の元部下だもの。私は事件の後始末を必死に頑張っている人間に理不尽に責任を擦り付けるような、そんな薄情な部下達を持った覚えはないわよ?』
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その一言に、胸の奥がズンと痛んだ。鼻の奥がツンとして、世界がゆっくりと歪んでいく。
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自宅に帰っても、知香は俺を責めない。黒川に刃物を向けられ、明確な殺意を突きつけられ、死が迫る恐怖を味わったというのに。まして―――他人の生命の灯火が、目の前で消えてしまいそうな瞬間に立ち会ってしまった、というのに。
営業課の人間も、俺を誰一人として責めない。不名誉な形で社名が晒され、商談の場でも取引先から質問攻めにあったりしているという報告を受けているのに。
誰ひとりとして、俺を責めたりはしなかった。だからこそ……だからこそ、俺の中に渦巻く呵責の念を加速させていた。
けれど―――彼女は。頑張っている、と。迷いなく、そう言い切ってくれた。歴史のバトンが手渡された当人からの、たったその一言だけで。胸の中に渦巻く黒いしこりが、ほろほろと霧散していくような気がした。
『欲張って悲しみを抱えたままだと、一瀬さんと過ごす些細な日常も幸せだと感じられなくなるわよ? もうそろそろ、自分を赦してあげなさいね』
その声に、その言葉に。スマホを耳元に当てたたまま、くしゃりと顔が歪む。泣きたいのか、笑いたいのか、そのどちらでもないのか、自分でも全くわからない。
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『それはさておき、ここからが本題。極東商社の片桐さん。私、彼に用事があって帰国したの』
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