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挿話

The night is long that never finds the day.

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「ねぇ、マサ。ちょっと遠回りして帰りましょう?」

「……は?」

 カナさんの赤い唇から転がってきた想定外の言葉に。紙袋を両手に抱えたまま、ぽかんと口が開いた。俺の少し前を歩くカナさんが俺を振り返って、アーモンド色の髪がふわりと翻っていく。

「ほら、早くしないと間に合わなくなっちゃうわよ?」

 くすくす、と。楽しそうに笑って。カナさんが俺の腕を、思いっきり引っ張った。

「ちょっ……商談のスケジュールは!?」

 自分の喉から悲鳴のような声が響いた。カナさんが俺の腕を引っ張ったから、ふわり、と。タンザニア特有の熱い風が俺の頬を撫でていく。

 遠回りして帰ろう、だなんて。今日は夕方から夜にかけて商談のスケジュールが詰まってるの、と、昼食後に手帳を見ながら困ったような表情をしていたのはカナさん自身だろう。だから今から買い物に付き合って、と、言ってきたのもカナさん本人で。

「そんなのあとから考えたらいいのよ~」

 カナさんが俺の腕を掴んだまま、勢いよく走りだした。驚きで硬直していた身体がつんのめるように動く。

 こうなってしまえば、カナさんは頑として自分の意思を貫き通す。そうして、いつも。病院の屋上で「不起訴になると思う」と、俺の憂患を笑い飛ばした時と同じように。あの時と同じように、「ほら、なんとかなったじゃない」と、カラっと笑うのだ。それは俺がカナさんのサポートしているからなんとかなっているだけ、と、懇切丁寧に説明したところで、それらは右から左に聞き流されていく。

 あの病院の屋上でカナさんにヘッドハンティングされ日本からタンザニアに移住して4ヶ月。カナさんと仕事でもプライベートでも日々を共にするようになって、たった4ヶ月しか経っていない。

 あの時、彼女の背中にペガサスのような大きな羽根が見えたような気がしたけれども。それは、本当に見間違いなんかじゃなくて。



 カナさんは―――どこまでも、ペガサスなひとだ。

 この4ヶ月。、それを経験した。



「~~~~っ、あぁもう!商談!どうなっても知らないですからね!」

 こうやって、俺が思いっきり大声を出して怒ったって。彼女は全てを、笑って受け流していくのだ。

「マサったら、怒りっぽいんだから。モテるスマートなマサはどこにいっちゃったの?」

 整備されていないでこぼこ道を走り抜けながらも、カナさんは、なんのことはない、という風に。悪戯っぽく琥珀色の瞳を細めて、視線を後ろの俺に向けながら言葉を紡いでいく。

 ふわふわと。左右に揺れ動く、アーモンド色の髪。一向に走る速度が落ちないカナさんに半ば引っ張られていくように俺も道を走っていく。

 俺はあの時に大怪我を負い入院していたから、体力も筋力も大幅に落ちた。歩くだけでも息切れがしていたあの頃だけれど、カナさんに再会した翌週に、カナさんの紹介でリハビリに強い病院に転院し、必死にリハビリをした。

 俺自身も驚いたけれど、あの病院のリハビリプログラムは本当に素晴らしく、1ヶ月もしないうちに退院できた。あの時に腱が傷ついて動かせなくなっていた左腕も、違和感はあるけれども日常生活に差し障りのない程度まで動かせるようになっていた。そうして、カナさんが口にした通り。俺は―――不起訴に、なった。

 そのあとは従兄叔父に手伝って貰いながら身辺整理をしたのちにタンザニアに移住した。こちらに来てからも軍隊時代の訓練を思い出しつつ身体を適度に動かし、今は以前と同じくらいの生活が出来ている。

 南半球に位置するタンザニアの2月は、1年で最も暑い時期だ。カナさんが身に纏っている真っ白な綿の服。それが大きく揺らめいている。カナさんは女性にしては走る速度がいつだって早い。華奢な身体を弾ませて走る彼女の後を追っていると、心臓がドクドクと跳ねて汗がじっとりと滲み出ていく。

 タンザニアに来て、カナさんの助手をするようになってから、本当に忙しくて。いや、ペガサスな彼女がいつだって突拍子もないことをしでかしていくから、それの後始末が大変なだけだけれども。結果的に俺は髪が切れずにいて、伸びっぱなし。カナさんのヘアゴムを借りてとりあえずひとくくりに纏めている髪が、走る速度に合わせて俺の後頭部で揺れ動いているのが伝わってくる。

 カナさんに腕を引かれて走ること、5分ほど。開けた小高い丘に出て、カナさんが急に立ち止まった。こんなところで止まるなんて聞いていないから、俺はカナさんよりも少し先まで走ってしまった。

 俺たちのふたりの荒い呼吸が周囲に響く中―――カナさんが、空を指差して。とびっきりの笑顔を俺に向けた。

「ほら。綺麗でしょう?」

 カナさんの頬を、汗が伝っていく。艶っぽいその光景に思わず呼吸が止まるけれど。カナさんが指差す先に、ふい、と……視線を向けると。

「…………」



 そこには。青とも、藍色とも、紺色とも。紫とも、藤色とも、葡萄色とも言えない……荘厳で、圧巻の景色があった。

 タンザニアの、夜。深く、深く……群青色に染まっていく、空。

 あまりの光景に、言葉を失う。



 それはまるで。智くんの依頼で探した、知香ちゃんへ贈る婚約指輪用のルースの……あの1.225カラットのタンザナイトに凝縮された濃密な煌めきが、パンっと弾けて目の前に広がった、ような。そんな夜の始まり、だった。


 くすくす、と。カナさんが声を上げて笑った。目の前の景色から、ゆっくりと彼女に視線を向けると。

「マサ、今日誕生日だったでしょ?だから今日どうしてもこの景色を見せたかったの」

 今日?……今日、は。

「……あ…」

 2月、18日。……俺の、誕生日。


 自分の誕生日なんて、この10年すっかり忘れ去っていた。だって、俺の時間は―――Maisieを失ったあの瞬間から、ずっとずっと……止まって、いたから。

 だから、誕生日をこうして祝ってもらえるなんて、本当に久しぶりの、こと、で。


「マサ、お誕生日おめでとう。33歳だっけ?まだまだこれからじゃない」


 目の前には。あの時のような。

 オフィスビルの前の交差点でライターを返された時のような。
 あの、カナさんと再会した屋上で、手を伸ばされた時のような。

 そんな悪戯っぽい笑みが―――目の前に、あって。


 込み上げてくる何かを抑えられなくて。
 ポロポロと、涙が落ちていく。


「もう、マサったら、泣き虫よねぇ。ほーら、これからまた商談よ?」

 カナさんが困ったように笑いながら、俺の目の前まで歩いてくる。そうして、ゆっくりと腕を伸ばして、俺の眦にカナさんの指が触れて。零れ落ちていく涙を、優しく拭ってくれている。彼女の華奢な手のその温かさが、何故だか余計に俺の涙を加速させていく。

「う、うるさいなぁ……いつもカナさんが泣かせてるんでしょ?」


 タンザニアに移住してから。泣くことが多くなった。

 それもこれも、カナさんのせい。

 彼女が、―――いつだってペガサスな彼女が。
 こうして突拍子もないことをやってのけて、驚かせて。
 俺をいつだって泣かせるから。


「あら?私のせいじゃないわよ~?マサが泣き虫なだけ」

 くすくす、と。カナさんが楽しそうに笑う。

 紙袋を抱えたままの俺の腕に彼女の腕が絡まってくる。そうして、ゆっくりと。走って登ってきた道を、隣り合って歩きながら、ゆっくりと歩いて下っていく。


「ね?たまには、遠回りもいいでしょ?」


 カナさんが、ふわり、と。柔和な笑みを浮かべながら、俺を見上げていた。

 俺は、子どものようにしゃくり上げながら、止め処なく零れ落ちる涙を拭って。

「うん……」

 彼女の問いかけに、小さく頷いた。



 遠回り、した。随分と、遠回りさせられた。
 ここまでくるのに、些細な幸せを幸せだと感じられるまでに、随分と遠回りをした気がする。

 毎日夜は訪れる。
 けれど、その夜は。
 漆黒の夜ばかりではない、ということと。

 ……The night is long that never finds the day.、ということと。


 俺のそばにある―――些細な幸せを、噛み締めながら。


 ふたりで、ゆっくりと。走って登ってきた丘を、ゆっくりと歩いていった。









「ほら、商談。なんとかなったじゃない?」

 ふふふ、と。赤い唇が弧を描いて、そこから楽しげな笑い声が上がり、ゆっくりと自宅の玄関が開かれていく。その声に思わずじと目になる。

「……ん~…」

 彼女の背中を追って玄関に滑りこみ、俺は不満気な声を上げながら鍵をおろして玄関先に置いている予備の自家発電機の調子を確認する。

 タンザニアは日本と違い、ライフラインが整備されているのは事実上の首都であるダルエスサラームのような開発された主要都市だけ。俺たちが住んでいる地区は開発途上の街で、電気もガスも全く安定していない。停電なんてしょっちゅう。

 タンザニアはスワヒリ語と英語が公用語。タンザニアには約130の民族があってそれぞれが固有の言語を持っており、それを繋ぐのがスワヒリ語。こちらの人々は義務教育である初等教育でスワヒリ語を学ぶけれど、英語は義務教育ではない中等教育で学び始める。だから都市部では英語でのコミュニケーションは取れるけれども、タンザナイトの採掘を行なっている現地の人々との会話はスワヒリ語のことが多い。移住してきてから真っ先に取り組んだのはスワヒリ語の勉強だった。

 カナさんが立ち上げている商社。法人として認められる規模ではなく細々とした仕事しか舞い込んで来ないけれども、タンザナイトを巡る普段の商談では英語とスワヒリ語を交えた会話が繰り広げられていく。俺は元から英語も話せるし習得が難しいと言われる日本語も話せた。よってスワヒリ語の習得も可能だろう、という判断の元にカナさんが俺に目を付けていたのは至極当然の流れだったと思う。

 それに、タンザニアは1961年の独立までイギリスの植民地だった。今も色々な場面でイギリス式の習慣が残っていて、英語の綴り方や日付の書式もイギリス式。これまで全く接点のなかった土地への移住だったけれど、何の問題もなく生活出来ている。もちろん、カナさんが準備してくれていた土台ありきのことだけれども。

(……ほんっとに、カナさんはいつだって俺を振り回してくれるよね~ぇ…)

 商談の前に買い物に行った紙袋から食品や生活用品などを棚に仕舞いながら心の中で毒付いていく。

 丘を下りていったあとの商談、それからセミナーの打ち合わせでも一瞬ヒヤッとした。

 彼女は5年前に人生観を変える出来事があって単身でアフリカ旅行をしたときに、タンザナイトを採掘する現地のひとにかけられた言葉に救われたらしく、彼らを愛し、彼らにとことん尽くしていく。

 彼らから原石を高くで買って、自己犠牲とも言えるほど利幅のない金額で売り払う。と同時に、きちんとした商売のノウハウを伝授するためのセミナーを無料で開いている。

 黒人が多く住むアフリカではアパルトヘイトから脱したものの劣悪な労働条件下で働いている人たちは多い。特に世界的に需要があるコーヒー産業と宝石採掘産業に携わるひとたちはそれが顕著だ。

 貧困の輪から脱するために、先進国とも渡り合えるビジネス環境を整える。それが……タンザニアに移住してきたカナさんの夢。

 今日はそのセミナーの打ち合わせも兼ねていたのだけれど、ここでも自分の時間の全てを犠牲にしようとするカナさんの発言が飛び出し、流石にそのスケジュールは『俺が』身体を壊すから辞めてくれと止めた。本当は『カナさんが』身体を壊すと言いたいのだけれど、彼女は自分のことには呆れるほど無頓着だからこういうときは敢えて俺がと言い張っている。

(ん~。明日の予定をズラさないとセミナーの準備が遅れちゃうねぇ……)

 脳内で明日以降のスケジュールを組み替えつつ生活用品を仕舞った棚を閉じると、カナさんがリビングの向こう側のベッドにダイブしたままスマホを弄って何気なく声を上げていた。

「あ、マサ?クラスBの滞在許可降りたらしいから、明日入国管理局に行ってきてね」

「……ん、わかった」

 明日の予定が増えた。目の前の現実に左手で額を抑えながらも淡々と返答をする。

 今の俺は一般査証ビザで滞在していることになっている。カナさんが立ち上げた商社で働く従業員、という申請をして、就労クラスBの滞在許可証……と言っても2年毎更新だけれども、それを発行してもらうようにしていたのだ。優先順位としては入国管理局に行くこと、が一番高い。

 そんなことを考えながら、今日の商談に関する資料やその他の資料をリビングのダイニングテーブルに書類を広げて椅子に座り込み整理していると、気がつけばその奥のベッドから規則的な寝息が聞こえて来ていた。

「…………」

 ふい、と視線を向けると。カナさんが掛け布団代わりのタオルケットの上にダイブしたまま、無防備な寝顔をこちらに向けて。スマホを手に持って……すぅすぅと寝入っていた。

(……ほんっとにペガサス…)

 思わず眉間に皺を寄せながら、ペンを持っていない左手でふたたび額を押さえてそっと椅子から立ち上がる。商談の後は大抵今後についてお互いに意見を話し合うのだけれど、今日はあの丘にも行ったし、夕方から立て続けに商談だったからカナさんも疲れたのだろう、とは思うけれど。

(…………)

 予備のタオルケットを取り出して彼女が横になっているベッドに歩み寄り、手に持ったタオルケットを彼女にそっと掛けた。そのままそっと、ベッドではなく床に腰を下ろし胡座をかいて、彼女の寝顔を見つめる。

 日本にいた時とは全く違い、化粧っ気のないカナさん。軽く日焼け止めを塗るくらいで、こちらに移住してきてからはほとんど素っぴんらしい。それでもなお肌はきめ細やかで、本当に俺よりも8歳上の40代なのかと思うくらいだ。

 そっと手を伸ばして、艶のあるアーモンド色の髪に指を差し入れる。


(…………夢、みたいだね~ぇ…)


 本当に、夢のような日々だ。今日のように、突拍子もない彼女に振り回される日々だけれども。それでも……本当に、幸福に満ち溢れた時間が過ぎていく。

 月が雲に隠れて進むべき道が見えなくなってしまって、その夜の中で迷子になっても。太陽のような眩しい光とともに、カナさんが俺のことを絶対に迎えに来てくれる。そんな確信めいた何かを抱けるような、そんな倖せな日々だ。

 ゆっくりと、彼女の髪を撫でるように。そっと手を動かすと、その動作に少しだけカナさんの身体が揺れて―――ゆるり、と。琥珀色の瞳と視線が絡まった。

 彼女は知香ちゃんと同じか知香ちゃんより少し背が高いくらい。だから、食事の時にダイニングテーブルを挟んで座っていても、こうして視線が真っ直ぐに同じ高さで絡み合うことなんて、なくて。一瞬、息が止まった。

「ねぇ、マサ。私、欲しいものがあるの」

 赤い唇が、ゆっくりと。それでもはっきりと動いた。琥珀色の瞳が、同じ高さで俺を真っ直ぐに見つめている。

 今日は俺の誕生日だというのに。普通は欲しいものを貰う側なのでは。というより、欲しいものがあったのならば、お昼に出た買い物の時に言ってくれたら良かったのに。

(…………ま、ペガサスな彼女のことだから、欲しくなったものなのかもしれないけどね~ぇ…)

 そこまで考えて、横になったままの彼女の髪をゆっくりと撫でながら。苦笑したように言葉を紡ぐ。

「……ん、なに?もう遅い時間だから今からは買いには行けないけど、」


「マサの苗字」


 俺の言葉を遮るように放たれた、真っ直ぐで、それでいて妖艶な言葉。何を言われたのか、全くわからなかった。

「……………は?」

 思わず、ぽかん、と。先ほど、買い物をした帰り道に、遠回りして帰ろうと言われた時のように。ぽかん、と口が開いた。

 琥珀色の瞳が。ゆっくりと、優しげに細められる。

「私、マサの苗字が欲しいの。ダメかしら?」

 その言葉が。何を意味するのか、なんて。それが理解できないほど人生経験がないわけでも、なく、て。


 俺の一方通行の想いだと思っていた。カナさんは俺に対してそういう感情を今まで全く見せなかったから。腕を組んだり、頬に触られたりするけれど、あれは姉と弟、のような、そんな感覚なのだ、と……そう思っていた。
 プライベートでも同じ時間を過ごしているのは、その方が仕事の効率がいいから。ただ、それだけなのだ、と。そう、思っていた。

 ペガサスな彼女が考えることなんて、俺にとっては、全部全部規格外で。いつだって振り回されていて。

 彼女の真意なんて―――一度も、読めたことがなくて。


 じわり、と。世界が歪む。あの時のように。彼女が、病院の屋上で俺に手を伸ばした時のように。彼女の輪郭が、滲んでいく。

「もう、マサったら、また泣いている。今日は泣き虫に輪がかかっているんじゃないかしら」

 くすくす、と。彼女がやわらかく笑って、ベッドに横になったまま俺の頬に手を伸ばした。

 夢のような日々だ、と。ついさっき、そう思ったばかりだというのに。その上をいく幸福のひかりが、目の前に、あって。


 あぁ。ペガサスのような彼女に振り回される日々も―――悪くは、ない。


「………ん。あげる。俺の、苗字…」

 頬に触れている彼女の手に、自分の手をゆっくりと添えて。歪む視界のまま、震える声で返答した。

「……マサ」

 そうして、そっと。彼女が俺の名前を呼んで。彼女がゆっくりと、身体を俺の方に寄せて。




 今まで一度も触れたことが無かった、赤い唇が。

 そっと……俺の唇に、重ねられた。









◆ ◆ ◆


 これにて完結となります。

 落ち着きましたら、番外編や外伝を更新していく予定です。時期等は近況ボード等でお知らせ致します。

 長い間、お付き合いくださりありがとうございました。
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