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終章

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 ずうっと光が沈まない、街。その街の中心にある歓楽街を通り抜け、郊外に出る。ちょうど1年前も訪れた雰囲気のある洋館のそばに、ゆっくりと車が停車した。

「行こう」

 運転席の智がシートベルトを外しながらこちらを向いて、ふわりと笑って私に降りるように促した。

「……ん」

 これから何が起こるのか。これから、智に何を言われるのか。私は想像がついている。



 だって。今日は―――智が口にしていた、の日。私の誕生日12月25日、なのだから。



 智のその手にエスコートされるように、洋館前のエントランスに向かって歩いていく。見えてきた漆黒の正面玄関。そのそばに立っているドアマンが、私たちに緩やかに微笑みかけた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 ドアマンがやたら恭しく礼をしてドアを開いた。

「コートをお預かりします」

 ドアが開かれた先に待機していたコンシェルジュさんがそう口にしながら手を伸ばしてくる。その言葉に従い、昨年と同じように羽織っていたコートを預けた。

「こちらでございます」

 そうして、そのコンシェルジュさんは踵を返し、私たちを先導していく。

 ロビー正面の広い大きな階段を上り、昨年と違い左の回廊を歩いていく。昨年は右の回廊を歩いたなぁ、と、歩いてきた回廊の後ろを振り返ると、先導するコンシェルジュさんがゆっくりと奥の扉を開いていく音が耳に届いた。

「……わ………」

 開かれた個室。目の前に広がるのは、白いテーブルクロスが引かれた晩餐テーブルの上に赤い薔薇をメインに活けられたテーブルフラワー。その周辺には小さなキャンドル。ガラス製のころんとしたキャンドルホルダーからテーブルに差し込んでいる光が揺らめいている。

(……、っていう…雰囲気)

 鼓動が早くなっていく。食事の後に告げられる言葉への返答は、決まりきっているけれども。いざ、そんな場面が訪れるのだ、と思うと……やっぱり、緊張はする。

(…………ううん、笑顔笑顔。いつだって泣いてきた私だから、今日は笑顔で)

 絢子さんが智の前に現れた時も、付き合ってくださいと言われた時も、すれ違いをした時も、別れようと嘘をつかれた時も。

 ホワイトデーの時も、片桐さんに暗示をかけられてしまったあの時も、黒川さんに拐かされそうになった私を迎えに来てくれたあの時も、………あの事件があった時も。いつだって、私は泣いてきた。


 だから、今日は―――笑顔で。


 そんな風に自分に言い聞かせていると、智が私の手を離していく。昨年と同じように、コンシェルジュに椅子を引かれて智の正面の席に着いた。

 席に着くと乾杯用のシャンパンが注がれ、食事が運ばれてくる。智は運転してきたからか、乾杯のグラスを交わした後シャンパンには口をつけなかったけれども。

 ゆっくりと一品一品運ばれてくる食事は、昨年と同じくフレンチのフルコース。

「仕事、どうだった?年末で忙しかったろう」

 智が肉料理アントレの鴨肉のソテーにナイフを入れながら、何でもないように声を上げた。昨年の肉料理は仔牛のフィレステーキだったな、とぼんやり思い出しつつ、その声に、私も何でもないように返答していく。

「うん、お正月前だし、税関も閉まるから……通関依頼立て込んでて。でも、三木ちゃんや加藤さんが手伝ってくれたから定時で上がれたの」

 昨年の私の誕生日は日曜日だった。でも、今年は月曜日。平日だったからもしかしたら残業になるかもしれない、と思っていたけれど。

「先輩、今日はお誕生日ですから。ほら、帰って帰って」

「そうですよ主任、今日くらいは定時で上がってください」

 ……と。三木ちゃんと加藤さんはそれぞれ整った顔に満面の笑みを浮かべて、終業間際に私の手から全ての書類を奪い去っていったのだ。

 三木ちゃんは、浅田さんの再従兄弟。浅田さんは智の親友。

 加藤さんは藤宮くんと恋人関係。藤宮くんは智の部下。


 きっと、あのふたりは智の手回しを受けている。
 いわゆる、、だろうな……とは、思っている。


 他愛のない会話を意識しながら、それでもなんとなく言いようのない時間が過ぎていく。

 フルコースも終盤となり、デセールとコーヒーが提供される。デセールはふわりとした食感のクリームが口の中で溶けていくような、ブッシュドノエルだった。その絶妙なクリームがコーヒーとのマリアージュを生み出していて、感嘆のため息が溢れる。

 私がコーヒーを飲み終えてカタリとコーヒーカップを備え付けのソーサーに置くと、不意に智がテーブルを立って、ふわりと私に手を伸ばした。

「……知香」

 ダークブラウンの瞳が、私をじっと見つめている。

「………」

 私は緊張する身体を落ちつかせるように。息を長く長く吐いて。ゆっくりと席を立って、目の前に伸ばされた手を取った。









 昨年と同じように、隣の部屋に移動する。昨年はリビングのような空間だったけれど、目の前の空間には暖炉があって、そこに灯された炎がゆらゆらと揺らめいている。

 暖炉の前には硝子天板のローテーブル。そうして、黒い革張りの二人がけのソファ。天井から下がっているアイアン製のシャンデリア。テーブルの上には……冷えた炭酸水と、ふたつのグラス。

 智のエスコートを受けながら、ゆっくりと。革張りのソファに沈み込んだ。

「……知香?」

 智が私の名前を囁きながら、私の隣に沈み込んでいく。そうして、少しだけバツが悪そうな表情をして、私から視線を外した。

「今日は絶対にこうしてここに来たかったから。ちょっと……色々と手回しをさせてもらった」

「……やっぱり」

 予想通り、あの子達はグルだった。口の先を尖らせながら不満気にじとっとした視線で目の前の智を見つめる。

「藤宮にも頼んだし、あと、小林にも」

「えっ、小林くん?」

 予想外の人物の名前が飛び出てきて、驚きのあまり素っ頓狂な声が漏れ出ていく。私の声に智は困ったように吐息を吐き出して。ゆっくりと、私に視線を合わせてくれる。

「ん。三木に伝えてくれって。浅田にも頼んだんだが、浅田は三木の実家の連絡先しか知らねぇってことだったから。俺はあの時、小林の連絡先を知ったからな」

「……あ…」

 あの時。それは、片桐さんに暗示をかけられた時、のことだろう。あの夜、小林くんが智に連絡をつけてくれたから、智はあの店に辿り着けた。

 だから、小林くんに連絡を取って……三木ちゃんに伝えて欲しい、とお願いしたのだろう。

(……ほんと…色んな人に支えられてる…)

 合格率15%以下の難関資格である通関士の資格を取れたこと。あれもたくさんの人の協力があってのことだった。今も……こうして、たくさんの人が協力してくれている。



 ただただ。智と、視線が絡み合っている。言葉にならない想いが溢れてくる。



 これから智の口から紡がれていくであろう、幸福の言葉。返事は、ひとつしかないけれど。ここまでくるまでに、とても長い時間がかかったような気がする。


 するり、と。智が、私の目の前に……木製の小さな四角い箱を差し出した。ゆっくりと、それが開かれていく。


 眼前に映るのは、黒いベルベットの布の上に浮かぶ……青とも、藍色とも、紺色とも。紫とも、藤色とも、葡萄色とも言えない。


 そんな大粒の煌めきを湛えた……白金プラチナの指輪、だった。


「……き、れい…」

 びっくり、した。去年、平山さんに捨てられる前に。あの人と一緒に指輪を見に行った時、ダイヤモンドって本当に綺麗だなと心の底から思った。

 けれど……その上をいく、美しさが。美しい、だけの一言で表せられないような複雑で濃密な煌めきが、目の前にあった。その美しさに目を奪われて、智の手元から視線が外せない。

「……やっぱり、こういうシーンだから。ダイヤモンドにしようと、思っていたんだ。けど、よく考えたら知香は去年元カレと指輪を選びに行っていたろう?だから、同じ物は贈りたくなくてな…」

 智が震える声で言葉を紡いでいく。そうして―――智の、薄い唇から。衝撃的な言葉が飛び出してきた。


「これはな?に手伝ってもらって、用意したんだ」


 日本語のはずなのに。目の前から降ってきた言葉が、全く理解ができなかった。

「……!?」

 弾かれたように顔を上げる。目の前には、泣きそうで、それでいて嬉しそうな……ダークブラウンの、瞳があった。

「………この宝石は。知香の誕生日が属する、12月の誕生石。……タンザナイト、っていうんだ。タンザニアの一角の……ほんの一部の鉱脈。斜面幅2km、長さ4kmの範囲でしか採掘されない。だから絶対的な流通量が少ない、ダイヤモンドよりも希少性がある宝石」

「え……?」

 智はゆっくりと。震える声のまま、言葉を続けていく。

「池野課長。いや、もう課長じゃねぇか。……加奈子さんは三井商社うちを退職して、タンザニアに移住しているんだ。そうして、タンザニアで貧しい暮らしをしている人たちを助ける事業を興している。その中のひとつが、このタンザナイトの売買をする小さな商社」

 言いようのない感情を湛えて揺れ動くダークブラウンの瞳が……私を、真っ直ぐに貫いている。

「貧しい暮らしをしている人たちにきちんとした商売のプロセスを伝授する。そうすることで貧困の輪から脱していく、というのを目標にしているのだそうだ。………片桐は、加奈子さんのパートナーとしてそれを手伝っている」

「え……ぇ、ちょっと、待って…?」

 思いもよらない人物たちの名前から始まった、智の流れるような説明。情報量が多過ぎてひどく混乱している。混乱のあまり、思わず智の説明を遮ってしまった。

 そんな私の様子に、智は思いっきり苦笑し、それでも言葉を続けていく。

「話は遡るんだが、あの事件があったろう?その時、加奈子さんは片桐をヘッドハンティングしに帰国していたんだ。新部門のことで片桐が三井商社うちに商談に来ていたことがあったんだが、その時から片桐に目をつけていた、と。で、片桐は加奈子さんのその話に乗った、ということらしい。俺もそのタイミングで加奈子さんの居場所とやっている事を知った」

「………」

 思いもよらない事実に、私は言葉がひとつも出てこない。そんな私に、智はふっと口の端をつり上げて愉し気に笑みを浮かべた。

「ちなみにだが、片桐が加奈子さんに振り回されてたぞ。まぁ、彼女は元からペガサスみたいな人だったからな。俺も大概振り回されたが、その分尻拭いもしてもらってた。商談……もとい相談の電話口では、加奈子さんの突拍子もない提案の後ろから片桐の焦ったような叫び声ばかり聞こえてきていたぞ?」

 事態が飲み込めず固まっている私に、智は愉しそうな笑みを優しい笑みを変えて言葉を続けていく。

「……タンザナイトはその名が示すとおり、キリマンジャロの夕暮れ時の空を映し出したような複雑な色をしている。見る角度や光源によって青色や紫色が強くなるんだそうだ。炎のような光の下では……こうして、高貴な紫色に」

 智は手元の小さな箱を暖炉の灯りに翳した。すると、手元の大粒の煌めきがアメジストを連想させるような紫色に変化していく。

「太陽のような自然光の下では、透明感に満ちた美しい群青色。……こうして、人工の光の下では澄んだ青色に輝く変化も見られる」

 その言葉を紡いで、智はポケットからスマホを取り出し背面のライトを起動させ、手元の箱を照らす。今度は、サファイアのような強くて深い蒼の煌めきが眼前に現れた。

「な?まさに……タンザニアの宝石なんだ」

 紡がれた言葉に、小さく息を飲んだ。タンザニア、なんて、行ったこともないけれど。

 タンザニアの夜の、深まっていく美しい景色が。大粒の煌めきに凝縮された……圧巻の風景が。目の前にあるような、気が、して。

 智は、ふうわりと。やわらかい笑みを浮かべていく。

「加奈子さん曰く、俺が選んだルースのように、濃くて色の変化も強いものは比喩でも何でもなくかなり希少なんだそうだ。こんな風に言うのもなんだが、ぶっちゃけると、この指輪、俺の給料3ヶ月分くらいはある」

 そうして、今度は困ったように整えられた眉を下げ、切長の瞳を細めていく。

「さらに言えば。このタンザナイトは、1.225カラット。知香の誕生日である、12月25日の数字に拘って探したんだ。……片桐に文句つけられた、注文が細かすぎるって」

 智は困ったような笑みを浮かべながら、小さく吐息を吐き出した。

 そうして、手元の箱を硝子天板のテーブルに置いて、私の両手を、ゆっくりと握った。熱くて、大きくて、……心から愛している人の、手。

「タンザナイトの石言葉。……『誇り高き人』。知香は……俺の、誇りだ」

 ぎゅう、と。握られた手の力が、強くなる。

「……知香。改めて、誕生日おめでとう。そして、前置きが長くなってしまってすまない」

 熱く、燃えるような情熱を持ったダークブラウンの瞳に、真っ直ぐに貫かれる。




「俺の全てを、知香に捧げると誓う。一緒に幸せになろう。………俺と、結婚してください」




 夢、じゃないかと思った。でも、夢ではない、と言うことを、私は知っていた。




 湧き上がってくる、数多の想いを堪えきれなかった。


 智と付き合って、私は泣くことが多くなった。だからこんな時くらい、笑顔で是の返答をしたかったのに。


 震える吐息と、滲んだ視界。智から紡がれていった言葉たちを噛み砕いて、次第に私の喉から溢れていく嗚咽。


 たくさんの人たちが、私たちの……この瞬間のために。たくさんの人たちが、私の知らないところで、ずっとずっと動いてくれていた。


 三木ちゃんの、小林くんの、加藤さんの、藤宮くんの、浅田さんの。みんなの、はにかんだような笑顔と。

 加奈子さんの、悪戯っぽい笑顔と―――片桐さんの、へにゃりとした人懐っこい笑顔が。

 たくさんの人の笑顔が、私の心の中に浮かんでくる。


 そんな優しい人たちに囲まれて。人生で一番幸せな瞬間が。こんな風に、迎えられるなんて。


 何よりも。私を愛して、揶揄って、意地悪して、私を翻弄する、大好きな人から投げかけられた、永遠を誓う言葉。


 こんな幸せな瞬間に。涙を堪えることなんて―――できるはずも、なくて。



「……う、ん……うんっ……一緒に、幸せにっ…なろう……」




 私の双眸から零れ落ちていく雫を、ただただ、ゆっくりと。智の熱い指先が、いつまでも拭ってくれていた。
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