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挿話
The people who cut out the night. 〜 late of spring.
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「はぁっ………っ、はぁっ……ぅ…」
階段を登るだけでこんなに息切れするなんて。体力、筋力の衰えを強烈に感じさせる瞬間だ。
(そ、れも……そう、かなぁ…?)
ドクドクと鼓動を刻む心臓の音を聴きながら、心の中で小さく独りごちた。
刺し傷からの出血性ショック症状で生命を落としても不思議ではなかった、生還したのは奇跡に近い、という話しを主治医から聞かされた。智くんが施してくれた止血のタイミングがもう少し遅ければ手遅れだった、とも。
その上、肺は外傷性気胸にもなっていた。少し動いただけでも呼吸がしづらいのは当たり前かもしれない。あの時、自分が負った傷がかなり重症であるという認識はあったけれども、それほどだった、ということを改めて感じさせる。
軍隊に属していたからか身体の回復能力は主治医が診てきたどの患者よりも驚異的だそうで、回診に来るたびにいつも驚かれているけれども。
「リ、ハビリ……頑張ら、ないと……ねぇ…」
通常の生活に戻れるまでどれくらいかかるだろうか。そんなことを階段の踊り場で腰を深く曲げながら、膝に手を当てて深呼吸をしつつ……ぼんやりと、考えた。
所属している極東商社は今は休職扱いになっているらしい。入院中で、逃亡・証拠隠滅の恐れなしということで俺は逮捕されずに在宅捜査となっているが、傷害の容疑がかけられている俺を待っているのは懲戒解雇、よくて論旨解雇だろう。
契約社員から正社員登用された直後に受け取った就業規則には『社員が犯罪行為をしたこと』も解雇要因になり得ると記載があった。
今は検察に書類送検され、起訴されるか起訴猶予となるかの瀬戸際だが、いくら槻山取締役とてこれ以上俺を庇えば従兄叔父本人の立場が危うくなる。そうなる前に自主退職を考えているが、生活していくために仕事は探さなければならない。早く通常の生活に戻って、職探しが出来る環境に持っていかなければ。
乱れた呼吸を整えてゆっくりと顔を上げると、目の前には白い扉。屋上に繋がる扉を蝶番を軋ませながら押し開いていく。
10月のやわらかな日差しが、俺の顔を、身体を照らしていく。ゆっくりと歩みを進めながら、屋上を取り囲むフェンスに手を伸ばした。
(………)
りぃちゃんが、智くんが、大迫係長が。それから農産販売部のメンバーが、今日はこぞって面会に来てくれた。
俺はずっと……Maisieを失い、時が止まって世界がモノクロになってしまってから、ずっとひとりで孤独に生きている、と思っていたけれど。
………気がつけば、俺の周りにはこんなにもたくさんの人がいた。俺を支えて、見守ってくれている人たちがいた。
「ほんと……俺は大莫迦野郎だね~ぇ?」
くすくす、と。自嘲気味の笑いをこぼしながら、晴れ渡る秋の空を見上げた。
(………何をしようかねぇ…)
黒川の件を片付けたら。俺に出来る範囲で、何かを興そう、と決めていた。眼前に浮かぶ太陽を眺めて、ゆっくりと思考を巡らせる。
彼女のように、単身タンザニアに飛んで、なんていう大きなことは出来ないだろうけれど。この日本でも、小さなことでも出来ることがあると思う。
ただただ、ぼうっと。そんなことを考えていたから。
だから……誰かが、この屋上に登って来ているなんて、気がつかなかった。
「やっぱり。お兄さんここに居た」
背後から、聞き覚えのある声が投げかけられた。その瞬間、落ち着いたはずの心臓が、ドクンッと大きく鼓動を刻んだ。
この声を最後に聞いたのは、3ヶ月前。オフィスビルの下の交差点で、貸していたライターを返された時に俺の耳朶をくすぐっていた、声。
それは、もう日本では聞けないはずの声、で。
(………は…?)
幻聴、だと思った。そう思いたかった。だって、彼女が病院にいる、なんて、―――あるはずがない、のに。
「もう、本当にびっくりしたわ?極東商社にアポ取ろうと思ったら休職しているって言われるし、何か知らないかって兄の店に聞きに行ったら黙って新聞記事渡されるし、驚いて邨上に連絡取ったらこの病院に入院中で、しかも面会謝絶中だっていうじゃない?」
不満気に、それでいて楽しそうに弾んだ声が、屋上に響いた。コツコツと、ヒールの音がする。
「さっき、邨上から面会出来るようになっている、ってメールを貰ったの。面会時間に間に合ってよかったと思ったのに、病室にもいなくて本当に焦ったわよ?」
俺は未だに信じられなくて、後ろを振り向くことなんて……出来るはずもなくて。
「元気そうで何よりね、お兄さん」
俺の真横まで歩いてきた彼女が、くるりと身体を反転させて俺を見上げた。俺は、首だけを動かして背の低い彼女を見つめる。
元から化粧っ気がない人だと思っていたけれど、今目の前にいる彼女は素っぴんなのではないだろうか。以前よりも僅かに、それでいて健康的に焼けた肌。
それでも―――それでも。赤く妖艶な唇は変わらない。
「私の元部下がこんなことをしでかすなんて思ってもみなかったわ。申し訳ない」
その赤い唇が小さく動かされて、謝罪の言葉が紡がれていく。
視線が絡まった琥珀色の瞳が言いようのない感情を湛えてふるふると揺れ動きながらも、真っ直ぐに……俺を貫いている。
「……俺が、黒川を煽ったことが直接の要因ですから。気にしないで、ください」
今にも泣きそうな彼女を放ってなんかおけなくて、どうにか彼女に笑って欲しくて。
へにゃり、と。いつもの笑みを浮かべる。
俺は、最後に会った時の彼女が口にしたように。ずっとずっと道化を演じていたから。こんな時に、誰かを慰めるための言葉すら……持ちあわせていない。
結局俺はいつものように、へにゃりとした仮面を被るしかなくて。それがなんだか口惜しかった。
俺の言葉に、彼女はゆっくりと強張った表情を緩めていく。その様子に、彼女の気持ちを宥められたとほっとため息をついた。
「……お詫びに、というのも変だけれど」
彼女はそう口にして、にこりと柔和な笑みを浮かべて。赤い唇を、ゆっくりと動かした。
「あのね?私、お兄さんをヘッドハンティングしに来たの」
「………は?」
思わず呆けたような声が、自分の喉から上がった。
ヘッドハンティング。……俺が知っているその言葉の意味は、『スカウト』、しかないはずで。
(俺を……スカウト……?)
今、俺の目の前で、何が起こっているんだ。彼女に、なんの意図があって?俺を?
脳内が激しく混乱している。思いっきり目を見開いたまま、目の前の琥珀色の瞳を見つめ続けた。
「一番初めに商談に来てくれた時のこと、覚えている?」
彼女は、こてん、と首を傾げて言葉を続けた。以前よりも少しだけ伸びているアーモンド色の髪がさらさらと揺れていく。
あの時のことを忘れるはずもない。
だって、あの時、俺は既に―――彼女に、堕ちていたのだから。
彼女は柔和な笑みを崩さず、俺が呆然としている間にも流麗に言葉を続けていく。
「あの時のあなたは通関部から農産販売部に異動したばかりだというのに、双方に利益があがる公平な取引の流れを生み出し、物怖じせずそれを持ち掛けていく姿を私や邨上に見せてくれていた。正直に言って、この子やり手だなって思ったのよ。私はあの瞬間から、私の夢を叶えるためにあなたが欲しいと思っていたの。本当よ?」
そうして。あの時のように。彼女が最後に、俺に流暢な英語で語り掛けた時のように。悪戯っぽい笑みを浮かべて、小さく肩を竦めた。
「私ね。今、タンザニアで夜を切り取る仕事をしているの」
「……は…?」
ふたたび、己の喉から。この場に似つかわしくない、素っ頓狂な声が零れ落ちた。
夜を切り取る仕事。どういう意味だろう。何を言われているのか、さっぱり掴めない。彼女から投げかけられる言葉は、いつだって抽象的すぎる。
あの時だって。初めて彼女に出会った時だって。愛することを思い出せ、と言われたけれど。
あの時だって。喫煙ルームで彼女が俺の隣に座った時だって。愛することを思い出せた、と言われたけれど。
俺は、彼女が紡ぐ抽象的なその言葉が。
いつだって、即座に理解なんかできなくて。
悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、くるりと身体を反転させ、俺に背中を向けた。彼女の今日の服装はクロップト丈のパンツに、涼しげな白いシャツ。
その白いシャツに刻まれた皺が、どことなく―――大きな、大きな。ペガサスの羽根を、連想させた。
彼女は俺に背を向けたまま、コツコツとヒールの音をさせながら。困ったように声を上げていく。
「3ヶ月かけて生活基盤を整えたけれど、やっぱり言語も文化も日本と違うから商談がうまく行かなくて。助手、というか、パートナーが必要だなって改めて思ったのよ」
彼女は数歩歩いた先で、くるりと俺を振り返った。
「タンザニアはイギリス連邦加盟国でしょう?で、お兄さんはイギリスからの帰国子女。運命だと思ったし、運命でなくても何か絶対に意味があると思ったのよ。私、使える伝手はなんでも使うが三井商社にいた時からのモットーなの」
先ほどまで困ったように声を上げていた彼女が琥珀色の瞳を優しく細めながら。今度は心底楽しそうに、まるで歌うように言葉を続けていく。
「お兄さんは今回の事件で書類送検されたことで、極東商社を退職するつもりでしょう?次の就職先がもう見つかっているのなら無理強いはしないけれども」
さっき、俺が階段を登りながら考えていたことを言い当てられて、思わず息が詰まった。退職する心積もりは誰にも明かしていないのに。
彼女には。隠していた何もかもが―――暴かれていく。そのことを改めて突き付けられて、いく。
………でも。
俺は。彼女の言葉に、甘えるわけにはいかない。だって。
「……俺は、……前科が付くかもしれない」
小さく声を発しながら、ゆっくりと彼女から視線を外す。そうして、外した視線を自分の足元に落としていく。
そう。俺は、前科者になるかもしれないのだ。書類送検され、起訴されるか、起訴猶予……つまり不起訴処分となるかの瀬戸際に立っている。
あの時の俺はそれだけのことをした。起訴されても仕方ない。起訴されたところでどうせ執行猶予がつくだろうけれども、執行猶予中の海外移住なんて、受け入れる側のタンザニアが入国自体を認めてくれないだろう。
「あら、私、不起訴になると思ってるんだけど」
俺の小さな呟きをカラっと笑って彼女が跳ね除けた。鬱々とした俺とは対照的に明るく紡がれたその言葉に、思わず弾かれたように顔をあげる。
「……どうして?」
どうして、そんな風に言えるのか。証拠も何も無いのに。俺が、どういう処分を受けるかなんて、誰にも分からないはずなのに。
「ん~、何となく。直感だけど、そう思う。だからお兄さんは前科者でもなんでもない。私の直感はね、だいたい当たるの。邨上と一瀬さんが付き合いだしたのも直感でわかっていたことだったわ?……私、伊達にお兄さんより8年も長く生きてないのよ」
琥珀色の瞳が、俺を捕らえて―――離さない。
「それに、起訴されたところでどうせ執行猶予でしょう。まぁ妥当な線で3年?それが終わったらまたゼロから始めればいいだけ。私、5年もかけて準備したのよ?3年くらいあっという間だし、それくらいは待てるわよ?」
ふふふ、と。目の前の彼女が艶っぽく笑う。その表情から、目が、離せなく、て。
「あなたの名前も被害者として世間に出てしまった。センセーショナルに報道されてしまった日本では再就職はひどく苦労すると思うわよ?だったら私と一緒にタンザニアに行ったほうが建設的だと思わない?」
ふっくらとした唇から放たれる、妖艶ともいえる彼女の声が。俺を真っ直ぐに、鋭く。尖った矢のように貫いていく。
「マサ。このまま私に口説かれてくれないかしら?」
彼女の唇から紡がれた、紛れもない……俺の、名前。
この屋上に登り上がる階段を登って、随分と時間が経っているというのに。呼吸がひどく浅くなっていることを自覚した。
じわりと、世界が歪む。彼女の輪郭が、滲んでいく。
ゆっくりと息を吸って、吐いて。肺に入れた空気から脳に酸素を送り込みながら、彼女の言葉の意味を、必死に噛み砕いて。
「…………行く。何処までも、ついていく。……カナさんに、ついていく」
俺は、くしゃり、と。
昔の俺が、この屋上で。
りぃちゃんに向けていたような、心からの笑みを浮かべながら。
込み上げてくる感情を噛み締めて。
ただただ、彼女の呼びかけに呼応した。
俺の言葉を聞き届けた彼女は、コツコツとヒールの音をさせながら俺の前に歩み寄って。
滲んだ視界でもはっきりと映る妖艶な唇を、ゆっくりと動かしていった。
「じゃ、交渉成立、ね?」
彼女は―――飛びっきりの、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら。
俺に向かって華奢な手を伸ばした。
俺は、目の前に伸ばされた手を。
もう二度と届かないと思っていた、俺の大切なひとの手を。
目の前にある、曙色の夜明けを。
ゆっくりと、握り締めた。
階段を登るだけでこんなに息切れするなんて。体力、筋力の衰えを強烈に感じさせる瞬間だ。
(そ、れも……そう、かなぁ…?)
ドクドクと鼓動を刻む心臓の音を聴きながら、心の中で小さく独りごちた。
刺し傷からの出血性ショック症状で生命を落としても不思議ではなかった、生還したのは奇跡に近い、という話しを主治医から聞かされた。智くんが施してくれた止血のタイミングがもう少し遅ければ手遅れだった、とも。
その上、肺は外傷性気胸にもなっていた。少し動いただけでも呼吸がしづらいのは当たり前かもしれない。あの時、自分が負った傷がかなり重症であるという認識はあったけれども、それほどだった、ということを改めて感じさせる。
軍隊に属していたからか身体の回復能力は主治医が診てきたどの患者よりも驚異的だそうで、回診に来るたびにいつも驚かれているけれども。
「リ、ハビリ……頑張ら、ないと……ねぇ…」
通常の生活に戻れるまでどれくらいかかるだろうか。そんなことを階段の踊り場で腰を深く曲げながら、膝に手を当てて深呼吸をしつつ……ぼんやりと、考えた。
所属している極東商社は今は休職扱いになっているらしい。入院中で、逃亡・証拠隠滅の恐れなしということで俺は逮捕されずに在宅捜査となっているが、傷害の容疑がかけられている俺を待っているのは懲戒解雇、よくて論旨解雇だろう。
契約社員から正社員登用された直後に受け取った就業規則には『社員が犯罪行為をしたこと』も解雇要因になり得ると記載があった。
今は検察に書類送検され、起訴されるか起訴猶予となるかの瀬戸際だが、いくら槻山取締役とてこれ以上俺を庇えば従兄叔父本人の立場が危うくなる。そうなる前に自主退職を考えているが、生活していくために仕事は探さなければならない。早く通常の生活に戻って、職探しが出来る環境に持っていかなければ。
乱れた呼吸を整えてゆっくりと顔を上げると、目の前には白い扉。屋上に繋がる扉を蝶番を軋ませながら押し開いていく。
10月のやわらかな日差しが、俺の顔を、身体を照らしていく。ゆっくりと歩みを進めながら、屋上を取り囲むフェンスに手を伸ばした。
(………)
りぃちゃんが、智くんが、大迫係長が。それから農産販売部のメンバーが、今日はこぞって面会に来てくれた。
俺はずっと……Maisieを失い、時が止まって世界がモノクロになってしまってから、ずっとひとりで孤独に生きている、と思っていたけれど。
………気がつけば、俺の周りにはこんなにもたくさんの人がいた。俺を支えて、見守ってくれている人たちがいた。
「ほんと……俺は大莫迦野郎だね~ぇ?」
くすくす、と。自嘲気味の笑いをこぼしながら、晴れ渡る秋の空を見上げた。
(………何をしようかねぇ…)
黒川の件を片付けたら。俺に出来る範囲で、何かを興そう、と決めていた。眼前に浮かぶ太陽を眺めて、ゆっくりと思考を巡らせる。
彼女のように、単身タンザニアに飛んで、なんていう大きなことは出来ないだろうけれど。この日本でも、小さなことでも出来ることがあると思う。
ただただ、ぼうっと。そんなことを考えていたから。
だから……誰かが、この屋上に登って来ているなんて、気がつかなかった。
「やっぱり。お兄さんここに居た」
背後から、聞き覚えのある声が投げかけられた。その瞬間、落ち着いたはずの心臓が、ドクンッと大きく鼓動を刻んだ。
この声を最後に聞いたのは、3ヶ月前。オフィスビルの下の交差点で、貸していたライターを返された時に俺の耳朶をくすぐっていた、声。
それは、もう日本では聞けないはずの声、で。
(………は…?)
幻聴、だと思った。そう思いたかった。だって、彼女が病院にいる、なんて、―――あるはずがない、のに。
「もう、本当にびっくりしたわ?極東商社にアポ取ろうと思ったら休職しているって言われるし、何か知らないかって兄の店に聞きに行ったら黙って新聞記事渡されるし、驚いて邨上に連絡取ったらこの病院に入院中で、しかも面会謝絶中だっていうじゃない?」
不満気に、それでいて楽しそうに弾んだ声が、屋上に響いた。コツコツと、ヒールの音がする。
「さっき、邨上から面会出来るようになっている、ってメールを貰ったの。面会時間に間に合ってよかったと思ったのに、病室にもいなくて本当に焦ったわよ?」
俺は未だに信じられなくて、後ろを振り向くことなんて……出来るはずもなくて。
「元気そうで何よりね、お兄さん」
俺の真横まで歩いてきた彼女が、くるりと身体を反転させて俺を見上げた。俺は、首だけを動かして背の低い彼女を見つめる。
元から化粧っ気がない人だと思っていたけれど、今目の前にいる彼女は素っぴんなのではないだろうか。以前よりも僅かに、それでいて健康的に焼けた肌。
それでも―――それでも。赤く妖艶な唇は変わらない。
「私の元部下がこんなことをしでかすなんて思ってもみなかったわ。申し訳ない」
その赤い唇が小さく動かされて、謝罪の言葉が紡がれていく。
視線が絡まった琥珀色の瞳が言いようのない感情を湛えてふるふると揺れ動きながらも、真っ直ぐに……俺を貫いている。
「……俺が、黒川を煽ったことが直接の要因ですから。気にしないで、ください」
今にも泣きそうな彼女を放ってなんかおけなくて、どうにか彼女に笑って欲しくて。
へにゃり、と。いつもの笑みを浮かべる。
俺は、最後に会った時の彼女が口にしたように。ずっとずっと道化を演じていたから。こんな時に、誰かを慰めるための言葉すら……持ちあわせていない。
結局俺はいつものように、へにゃりとした仮面を被るしかなくて。それがなんだか口惜しかった。
俺の言葉に、彼女はゆっくりと強張った表情を緩めていく。その様子に、彼女の気持ちを宥められたとほっとため息をついた。
「……お詫びに、というのも変だけれど」
彼女はそう口にして、にこりと柔和な笑みを浮かべて。赤い唇を、ゆっくりと動かした。
「あのね?私、お兄さんをヘッドハンティングしに来たの」
「………は?」
思わず呆けたような声が、自分の喉から上がった。
ヘッドハンティング。……俺が知っているその言葉の意味は、『スカウト』、しかないはずで。
(俺を……スカウト……?)
今、俺の目の前で、何が起こっているんだ。彼女に、なんの意図があって?俺を?
脳内が激しく混乱している。思いっきり目を見開いたまま、目の前の琥珀色の瞳を見つめ続けた。
「一番初めに商談に来てくれた時のこと、覚えている?」
彼女は、こてん、と首を傾げて言葉を続けた。以前よりも少しだけ伸びているアーモンド色の髪がさらさらと揺れていく。
あの時のことを忘れるはずもない。
だって、あの時、俺は既に―――彼女に、堕ちていたのだから。
彼女は柔和な笑みを崩さず、俺が呆然としている間にも流麗に言葉を続けていく。
「あの時のあなたは通関部から農産販売部に異動したばかりだというのに、双方に利益があがる公平な取引の流れを生み出し、物怖じせずそれを持ち掛けていく姿を私や邨上に見せてくれていた。正直に言って、この子やり手だなって思ったのよ。私はあの瞬間から、私の夢を叶えるためにあなたが欲しいと思っていたの。本当よ?」
そうして。あの時のように。彼女が最後に、俺に流暢な英語で語り掛けた時のように。悪戯っぽい笑みを浮かべて、小さく肩を竦めた。
「私ね。今、タンザニアで夜を切り取る仕事をしているの」
「……は…?」
ふたたび、己の喉から。この場に似つかわしくない、素っ頓狂な声が零れ落ちた。
夜を切り取る仕事。どういう意味だろう。何を言われているのか、さっぱり掴めない。彼女から投げかけられる言葉は、いつだって抽象的すぎる。
あの時だって。初めて彼女に出会った時だって。愛することを思い出せ、と言われたけれど。
あの時だって。喫煙ルームで彼女が俺の隣に座った時だって。愛することを思い出せた、と言われたけれど。
俺は、彼女が紡ぐ抽象的なその言葉が。
いつだって、即座に理解なんかできなくて。
悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、くるりと身体を反転させ、俺に背中を向けた。彼女の今日の服装はクロップト丈のパンツに、涼しげな白いシャツ。
その白いシャツに刻まれた皺が、どことなく―――大きな、大きな。ペガサスの羽根を、連想させた。
彼女は俺に背を向けたまま、コツコツとヒールの音をさせながら。困ったように声を上げていく。
「3ヶ月かけて生活基盤を整えたけれど、やっぱり言語も文化も日本と違うから商談がうまく行かなくて。助手、というか、パートナーが必要だなって改めて思ったのよ」
彼女は数歩歩いた先で、くるりと俺を振り返った。
「タンザニアはイギリス連邦加盟国でしょう?で、お兄さんはイギリスからの帰国子女。運命だと思ったし、運命でなくても何か絶対に意味があると思ったのよ。私、使える伝手はなんでも使うが三井商社にいた時からのモットーなの」
先ほどまで困ったように声を上げていた彼女が琥珀色の瞳を優しく細めながら。今度は心底楽しそうに、まるで歌うように言葉を続けていく。
「お兄さんは今回の事件で書類送検されたことで、極東商社を退職するつもりでしょう?次の就職先がもう見つかっているのなら無理強いはしないけれども」
さっき、俺が階段を登りながら考えていたことを言い当てられて、思わず息が詰まった。退職する心積もりは誰にも明かしていないのに。
彼女には。隠していた何もかもが―――暴かれていく。そのことを改めて突き付けられて、いく。
………でも。
俺は。彼女の言葉に、甘えるわけにはいかない。だって。
「……俺は、……前科が付くかもしれない」
小さく声を発しながら、ゆっくりと彼女から視線を外す。そうして、外した視線を自分の足元に落としていく。
そう。俺は、前科者になるかもしれないのだ。書類送検され、起訴されるか、起訴猶予……つまり不起訴処分となるかの瀬戸際に立っている。
あの時の俺はそれだけのことをした。起訴されても仕方ない。起訴されたところでどうせ執行猶予がつくだろうけれども、執行猶予中の海外移住なんて、受け入れる側のタンザニアが入国自体を認めてくれないだろう。
「あら、私、不起訴になると思ってるんだけど」
俺の小さな呟きをカラっと笑って彼女が跳ね除けた。鬱々とした俺とは対照的に明るく紡がれたその言葉に、思わず弾かれたように顔をあげる。
「……どうして?」
どうして、そんな風に言えるのか。証拠も何も無いのに。俺が、どういう処分を受けるかなんて、誰にも分からないはずなのに。
「ん~、何となく。直感だけど、そう思う。だからお兄さんは前科者でもなんでもない。私の直感はね、だいたい当たるの。邨上と一瀬さんが付き合いだしたのも直感でわかっていたことだったわ?……私、伊達にお兄さんより8年も長く生きてないのよ」
琥珀色の瞳が、俺を捕らえて―――離さない。
「それに、起訴されたところでどうせ執行猶予でしょう。まぁ妥当な線で3年?それが終わったらまたゼロから始めればいいだけ。私、5年もかけて準備したのよ?3年くらいあっという間だし、それくらいは待てるわよ?」
ふふふ、と。目の前の彼女が艶っぽく笑う。その表情から、目が、離せなく、て。
「あなたの名前も被害者として世間に出てしまった。センセーショナルに報道されてしまった日本では再就職はひどく苦労すると思うわよ?だったら私と一緒にタンザニアに行ったほうが建設的だと思わない?」
ふっくらとした唇から放たれる、妖艶ともいえる彼女の声が。俺を真っ直ぐに、鋭く。尖った矢のように貫いていく。
「マサ。このまま私に口説かれてくれないかしら?」
彼女の唇から紡がれた、紛れもない……俺の、名前。
この屋上に登り上がる階段を登って、随分と時間が経っているというのに。呼吸がひどく浅くなっていることを自覚した。
じわりと、世界が歪む。彼女の輪郭が、滲んでいく。
ゆっくりと息を吸って、吐いて。肺に入れた空気から脳に酸素を送り込みながら、彼女の言葉の意味を、必死に噛み砕いて。
「…………行く。何処までも、ついていく。……カナさんに、ついていく」
俺は、くしゃり、と。
昔の俺が、この屋上で。
りぃちゃんに向けていたような、心からの笑みを浮かべながら。
込み上げてくる感情を噛み締めて。
ただただ、彼女の呼びかけに呼応した。
俺の言葉を聞き届けた彼女は、コツコツとヒールの音をさせながら俺の前に歩み寄って。
滲んだ視界でもはっきりと映る妖艶な唇を、ゆっくりと動かしていった。
「じゃ、交渉成立、ね?」
彼女は―――飛びっきりの、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら。
俺に向かって華奢な手を伸ばした。
俺は、目の前に伸ばされた手を。
もう二度と届かないと思っていた、俺の大切なひとの手を。
目の前にある、曙色の夜明けを。
ゆっくりと、握り締めた。
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