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本編・第三部

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 激しい殺意の篭った瞳が、加藤さんに向けられている。鈍色にびいろの光が、勢いよく振り翳される。



 殺される。私たちは、黒川さんの狂気をはっきりと向けられている。

 私と、加藤さんは。
 彼に刺されて―――ここで、死ぬ。


 でも。



(だめ)



 瞬時に、そう思った。



 私に向けられた狂気に、加藤さんまで巻き込む訳にはいかない。彼女はこの件に関して全くもって無関係の人間だ。


 私たちに迫ってくる鈍色の光を眺めながら、ひどく冷静な思考回路でそんなことを考えていた。


 生命の危機が目の前に迫っているというのに、こんな場面でよく聞くような走馬灯とかいうのも、今、全く頭の中に流れてこない。


 死が差し迫った人間、というのは、妙に冷静になるのかもしれない。


 ただ、思うのは。



(ごめん、智)



 私は、隣で立ち竦んでいる彼女を庇うように足を動かした。私に向けられた狂気は、私が受けるべきもので。


(傷つけさせないっ……)


 彼女は、傷つけさせない。その思いで、彼女の前に身体を滑り込ませる。


 酸化した血液の、独特の赤黒さを纏った鈍色の光が。加藤さんを庇った私に振り下ろされていく。



 ―――――来る。



 迫ってくる光から、目が離せない。
 激しい痛みが、到来する。死が、訪れる。



 そう、覚悟した、刹那。



 咽せ返るような血の香りが、鼻腔をくすぐり。

 鈍色の光が、黒川さんの身体とともに。


 私の足元に、カラン、と。

 甲高い金属音をさせて、落ちていった。








「っ、ふ、ざけ、るなっ……」

 ドサリ、と、の人影が、こちらに向かって倒れ込んでくる。


 痛みが、来ない。鈍色の光が、視界から消えた。


 茫然と足元に視線を落とすと。鈍色の光の代わりに視界を占領する、


「っ……!」


 その色が。先ほど、黒川さんが「殺してやった」と言っていた―――片桐さんの、髪の色、なのだ、と。理解した瞬間。

 頭の中が、真っ白になった。


「ぉ、お前っ……」

 片桐さんの身体の下敷きになっている黒川さんが、狼狽えたような声をあげていた。

 パタパタと。黒川さんの上にのしかかって黒川さんの身体を押さえ込んでいる、片桐さんの左の肩口から。赤黒い何かが東雲色のカーペットに滴り落ちていく。


 その赤黒い何かの正体に気がついた瞬間。あまりの事態によろよろと後ずさる。後ろに庇っていた加藤さんを押し出すように数歩歩いたところで、腰が抜けてカーペットの上にガクンとへたり込んだ。


「う、そ……!」


 こんなに。他人の身体から、夥しいほど滴り落ちていく血液を見たのなんて、初めてだ。


 自分の生命を奪われそうになっても、震えなんて出なかったのに。


 目の前に、他人の血が現れただけで。
 身体の芯からガタガタと震えがくる。
 奥歯が、ガチガチと音を立てている。


「…………ぁ……」

 ふらり、と。私の私の背後に立っていた加藤さんも小さな声を上げて、私の真後ろに座り込んだ。


「く、ろかわ……お前の、思い通りに、なんか…さ、せ、ない……」

 低く、低く。大地を揺さぶるような、そんな声色が響いた。精悍な顔つきが血液を失ったことで蒼白く変貌しているというのに。

「あ、いにく……マサ、っていう、のが……軍、に、いたころ、の……俺の、代名詞、でねぇ…」

 凄まじいほどの迫力を持った、片桐さんの。狂気を孕んだような、ヘーゼル色の瞳が。黒川さんを冷酷に、冷淡に、残虐に見下ろしている。

「もう……悪夢の……続きは、たくさん、だ……」

 吐き捨てるような途切れ途切れの言葉を紡いだ片桐さんが、ゆっくりと私たちに顔を向けた。私たちを見つめる片桐さんのヘーゼル色の瞳が、やわらかく細められる。

「……知香、ちゃんも……そこの、子も。耳と……目、塞いだ方が、いい、よ…」

 片桐さんは、ふっと。口の端をつり上げてひどく優しい笑みを浮かべ、自分の体重を自分の身体の下の黒川さんに思いっきりかけたように見えた。

 そうして、ゆっくりと右手を伸ばし、俯せに押し倒したままの黒川さんの右肩に手をかけて―――

「あ゛、がぁッ……!!」

 不可思議な音とともに、およそ人間の声とは思えない声が、かといって獣の咆哮とも言えない、そんな声が。押し倒されたままの黒川さんから響いたように思えた。

 視線を外したいのに、身体が竦んで外せない。片桐さんは苦悶の表情を浮かべながら黒川さんにあらん限りの力で自重を乗せ、黒川さんの右肩を掴んでいる。

 片桐さんの左の肩口から、ふたたびポタポタと。カーペットに、黒川さんの白いシャツに、赤黒い雫が滴り落ちていく。

 地獄の底から漏れるような呻き声に、更に濃厚さを増す血液のにおい。目の前に広がる悍ましいまでの凄惨な光景にひっと息を飲み、口元に手のひらを当てた。

 私の少し後ろにへたり込んでいる加藤さんが、私の二の腕をレースの袖ごとぎゅっと掴んでいく。ガクガクと震える彼女の手の甲に、思わず私も口元に当てた手と反対の手のひらを当てた。

「ッ、黒川……お前の、やりたい、ようには、させない。肩を、無理矢理外された、痛みに……這い蹲ると、いい」

「が、ヴぁッ…!」

 口から涎をダラダラと垂らして苦悶の表情を浮かべながら悶絶する黒川さんに、片桐さんは憎悪に満ちた言葉たちを今にも絶息しそうな声で放っていく。

 そうして、ゆっくりと……口元を歪めて、鮮やかに嗤いながら。黒川さんにふたたび声をかけた。

「安心、しろ。俺も、意図して…お前の身体に、害を、与えた。俺も……お前と同じ、犯罪者だ。……最も、俺は…で、送検される、だろう…が」

 片桐さんのその声と共に、黒川さんの動きが止まった。がくり、と、弛緩したように思える黒川さんのその様子。片桐さんが、長く、長く吐息を吐き出して。


 ゆっくりと……右腕だけを使って、身体を起こした。


「人間は……一定以上の…苦痛があると、気絶するように、できて……いる。だから、黒川は、しばらく……このままでも、大、丈夫」

 今にも途切れそうな、片桐さんのその声。彼は緩慢な動作で、臀部と右腕だけを使って、ずるずると身体を引き摺りながら。ぽたぽたと落ちる赤黒い血の跡を残しつつ、私が去年、平山さんの言葉を聞いてしまって、蹲っていた場所に。インテリアとして置いてある大きなコレクションボードに、上半身をぐったりと預けた。

「ごめ、…ね……怖が、らせて……軍、隊……にも、いたか、ら……ねぇ……ヒトの、身体の、は、わか……てた」

 ゆっくりとした、途切れ途切れの。片桐さんの声が響く。

「……そんな、顔、しないで…知香、ちゃん。ほ……ら、ふ、たりとも………動、いて…ここから、逃げ、て、け……さつを、呼ん、で……きて…」

 この場から逃げるように促しながら、私に向けられたヘーゼル色の瞳。そこには、優しげな……それでいて、泣きそうな。今すぐにでも、生命の灯火が消え去ってしまいそうな。儚い光が、彼の瞳に宿っていた。

 いろんな想いが溢れてくる。
 黒川さんが、さっき口にしていた言葉から導き出される、彼の……これまでの行為の、真意。


(わ、たしを……まもって……くれて、た……?)


 何度怒っても、何度突っぱねても、ストーカー紛いのことをして、それをネタにした面白可笑しい噂が社内で流れても。片桐さんが執拗とも言えるほど私に纏わりついていたのは。


 私を。黒川さんの手から、守ってくれていたから。


 その事実を、目の前に突き出されている。身体を張ってまで、私を……私たちを、私たちの生命を、助けてくれている。

 黒川さんに襲われて、大怪我をしているはずなのに。見るからに……いる、片桐さんが、目の前に、いて。


 呼吸が出来なくなる。ぎゅうと胸の奥が締め付けられて、しゃくりあげるように息を吐き出した。片桐さんの儚い笑顔が滲んで、自分の眦からポロポロと熱い雫が落ちていく。


「っ、な、に……してるん、ですかっ……!」

 私が片桐さんに声をかけるより前に。後ろにへたり込んでいる加藤さんが、ガタガタと身体を震わせたまま。半ば叫ぶように声を上げた。

「大怪我してるのに、動いて、死に急いでっ…なに、してるんですか、あなたはっ……!」

 悲痛な声で紡がれていく、彼女の言葉。思わず、彼女の顔に視線を向けた。

「世の中にはっ……生きたくても、生きられない子たちだっているのにっ……どうして、こんな、死に急ぐような真似をっ……」

 ふるふると、頭を振りながら。引き攣れたような声で紡がれていくそれは、ひとつひとつが彼女の魂の叫びのようだった。

(あ……)

 彼女は。小児癌を患っていた。生きたくても生きられない子たちを、それこそ嫌というほど、たくさん見てきたのだろう。

 だから。理由がどうあれ、黒川さんに襲われ大怪我を負いながらも……こうして無理に身体を動かして、私たちに襲い掛かる黒川さんを阻止した片桐さんが―――死に急いでいるように、見えるのかもしれない。

 加藤さんの言葉に、片桐さんは困ったように眉を下げて、ゆっくりと吐息と声を吐き出した。


「あ、はは……10も、歳下の子に、怒られる、なんて、ねぇ……」


 そうして、ふぅ、と。ふたたび、大きく吐息を吐き出して……私たちに視線を向けて、大きくヘーゼル色の瞳を見開いた。


「っ、や、めろぉ、っ………!」

 絶息しながら言葉を紡いでいた、片桐さんが。既に無い力を振り絞って、腹の底から声を上げたように思えた。


「……死、ね……!」


 気がつけば。黒い影が、私の膝元に迫っていた。ねっとりとした声が、私に襲いかかる。


 意識を取り戻した黒川さんが。先ほど私たちの足元に落としたはずの、鈍色の光を左手に持って。全身をくねらせ、這いずるように。

 私を真っ直ぐに見据えたまま。憎悪を滾らせた爛々とした目を光らせて、私の眼前に、迫っていた。


「あ……」

 動けない。へたり込んだまま、氷漬けにされたように。指一本動かせない。
 視線すら動かせない。目の前に迫る細い瞳に捕らわれて、動けない。
 せっかく、片桐さんに助けて貰ったのに。ここで、私は―――――





「知香!」



 カラン、という甲高い音。

 ガン、という鈍い音。

 ゴツン、という、何かが当たる音。

 それから、私を呼ぶ声が、耳に届いた。






 私の目の前に。

 失ったと思っていた、ダークブラウンの瞳が、飛び込んできた。






「知香、無事だな!?」

 荒い呼吸のまま、私の膝元まで迫っていた黒川さんを俯せに取り押さえた智が。焦ったような、それでいてひどく真剣な表情で。私を真っ直ぐに見つめている。


 智の額から生まれた汗が、顔の輪郭を伝って、つぅ、と、落ちていく。
 いつもはサラサラの髪が、激しく乱れている。今にもつっかえそうな息遣い。

 きっと、全速力で駆けつけてきてくれたのだろう。
 一つ下の階の会場にいる智がどうやってこの騒ぎを聞きつけたのかはわからない。
 三井商社の納涼会の進行も、新部門を率いる立場であることも、何もかも放り投げて。
 向こうの階段を形振り構わず駆け上がってきてくれたのだろう。

 眼前に映る智の姿を見れば、そんなの一目瞭然だ。

 だけど。


「……お、おそい、よ……智の、ばかっ……!」


 私の口から零れ落ちるのは、深い安堵感からくる悪態、だけで。


「っ、どれだけっ……怖かったとっ…!」


 言葉が出てしまえば、もう止められなかった。堰を切ったように感情が溢れていく。堪えていたつもりはなかったけれど、刃物を向けられていた怖さとか、智が駆けつけて来てくれた安心感とか、生きていてくれたという嬉しさとか、片桐さんに対する混乱とか、申し訳なさとか。たくさんの感情が綯い交ぜになったままボロボロと涙が生まれては落ちていく。

 安心すると、周囲の音が耳に届き出したように感じた。遠くに聞こえる、いくつものサイレンの音。

 私の声を聞いた智が、ほっと安心したように表情を緩めてため息をついた。そうして、困ったように優しく笑みを浮かべていく。

「っ、りぃちゃん!」

 智の背後から焦ったような藤宮くんの声が飛んでくる。バタバタと音を立てて走り込み、彼が智の真横を通って私の後ろに座り込んでいる加藤さんに抱き着いた。

「と、う……ご…」

 彼女も藤宮くんの顔を見て安心したのか、彼に抱き締められたまま大きな瞳からぽろぽろと真珠のような涙を流している。智はそのふたりの様子を一瞥して、首元のネクタイに手をかけた。私が贈った臙脂色のネクタイをするりと解いて、取り押さえたままの黒川さんの腕を指先の色が白く変わるまできつく掴んだ。


「黒川、わかって……る、な……?」


 低く、唸るように紡がれた智のその言葉。けれど、途中で疑問符がついていく。その声に私も視線を落とすと、私に襲い掛かる寸前で智に取り押さえられていたはずの黒川さんは身動ぎひとつしていない。



「……た、ぶん……脳、しん、と……だ、よ…」



 途切れ途切れの声が、私たちの耳朶に響いた。ふたり揃って弾かれたように声のする方向に視線を向ける。

「お、前、すごい、勢いで……引きたお、し、てた、から……」

 黒く、大きなコレクションボードに凭れかかったままの、片桐さんが。ヘーゼル色の瞳を心底愉しそうに細めて、穏やかに微笑わらっていた。

「ッ、片桐、てめぇ、ここで死んだら一生赦さねぇからな!」

 智は片桐さんに床が震えるほどの強い怒号を飛ばして、ぐったりした様子の片桐さんに鋭く視線を送った。解いたネクタイで、脳震盪で意識を失っていると思われる黒川さんを後ろ手にして縛り上げていく。

「あ、はは……お、前……俺のこと、赦す気、あった、んだ……」

 片桐さんは土気色の肌をさせたまま、力なく笑って智に視線を合わせたように見えた。

「てめぇがここで死んだら知香が一生立ち直れなくなる、そんなことは俺が赦さねぇ、だから絶対死ぬんじゃねぇぞ!」

 黒川さんを縛り上げた智が自分のワイシャツの前ボタンに手をかけ手早く脱ぎ去り、ぴたりとしたインナーシャツ姿になった。

にてめぇがいなかったから知香は絶対無事だと信じていた」

 智は早口で言葉を紡ぎ出しながら脱いだワイシャツを前歯を使って強引に引き千切り、馬乗りになっていた黒川さんから降りて片桐さんに駆け寄っていく。

「てめぇには聞きたいことが山ほどあるんだ、この際俺の血でもなんでもくれてやるっ……!」

 智はコレクションボードに力なく寄りかかっている片桐さんの左手側に膝をついて、低く、低く。地を這うような、それでいて何かを堪えるような声を上げ、裂いたワイシャツを再度歯を使って更に引き千切った。

「………お、まえ、A型で、しょ……俺、B型、だから、それは、できな、い、ねぇ……」

 くすり、と。片桐さんが小さく笑っていく。

 彼と出会った頃……彼はマスターのお店で偶然会っただけの智のことを調べた、と言っていたけれど。血液型まで調べられるほど、彼が触れられるデータベースは正確なのだろう。

「もういい喋んな、傷に障る」

 智は乱暴に言葉を投げつけ、片桐さんの背中とコレクションボードの間に腕を差し入れ、彼が身に纏っていた背広を抜き去った。そのまま片桐さんのワイシャツの前ボタンを外して長袖のワイシャツを荒々しく脱がし、刺された場所を確認していく。

 赤い血が伝い落ちていく肩口や腕に残る、無数のケロイド。歪に盛り上がっている箇所もいくつかある。先ほど片桐さんは軍隊にもいた、と言っていた。それが事実である、ということの……証明。

「お、れ……お、とこに……脱がせ、ら、れる、しゅ、みは、ないん、だけど、なぁ……」

 片桐さんが紫色に変色してしまった唇を小さく動かして、困ったように眉を下げた。その声を智は無視しこちらを向いて、私の後ろの藤宮くんに怒声を飛ばしていく。

「藤宮!彼女連れて警察と救急隊誘導してこい!早く!」

 鋭く飛ばされた指示。その言葉の意味を噛み砕いていると、遠くに聞こえていたパトカーや救急車のサイレンが次第に近づいて来ている気がした。

 藤宮くんは私と同じようにへたり込んでいる加藤さんに小さく声をかけた。背後でいくつかの会話が交わされていくけれど、私は片桐さんの身体から視線が外せない。背後の彼等の会話が右から左に流れていく。

「呼んできます!」

 背後からふたり分の足音がした。藤宮くんが加藤さんを連れて走り出して行ったのだろうと察する。

 片桐さんの均衡の取れた上半身が左側だけ、あらわになっている。そこから視線が全く外せない。

 夥しいほどの傷痕が走る彼の身体。私の目を奪うのは、左の胸筋の辺り。そこだけ、禍々しいほどにドス黒く変色している。

 その斜め上の肩口の刺し傷からパタパタと落ちていく血液。彼は先ほどまで身体を動かしていた、けれど、この傷の深さであれだけ動いていた。それが到底信じられないほどの傷の深さだ。

 智が先ほど強引に引き千切ったワイシャツで片桐さんの腋から上を縛り上げていくけれど、真っ白なワイシャツがゆっくりと赤黒く染まっていくその光景から、目が離せ、なくて。

「っ、ぐ……」

 片桐さんが智の腕の動きに合わせて、苦悶の表情を浮かべている。


 ガチガチと……恐怖で震える奥歯。

 目の前にある、人間の生命の灯火が。
 今にも、消え去ろうとしている。


「知、香ちゃ……」

 苦しそうに息を吐き出した片桐さんが、ヘーゼル色の瞳を緩やかに細めた。

「ごめ……汚い、きず、ばっかり、だから…びっくり、した…で、しょ……?」

「え……?」

 浅い呼吸のままの片桐さんから投げかけられた問い。私を見つめているヘーゼル色の瞳と視線が真っ直ぐに絡み合う。そうして、彼は私が震えているのをだと思っているのだと理解した。

「そ、んなわけっ……!」

 思わずその場から立ち上がって、智と片桐さんがいる大きなコレクションボードに駆け寄った。


 自分が死の淵に立たされているというのに。もう、生命の灯火が消えそうだというのに。

 この後に及んで、彼は。この後に及んで、自分の心配ではなく、他人の心配をする、のか。


「莫迦なんじゃ、ないんですか……っ!」

 喘ぐように浅く呼吸をしながら、智の隣に座り込んだ。私の頬から滑り落ちていった涙が、だらりと力を失っている片桐さんの左手の甲に落ちていく。

「こんな傷をたくさん負ってもっ、片桐さんは任務から還ってきてマーガレットさんに会いに行ってたんでしょう!?この傷はっ、全部全部っ、片桐さんがこれまでこの世界を生きてきた証拠でしょう!?だからっ、黒川さんに刺されたくらいで死なないでしょうっ、片桐さんはっ!!」

 脈拍が上がる。呼吸が乱れる。しゃくりをあげながらぎゅっと目を瞑って、それでも必死に叫ぶ。今にも消えそうな生命の灯火に火をつけるように。

「知香落ち着け、絶対大丈夫だから」

 片桐さんのそばで泣き叫ぶ私の肩を、智が抱き寄せていく。血の香りに混じって、智の匂いがする。

 目の前の片桐さんから、淋しそうに小さく微笑んだような吐息が聞こえた。

「……わら…て……?そ、んなかお、させたい、わけじゃ、なか……た、から…」

 今、私は自分がどんな表情をしているのかもわからない。わかりたくもない。きっと、智がそばにいてくれることの安心感と、片桐さんが死んでしまうという恐怖とでぐちゃぐちゃになっているのだと思う。

「……知香、ちゃ……」

 片桐さんが、震える声で私の名前を呼んだ。はっと我に返って、彼に視線を合わせると。私を見ているヘーゼル色の瞳が、ふるふると小さく揺れ動いていた。


「お、れの、名前……呼、んで、くれ、ない…?」


 彼の言葉に、息が止まった。じっと……智の腕の中から、片桐さんの瞳を見つめる。

 目の前の彼の瞳は。まるで、この願いさえ叶えば、もうこの世界に未練はない、というような……そんな、瞳、で。

「嫌、です」

 気がつけば、拒否の言葉を発していた。それは、私が智の彼女だから、ではない。


 今、私が。片桐さんの願いを聞き入れてしまったら。彼の生命を持たせている、『生きる』という気力の糸が切れてしまう。


になんか、させないんだからっ……」

 死なせたくない。死に逝くための想い出作り、なんて、私は絶っ対に協力しない。


 だって、私は、まだ。助けてくれてありがとう、も、酷いことばかり言って傷つけてごめんなさい、も。

 なにひとつだって、伝えられていないのだから。


 そんな想いで声を絞り出し、ヘーゼル色の瞳を、ぎゅう、と。強く睨みつけた。



「こっちです!!」

 遠くから、藤宮くんの声と複数の足音が聞こえてきた。バタバタと響くいくつもの足音に、警察や救急隊が到着したのだと理解した。



「あ、は…は……ち、か、ちゃん、って、ば………さ、いご、まで……つれ、ない……ね……?」



 片桐さんが、。へにゃり、と……笑って。





 ゆっくりと―――宝石のような澄んだ瞳が、閉じられた。
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