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本編・第三部

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「ただいま」

 ギィ、と、玄関が開く音が聞こえて、智の低く甘い声が聞こえた。ちょうど軽食を作り終えたところでボウルや菜箸を流しで洗っていたタイミングだった。

 蛇口から流れる水を止めて、濡れた手を軽く拭きキッチンから玄関に向かうと、智が疲れたような顔をしてネクタイを解いている場面で。何度見てもその仕草は強烈に色っぽくて、心臓がどくんっと跳ねる。

「おかえり、お疲れさま」

 色情を感じさせるようなその仕草にあてられて、じんわりと赤くなる顔を必死に抑えながら玄関先の智にパタパタと駆け寄る。手を伸ばしてビジネスバッグを受け取った。

 やっぱり智は、後輩たちとの食事の席でアルコールを口にしたのだろう。顔は赤くなってないけれど、智の手は熱いし、アルコール独特のにおいがふわりと鼻腔をくすぐる。

 水仕事をしていた私の冷えた手に智の熱い手が触れて、智は思いっきり顰めっ面をした。

「……知香。お願いだから、身体冷やさねぇようにやっぱり水仕事は手袋して作業してくれ」

 智は私が万年冷え性であることを殊の外気にかけてくれていて、水仕事の時はゴム手袋を使うように何度も進言してくれている。けれど、デメリットも決して少なくはない。ちょっとした枚数の食器なら素手でパパっと洗ってしまいたいし、油汚れがきちんと落ちたかも気になる。

 何より、智はアルコールを口にしてきて手が熱くなっているから余計に私の手が冷たく感じるだけだと思うのだけれど。

「やっぱり素手の方が早いもん。油汚れとかの落ち具合も素手の方がわかりやすいし。『時は金なり』って言うでしょ?」

 少しだけ口の先を尖らせながら、不服そうに細められている切れ長の瞳に視線を合わせた。


 私のことを心底大切に、心から大事に思って、愛してくれている。それをこんなにも突きつけられて。さっき一瞬でも智を疑ってしまったことをひどく後悔する。

(……まだ、言えないけど…)

 章さんは、亡くなった幸子さんお母様も含めて一斉に『彼女が出来た』と報告したいと話していらした。だから……章さんが素敵なパートナーと巡り会って幸せを掴んでいる、という事実は、私から智に伝えるべきでない。お盆の日を迎えて智が章さんから報告を受ける、それまでは口にチャックだ。


 智の大きくて熱い手が、私の手を労わるように包んだ。私を見つめているダークブラウンの瞳が、不安気に揺れている。

「肌が受けたダメージを取り戻すにもまた時間とコストがかかるんだ。わかるだろう?……手早く家事を片付けたいのもわかるが、ゴム手袋を使ったほうが後々時間取られなくて済む。メリットのほうが大きいし、そっちの方が俺は合理的だと思うが」

「う……」

 一度同じ商談の場に出たからなのか、それともこれまで一緒に過ごしてきた8ヶ月という月日の中で智に私の性格を把握されてきているからなのか。私が『合理的』という言葉にめっぽう弱いということを盾に取るようなその発言に思わずたじろいだ。

 仕事の場でも『合理的か合理的じゃないか』『効率がいいか効率が悪いか』という判断基準をしているからこそ。智の諭すようなその言葉に、自分の意思が蝋燭に灯された灯りのようにゆらゆらと揺らいでいく。


 なんだろう。元々から話術には長けている人だったけれど、巧みな会話で人を惹き付けて、宥め、そして納得させる流れが以前よりもスムーズだと感じる。メリットとデメリットを説き、コストや手間のことも引き合いに出して相手を納得させる話術に磨きがかかっているように思えた。部下を纏める立場になったからなのか、それともそうじゃないのかはわからないけれども。


 どう返答しようかと考えあぐねていると、智は不安気な表情を崩して私の手をぎゅっと握ったまま、今度は不満そうな声色で言葉を続けた。

「……ここまで言ってもゴム手袋使わねぇなら、食器洗浄機買う。ちょうど先週ボーナスだったし。ついでに知香は我が家では水仕事禁止にする。掃除全般もダメ。俺がやる」

「え、ええ!?」

 智の薄い唇から放たれた、容赦ない言葉たち。その言葉に込められた意思の強さにあたふたしつつ、不服そうに細められている瞳に視線を合わせる。

「ちょっ、横暴だよ、それ……!そんな制限されちゃったら家事滞っちゃうじゃない。智も仕事忙しくて家事に回す時間あんまりないんだから、お家汚くなっちゃうよ」

 何故急に、ここまで家事の幅を制限されないといけないのだろう。全く意味がわからない。私が見つめているダークブラウンの瞳は相変わらず不服そうな光を宿しているけれど、私だって先ほどの智の強引な主張に、納得なんて出来るはずもない。

 必死に抵抗の言葉を口にしていると、智のビジネスバッグバッグを握っている右手とは反対の、左手の……薬指に。そっと、智の指先が触れた。その動作の意味が飲み込めなくて、視線を手元に落としていく。


「……俺と知香のここに、が灯るまで。いや、その先もずっと、綺麗な手先でいて欲しいから」


 愛おしそうに、それでいて嬉しそうに紡がれた言葉。その意味をゆっくりと噛み砕くと、ぴしり、と。身体が思いっきり硬直する。そのまま、じんわりと顔が赤くなっていく。

 ふっと、楽しそうに吐息が漏れる声がした。ゆっくりと視線を上げると、目の前には。口の端を吊り上げて。余裕ぶった……いつもの意地悪な笑みを浮かべている智が、いた。



 かっと赤くなった私の表情をひと通り愉しむように眺めた智が、トン、と。玄関から廊下に足を踏み出していく。

「飲んでばっかりであんまり食えなかった。なんか食べたい」

 しゅるりとネクタイが外されていく衣擦れの音が聞こえた。智のその声に、ハッと我に返る。そうして、先ほどまで作っていた軽食の存在を智に伝えていく。

「そうじゃないかなと思って、お茶漬けの元作ってるよ」

 男は飲みながらご飯を食べることが少ないから飲み会後にはお腹が空くんだ、ということを、大迫係長がよく話していた。ついでに軽食を作ってくれる彼女さん……ではなくて、もう入籍されたから、奥さんの惚気付きで。
 それを思い出して、智から『今からタクシーで帰ってくる』とメッセージアプリで連絡があったあとに、慌ててお茶漬けの元を準備し始めたのだ。鰹節で出汁を引き、塩と醤油で味を調えただけのとてもシンプルで簡単なものだけれども。

「お、ありがと。すまん」

 ふうわりと、智がやわらかく笑いながら背後の私を振り返った。あたたかい笑顔に心が綻んでいく。リビングに向かう智の背中を追って、私もパタパタと廊下を歩いていき、預かったビジネスバッグをPCデスクに置いてキッチンに身体を滑らせた。

 智は解いたネクタイをハンガーにかけて軽く干していた。今日身に付けていたネクタイは、私が智の誕生日に贈った、紫みを帯びた深緋こきあけ色に生成で斜めのストライプが入ったネクタイ。明るすぎず、それでいて渋すぎないその色はやっぱり智に似合っていて。我ながら良い色のチョイスだったな、と、内心鼻が高くなる。

 お碗に炊いた白米をよそい、彩りに青ねぎ・ごま・のりをかけて、塩昆布と梅を小鉢に盛った。それらと熱々の急須をお盆に移し替え、ソファに沈み込んでいる智の前まで運んでいく。

 智は膝の上でスマホと手帳を広げて、スマホから何かを書き写していた。仕事での顧客への訪問日の調整とか、そういったことだろうか。

 硝子天板のテーブルの前で床に膝を着いて、お椀や小鉢をゆっくりと並べて行くと、智はパタンと手帳を閉じてふたたび嬉しそうに吐息を吐き出した。

「ありがとな、知香」

 そうして、ぽんぽん、と。ゆっくりと頭を撫でられていく。その仕草に、気にしないで、と伝えようとふるふると首を振っていく。

 いただきます、という智の声が聞こえた。その声に、私はお盆をテーブルの隅に一度置いて、智の隣に沈み込んでいく。

「ん、塩加減最高」

 智がお椀を手に持って口をつけた。そうして紡ぎ出された褒め言葉にほっと安堵の息を吐く。

「今日は猛暑日だったから、汗かいただろうし。ちょっと塩気を強めにしたんだ。良かった」

 お盆直前。今日は全国各地で猛暑日だったということだから、外回りをすると言っていた智は汗をかいて塩分が足りてないだろう、と考えて、味見した時に少し塩っぱく感じるくらいまで塩を入れたのだ。相手のことを思いながら準備する料理は、本当に作っていて楽しいと感じる。


 心が綻んだ、穏やかな時間が流れていくけれど。智に報告しなければならないことが―――ひとつ。


 ソファに沈み込ませていた身体に力を入れて、背筋を伸ばし隣の智に視線を向ける。

「あの……智。ちょっと落ち着いて聞いて欲しいんだけど」

「ん?」

 智はお椀に口をつけて箸を使って白米をかき込みながら、目だけを動かして私に視線を合わせた。


 心臓が、嫌な速度で鼓動を刻んでいる。身体の奥底から込み上げてくる焦燥感と、……口元だけはニヤついたような。そんな表情を向けられていた、あの瞬間が脳裏に蘇った。


 リビングに効かせている冷房。設定温度は28℃だからそこまで寒くないはずなのに。妙な恐怖感で、ふるり、と身体が震える。

「………黒川さん。接触された」

「っ!」

 私の震えた声に、智がひゅっと大きく息をのんだ。その瞬間に恐らく口をつけていたお椀のお茶漬けが気道に入ったのだろう、お椀を少しだけ乱暴にテーブルに置いて、激しく咳き込んでいく。

「あっ、ごっ、ごめん!驚かせて」

 慌てて智の背中をさする。話すタイミングを間違えたかもしれない。けれど、智は食事が終わったら持ち帰った仕事を捌いていることが多いから、早めに伝えたいと考えていた。判断を誤ったかなと後悔しつつ智の身体をさすっていく。

 落ち着いたのか、ほう、と、智が大きく息を吐いた。咳き込んで少しだけ湿った瞳のまま、何があった?と、視線だけで私に訊ねてくる。きっと咳き込んだせいで、まだ声が上手く出せないのだろう。

「……今日、仕事終わって…ビルを出て、黒川さんがいたの。あの時乱暴にしてごめんって。お詫びに食事でも、って言われたけど……」

 じわり、と、言いようのない不安感が身体の奥からせり上がってくる。その感覚を必死に堪えながら、絞り出すように言葉を続けた。

「あれは明らかに本心じゃなかった。また、何か……企んでると思う。私の友達が偶然近くにいて割って入ってくれたから、黒川さんは諦めてくれたけど」

 ゆっくりと世界が歪む。あの時の禍々しい空気感は、きっと一生忘れられない。

 震えた声で放った私の言葉に、智が驚いたようにダークブラウンの瞳を瞬かせた。

「ん?今日、片桐は?」

 智のその疑問は至極当然のことだろう。だって、ゴールデンウィークが開けてからは、毎日、それこそ1日も欠かさずに帰り際には待ち伏せされていたのだ。今日が初めて、待ち伏せされていなかった日、で。

 智の問いかけに、私はゆっくりと息を吐きながら、首を横に振った。

「今日は片桐さんいなかったの。だからほっとして……ぼんやり歩いてたから、黒川さんがいることに気付くのが遅れちゃって」

「……」

 智は私の言葉に、訝しむように眉を顰めていく。そのままじっと。考え込むように黙りこくった。

 長い脚をするりと組みながら左手を口元に当てていく。……智の、何かを深く考えているときの癖だ。

「………どうしたの?」

 なんだろう。私の言葉に、なにか引っかかることがあっただろうか。私の呼びかけに智が小さく身動ぎをし、切れ長の瞳を動揺したように揺らしながら私に視線を合わせた。

「………あ、あぁ、すまん。黒川…が、か………」

 その言葉を紡いで、智はふたたび黙りこくった。

 その視線は、硝子天板のテーブルの一点に向けられて。じっと……深く、深く。何かを考え込んでいるように見えた。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。智の考え込んでいるような横顔を眺めつつ、おずおずと智に声をかけていく。

「智……早く食べないと寝る時間が減るよ?」

 私の呼びかけに、智がふっと意識を浮上させたように顔を上げ、テーブルの上のお椀に視線を向けた。

「あ……ん、すまん。食べる」

 そうして、智はするりと組んだ足を崩して、熱い手のひらを伸ばしてきた。真剣な表情をして、伸ばされた手のひらが私の頬にそっと触れる。

「………ごめんな。そばで守ってやれなくて。怖かったろう。明日も何かあれば、躊躇わずにすぐに警察に駆け込め。いいな?」

 ダークブラウンの瞳に強く射抜かれる。紡がれた言葉に、うん、と小さく頷きながら、頬に添えられた智の手のひらを重ねた。智が震える声で小さく言葉を続けていく。

「…… GPSアプリ。まだ、消してなかったよな?あれ、起動させておいてくれ。俺の手が届かないところで何かあったら……俺は、知香を助けられねぇから」

 そうして、そっと。私の唇に、智の唇が重なった。塩分を強めにした、お茶漬けのせいか……重なった唇は、少しだけ塩辛くて。

 なんだか―――悲しみで流す涙のような、味がした。




 それ以降の、智は。

 智に食事を進めるように促して、お椀に口をつけ出しても。

 お風呂に入って、布団に潜っても。


 
 智は……ずっと。

 黒川さんの話題以降、上の空だったように思えた。
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