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本編・第三部

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 助かった。そう思った途端身体から力が抜け、私の少し前に立っている薫にふらりとしがみついた。

「わ!ちょっと、知香、大丈夫?」

 薫が焦ったように私の肩に触れた。黒川さんの異様な雰囲気とオーラにあてられ、どっと疲れが出てくる。

「だ、いじょうぶ……ごめん…」

 クラクラとする視界に、ぴたりと止んだ煩いほどの警鐘。反動でぐわんぐわんと世界が揺れている。

「……ちょっと前から見てた。モツ鍋食べに行った時、知香の彼氏は取引先の人って言ってたでしょ?もしかして黒川さんなのかと思って。でもそういう関係にしては様子がおかしかったから、さも待ち合わせをしてた風を装って割って入ったの」

 薫がプライベート用の優しい声で小さく声をかけてくれる。爽やかな香りが鼻腔をくすぐっていく。安心するようなそのにおいに、ほうっと息を吐いて、身体の重心を元に戻した。

「ありがと、薫………」

 私がぺこり、と頭を下げながら心からの謝意を述べると、薫が不満げに小鼻を膨らませながらひどく真剣な声色で私を諭すように声をあげた。

「もう。私が税関に用事があってそれを済ませて直帰しようと偶然ここを通りかからなかったら、本当に連れ去られてたかもよ?わかってる?」

「……ん…」

 ここからかなり離れた、大橋を渡った先の埋立地に立地するグリーンエバー社に勤務する彼女が。どうしてこの交差点にいるのかは全く分からなかったけれど、なるほど、グリーンエバー社が立地する地域の管轄で、更に言えばこのオフィスビルからも近い税関に用事があって、薫はこの場所を通りかかっただけなのだと察する。

 旧知の仲である彼女が咄嗟に状況判断を下して割って入ってくれなければ、黒川さんに力づくで連れ去られていたかもしれない。そう考えるとぞっとする。

「知香も、嫌なら嫌ってもっとはっきり言わないと。あんな遠回しに言ったって伝わらないよ。取引先の人ならまだしも、解雇された時点でもう取引先の人じゃないのよ?無関係の他人なんだから、もっとはっきりと拒絶するべきだよ」

「……うん…」

 薫が口にしたことは紛れもなく正論だ。三井商社を解雇された黒川さんは、私にとって仕事上の関係者でもなんでもない。薫が黒川さんに放ったように、毒を吐いて鋭く拒絶しても、業務上なんら支障はないのだ。だから無理に営業スマイルを作らなくても良かったはずで。

(……なんでこんな簡単なことも気が付けなかったんだろう…)

 意味のない後悔ばかりが押し寄せてくる。あの事件から3ヶ月が経って、存在すら忘れ去っていた黒川さんが唐突に接触してきたことにひどく動揺してしまったけれど。

 役職で抜かれてしまった年下の智を逆恨みしていた、黒川さんが。



 不正を暴かれ、解雇されたことを―――逆恨みしないはずがない。



(……帰ってきたら…智に、伝えないと………)

 後輩たちと楽しい時間を過ごしてくるだろうに。不正事件を解決させてようやくスッキリしたはずの智に、懸念材料を増やしてしまう。それにひどく罪悪感を感じるけれど、彼は私を害すことで復讐を謀ろうとしているのだから、伝えないという選択肢はない。



 解決した、と思っていた、のに。
 考えれば考えるほど、気持ちが落ち込んでいく。



 ……それでも。

「ごめんね、薫。叱ってくれてありがとう」

 いつまでも沈鬱な表情をしていては、助けに入ってくれた親友にさらに心配をかけてしまうだけだ。それは本意ではないから、少しだけ無理に笑ってみせた。

 私の声に薫が「ううん」と小さく頭を振りふうわりと笑って。腕を動かしながら、行こうか、と私を促してくれる。

 ふたりで横並びになりながら、目の前の最寄駅に向かって歩みを進めていく。そうして薫は、はにかんだような表情を浮かべて、隣を歩く私に視線を向けた。

「あのね、私、彼氏できたの」

「えええっ!!ホントに!?おめでとう~!!」

 思わぬタイミングで聞けた、嬉しい報告。親友の吉事は自分のことのように嬉しい。顔を綻ばせながら、薫の幸せそうな表情を見つめる。

 モツ鍋を食べに行った時に、仕事先の人で気になる人がいるが、どうも結婚前提の相手がいるらしい、と聞いていた。諦めきれないから、今年の夏にかけてアタックしてみようと思っている、ということも。その下準備として、髪を切ったりと行動を起こしていたことも。

 好きになったのに初めから諦めなきゃいけないなんて、切ない。薫の恋路がうまくいけばいいな、というのは、常々思っていたから、本当に良かった。

 本当によかったね、と、声をあげようとしたけれど。薫がキラキラした笑顔で、恥ずかしそうに口にしたそのあとの言葉に。瞬間的に、喉が凍りついた。



「えっとね、珍しい苗字のひとで。仕事先の人だから、もしかしたら知香も知ってるひとかも。屯に大里の『邨上』さんっていうひと」



(………………え……)

 『邨上』。日本にはたくさんの人が住んでいる。だから、珍しい苗字だとしても、智と被ることはままある、こと、のはず。思考回路をゆっくりと巡らせて、苗字被りの別人だろう、と、自分を納得させた。

 キーンと、甲高い音で奏でられる不快な耳鳴りがする。

 動揺しているはずなのに、今の私はひどく冷静だ。薫と横並びになって足を動かして、立ち止まることもしていない。

 違う速度で、でも限りなく同じくらいの速度で、コツコツと。ふたり分のヒールの音をさせながら、最寄り駅のホームに向かって一緒に階段を降りていく。薫に返答する言葉を探しているうちに、薫は嬉しそうにその『邨上さん』のことを話し出した。

「黒川さんの不正事件以降、迷惑をかけられた者同士で距離が縮まって、先月の花火大会で告白されたの!実家はこっちのひとなんだけど、お母さんが亡くなられていて、お父さんとお兄さんご夫婦と、あと甥っ子さんがご実家に住んでるんだって。そんなこんなで実家が手狭だから、彼自身は一人暮らししてるみたいなの」

「そ……う、なんだ」

 流れるように語られた、その『邨上さん』のこと。頬をわずかに染めている薫の横顔を眺めながら、語られた話しを噛み砕いていく。


 黒川さんの件で被害を被ったのは、循環取引に巻き込まれていた商社だけではなく、グリーンエバー社のような営業倉庫も該当する。智はグリーンエバー社と繋がりがある。だって、私が4月に加藤さんと南里くんをグリーンエバー社に見学に連れて行った時に、正面玄関のわきに設置してある喫煙所で、智と遭遇した。


 そうして―――亡くなった幸子さんお母様友樹甥っ子くん。手狭な実家。一人暮らし。


 そういえば。智は、職場の後輩たちと先月の花火大会に行っていた。


 それに、最近、よく、ベランダで何かを話している。愛用の手帳を持ってベランダに出る時は仕事の電話だけれど、時折、スマホだけを持ってベランダに出ている時もある。それはきっと、プライベートに関することで。


「これからね、そのひととお食事に行くんだ。楽しみ~」

 ホームに繋がる階段を降り切った薫がくるりと身体を反転させて、階段を降りている最中の私にとびっきりの笑顔を見せてくれた。



 その薫の横に。余裕ぶった笑みを浮かべた、智の幻影が見えたような、気がした。



「それにね?そのひと、すっごい物知りなんだ。幕末の松下村塾があるじゃない?あの『村』は、本来はそのひとの苗字の『邨』が正式な表記なるんだって。ちなみにこの『邨』っていう漢字、山奥にあるとても小さな集落を指すんだって!」

 公私を問わない、鉄板ネタであるはずの……苗字に関する逸話。


 それは、私に―――恋人に『浮気されている』という事実を。
 そして、その相手は、『私の親友』である、ということを。

 真っ直ぐに、それでいて鋭く突きつけるには。




 それだけで、十分だった。




「……知香?」

 不意に、私の名前が呼ばれる。ハッと我に帰れば、目の前には心配そうに眉を顰めて私の顔を覗き込んでいる、薫がいた。

「ねぇ、顔青いよ?もしかしなくても、さっきの黒川さんのこと、気にしてる?……警察、相談に行く?着いていこうか?」

 薫は矢継ぎ早に言葉を続けながら、ホームに繋がる階段に立ち竦んだままの私の隣までコツコツと音をさせながら登り上がってきて、だらりとした私の手をぎゅっと握った。

「相談に行けば、記録残るから。一緒行こう。大丈夫だよ、知香はひとりじゃないから」

 真剣な表情で、私を落ち着かせるようにゆっくりと優しい言葉を投げかけてくれる、私の大切な親友。


 ―――信じて、いた、のに。また、捨てられるのか、私は。


 不思議なことに、涙すら出てこない。平山さんに捨てられた時は、あんなに泣けたのに。もう何も感じられない。


 荷物、纏めなきゃな。新しい家、せっかくなら会社の近くで探そうかな。でも、そうしたら―――智と薫が隣り合っているシーンを見てしまうかも。それはそれで嫌だな。あの場所は私がいたのに、って、思うかもしれない。


 薫の心配そうな表情を見つめていると、いろんな想いが駆け巡っていく。楽しかったこと、哀しかったこと。嬉しいことも苦しいこともふたりで分かち合って、それでも手を取り合って、優しい日々を過ごしていけると……信じて、いたのに。


「-----」


 ずんと重く、深く沈んだ意識の中で、どこかで聞いた声が耳に届いた。その声に反応して、薫がホームに視線を向けていく。そうして、その表情が緩やかに綻んだ。

 それはまるで―――恋焦がれた人が、そこにいる、と。瞬時にわかるような、恋をしている表情、で。



 同じ傷を持った者同士、だと、思っていたのに。
 傷の舐め合いだと、思っていた、のに。



(…………そっか…)

 傷の舐め合いはいつか破綻する。自分でもそうだとわかっていた。智と付き合うようになってから、幸せすぎて忘れ去ってしまっていたけれど。破綻する時が、来たのだ。

(………………)

 どこかで聞いた声が近づいてくる。
 無感情に、無感動に。緩慢な動作で、声のする方向に視線を向けた。


 私は。
 そこに、智が現れる、と、覚悟していたから。


 耳に届いた、驚いたような声で紡がれていく言葉が―――理解、できなかった。



「………え、ええぇ?知香、さん?」



 幸子さんお母様に似ているであろう丸っこい輪郭の、ダークブラウンの双眸が。階段の途中に立ち竦んだままの私を、彼が。

 瞠目したまま、智にそっくりなその瞳を、大きく揺らして。

  さんが、私を見つめていた。
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