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本編・第三部

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「あっつう……」

 8月も10日を過ぎて、ねっとりと暑い時期が続く。

 終業時刻を迎え残業をしフロアから退出すると、ぬるい風が肌に纏わりついた。廊下はフロアに比べてエアコンの効きが良くないから、余計に暑さを感じてしまう。

 汗ばむ首筋にパタパタと手で風を送りながら女性社員用の更衣室に滑り込むと、周囲から浮かれたような声色で連休中の帰省の予定だったり、デートの予定だったりが話されているのを耳にする。

 明日まで勤務すれば、お盆休みに入る。ゴールデンウィーク前と同じく夏季休暇中は税関やコンテナヤードも閉まるから、今日も仕事が立て込んでいてヘトヘトになるまで仕事をこなしてきた。

(本当は、向こうに帰れたら良かったんだけど……)

 帰省の話題が展開されていくのを耳にして、自分のロッカーを開きながら心の中で小さくため息をついた。

 今回の夏季休暇。本当は私だけでも実家に帰省しようと思っていたけれど、役員懇談会の翌週に行われる通関士の試験まであと1ヶ月半という所まで迫っている。連休中は過去問を解いたりと勉強を進めたいと考えて、身を切られる思いをしながら泣く泣く帰省を断念した。

 そして、ゴールデンウィークは私の実家には顔を出したけれど、私は智の実家には顔を出していないのだ。智だけは、帰省の帰り際に私のお母さんに持たせてもらったお土産を持って、仕事帰りに顔を出しに行ったのだけれども。今回は亡くなった幸子さんお母様のお墓参りもあるから、智と一緒に短時間だけ顔出しに行くことにしている。久しぶりに友樹甥っ子くんに会えるのも楽しみだ。

 開いたロッカーから鞄を取り出して肩にかける。スマホを手に取ると、智から、仕事は定時だったけれど今日は後輩たちと食事に行くから夕食は要らない、というメッセージが届いていた。


 智は相変わらず多忙な日々を過ごしている。仕事はもちろんのこと、あの花火大会のおかげでこれまで関わりがなかった部下たちとの親交が深まったようだった。元来人懐っこいタイプだからか後輩たちに慕われているようで、土日もその部下たちの相談に乗っており、ベランダで何かを話していることが多くなった。


(お盆休み中……浴衣、披露できたらいいなぁ)

 昇進祝いとして内緒で作っていた、お揃いの柄の、色違いの浴衣。サプライズで進めていたから、智が不在の時を狙って作業を進めていたが、こうして智が忙しいこともあって当初の予定よりも早く完成したのだ。

 早く披露したくてうずうずしているのだけれど、ゆっくりと話ができるタイミングで……と考えていたから、お盆休みに帰省しないという選択はこの意味でも正解だったように思える。

 エレベーターホールでタイムカードを打刻し、エレベーターを待つ間に。智に宛てて、了承の旨と、きっとその席ではお酒を飲むだろうから飲みすぎないでね、ということと、帰りは気をつけて帰ってくるようにというメッセージを返信すると、即座に既読が付いて。『ごめん』というように、何度も頭を下げる動きをするスタンプが送られてきた。

 ここ最近、しょっちゅう送られてくるこのスタンプ。智と過ごす時間が以前よりも減ってしまっていて寂しさが募るけれど、勢いよく頭を下げるモーションがなんだか可笑しくて、このスタンプを目にするたびにくすりと口元と心が綻んでいく。よく送られてくるから、智のお気に入りでもあるのだろう。

 チン、と軽い音がして、エレベーターが到着した。開いたドアに足を踏み入れ、無機質な音を聞きながら一階のエントランスまで下りる。

「……あ」

 一階にエレベーターが到着して、エントランスに足を踏み出す、のだけれど。……いつも待ち受けているはずの、へにゃりとした笑顔が見当たらない。不思議に思って、4機あるエレベーター周辺に視線を彷徨わせる。

(……お盆前だし、片桐さんも忙しいんだろうな)

 片桐さんは課長代理に昇進した。営業だけでなく部下の管理なども任されるようになったわけで、きっと大変なんだろう。智のように体調を崩さないといいけれど。

(…………って、違う!)

 これじゃ、私は片桐さんを気にしていて、片桐さんが私を待ち伏せしていることを私自身が待ち望んでいるようだ。思わず頭を振ってその考えを打ち消していく。

 鬱陶しく思っていたけれど、それが実際に無くなると不思議に思える。片桐さんは狡猾な人だから、もしかすると……胸の中に浮かぶこの感覚を私を智から奪い取るために利用しようとして、わざと今日は待ち伏せしていないのかもしれない。

 思い通りになんかなってやるもんか。ぎゅっと唇を一文字に結ぶ。そのままズンズンと出入り口の自動ドアを目指して歩いていく。

 ふわり、と、自動ドアが開くと、運悪く限界まで傾いた西日の細い光が私の目を焼いた。思わず左手を顔の前に翳して、目を庇う。

 白んだ視界が元に戻り始めて、猛暑日の名残りの空気を吸い込んで。高層ビルの谷間に落ちていくような、色鮮やかな夕焼けを眺めながら。最寄駅に向かって、ゆっくりと足を動かしていく。




「……一瀬さん」



 不意に。あのシンポジウム以降、が、聞こえた。



 ぎくり、と。瞬時に強ばった身体を動かして、恐る恐る声がした右側に視線を向けると。



 面長の、細い瞳と。視線が、交差した。



 以前と同じ、ベタついた髪の脂がてらてらと光っている。




 どうして、彼が。この交差点に―――いる、のだろう。




 面長の瞳が、すぅ、と。以前とは違い、細められたことを。混乱した思考の片隅で、視認した。

 こちらを観察するようにじっと見つめてくる、そのひと。やわらかく、優しく、それでいて申し訳なさそうに細められている、瞳。そのひとの瞳に宿る鈍い光だけが、やけに目についた。

 そのひとは、今日は白い半袖のTシャツとジーパン、という、ラフな扮装いでたちをしている。それはそうだろう。

 だって、三井商社を懲戒解雇となって、社長さんに援助されながら、定職にも付かず生活をしているらしい、ということを……智から、聞いていたから。

 目の前にいるひとが、以前のようにスーツを身に纏っていなくても、なんら可笑しくは、なくて。




「……この前の事、ずっと謝りたかったんだ」

 穏やかな話し方。以前とは全く違う、優しい声色。値踏みされているような、あんな視線ではないのに。


 ―――頭の中で、警鐘が大きく鳴り響いている。


「……ぁ…」

 声が、出ない。ただただ……そのひとが私に近づいてくるのを、硬直したまま眺めるしか出来ない。

「あの時、乱暴なことをして、申し訳なかった。この通りだ」

 私から少し離れた場所から。それでも、手を伸ばせば届く距離から。緩やかな動作で、てらついた頭が下げられる。


 逢魔が時の夕焼けの名残の赤さが広がる、雑踏の中。普段だと、茜色のような澄んだ夕焼けの赤さが広がっているのに。ずっしりと、澱んだような……仄昏い赤い色に染まった世界が。眼前に広がっているような、気がする。


 ゆらり、と。彼の頭がゆっくりと上げられた。手入れもされていないような伸ばしっぱなしの眉が申し訳なさそうに顰められている。


「あの時の俺は、警察に突き出されても仕方ない行為を一瀬さんにした。無関係だった君を巻き込んでしまった。申し開きのしようもない。それなのに、俺を警察に訴えなかった君に感謝している」

 なんだろう。穏やかな声色で、真摯に謝罪されているはずなのに。目の前のひとは、口元だけは―――ニヤついたような笑みを、浮かべているように思える。

 言いようのない恐怖感で噴き出た汗が、するりと背筋を滑り落ちていった。

「お詫びに、何かをご馳走させて欲しい。何が好き?どこでもいいよ。君の彼氏が連れていけないような高いレストランでも行こう。俺、実は御曹司なんだ。とある会社の社長の息子でね」

 そのひとが、一歩ずつ。私に近寄ってくる。トン、トン、と。そのひとが履いているスニーカーの音が、アスファルトを叩いている。

 間近に迫った、ペタリ、と、貼り付けたような笑み。その不気味な表情に射竦められて総毛立つ。


 頭の中で鳴り響く警鐘を、汗が伝う不快な感覚を、必死に押さえつける。震える喉を叱咤して、絞り出すように声をあげながら。形だけの営業スマイルを必死に浮かべた。


「ご無沙汰、して、おります。………え、と。謝罪は、有難く、受け取らせていただきます。ですが、お食事は……その、」

 私が声を発するたびに、ゆっくりと。周囲の空気が冷えていく気がする。今日は猛暑日だった、はずなのに。身体の芯から震えが込み上げるほど寒いのは、気のせいなのか。

 ドクドクと速い鼓動を刻んでいる心臓を押さえつけて、作った笑みを貼り付けたまま必死に言葉を探す。


 投げかけられた謝罪の言葉。それを真正面から信じられるわけがない。
 だって―――こんなにも。私の頭の中では警鐘がガンガンと鳴り響いているのだから。


 シンポジウムが開催された日に。受付でこのひとと遭遇した、あの瞬間から。こうやって、私の頭の中は警鐘が鳴り響いていた。

 だから、このひとの言葉を真っ直ぐに信じることは、自らの生命を棄て去ることと限りなく等しい、はずだ。

 引き攣った笑顔のまま黒川さんを見つめていると、苛立ったような声が低く響いた。

「……そんな風に言わずに。ほら、おいで。悪いようにはしないから」

 私に投げかけられた言葉は、やわらかい。けれど、確かな苛立ちが含まれた鋭い声。耳に届いたその声色に、私の直感は正しかったと分離した意識の中で静かに確信を抱いた。

 そのひとの手が、私の身体を目掛けて真っ直ぐに伸びてくる。触らないで、と、瞬間的に大声を出そうと息を吸った、その瞬間。


「あ、知香~?ここにいたんだ!」


 間延びしたような、それでいてしっかりとした芯を感じる女性の声が、交差点に響いた。ハッと我に返って、声がした方向……黒川さんの背後に、視線を向ける。

 落ち着いた深みのあるブラウンに染められた、耳まではっきりと見えるくらいのショートヘア。颯爽とした印象を与える、パンツルックスのスーツを身に纏った、私の親友が、そこにいた。

 コツコツと、ヒールの音がする。私の近くまで歩いてきた薫が、明らかに……驚いた表情を作って。芝居がかったように目を丸くさせながら声をあげた。

「あら、三井商社を解雇された黒川さんじゃないですか?その節はどうも。弊社もずいぶんと迷惑をかけられましたよ?」

 鋭い切っ先を孕んだ言葉たちを、薫は仕事用のサバサバとした口調で黒川さんに放っていく。……顔に浮かべた満面の笑顔とは裏腹の、毒のある言葉が勢いよく黒川さんに刺さっていくシーンが見えたような気がした。


 グリーンエバー社営業倉庫会社に勤めている、彼女。黒川さんが不正取引をしようとして私に通関依頼をかけてきたときの保管倉庫が、グリーンエバー社、だった。だから、この不正事件に巻き込まれて被害を被ったのは極東商社うちだけではない。保管倉庫や手続きを進めていた税関、コンテナヤードも該当するのだ。


「極東商社にお勤めの一瀬さんにだけ、お詫びですか?弊社にも迷惑をかけたのですし、私にもお詫びして頂きたいなぁ。あの時すごぉぉぉく大変だったんですよ?その席に私もご一緒させて頂く権利はあると思います。ね、黒川さん。いいですよね?」

 いつも電話口で聞くような、サバサバした声ではなく。禍々しい赤い空気をバッサリと切り裂いていくような、冷えた声が薫から響く。


「あ……え、えっと」

 先ほどの余裕ぶった声とは全く違う、狼狽した声が黒川さんから上がる。面長の顔にじっとりと汗が浮んで、視線があちらこちらに彷徨っている。

「黒川さんが、設けてくださる、お詫びの席。私も、ご一緒させていただいて、よろしいですよね?」

 薫が、ずいっと。わざとらしく言葉を区切りながら、確認するように。私と黒川さんの間に割り込んだ。

 おどおどとしたような雰囲気で視線を泳がせていた黒川さん。しばらくして、私たちに目を合わせず、汗ばんだ額を手のひらで拭いて。消え入りそうな声で小さく言葉を発した。


「……その。今日は一瀬さんおひとりだけのつもりだったので、持ち合わせがなくて。またの機会に、お声がけさせていただき、ます……」


 黒川さんは、その言葉だけを残して。拍子抜けするほど―――あっさりと。私たちに、背を向けた。
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