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本編・第三部
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買い物籠を腕にかけて、ひき肉や鶏肉、それから梅と小葱、生姜等を放りこんでいく。最後に冷凍うどんの麺と清涼飲料水の大きなペットボトルを入れて、レジに並んだ。
目の前に並ぶ人の買い物籠の中身がレジに通されていくのを何気なく眺めていると、カサカサ、と。紙が擦れるような不思議な音が聞こえてくる。
(……?)
音が生まれていると感じた、荷物を詰めるサッカー台の方向に、ふい、と視線を向けた。そこにはこのスーパーの店員さんたちが飾ったと思われる青々とした笹に、金紙、銀紙、色とりどりの紙で作られた飾り。
「あ~……」
もうそんな季節か。揺らめく煌びやかな飾りをぼうっと眺めつつ、心の中でひとりごちた。
気がつけば昨日から7月に入っていた。もう、七夕もすぐそこ。今朝見た天気予報では週末は晴れる予報だったけれど、梅雨の期間だからあまりあてにしないでおこう。
店員さんがレジを通してくれて、「3番会計機へどうぞ」と促してくれる。告げられた会計機の前まで歩き、鞄をごそごそと探ってお財布を引っ張り出す。パネルに表示されている金額を確認して、セルフレジに投入し、会計済みの赤い籠をサッカー台に運んだ。
笹の近くに行って、精算した肉や野菜をレジ袋に詰め込みつつ下げられている短冊をしげしげと眺めてみる。
そこには『もっと勉強が出来るようになりますように』だったり、『さかあがりができるようになりますように』だったり、ささやかで可愛らしい願い事が、辿々しい字でいくつも書いてあった。
微笑ましくそれを眺めていると、ふと、目についた願い事。
『妻と子どもと、ずっと一緒にいられますように』
「…………」
拙い字の中で特に目に引く……丁寧で、それでいてとても綺麗なその文字。伝わってくる、あたたかい感情。
出入口の自動ドアが開く度に涼しげな風が吹き、笹が揺れている。クリスマスツリーを彩るような電飾が掛けてあるわけでもないのに、金紙、銀紙が店内の照明にキラキラと反射している。色とりどりの短冊も風に吹かれてゆらゆらとなびいていた。
(……私も、書いていこう、かな…?)
短冊に願いを書くのはいつ振りだろう。小学生の頃以来ではないのか、と、そんなことを考えながら、詰めたレジ袋をサッカー台に一度置いて、笹の下に置いてある短冊とペンを手に取った。
願い事を書いて、笹に吊るす。揺れ動く短冊を満足気に眺めて、私はスーパーを後にした。
「ただいま」
カチャリと玄関を開けて、先ほどまで足を運んでいた自宅の最寄り駅に直結しているスーパーのレジ袋を玄関先に置いた。ガサガサと、袋が擦れる音がする。
靴を脱いでレジ袋をふたたび手にし、リビングに続く廊下を歩いて扉を開いた。
「おかえり」
寝室から智のはっきりとした声が聞こえてくる。その声にもう一度「ただいま」と返答して、声がした寝室を覗き込んだ。
智はベッドに潜り込んだまま、上半身を起こした状態で膝の上にノートPCを置いてカタカタと何かを打ち込んでいた。
昨日は朝からかなり熱が高かったけれど、お昼頃にお粥を食べて薬を飲んで、それ以降はずっと素直に寝ていてくれたからか、今朝には熱もすっかり下がって平熱になっていた。けれど病み上がりには変わりない。管理職に昇進した智はこれまで以上にやることが多岐に渡る。金曜日は早上がりをさせてもらったということだったから溜まっているそれらの仕事を片付けているのだろうと察するけれど。少しだけじと目で智を見つめる。
智が私の視線に気がついたのか、気まずそうに、それでいて困ったように笑った。
「………わかった。あと少しでメール返信終わるから、そんな目で見ないでくれ」
普段より少しだけ伸びた眉を下げながら苦笑する智の表情を見つめて、不満気に口を尖らせる。
「お仕事が溜まってるのもわかりますけど、病み上がりっていう自覚をもう少し持ってください!」
「……ん…すまない」
ぷくっと頬を膨らませながら、智の苦笑するその様子にわざと敬語で文句をつけた。本当に冗談でも比喩でも何でもなく、智は立派な病み上がりなのだから。少しはそういう自覚を持って自重して欲しい。
智がカタカタと指を動かして、パタンとノートPCを閉じた。先ほど言っていたメールの返信が終わったのだろう。そのまま布団に潜り込んでいく様子を確認して、胸を撫で下ろす。
キッチンに足を運び手に持ったレジ袋をワークトップに置いて、購入してきた品物を広げていく。
(あ。うがいしておこう)
洗面台に立ち、手洗いとうがいを済ませキッチンへ移動する。昨日会いに行ったマスターも驚いていたけれど、智が風邪でダウンすることは珍しい。そんな智がかかった悪性の風邪だ。移ったりして私までダウンはしたくない。仕事のこともあるけれど、通関士の試験勉強もしないといけないし、サプライズで進めている昇進祝いの浴衣も作りたいから。やるべきことは山積みで、正直なところ風邪など引いている場合ではないのだ。
キッチンに戻って、大鍋にお湯を沸かしていく。
買い物に出る前に今日の夕食は何がいいかを訊ねていた。熱が高かった昨日はもちろん、今朝とお昼もあまり食べれないということでお粥だったからか、「食べ応えのあるうどんがいい」というリクエストがあった。
乾燥わかめをお湯で戻したり、鶏肉を使って出汁を作ったり、ひき肉を甘辛く煮てトッピングを作ったり、小葱を刻んだり生姜をすりおろして薬味を作ったりとせわしなくキッチンを動き回る。
沸騰したお湯で冷凍うどんの麺を茹でて解凍し深めのお椀に入れて、寝室を覗き込み横になっている智に「夕食の準備出来たよ」と声をかけた。
「ベッドで食べる?」
私の声に智がゆっくりと上半身を起こした。そうして、首を横に振りながらベッドから足を下ろす。
「いや、リビングで食べる」
病み上がりの智はそれを感じさせない確かな足取りでリビングに向かい、ソファに沈み込んだ。昨日の朝の様子から考えてもかなり回復したらしい事が見て取れて、安堵のため息がもれていく。
ふたたびキッチンに戻り、うどんを入れたお椀、それからトッピングの鶏肉、甘辛く煮たひき肉、薬味の小鉢をそれぞれお盆に移して、硝子天板のテーブルに運んだ。
「2日間、色々ありがとうな」
智が申し訳なさそうに沈み込んでいるソファから頭を下げた。その仕草に、ううん、と首を振る。
「あれからずっと忙しかったんだもん。仕方ないよ。でも、もう無茶しないでね?」
私も智の隣に沈み込んでぷくっと頬をふたたび膨らませる。
「……ん。今後はちゃんと体調のことも考えてスケジュール立てる。……ちゃんと叱ってくれてありがとうな」
智はそう言って、やわらかく微笑んだ。その様子に、私は膨らませた頬を元に戻して、横に座っている智に視線を合わせた。
私が会社を辞めようとした時。智は私のことを本気で思って、本気で叱ってくれた、だから今回は、私がそうする番なのだ。
切れ長の瞳と視線が絡み合う。お互いを補い合えている。改めてそう感じるとなんだか擽ったくて、くすくす、と笑い合った。
「ほら、冷えるから。食べよ?」
どちらからとなくそう促して。ふたりで一緒に、あたたかい食事を取っていく。
「知香。役員懇談会をやるホテル。小宴会場とかもあるのか?」
「へ?」
ふたりでテレビを眺めながらうどんを啜っていると、智が唐突に疑問をぶつけてきた。その質問の意図が読めずにお箸を手に持ったまま、パチパチと目を瞬かせる。
役員懇談会が開かれるホテルは、あのホテルが極東商社の株式を少しだけ保有しているという事情もあり、毎年同じホテルの大宴会場で開催されている。男性社員も女性社員も正装し、立食パーティーのような形式で行われる役員懇談会。
昨年秋頃から立ち上がった農産販売部のコーヒー事業メンバーもブラジルから帰国して参加する、ということだから、確実に平山さんと遭遇することになるだろう。その日は夕食は要らないということもあるし、元カレと顔を合わせるという事で、役員懇談会が開催される、場所はどこだ、ということは早い段階で智に伝えていた。
役員懇談会は普段はほとんど接することのできない取締役や執行部のメンバーと一般社員が懇談することが目的だけれど、同期の子たちとも接する事が出来る貴重な機会。だからこそ、平山さんと遭遇するとわかっているそれは憂鬱でもある。
片桐さんが私を待ち伏せしているのは有名な話。その前に駆け巡っていた私と平山さんのゴシップ。その噂も色々と再燃しそうな気がして気が滅入りそうになるけれど、心の中で小さく頭を振って智の質問に返答する。
「うん、あったと思う」
入社して4年目。一年に1度だけ開かれる役員懇談会。入社して以降その全てに参加したから、必然的にこれまで3回訪れているあのホテル。そのフロア図をざっと脳裏に浮かべる。私が出入りしていた大宴会場の下の階に、小宴会場や中宴会場があった気がする。けれど、急にどうしたのだろう。
「そう、か………ん~…」
智が箸を一度置いて、口元に手を当てている。なにかを考え込む時の、癖。深刻そうに考え込んでいるその様子を、きょとん、と眺めていると、智が私の視線に気付いたのか憂鬱そうな表情を浮かべて口を開いた。
「いや、池野課長からの引き継ぎ書に、今年の納涼会についても書いてあってな?去年の会場は今年は押さえられなかった、と。今年は開催しない、という選択肢もあるが……不正事件のこともあるし、池野課長が突然退職したこともある。こういう時こそ全社員が集まる機会を設ける事は大切だ。だから会社から近くてそういう宴会場、どこかねぇかなと探していて、な……」
「あぁ、なるほど…」
確かにあのホテルは極東商社が入るオフィスビルから歩いて行ける範囲。したがって、三井商社が入るオフィスビルからも歩いて行ける範囲なのだ。
「なんにせよ、あのホテルに明日問い合わせてみる。ありがとう、知香。助かった」
智がふうわりと微笑んだ。その言葉に「ううん」と首を横に振る。僅かばかりでも智の力になれたのなら何よりだ。
納涼会、ということは来月中か9月中には開催するのだろう。そういった手配も池野さんがやっていたのかと思うと、彼女の能力の高さを改めて思い知らされる。
(営業も出来て、人材のヘッドハンティングもして、そういうのの手配もして……本当に、視野が広くて凄い人だったんだなぁ………)
そんな彼女の後任。重圧はいかばかりだろう。少しでも智の力になれるならなんでもやりたい。
「都合の良い日取りで会場を抑えられたらいいね」と返答しつつ、智との何気ない日常の時間が穏やかに過ぎていった。
目の前に並ぶ人の買い物籠の中身がレジに通されていくのを何気なく眺めていると、カサカサ、と。紙が擦れるような不思議な音が聞こえてくる。
(……?)
音が生まれていると感じた、荷物を詰めるサッカー台の方向に、ふい、と視線を向けた。そこにはこのスーパーの店員さんたちが飾ったと思われる青々とした笹に、金紙、銀紙、色とりどりの紙で作られた飾り。
「あ~……」
もうそんな季節か。揺らめく煌びやかな飾りをぼうっと眺めつつ、心の中でひとりごちた。
気がつけば昨日から7月に入っていた。もう、七夕もすぐそこ。今朝見た天気予報では週末は晴れる予報だったけれど、梅雨の期間だからあまりあてにしないでおこう。
店員さんがレジを通してくれて、「3番会計機へどうぞ」と促してくれる。告げられた会計機の前まで歩き、鞄をごそごそと探ってお財布を引っ張り出す。パネルに表示されている金額を確認して、セルフレジに投入し、会計済みの赤い籠をサッカー台に運んだ。
笹の近くに行って、精算した肉や野菜をレジ袋に詰め込みつつ下げられている短冊をしげしげと眺めてみる。
そこには『もっと勉強が出来るようになりますように』だったり、『さかあがりができるようになりますように』だったり、ささやかで可愛らしい願い事が、辿々しい字でいくつも書いてあった。
微笑ましくそれを眺めていると、ふと、目についた願い事。
『妻と子どもと、ずっと一緒にいられますように』
「…………」
拙い字の中で特に目に引く……丁寧で、それでいてとても綺麗なその文字。伝わってくる、あたたかい感情。
出入口の自動ドアが開く度に涼しげな風が吹き、笹が揺れている。クリスマスツリーを彩るような電飾が掛けてあるわけでもないのに、金紙、銀紙が店内の照明にキラキラと反射している。色とりどりの短冊も風に吹かれてゆらゆらとなびいていた。
(……私も、書いていこう、かな…?)
短冊に願いを書くのはいつ振りだろう。小学生の頃以来ではないのか、と、そんなことを考えながら、詰めたレジ袋をサッカー台に一度置いて、笹の下に置いてある短冊とペンを手に取った。
願い事を書いて、笹に吊るす。揺れ動く短冊を満足気に眺めて、私はスーパーを後にした。
「ただいま」
カチャリと玄関を開けて、先ほどまで足を運んでいた自宅の最寄り駅に直結しているスーパーのレジ袋を玄関先に置いた。ガサガサと、袋が擦れる音がする。
靴を脱いでレジ袋をふたたび手にし、リビングに続く廊下を歩いて扉を開いた。
「おかえり」
寝室から智のはっきりとした声が聞こえてくる。その声にもう一度「ただいま」と返答して、声がした寝室を覗き込んだ。
智はベッドに潜り込んだまま、上半身を起こした状態で膝の上にノートPCを置いてカタカタと何かを打ち込んでいた。
昨日は朝からかなり熱が高かったけれど、お昼頃にお粥を食べて薬を飲んで、それ以降はずっと素直に寝ていてくれたからか、今朝には熱もすっかり下がって平熱になっていた。けれど病み上がりには変わりない。管理職に昇進した智はこれまで以上にやることが多岐に渡る。金曜日は早上がりをさせてもらったということだったから溜まっているそれらの仕事を片付けているのだろうと察するけれど。少しだけじと目で智を見つめる。
智が私の視線に気がついたのか、気まずそうに、それでいて困ったように笑った。
「………わかった。あと少しでメール返信終わるから、そんな目で見ないでくれ」
普段より少しだけ伸びた眉を下げながら苦笑する智の表情を見つめて、不満気に口を尖らせる。
「お仕事が溜まってるのもわかりますけど、病み上がりっていう自覚をもう少し持ってください!」
「……ん…すまない」
ぷくっと頬を膨らませながら、智の苦笑するその様子にわざと敬語で文句をつけた。本当に冗談でも比喩でも何でもなく、智は立派な病み上がりなのだから。少しはそういう自覚を持って自重して欲しい。
智がカタカタと指を動かして、パタンとノートPCを閉じた。先ほど言っていたメールの返信が終わったのだろう。そのまま布団に潜り込んでいく様子を確認して、胸を撫で下ろす。
キッチンに足を運び手に持ったレジ袋をワークトップに置いて、購入してきた品物を広げていく。
(あ。うがいしておこう)
洗面台に立ち、手洗いとうがいを済ませキッチンへ移動する。昨日会いに行ったマスターも驚いていたけれど、智が風邪でダウンすることは珍しい。そんな智がかかった悪性の風邪だ。移ったりして私までダウンはしたくない。仕事のこともあるけれど、通関士の試験勉強もしないといけないし、サプライズで進めている昇進祝いの浴衣も作りたいから。やるべきことは山積みで、正直なところ風邪など引いている場合ではないのだ。
キッチンに戻って、大鍋にお湯を沸かしていく。
買い物に出る前に今日の夕食は何がいいかを訊ねていた。熱が高かった昨日はもちろん、今朝とお昼もあまり食べれないということでお粥だったからか、「食べ応えのあるうどんがいい」というリクエストがあった。
乾燥わかめをお湯で戻したり、鶏肉を使って出汁を作ったり、ひき肉を甘辛く煮てトッピングを作ったり、小葱を刻んだり生姜をすりおろして薬味を作ったりとせわしなくキッチンを動き回る。
沸騰したお湯で冷凍うどんの麺を茹でて解凍し深めのお椀に入れて、寝室を覗き込み横になっている智に「夕食の準備出来たよ」と声をかけた。
「ベッドで食べる?」
私の声に智がゆっくりと上半身を起こした。そうして、首を横に振りながらベッドから足を下ろす。
「いや、リビングで食べる」
病み上がりの智はそれを感じさせない確かな足取りでリビングに向かい、ソファに沈み込んだ。昨日の朝の様子から考えてもかなり回復したらしい事が見て取れて、安堵のため息がもれていく。
ふたたびキッチンに戻り、うどんを入れたお椀、それからトッピングの鶏肉、甘辛く煮たひき肉、薬味の小鉢をそれぞれお盆に移して、硝子天板のテーブルに運んだ。
「2日間、色々ありがとうな」
智が申し訳なさそうに沈み込んでいるソファから頭を下げた。その仕草に、ううん、と首を振る。
「あれからずっと忙しかったんだもん。仕方ないよ。でも、もう無茶しないでね?」
私も智の隣に沈み込んでぷくっと頬をふたたび膨らませる。
「……ん。今後はちゃんと体調のことも考えてスケジュール立てる。……ちゃんと叱ってくれてありがとうな」
智はそう言って、やわらかく微笑んだ。その様子に、私は膨らませた頬を元に戻して、横に座っている智に視線を合わせた。
私が会社を辞めようとした時。智は私のことを本気で思って、本気で叱ってくれた、だから今回は、私がそうする番なのだ。
切れ長の瞳と視線が絡み合う。お互いを補い合えている。改めてそう感じるとなんだか擽ったくて、くすくす、と笑い合った。
「ほら、冷えるから。食べよ?」
どちらからとなくそう促して。ふたりで一緒に、あたたかい食事を取っていく。
「知香。役員懇談会をやるホテル。小宴会場とかもあるのか?」
「へ?」
ふたりでテレビを眺めながらうどんを啜っていると、智が唐突に疑問をぶつけてきた。その質問の意図が読めずにお箸を手に持ったまま、パチパチと目を瞬かせる。
役員懇談会が開かれるホテルは、あのホテルが極東商社の株式を少しだけ保有しているという事情もあり、毎年同じホテルの大宴会場で開催されている。男性社員も女性社員も正装し、立食パーティーのような形式で行われる役員懇談会。
昨年秋頃から立ち上がった農産販売部のコーヒー事業メンバーもブラジルから帰国して参加する、ということだから、確実に平山さんと遭遇することになるだろう。その日は夕食は要らないということもあるし、元カレと顔を合わせるという事で、役員懇談会が開催される、場所はどこだ、ということは早い段階で智に伝えていた。
役員懇談会は普段はほとんど接することのできない取締役や執行部のメンバーと一般社員が懇談することが目的だけれど、同期の子たちとも接する事が出来る貴重な機会。だからこそ、平山さんと遭遇するとわかっているそれは憂鬱でもある。
片桐さんが私を待ち伏せしているのは有名な話。その前に駆け巡っていた私と平山さんのゴシップ。その噂も色々と再燃しそうな気がして気が滅入りそうになるけれど、心の中で小さく頭を振って智の質問に返答する。
「うん、あったと思う」
入社して4年目。一年に1度だけ開かれる役員懇談会。入社して以降その全てに参加したから、必然的にこれまで3回訪れているあのホテル。そのフロア図をざっと脳裏に浮かべる。私が出入りしていた大宴会場の下の階に、小宴会場や中宴会場があった気がする。けれど、急にどうしたのだろう。
「そう、か………ん~…」
智が箸を一度置いて、口元に手を当てている。なにかを考え込む時の、癖。深刻そうに考え込んでいるその様子を、きょとん、と眺めていると、智が私の視線に気付いたのか憂鬱そうな表情を浮かべて口を開いた。
「いや、池野課長からの引き継ぎ書に、今年の納涼会についても書いてあってな?去年の会場は今年は押さえられなかった、と。今年は開催しない、という選択肢もあるが……不正事件のこともあるし、池野課長が突然退職したこともある。こういう時こそ全社員が集まる機会を設ける事は大切だ。だから会社から近くてそういう宴会場、どこかねぇかなと探していて、な……」
「あぁ、なるほど…」
確かにあのホテルは極東商社が入るオフィスビルから歩いて行ける範囲。したがって、三井商社が入るオフィスビルからも歩いて行ける範囲なのだ。
「なんにせよ、あのホテルに明日問い合わせてみる。ありがとう、知香。助かった」
智がふうわりと微笑んだ。その言葉に「ううん」と首を横に振る。僅かばかりでも智の力になれたのなら何よりだ。
納涼会、ということは来月中か9月中には開催するのだろう。そういった手配も池野さんがやっていたのかと思うと、彼女の能力の高さを改めて思い知らされる。
(営業も出来て、人材のヘッドハンティングもして、そういうのの手配もして……本当に、視野が広くて凄い人だったんだなぁ………)
そんな彼女の後任。重圧はいかばかりだろう。少しでも智の力になれるならなんでもやりたい。
「都合の良い日取りで会場を抑えられたらいいね」と返答しつつ、智との何気ない日常の時間が穏やかに過ぎていった。
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