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本編・第三部

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 小さく息を吸うと、首筋の骨が軋むような感覚があった。こんな穏やかなマスターの前で何を緊張しているのか。目の前に片桐さんがいるわけでもあるまいし。心の中で小さく頭を振って、先ほど吸った息を吐き出すように肺と喉を動かした。

「………その。私の場合、人生相談というわけではないのですが。マスターにお尋ねしたいことが何点かあって」

「んん?俺?」

 視線を手元に落として、挽いたコーヒー豆をペーパーフィルターに移し替えているマスターが驚いたようにゆっくりと視線を私に向けた。琥珀色の瞳がこぼれ落ちそうなほどまん丸になっている。自分に何かを尋ねられるということは想定外だったのだろう。膝の上に置いた鞄をぎゅっと握り直し、じっと彼の顔を見据えた。

「まずは……池野さんのことで」

 私がその言葉を紡いだ瞬間。マスターが驚いたような表情を心底楽しそうな表情に切り替えて、私を制止するように右の手のひらを私に見せた。

「ストップ。知香ちゃん、俺も『池野』だぞ?」

「………あっ」

 揶揄うような口調でマスターが声を発した。その言葉に彼らの関係性を思い出して我に返り、僅かな羞恥心から顔が赤らんでいく。

 すみません、と小さく頭を下げると、マスターは気にも留めていないような様子で、ケトルからコーヒーポットに沸いたお湯を移し替えていく。

「えっと、……加奈子、さんのことで」

 池野加奈子さん。それが、彼女の本名フルネーム。私にとって彼女は取引先の人だからこそ、これまで『池野さん』としか口にしたことがなかった。下のお名前で呼ぶのは何だか擽ったい。擽ったいけれど……聞かなければいけないから。

 ふたたび意を決するように小さく息を吸って、コーヒーポットからくるくると円を描くように蒸らしのためのお湯を投下しているマスターに視線を向けた。

「加奈子さん。日本を発つ……とメールが届いていました。どちらに行かれたんですか?」

 私の言葉に、マスターは動揺の色を見せない。きっと、私がマスターに尋ねたいことがあると口した時点で、この質問は予見していたのだろう。

 彼がドリッパーにお湯を細く注いでいくのをじっと眺める。すると、マスターは小さく息を吐いた。

「悪いな、知香ちゃん。その質問には、答えられない」

「え」

 予想外の回答にぴしりと身体が固まった。何を言われているのか、理解が及ばなかった。

「……加奈子の居場所は、教えられない」

 マスターはコーヒーポットを置いて、同じ意味を孕んだ違う言葉を紡いだ。顎に手を当て白髪混じりの髭を撫でながら、そっと私を見遣る。

「加奈子は……俺の妹でもあるが、この店の顧客でもある。俺は、そういった顧客に関することを聞かれた時に、それらは喋らないと決めている」

 絶望的なまでの、無慈悲な回答。穏やかで、智のこれまでの人生に寄り添ってきた優しいマスターだったら教えてくれるだろう、という想定がいとも簡単にひっくり返されて、ずきり、と。心が収縮した。

 私の絶望的な表情を読み取ったのだろう。マスターが困ったように目尻を下げて頬を掻いた。

「言ったろう?人生相談所を長年やってねぇって。その経験から、リスクヘッジの意味合いも込めて、な」

 そうして、マスターは一度置いたコーヒーポットを手に取ってゆっくりとお湯を注いでいく。

「俺の中での線引きがある。この話はした方が双方のためになる、というような場合のみ、喋る。俺がマサのお母さんの葬儀の時に、マサの身内事情を知香ちゃんに話したのはそういうこと」

 とてもじれったいような速度で、コーヒーポットの細い注ぎ口からお湯が落ちていく。時折、コーヒーポットを傾けて、注いでいくお湯を止めているマスターの手の動きを眺めながら、紡がれた言葉の意味を飲み込んでいく。

 確かに。長年人に関わる仕事をしてきたマスターだからこそ、彼の中の線引きがあるのだろう。過去と未来の境界が、他人と自分の境界が、曖昧にならないように。それは相談にきたお客さんの心の中に土足で踏み入らないようにしている……マスターの工夫のひとつ、なのかもしれない。

「ま、それ以前に……さとっちゃんに近い知香ちゃんには教えられねぇ。さとっちゃんのことだ、妹の居場所がわかれば文字通りその場所まですっ飛んでいって三井商社へ連れ戻しを諮るだろう?」

「あ……」

 紡がれた言葉に、思わず小さく息を飲む。でも、そこには不思議と驚きはない。苦笑したような声色でマスターから受け取った言葉だけれど、私はそれをとっくの昔から知っているように感じたし、マスターが口にした風景が―――智が飛行機に飛び乗って、加奈子さんを日本に連れ戻そうとする映像が克明に想像できた。

 マスターは視線を下に向けたままお湯を注ぎながらも、優しく。まるで、この場にいない智に言い聞かせるように穏やかに言葉を続けていく。

「俺から言えるのは、妹は貿易営業っつう仕事が嫌になったわけじゃぁない。周りの人間関係が嫌になったわけでもない。さとっちゃんが憎くて苦境に落とそうと企んでいたわけでもない。だけど、妹には夢があった。それを叶えるには今が一番都合がいいタイミングだったんだ」

 マスターがコーヒーポットをふたたび置いて、サーバーからコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを移し替えていく。そうして、ゆっくりと琥珀色の瞳が、私に向けられる。

「日本を発つ瞬間まで、これから重圧がのし掛かるさとっちゃんのことをずうっと案じていた。それだけは変わらない事実だ」

 コトリ、と小さな音を立てて。そっと……目の前に白いコーヒーカップが置かれた。爽やかで上品な香りが鼻腔をくすぐっていく。そうして、マスターはふたたび困ったように目尻を下げた。

「妹は、今回のことを5年前から計画していたんだ。それを俺は邪魔してやりたくない。……すまねぇな、知香ちゃん」

「い、いえ……」

 その言葉に小さく首を振りつつ、心の中だけで肩を落とす。

 5年前から……加奈子さんが、計画していた、ということ。私と彼女が、あの路地で。税関に行く道中に迷い込んだ、あの路地で、彼女に偶然出会う前から。彼女は……夢を叶えるために、用意周到に準備していたのだ。

 先ほど説明された言葉を噛み砕いていけば、ほかの顧客の情報は、どう足掻いたってマスターは私に話してくれることはないだろう。逆に、私がここで話すことを違う誰かに話すことはない、という確約めいた話でもあるけれど。

(片桐さんの目の変化のことも……きっと、喋ってくれない…よね…)

 私が相談したい、ということを、マスターは私の目で気が付いた。ならば、小林くんさえも気がついた片桐さんの目の変化をマスターは感じ取っているはず。可能であれば片桐さんが直近でいつ来訪したか、その時に彼の目に違和感を抱いたかどうかを訊ねたかった。けれど、きっとマスターはこれについては絶対に教えてくれない。確証はないけれど、なんとなくそう理解した。

「えっと……なんだか、すみませんでした」

 マスターは、マスター自身が納得し引き受けられる範囲でお客さんの相談に乗っているのだ。根本的なそれを無視してごねるようにこの話しを引き伸ばすのは筋が違う。ぺこりと頭を下げてマスターに謝罪の言葉を述べた。

 私のその様子に、マスターが困ったように吐息を漏らしていく。

「いや、いいんだ。俺が勝手に掲げている信条を押し付ける形になってしまって、逆に申し訳ねぇと思ってるよ」

「と、とんでもないです」

 その言葉に慌てて声をあげて、身体の前で手を横に振った。

 目の前に置かれたコーヒーカップを手に取って口つける。口に含んだ暖かい液体。喉を滑り落ちていくそれは、フローラルな甘酸っぱい香りが鼻を通り抜けていき、程よい苦味が口の中に広がっていく。

 ストレートの豆では味わえない、その複雑な味。独特のその香りや舌触りに酔いしれるように、美味しい、と小さく呟くと、マスターが満足げに微笑んだ。

 一口含んだコーヒーカップをカウンターに置いた。カチャカチャと音を立てながら流しで道具を洗っていくマスターの顔をじっと見つめ、もうひとつの質問をマスターにぶつける。

「その。もうひとつは……片桐さんのことで」

「マサ?」

 ふたたびマスターが驚いたように顔を上げる。先ほどから私の質問は全て彼の想定外のようだ。

「はい。……えっと…その。彼が、私を…」

 彼が私に言い寄っている、ということを口にしたくなくて―――智から奪い取ろうとしている、という、そんな現実から少しでも顔を背けたくて。マスターから視線を外しながら言い淀む。

「さとっちゃんから横恋慕しようとしてる、ってことだろう」

「う…」

 改めて言われると、やはりなんだか居心地が悪い。思わず椅子の上で縮こまる。

 マスターが面白そうに言葉を紡いだのち、視線を落として洗い物をする作業を再開していく。

「あれはマサが悪い。確かに、恋愛なんっつうのは言ったもん勝ち、やったもん勝ち、押したもん勝ちだ。けど、相手が嫌がっているのに自分の気持ちを押し付けるのは間違っている。俺は少なくともそう思ってるよ」

 流しの水音に紛れながらも、マスターの強い意思を孕んだ言葉が耳に届く。マスターは洗い物を終えたのか、腕を震わせて黒いエプロンの裾で手を拭いた。

 ふい、と。柔和な微笑みに浮かぶ琥珀色の瞳が、ひどく優しく。私を見つめている。

「だから知香ちゃんは堂々とさとっちゃんの隣に立っててくれ。この先、なにがあっても」

「……はい……」

 穏やかに笑うマスター。でも、その瞳には少しだけ翳りがあった。哀愁……ともいうような、そんな瞳。

(……?)

 けれど一瞬の違和感はすぐに消え去った。マスターが私から視線を外し、流しのわきの書類に書き込みを始めたから。

「で?マサのことで聞きたいこと?さっきも言ったが、他の顧客に関することは俺は話さねぇ主義だ。だから、話せる範囲なら、な」

 マスターが手に持っている書類は、きっと帳面のようなものなのだろう。売上を管理するような、そんな書類。私がこの店に訪れた時に触っていたそれに「ブレンド」という文字と数のカウントと思われる正の字を書き込んでいる。その文字の上には「モカ」の文字の横に正の字の一が書き込んである。やはり、私がこの店に来る直前に先客がいて、私はその人と入れ違いになっている、という確信めいたものが胸の中に生まれた。

「………お尋ねしたいのは、片桐さん本人のことではないので」

 そう。聞きたいのは、片桐さん本人のことではない。だからきっと―――マスターから、私が求めている答えが出てくるはず。目の前に置かれたコーヒーカップを持ち上げることなく、きゅっと握り締めた。

「先週?かな……加奈子さんが、片桐さんに…シェイクスピアの、『十二夜』に出てくるセリフを投げかけていたんです。それから片桐さんの様子が、なんだかおかしく思えて」

「うん?……加奈子が?マサに?」

 やっぱり私の質問はマスターの想定外なのだろう。訝しげに書類から視線を外し顔をあげたマスターの表情を眺めつつ、小さく「はい」と肯定の言葉を投げかける。そうして、琥珀色の瞳を見つめながらつっかえつつも言葉を続けていく。

「どうして……あのセリフを、加奈子さんが片桐さんに投げかけたのか、その意図が分からなくて」

 マスターの瞳を見つめていると―――あの日。悪戯っぽい笑みを浮かべて、私の腕を強く引っ張っていった加奈子さんの瞳が目の前にあるようだ。マスターと加奈子さんが兄妹ということは智から聞いただけの話。彼らが隣り合って同じ場所にいる場面を見たことがなかったからか、まったく実感が無かったけれども。こうして見つめていると……やはり彼らは兄弟なのだなと、改めて実感する。

「……ちなみに。それはどんなセリフか覚えているか?」

 マスターは先ほどから怪訝な表情を崩さない。眉間に皺を寄せたまま、琥珀色の瞳を細めて私を見つめている。

「えっと。『賢いから阿呆の真似が出来る。それは特殊な才能』というような」

「…………」

 そこまで思考を巡らせ、はたと思い出す。

「あ、それから。その後、流暢な英語で何かを片桐さんに話されてました。けど、私には聞き取れなくて。でも、片桐さんは聞き取れたみたいで……驚いていたみたいでした。私がこのお店で、ゼロから始められると言った時みたいに」

 私の言葉を受けて、しばらく茫然としていたようなマスター。重いとも言えない、けれど軽いとも言えない。澱む、というのも違うけれど。ただただ、長い沈黙が続いた。

 そうして、マスターは。何かに思い当たったような表情を浮かべて、口の端をゆっくりと吊り上げた。

「っ、くくく」

 マスターが、唐突に笑い出した。お腹を抱えて、腰を曲げて。やられた、とでもいうように、深いグリーンのベレー帽を押さえながら、顔を伏せている。

「……え、ええ?………マスター?」

 何故、突然。マスターが笑いだしたのか。さっぱり理解できない。カウンターの内側で肩を震わせているマスターをぽかんと口を開けたまま見つめる。

 しばらくの間。店内にマスターの堪え切れない笑いが響いた。私は呆気に取られたまま、小刻みに身体を揺らすマスターの様子を眺める。

「ったく、世話が焼けるなぁ、俺の家族どもは。どいつもこいつも俺の予想の斜め前に向かって身勝手に動き回りやがって」

 文句をつけるようなその口調とは裏腹に、彼はこの上なく楽しそうに。くくく、と、堪え切れない笑いをこぼしていく。

 笑わされたおかげで酸素が足りない、と言わんばかりに口を大きく開けながら、眦に浮かんだ涙を指先で拭って。マスターがふたたび口を開いた。

「あぁ、知香ちゃんの質問だけどな?加奈子が何を思ってマサにそんな言葉かけたかは……俺にはさっぱりだ」

 けどな?と。マスターが続けて。琥珀色の瞳をやわらかく、細めながら。柔和に微笑んだ。

「さとっちゃんと知香ちゃんからしてみれば、マサはちょっかいをかけてくる一方的な悪人だろう。だが、マサは俺の家族だ。この店で繋がった、大切な家族のひとりなんだな。だから俺はマサの肩も持ちたい。あいつは口を割らねぇだろうが、俺が代弁するなら、マサは

 そうして、マスターはカウンターの内側から腕を伸ばして。混乱したままの私の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていく。

「そうだなぁ。……錆びて固まっていた時計の針が動きだした。だから、大丈夫。マサも、知香ちゃんも…さとっちゃんも」

 マスターは私の頭に置いた手をゆっくりと動かして。私の髪をくしゃりと撫でた。

 視線が絡み合っている、琥珀色の瞳には。ついさっき―――出来の悪い弟の話しをした時と、同じような。あたたかい光が灯されている。


 さっきから、さっぱり……わからない。マスターに疑問を投げかけたら何かひとつでも解決するのでは、と思っていたのに。さらに混乱が深まっただけだった。


「俺が言えるのは、ここまでだ」


 穏やかな声が、これでこの話は終わり、と。私に告げた。マスターの大きな手のひらが、私の頭から離れていく。その代わりに私の手の中に戻されたモノは、漠然としていて―――輪郭すらあやふや、で。

 マスターが優しげに笑っている。その笑顔を見つめていると……全てを赦し洗い流していく、優しくあたたかい雨が。樹々の間からパラパラと落ちていくような。そんなひどく優しい空間の中に引き込まれてしまったように感じた。


「ほら、コーヒーも冷えるぞ?さとっちゃんも家で待ってんだろう。冷めねぇうちに飲んで、さとっちゃんのそばにいてやりな」


 そんな……揺蕩うような、曖昧な境界線の狭間で。

 優しげなマスターの笑い声の名残だけが、耳に残った。
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