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本編・第三部

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 カチャリと玄関を開けて、自宅の最寄り駅に直結しているスーパーのレジ袋を玄関先に置いた。ガサガサと、袋が擦れる音がする。

 靴を脱いでレジ袋をふたたび手にし、リビングに続く廊下を忍び足で歩いて寝室の中をそっと覗き込んだ。

 視界に飛び込んできたのは、朝よりも真っ赤な顔をして、智がベッドに横たわり苦しそうに唸っている姿で。

「…………ん、---……ぅ、---……」

 薄い唇から微かに漏れ出る小さな声。買い物に出ていたのは僅かな時間だったけれど、その間に熱が上がって魘されているらしい。いつもは色白のその顔がこれでもかと真っ赤になっている。

 手に持ったレジ袋の中から熱冷ましの冷却シートを取り出す。リビングのペン立てからハサミを取り出して買ってきたばかりのそれを開封し、寝室に足を踏み入れた。フローリングに膝をついて、ベッドに横たわる智に視線を向ける。
 汗でぺたりと貼り付いた前髪をそっと掻き上げて、ベッドサイドに置いていた冷やしたタオルで額に滲み出た汗を拭き取る。そこに、フィルムを剥がした冷却シートを貼り付けた。

 貼り付けた冷却シートの冷たさで僅かに意識が戻ったのか、男の人にしては長いまつ毛が瞬いて、少しだけ目が開く。苦しそうに顰められたままの眉はそのままに、焦点が合わないダークブラウンの瞳が私を見つめていた。

「智、少しだけ……起きれる?飲み物買ってきたよ。水分取らないと」

 囁くように小さく声を上げる。けれど、私の声は届かなかったのか、ふたたび切れ長の瞳が閉ざされた。

(相当………キツい、のかな…)

 昨日……片桐さんに指摘されたように。ゴールデンウィーク明けから2ヶ月丸々多忙な日々を過ごしてきた智。慢性的な疲労から免疫力が著しく落ちてしまっていたのだろう。トドメにあの雨。その後の行動は智本人の意識不足だとしても、いつ体調を崩しこうして高熱を出しても不思議ではない状況だったのだ。

 ぼんやり考えていると、苦しそうな声がふたたび耳に届く。

「……---…………ぅ、」

 魘されている言葉も、何を言ってるのかわからない。ひどく嫌な夢でも見ているかのようだ。

 これだけ汗をかいていたらしっかり水分を補給しなければ脱水症状まで起こしてしまう。そう考えて一度キッチンに行き、買ってきた清涼飲料水をグラスに注ぐ。ふたたび寝室に戻り、智に飲ませようと悪戦苦闘するけれど、魘されていて上手く行かない。

(仕方ない……)

 グラスに注いだ清涼飲料水を少しばかり自分の口に含み、口移しで智の口に水を流し込むと、どうにか飲み下してくれた。口の端からこぼれ落ちていった液体を乾いたタオルで拭き取りながら何度か飲ませるとようやく落ち着いたようで、魘されるような声がおさまっていく。

 やがて規則的な寝息が聞こえだし、ほっと胸を撫で下ろす。小さく息を吐きながら身体を起こして、ふたたびキッチンへ向かう。大鍋に水を入れてコンロに掛けた。蓋をしないでお湯を沸かし、リビングと寝室を仕切る扉を開け放てば蒸気で部屋の乾燥が少しはよくなるだろう。

(昨日から……晴れだったから。今日は梅雨らしくなくカラッとしてて、湿度、落ちちゃったもんね…)

 キッチンからベランダを見遣り、その外の明るさに小さくため息を吐く。

 昨日、今日と。梅雨の狭間の太陽が差し込んでいる。昨日は雨上がりの晴れ間だったから湿度が高く蒸し暑かったけれど、今日は真夏のように雲ひとつない青空が広がっていた。連続した晴れ間だからか、湿度が下がって少し乾燥気味。乾燥は風邪を治すのに大敵だ。

 火をかけている間に氷枕を替えたり、汗ばんだスエットを脱がせてタオルで身体を拭いて、四苦八苦しながら、どうにかこうにか違うスエットに着替えさせたりと看病をする。

 私が智の身体を自分の腕の力で支えきれず大きく身体を揺らしても、目覚める気配はない。昨日病院で処方され、今朝も飲ませた薬が良く効いているのだろう。深く眠りについている智の髪を撫でて、ふたたびベッドから離れる。

 脱衣所へ足を運び、腕の中に抱えた智の身体を拭いたタオルや脱がせたスエットを洗濯機の中に放り込む。一度洗濯機を回して、その流れで洗面台に立ち、手洗いとうがいを済ませキッチンへ移動する。智の風邪が移って私までダウンしてしまっては敵わない。

 小さい鍋を取り出して、空いたコンロでお粥を作る。今からゆっくり炊いていけば、お昼時になるだろう。

 お粥の準備を整えて、リビングのソファに沈み込む。硝子天板のテーブルに広げた、型紙を使って切り取った反物。昨日、帰り道に家から歩いて行ける呉服屋さんに立ち寄って、智に似合う反物を購入した。

 選んだ反物は紺色と白色のコントラストが眩い雪花せっか絞り。雪の結晶のような柄だ。一見派手に見えるけれど、シンプルで華がある。……色違いで、赤が強い紫色と白色の雪花絞りの反物も購入した。私が持っていた浴衣は2枚ともに虫に喰われていたから、どうせならお揃いの浴衣を繕ってしまおうと思い立ったわけだ。

 昨日、私が帰宅した時には智は私の言いつけ通りにベッドで眠っていた。怒りを孕んだ敬語でのメッセージがよほど効いたのかしっかり反省したらしい。起こさないようにとそっと家事を進めつつ、昨晩一気に反物の裁断を進めていった。

 夜中は魘されている様子はなかったけれど、朝になって智の身体の熱さに驚き、慌てて下のスーパーに買い物に出たのだ。今は薬が効いているようでよかった、と、昨晩や今朝の様子をぼんやりと思い出しつつ、縫い代を折り、低温に設定したアイロンで軽くプレスしチクチクとしつけ糸を縫いつけていく。

 夕方には、昨日呉服屋さんで反物と一緒に買ったコンパクトミシンが届く。それを物置にしている玄関横の部屋に置いて、智が残業になった時等にこっそりと作業を進めていくつもりだ。今は智が深く眠っているから、リビングに反物を広げても気付かれないだろうという魂胆のもとに堂々と作業をしてしまっているけれども。

(……喜んでくれるかなぁ…)

 トクトクと、早くなる鼓動。片桐さんに揺さぶられているときだって、鼓動は早くなる。けれど、今感じているのは、じっとりと……冷汗が滲み出るような、そんな嫌な早さではなく、とても……心地よく、速い鼓動の音。


 まだ、本縫いではないのに。しつけ糸と縫い付けているだけなのに。一針一針を選んだ反物に通すたびに身体の奥から湧き上がってくるのは、智に対する尽きることのない愛おしさ。


 炎のようなその愛おしさの光は、薪で付けた火のようにゆらゆらと揺れ動くものではなく、先日の雷鳴のような眩く突き刺すような鋭いものでもない。かといって、今日の陽射しのように真っ直ぐに差し込んでくるものでもなく。

 喩えるならば、そう……じっくりと暖められた、温石のような。ふうわりと、ほわりと。私の心を温め、和ませてくような……そんな、不可思議な感触を孕んだ、光。

 時にはふたりで同じように笑ったり、時には智の困った行動に呆れて怒ったふりをしたり。それでも、どんな些細な瞬間でさえも、私の人生の中で大切でかけがえのない時間であることは間違いのないこと。


 心が穏やかで優しい感情で満ち溢れている中で、ふと。洗濯機から鳴り響く、脱水まで終了したという微かな音が聞こえてきた。

「あ、いけない、お粥!」

 そうだった。洗濯機を回している間に、お粥を作っていたのだった。手に持った針を針山に刺し慌ててキッチンへ行くと、ちょうどいい加減のお粥が出来ていた。焦がす前でよかった、と小さく安堵のため息をつく。鍋の火を止めて、これ以上火が入らないように鍋をコンロから下ろしワークトップに置いた。一度リビングに戻り、広げた反物を片付ける。再度キッチンに足を向けて、朱色の汁椀に適量を移し替え、お盆に乗せて寝室に運び込む。

 横になっている智の寝顔を覗き込むと、まだ少し苦しそうに眉を顰めたままだけれど、買い物から帰ってきた直後よりは楽そうな表情に見える。それでも、やはり首筋にはまた汗をかいていた。手に持ったお盆を一度PCデスクに置いて、ベッドサイドに置いたままの濡れたタオルで首筋を拭いていると、智が小さく身動ぎをした。

「ん、ん……」

 首筋に当てたタオルの冷たさで目が覚めたのか、閉ざされていた瞼が震えて、ゆっくりと開かれる。

「……おはよう、智。きついだろうけど、ちょっとお粥食べよう?薬飲まなきゃ」

 汗ばんで顔に被さった髪をそっとよけながら、小さく声をかける。私の声に、徐々に焦点が合ってくるダークブラウンの瞳。そうして、幾度かの瞬きをして、智が身体を丸めて引き攣れたような咳をしだす。咄嗟に手に持ったタオルを床に放り投げて、智の背中をさする。呼吸が落ち着くように、ゆっくりと、優しくさすっていく。

 しばらくすると落ち着いたのか、咳き込んで僅かに涙が滲んだ切れ長の瞳が私に向けられる。丸まった身体を起こそうとしているのだろうか、緩慢な動作で腕を伸ばしていく。

 ベッドのわきに膝立ちし、伸ばされた智の手のひらを掴む。繋がった智の手のひらは少し熱を感じるだけで、買い物から帰宅し汗ばんだスエットを着替えさせているときに感じたような、燃えるような熱さではない。少し熱が下がったかなと考えながら智の上半身を起こして、私の枕を引っ張り智の腰の辺りに差し込む。

「……すまん」

 掠れたような声で智が力なく呟いた。その声に、わざとらしく、ぷぅ、と頬を膨らませる。

「わかってるなら大人しくお粥食べて薬飲んで寝ること!仕事のことも気になるだろうけど、今日はパソコンとかスマホに触ったりしちゃだめです。いい?」

 少しだけ突き放すように、それでも労わるように。私がわざと頬を膨らませるその仕草で、体調を崩したことは気にしていないけれども無茶したことは怒ってはいるのだ、ということが伝わればいい。

 智が少しだけ困ったように息を吐き出し、私が腰に差し込んだ枕に身体の重心を預ける。食事をする前に体温を測るよう促し、ベッドサイドに置いておいた体温計を差し出した。その体温計を腋の下に入れるのを見届けて、私は一度寝室から出る。

 洗濯機から洗い終えた服を籠に引き上げてリビングに戻ると、ピピッという電子音が聞こえてくる。

「……38度3分」

 智が身体を起こしたまま小さく数字を読み上げる。伝えられた体温に顔を顰めつつ、籠をPCデスクの下に一度置いてデスク上のお盆を手に取った。まだちょっと高いが、朝は39度を越えていたのだから、この短時間で38度まで下がったのは僥倖と言わざるを得ないだろう。

「はい、お粥。食べれる?」

「ん……食う」

 先ほどよりははっきりとした声色。智にとっては朝食とも昼食とも言えないだろうけれど、このお粥を食べてもう一度薬を飲めば明日の朝には熱は下がり切っているのではないかと考えつつお盆を差し出す。

 智は素直に私が差し出したお盆を手に取った。それを膝の上に置いて木匙からゆっくりと口に運んでいく様子を横目で眺めつつ、引き上げた洗濯物を干していく。


 穏やかな時間が流れる。智がお粥を掬って、ふうふうと冷ましていく、吐息の音。私が洗濯物を干していく、衣擦れの音。


 しばらくすると、ごちそうさまでした、という声が聞こえてくる。ベッドに視線を向けると、お椀は空になっている。まだ食べるかな、と声をかけようとすると。

「……知香。色々してもらった上で、すまない。ちょっと…お遣いに行って欲しい」

 智が木匙を置いて、神妙な顔で洗濯物を干す私に向き直る。その視線にこてんと首を傾げてダークブラウンの瞳に視線を合わせた。

「ん?いいよ、どうしたの?」

 智から『お遣い』だなんて、初めて頼まれるような気がする。一体何を頼みたいのか、きょとんとしながら智を見つめていると、智は一度視線を私の足元に落として。どう言葉に出そうかと考えあぐねているようだった。しばらくして、何かを決意するかのようにゆっくりと顔を上げて言葉を紡いでいく。

「マスターに。適当な菓子折りを持って、言伝に行って欲しいんだ」

「マスターのお店?」

 どうして今、マスターの話が出てくるのだろう。何故マスターの話になったのか、その経緯も真意も噛み砕けないまま目を瞬かせていると、智は言い淀むように視線を彷徨わせた。

「……池野課長が…退職した、あの時。マスターに、八つ当たりのように電話をしてしまってな。知ってたんだろう、なんで引き留めてくれなかったんだ、と。……だから、謝りにいこうと思ってたんだが……」

 終始、バツが悪そうな表情で智がぽつぽつと言葉を紡ぐ。

 先日の月曜日に……池野さんが退職して、智が昇進した日に。混乱のあまり、かっとなってマスターに吐け口を求めてしまった、と。それを悔いているから、マスターに早めに謝罪に行きたい。けれど自分はだから代わりに言伝だけでも、と考えている心情を読み取った。

「……ん。わかった。行ってくるけど、今日は絶対安静です。私がいない間にパソコンとか触ったらだめだよ?わかってる?」

 鬼の居ぬ間になんとやらで、まだ熱が下がり切っていない身体で動き回られては適わない。そこだけは厳重に言い聞かせなければ。そんな意思を込めて、ぎゅう、と。ダークブラウンの瞳を睨みつける。

「ん。今日は一日素直に寝ておくから。大丈夫。……言伝、頼む」

 智はそう口にして、安心したように。ベッドサイドに置いていた薬を口にして、ふたたびベッドに潜り込んでいった。




 私も、マスターには話したいこと、聞きたいことがあった。池野さんはどこに行ったのか。何を考えて、唐突に智の前から姿を消したのか。お兄さんであるマスターなら知っているはず。それに。

(……池野さんが、片桐さんに言った言葉も…もしかしたら、マスターだったら)

 マスターは……片桐さんの身内事情を、知っている。だって、彼のお母様の葬儀に参列するくらいだ。お父様がずいぶん前に亡くなっていたこともご存じだった。

 だから、池野さんがどういう意図をもって『十二夜』のあのセリフを片桐さんに投げかけたのか。何かしらのヒントが得られるかもしれない。



 淡い期待を抱きながら手早く着替えとメイクを済ませ、一度寝室に戻り……深く寝入っている様子の智の髪を慈しむように撫でる。


 眠ってしまっている智には聞こえない、とはわかっているけれど……「行ってきます」と小さく語り掛け、智からの言伝を胸に、マスターの店に向けて玄関を開いていった。
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