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本編・第三部

【小噺】When the clock 's needle started to move.

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 焙煎ローストとは、コーヒーの生豆を炒る加熱作業のことだ。

 収穫・精製された生豆は淡緑色をしており、味も香ばしさもほとんどなく、この状態では飲むことは出来ない。焙煎が進むと豆は茶褐色、さらに黒褐色へと変化していく。焙煎によって、豆に含まれる成分が化学変化を起こし、その豆が持つ独特の素晴らしい香りや、苦味、酸味、甘味といった風味が生まれる。

 焙煎時間や熱のかけ方の違いによって、コーヒー豆には浅炒り・中炒り・深炒りといった焙煎の度合いが生じ、コーヒーの風味が大きく変化していく。

 知識さえあれば家庭でも挑戦できる焙煎。だが、やはり餅は餅屋。それを専門とする人間や企業がある限り、家庭では相当な知識がなければ難しい。

「……さ、て。今日は店閉めたらあのホテル用のブレンドを焼くか」

 豆が入った麻袋を開封してコンテナボックスに分別する作業を終えて、注文表を見遣って独りごちる。

 日中営む喫茶店は副業のようなもの。本業は周辺のレストランに卸すためのコーヒー豆の販売。喫茶店を閉め夜になると、注文されたコーヒー豆の焙煎をする。それが俺の日々の過ごし方。

 喫茶店コレはあくまでもそちらの顧客に繋げるためのオプション。ほとんど赤字だ。


 それでも俺が店を畳まない理由は、ただひとつ。


 注文表を挟んだバインダーをカウンターに置いて、カウンターの椅子に座り込む。そのまま、天を仰いで瞼を閉じた。そうして……小さく。この世にいない、あのふたりに向かって。小さく、問いかけた。


「…………俺は、あんたたちみてぇな人助けが出来てるだろうか」


 貧しい国に生きる人々を支援する活動をしていた、両親。両親のその姿に憧れて、俺は若い頃に見聞を広めて自分の成すべきことを見つけようと、世界を飛び回った。そこで見たものは、劣悪な環境で働かされる人間たちだった。

 この明るく光の絶えない日本で生まれ育った俺には―――衝撃、だった。

 その時、とある国で。経済的弱者が過酷な労働や長時間労働など、悪質な労働環境のもとで働かされた結果、先進国で安価なコーヒーが飲めるという状況が生まれている、ということを知った。



『労働者の権利を大切にし、児童労働の搾取や犠牲、劣悪な環境をなくす努力をしている農園を助けたい』



 その一心で、俺は、日本で……スペシャルティコーヒーロースターになる事を決めた。



 初めは上手くいかなかった。経営も、焙煎も。



 経営的な面で行けば、全国に展開するいくつかの大手コーヒーチェーン店の方がオシャレだし、何より喫茶店のメニューも豊富で、販売している豆も安価だ。

 だから俺は、その大手コーヒーチェーン店では味わえない、唯一の味を生み出すことにした。

 コーヒー豆の焙煎度合いは、全部で8段階に分かれている。浅く炒ったものほど「酸味」が強く、深く炒るほど「苦み」が強く感じられるようになる。俺は深煎りの強いコクが好みだったから、そちらに振り切った豆をいくつも焙煎した。

 焙煎も初めから上手くはいかなかった。焙煎によって豆の内部が熱膨張することで、内部が割れて「パチッ」という爆ぜ音が聞こえる。その焙煎時間による爆ぜ音によって、焙煎機を操作する。大手コーヒーチェーン店であればそれらも全てオートマティック化されているが、個人店ではそんなことは難しい。

 焙煎の腕も上がってきた頃、焙煎度合いで言うと6番目のフルシティローストや7番目のフレンチローストを中心としたストレート豆を表に出し、焙煎度合いを変えたオリジナルブレンド物の豆も生み出した。注文によっては一番深い8番目のイタリアンローストを焙煎し卸したりと、人によっては刺さる味を提供し続けてきた。

 そこまで回顧して、ゆっくりと瞼を開ける。白い壁紙に囲まれた眩い店内。天窓から差し込む梅雨の狭間の太陽の光に目を焼かれ、思わず目を細めた。

「……」

 喫茶店は、あくまでも。豆を卸す飲食店経営者そちらの顧客に繋げるためのオプション。豆を卸す顧客を捕まえて、世界中で苦しむ過酷な労働環境にいる人間を救う手助けをしたい。……その、はずだった。

 けれど。

 喫茶店を経営し、これまで以上に多くの人間と触れ合うようになった。


 己の過去を吐露し、過ちを懺悔し、これからどう生きるべきか、などの人生相談も多々受けてきた。元々からそんなに門戸を広げた店にするつもりも無かったから、店内には6席しか設けていない。そういう事情もあり、俺と対話する人間にとって、この店の狭さは自分の悩みを打ち明けるには絶好の環境なのだ。


 道ですれ違う人はすれ違うだけの人間だと思っていた。安穏な日本で暮らしている日本人には、それなりの悩みしか抱えていないのだと決めつけていた。

 けれど、偶然立ち寄ったコンビニの店員も、スーパーのレジ待ちで偶然一緒になった人間も、駅ですれ違う人々も。
 そこには、その人が過ごしてきた何十年という人生があって……各々が苦しみ、哀しみ、藻掻いて、それでもなお、生きている。

 俺も完璧な人間じゃない。だから、そんな時にはほんのちょっとしたアドバイスしか出来ない。


 でも。それが―――妹からしてみれば。
 死んでいった両親と、同じなのだ、と。
 妹は、そう言ってくれた。


 顧客が望めば、その場にいる他の顧客も巻き込んで一緒に対応策を考える。どうすべきか、何をすべきか。気がつけば、俺の店は。人生の岐路に立った人間たちが集まる、そんな喫茶店になっていた。


 初めは、遠い異国の地に生きる人々を支援したい。その一心で始めた店だった。でも、気がつけば、俺は―――たくさんの人間と触れ合い、そうすることで苦しむ人々を影ながら支援していた。


 そんな店を、俺はとても誇りに思っている。だから、赤字だろうとなんだろうと、畳むつもりは毛頭ないのだ。



『……お前は結局はペガサスにはなれねぇよ。“人間”ニンゲンに肩入れしすぎだ』



 ふっと。いつかの時に、妹に向けた言葉が蘇る。太陽の光で焼かれた目を瞬かせて、ふい、と。店の入り口に視線を向けた。


 妹も。俺と同じように、両親の遺志を継いだ。何をタンザニアでやるつもりなのかは、俺は知らない。

 俺がコーヒーロースターになると決めた時も。なぜその結論に行き着いたのか、とか言う詳しい話しなんて、加奈子には話さなかった。俺と加奈子はお互いに自由人だから、それでいいと思っている。


 加奈子は、俺に自由に生きてほしいと願っている。
 俺も、加奈子には自由に生きてほしいと…そう、願っている。



 あいつが最後の男に振られた翌週……ゴールデンウィーク期間に。加奈子はプライベートでアフリカに旅行に行くと言い出して、止める間もなく飛行機に飛び乗っていった。

 そうして、数日後。加奈子が、泣きながら俺に電話してきたのだ。


『兄さん。私、決めた。ここで、やることを見つけた。だって、ここの夜空……こんなに綺麗なんだもの』


 最後の男に振られて、その報告に来た時も泣かなかった、加奈子が。両親が聖戦と称した殺人行為に巻き込まれて理不尽に死んだ時も、泣かなかった妹が。子どものようにわんわんと泣きながら、俺に電話をしてきたのだ。

 それからは早かった。日本に戻り、後任と目をつけたさとっちゃんの尻を叩き、さとっちゃんを一人前の営業に育て上げた。さとっちゃんの心の支えとなれる人材をヘッドハンティングしてまで、他社から引っ張ってきた。

 そうして、加奈子は―――数日前。あの時の宣言通り。タンザニアに、旅立っていった。



『それもそうかもしれないわね。でも……兄さんも、同じよ?』



 俺と同じ、琥珀色の瞳を細めながら。楽しそうに笑いながら赤い唇を動かした、あの瞬間の光景が目の前にある気がした。


 視線を向けていた店の入り口に、明るい髪色がチラチラと見えだす。その人物が誰かを認識して、俺はふっと口元を緩めた。


「……加奈子。俺もお前も、やっぱりペガサスにはなれそうにねぇなぁ…」

 
 身体の奥底から込み上げる愉しさに、笑いを堪えることも出来ず。苦笑しつつ、その言葉を口にして……その言葉の意味を噛み締めながら。


 チリチリと、入り口に取り付けた鈴の音が鳴るのを待って。俺は、彼の訪問を歓迎する言葉を、投げかけた。



「………いらっしゃい、マサ」
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