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本編・第三部

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 呆然とした私を見つめながらお腹を抱えてひとしきり笑った智が、目尻の涙を人差し指で拭いて。ダークブラウンの瞳を小林くんと三木ちゃんに向けた。それに倣うように私も智から目の前のふたりに視線を滑らせる。

 小林くんは智の視線に気が付いたのだろうか、歩み寄ってきている智に視線を向けて、ふい、と。その黒い瞳に言いようのない光を宿したまま、真正面の三木ちゃんを見遣った。

「随分前から邨上さんには勘付かれているだろうなという認識はありましたから。遅かれ早かれ一瀬さんにバレていたと思いますよ」

 小林くんの口元を塞ごうとした三木ちゃんの両手首を握ったまま、小林くんが淡々と口を開いて、耳まで赤くなっている三木ちゃんにじっと視線を向けている。

 くくくっと、喉の奥を鳴らした智が、何かを企んでいるような笑い顔で。手に持った引き出物の紙袋を足元にそっと置いて私の左側の席に腰を下ろしつつ、言葉を紡いだ。

「さすがの洞察力だな。ま、見ての通り知香は今しがた気づいたところだ。三木を例の歓迎会で送り届けた時のカマかけで、『友達以上恋人未満』なのだろうなと俺は察してたが。こんなに早くちゃんとした関係になっているとは思わんかったぞ?」

 するりと足を組んだ隣の智から言葉が発せられる度に、ふわり、と。アルコールの香りが漂っていく。普段から飲むタイプではないけれど、今日は祝いの席だろうからとアルコールを口にしてきたのだろう。やっぱり赤くならない体質なのか、普段と全く変わらない。

「そっ、それはっ、そうだけど!?なにもこんなタイミングでっ……」

 三木ちゃんは相変わらず茹でダコ状態のまま、悲鳴のような声を上げて小林くんに詰め寄っている。小林くんに掴まれている腕を動かそうと懸命に試みているのは、小林くんの口をふたたび塞ごうとしているからだろう。それはまるで、これ以上余計なことを喋らないで、とでもいうような雰囲気だ。全身を捩らせながら草履を踏ん張っているように見て取れるけれど、男と女である以上、そして慣れない和装を身に着けている以上、無駄な体力を使うだけだとアドバイスしてあげたい。

 真っ赤な三木ちゃんの横顔を眺めていると、ひどく焦っているような彼女と対照的に自分が冷静になっていくように思えた。焼き切れてしまった思考回路が徐々に復旧して、混乱していた脳内が正常になっていく妙な感覚を味わいつつ、自分を落ち着けるようにテーブルに置かれているコーヒーをそっと口に含む。

 注文して時間が経ち、すっかり冷めてしまったコーヒーだけれども、喉を滑り落ちていったそれは強いコクがある喉越しだ。モカは焙煎度合いによって風味が変わる代表的な品種である、と……マスターのお店に初めて足を運んで、智が買い物に出ている時に。マスターがそんな事を話していたような気がする。
 きっとこのモカは深煎りなのだろう、と、目の前で繰り広げられている会話とは全く違う話題が私の脳内を駆け巡っていくあたり、恐らく私はまだ冷静にはなり切れていないのだろう。

「真梨さんが悪いんですよ。俺、言いましたよね?」

 小林くんは三木ちゃんの抵抗もなんのその、というような雰囲気で。しれっと。さらなる爆弾を落としていった。


「仕事以外で真梨さんを独占していいのは俺だけです。これは浅田さんのことがあった時にも言いました。……なのに、綺麗に着飾った姿を彼氏である俺よりも先に一瀬さんに見せるって、一体全体どういう了見ですか」


 あどけない少年のような顔立ちの小林くんから咎めるような口調で放たれた、独占欲丸出しのそのセリフ。
 それはまるで。私の隣に座っている智から飛び出てきたのでは、と思えるような。穏やかで寡黙なはずの小林くんに似つかわしくない言葉たちの羅列に、復旧しかかった思考回路がふたたび、ふつり、と。遮断される感覚があった。

 真っ白なコーヒーカップを口に付け、それと対照的な色味の中身の黒い液体を凝視したまま。想像もしていない展開に身体が固まる。私のその反応で、智がふたたびぷっと笑い声をあげ顔を伏せて肩を震わせている様子を、狭まった視界の端で捉えた。

 つぃ、と。コーヒーカップから口を外すことなく、視線をテーブルから目の前のふたりに向ける。小林くんの口を塞ごうと試みていた三木ちゃんも、ぴしりと音を立てて硬直している。小林くんは小さくため息をついて、僅かに眉根を寄せつつ淡々と。言葉を続けていく。

「だから。俺は怒っているんです。真梨さんが一瀬さんを尊敬しているのは知っています。……でも、それとこれは別です」

 怒っている。その言葉で、小林くんの澄んだ瞳に宿る、言いようのない光の正体に……やっと、理解が及んで。小さく息を飲んだ。

(え、待って。……わ、たしに、ヤキモチってこと?)

 あの光は。仕事の時間以外で三木ちゃんを独占している―――私に対する嫉妬の光、なのだ、と。綺麗に着飾った三木ちゃんの姿を、小林くん自分より私に先に見せたことに対する、ヤキモチなのだ、と。ようやく噛み砕けた、ような気がする。

 ちょっと待って欲しい。小林くんから紡がれた言葉たちを理解するための時間が欲しい。私に向けられている言葉ではない、ということは承知しているけれど、何がどうなっているのか、理解が及ばない。先ほどから、洪水のように絶え間なく与えられる情報量が多すぎるのだ、せめて状況を整理させて欲しい。

 クラクラするような頭を必死に上げたままにしていると、「それに」と。小林くんが小さく呟いて、口の端をふっとつり上げつつ私に視線を向けた。

「先ほど一瀬さんと話していて改めて感じましたが。彼女に俺たちの関係を知られても、一瀬さんなら真梨さんを『肩書きに惹かれた女』とは見ないでしょうし」

「へ?」

 唐突に。私の話題が出てきて、素っ頓狂な声が自分の喉から上がる。何を言われているのか皆目見当もつかない。黒く澄んだ瞳と視線が交差して、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 ここでどうして私の話になるのだろう。目を白黒させていると、自分を取り戻したような三木ちゃんがひゅっと息を飲んで、勝気な瞳が動揺したように大きく揺れ動いているのを視認した。

「え、ちょっ……あんたが、オープンにしない理由って……あの噂を再燃させたく、ないからじゃ…なかった、の………?」

「はい?」

 三木ちゃんの問いに、小林くんが訳が分からないとでもいうように疑問符のついた声をあげながら小首を傾げた。視線を私から三木ちゃんに移して、一重の瞳を数度瞬かせている。


 いや、訳がわからないのは私の方だ。そんな事を心の中で真顔で呟きつつ、目の前のふたりを呆然と眺め続けた。


 小林くんは、さっき……私が。池野さんが片桐さんに投げかけていた言葉に、心当たりがないか、と訊ねた時に見せた、鳩が豆鉄砲を喰らったような。きょとん、とした表情を浮かべている。しばらくして、はぁ、と。大きく肩を落とし、ゆっくりと瞼をおろして、三木ちゃんの手首を掴んでいた右手をするりと離していく。その右手で、深い皺が寄った眉間を揉んでいる。

 小林くんの右腕に下がっている、三木ちゃんの分の引き出物の紙袋が大きく揺れ動いていく様子をぼんやりと眺めた。小林くんのその動作は……合点がいった、というような動作で。

「………真梨さんは俺がオープンにしない理由をそう解釈していたんですか」

 その言葉を紡いで、ふたたび小林くんが大きくため息をついた。

「すみません。伝わっていると思っていたのがそもそもの間違いでした。そういえば、鈍感な真梨さんでいてください、なんて言いましたもんね、俺も」

 黒い瞳を閉ざしたまま、小さくそう呟いて。ゆっくりと……瞼を動かし、三木ちゃんを見つめている。その瞳には、強い意思が宿っていて。

「俺に関する噂が再燃するなら、俺が営業成績残して薙ぎ払えばいいだけです。けれど今の状態でオープンにしてしまえば真梨さんが『九十銀行次期頭取という肩書きに惹かれた女』と言われますよね?事実と異なる噂が蔓延る、それが我慢ならなかっただけです」

 小林くんの口から紡がれていく、強い意思を孕んだ言葉たち。その言葉で、彼が三木ちゃんに向けている想いの深さを。愛情の、強さを。私にも―――突き付けられていくようで。


 彼に関する、あの……低俗な、噂。私が大勢の社員がいる前で片桐さんに啖呵を切ったあの日から。いい方向に向かっている、という話は、私が主任となった日に同日付けで異動してきた西浦係長から確かに聞かされていた。けれど、どこまでいってもゴシップ好きな人間の性なのか、それらが完全に鎮火しているとは言い難い空気感であることは、十二分に承知していた。

 だからこそ。小林くんは、その噂に三木ちゃんを巻き込まなくていいように。誰にも自分たちの関係を悟らせないように、慎重に行動していたのだろう。そうして……その噂自体を捻じ伏せようと心に決めて、春先から人知れず動いていた。

 通関部の新規取引先である丸永忠商社への囲い込みを建前にして、小林くん自身が異動願いを出し。通関部これまでとは全く分野の違う世界である食品の営業マンとなることで―――誰からも文句のつけようがない営業成績を残し、低俗な噂を跳ね返すだけの力をつけようと。その力を掴み取ろうと……して、きたのだろう。


 目の前にあるパズルのピースを拾い集めて、ゆっくりと思考を巡らせて……それらが、パチン、と。綺麗に合わさった。


 ようやく。彼らが、そういう恋人関係である、ということが。ストン、と……私の中に落ちてくる。その事実に、口元がゆっくりと綻んでいく。


(……よ、かった…)

 可愛い後輩ふたりが、いつの間にか。そういう関係になっていた、という事にはとても驚いたけれど。彼らには、幸せになって欲しい、と……常々そう思っていたから。ほっと小さく胸を撫でおろした。

 ぽつり、と。私の左側から、訝しげな声があがる。

「………九十銀行、次期頭取…?」

 その声に顔を左側に向けると、ダークブラウンの瞳と視線が絡み合った。その瞳は、どういうことだ、と、言外に私に問いかけているようで。

(……あ、そういえば。智には、小林くんの出自のこの話。して、なかったような)

 小林くんは。私を奪い取る、と、智に宣戦布告をしていた。智と小林くんは、ライバル関係だった。だからこの話を知ったあのホワイトデーの時に、智には伏せておいたほうがいい、と判断してわざと話をしなかったのだった。もっとも、他社に所属している智にわざわざ知らせる話題でもないだろう、と考えていたこともあるけれど。

『ごめん、あとでちゃんと説明するから……』

 かたり、と。小さな音を立てながら口を付けて手に持ったままだったコーヒーカップをテーブルに置いて、声に出さずに口だけをそう動かす。顔の前で真っ直ぐに伸ばした手のひらを合わせて、ごめんというジェスチャーを智に向けた。その動作に、智が『わかった』と言わんばかりに、ダークブラウンの瞳をすっと細め小さく頷いて、すい、と。私から視線を外した。

「……」

「………」

 あんぐりと。その赤い唇を開いたまま身動きが出来ないでいる三木ちゃんと、鋭い眼光をおさめてふたたび澄ましたような表情を浮かべている小林くん。私たち4人の間に、無言の空間が広がる。

 その沈黙を破ったのは、三木ちゃんで。ふるりと小さく身動ぎをして、ふっくらした赤い唇を震わせた。

「……こ、んなとこで!そんなっ、こっぱずかしい事っ……」

 震える声で言葉を紡いだ三木ちゃん。顔も首筋も、セットアップされた髪から覗く耳も赤く染まって、もはや身に纏っている赤い振袖と肌との境目がわからないレベルまで真っ赤になっていた。長襦袢に施された刺繍が入った白い半衿が辛うじて振袖と肌の境目を示している。
 勝気な瞳がじわりと湿っている。その雫はきっと、悲しさから生まれていくものではなくて。小林くんの口から奏でられた、愛の言葉ともいえる単語たちが……真っ直ぐに三木ちゃんに向けられた羞恥心からくるもの、と。容易に想像ができた。

「ですから。元を辿れば真梨さんが悪いんですよ?」

 しれっと。小林くんが、何でもない風に口を開く。ふい、と。三木ちゃんから視線と左手を外して、右腕にかけていた引き出物の紙袋を足元にそっと置き、お手洗いに立つ前にテーブルの隅に置いていた新書などを手早く片付けていく。彼が腰を下ろしていた椅子に置いてある鞄に、それらを仕舞い込んでいる様子を眺めていると、ふっと。左に座る智が小さく吐息をもらした。

「……お前、三木と喋る時は饒舌になるのな?」

 ニヤリ、と。智がいつもの意地の悪い笑みを浮かべて、小林くんに視線を向けた。片肘をついて、こてん、と。首を傾げている。その動作に合わせて、さらりと黒髪が揺れた。

 智のその言葉に、小林くんが荷物を纏める手をピタリと止めた。じっと……智に視線を向けたまま。彼は真顔でそっと。3度目の爆弾を落としていく。


「当然です。彼女は一瀬さんより鈍感なので、これくらいはっきり言わないと気付いてもらえないんですよ」


「……え゙」

 私を引き合いに出すような言葉が飛び出してきて、思わず引き攣れた声が私の口から転がっていった。小林くんから飛んできた想定外の言葉に……小林くんも。私のことを鈍感だと思っていた、ということを理解してかぁっと顔が火照っていく。

「お互いに。鈍い恋人を持つと苦労するな……」

 くすくす、と。智が困ったような笑い声を上げて、細く整えられた眉を歪めている。そうして、身体の重心を椅子の背もたれに移動させ、大きな手で前髪を掻き上げながら小林くんをじっと見つめた。智が小林くんに向けている、ダークブラウンの瞳は―――ひどく優しく、ひどくあたたかいそれで。

 小林くんは、智のその視線を受け止めて……ふっと。口の端をつり上げた。

「………そこに惚れたので。文句を言うつもりはないですよ」

 その言葉を最後に、小林くんが鞄のチャックを締める音が響いた。その鞄を斜めかけにし、足元に置いていた引き出物の紙袋を右肩にかけて、椅子の背もたれに引っかけてあった真新しい傘を手に取った。真っ赤になって固まったままの三木ちゃんの右手にその傘を半ば強引に握らせて、彼女の左手を取り、するり、と。その手を当たり前のように恋人繋ぎに絡めていく。

 そうして、空いた左手でテーブルの上のの伝票を攫って、私の背後の出入り口に向かって踵を返した。呆然と固まっていた三木ちゃんが、よろけるように足を動かして……ひらり、と。赤く長い袖が揺らめいていく。

 小林くんが手に持ったの伝票。私がコーヒーを注文するときに別会計にして欲しいと店員さんに依頼し、わざわざ違うクリップボードに挟んでくれた伝票、のはず。

「こ、ばやしくんっ、それ、私の……!」

 思わずカタンと席を立って身体を反転させ、遠くなる小林くんの背中を呼び止める。足を止めた小林くんが、ゆっくりと。こちらを振り返って―――




 今まで、私が見たことがないような。やわらかく、照れたような笑みを……あどけない顔に浮かべて。




 伝票を持ったままの左手を器用に動かし、その薄い唇に、左手の人差し指を押し当てて。

 私を。穏やかに、見つめていた。






 それはまるで。





『俺たちのこと。内緒、ですよ?』





 と、囁いているような。


 そんな―――表情、だった。
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