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本編・第三部

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 高い吹き抜けの天井に、オレンジ色の光が差し込んでいる。ピカピカに磨き上げられた床に、天井から下がる大きなシャンデリアが反射して。煌びやかな非日常の空間が、目の前に広がっていた。

 足を踏み入れたロビーからも格の高いホテルと察することができる。念のために上品に見えるコーディネートをしてきて正解だったと小さく胸を撫でおろした。

 骨組みを閉じて袋に入れた2本の傘を、左腕にそっとかける。ふい、と。前方に視線を向けると、黒のスーツを身に纏ったホテルマンと視線が交差する。視線が合った彼がそっと近寄ってきた。

「ご案内いたしましょうか」

 しっかりと教育されているような、丁寧で落ち着いた声色が響く。彼のその言葉に、やわらかな笑みを向けてロビー奥のカフェを指し返答した。

「浅田家の披露宴に参列している者の迎えですので、案内は大丈夫です。そちらのカフェで待ち合わせることにしておりますので」

 私の言葉に、声をかけてきた彼がふうわりと穏やかに微笑む。

「そうでしたか、失礼いたしました。当ホテル自慢のカフェにて、お時間までごゆっくりとお寛ぎくださいませ」

 そうして、すっと。優雅な動作で腰から頭を下げて、そっと私から離れていく。流石は一流といわれるホテルのホテルマンだなぁ、と心の中でひとりごち、ロビー奥のカフェへ足を運んだ。

 智と待ち合わせをしているカフェに辿り着くと、店員さんが店内に案内してくれた。ふわふわとした絨毯に足を踏み入れ、店員さんの背中を追い店内の中間くらいまで歩くと、ふっと。黒曜石のような瞳と視線がかち合った。驚いて、ぴたり、と。動かしていた脚が止まった。

「えっ……こ、ばやし…くん?」

 思わぬ人物と遭遇したことで、一瞬思考回路が停止した。対する小林くんも、驚いたように一重の目を見張っている。

「一瀬、さん……」

 小林くんは4人掛けの席に、ひとりで座っている。四角いテーブルの上に、スマホと手帳、それから新書を広げて、手帳に何やら書き写しているようだった。

 私と智が出会った合コンの…自己紹介の時。小林くんは、休日は基本的にカフェで勉強をしている、と口にしていた。今日は日曜日だから、そのルーティンをこなしているのだろう、と察する。

 私と小林くんの驚いたような声に店員さんがくるりと振り返り、私と小林くんを交互に見遣ってにこりと笑みを浮かべた。

「お知合いですか?……お客さま、差し支えなければこちらのお席にご案内いたしましょうか」

 店員さんの問いかけにハッと我に返る。店内を見回すと、満席に近い。カフェの入り口を振り返ると、私が入店したことで、私が書かなかったウェイティングリストに記帳している人たちがいることを視認した。

 このまま私が別の席に案内されるよりは……小林くんには申し訳ないけれど相席をお願いする方が、待たされているお客さんが減る。そう結論付け、小林くんの澄んだ瞳を見つめたまま、そっとカフェの入り口を指さす。

「相席していい?」

 聡い小林くんのことだから。この動作だけで、私の言いたいことやその直前に考えていた事を察してくれるだろう、と想定しての動作。

 私の指先が向く方向に、小林くんが視線を向ける。ぱちぱちと数度目を瞬かせて、小さく頷きテーブルを片付けだす。

「散らかしててすみません」

 その言動を是と受け取り、案内してくれていた店員さんに「こちらに相席させてもらいます」と笑顔を向けた。空いている椅子に自分の鞄を置いて、テーブルを片付けている小林くんに改めて「ありがとう」と謝意を述べる。

「いえ。……ちょうど…一度空いて、また込み合ってくる時間帯ですから」

「え、そうなの?」

 小林くんが口にした言葉に思わず目を瞬かせる。こうしたカフェは、ティータイムである15時くらいまでは非常に混雑していると体感でも感じるけれど、こうやって陽が落ちる夕方は空いているという印象だった。

 テーブルに広げていた資料を黙々と片付けながら、小林くんが言葉を続けていく。

「大抵のカフェに共通することですが、カップルや女性はお出掛けで疲れた足を休めに、この時間帯に休憩がてら足を運ぶみたいですよ。恐らくランチで足を休めて、少し遊んで、また休んで、というタイミングなのでしょう」

「あ、なるほどね……」

 小林くんのわかりやすい解説に合点がいった。確かに、ランチの後に少し遊んで、またカフェに入る、というルートは大学時代の友人たちとの定番コース。小林くんのいう通りだ。

(……そうだった。あの時…カフェでの勉強の休憩中に、人間観察をしているって…言ってたな)

 とす、と。鞄を置いた椅子に腰かけながら、あの時の小林くんの自己紹介のシーンを脳裏に浮かべる。もうずいぶん前の記憶だけれど、1年は経っていないのだ、という事実に少し驚く。

「ごめんね、ひとりで勉強していたかっただろうに。私、テキスト黙読するだけだから。気にせずテーブル使ってていいからね」

 店内が混雑しかかっていることを目の当たりにして、咄嗟に気の置けない小林くんに甘えてしまったけれど、結果的に小林くんの勉強の邪魔をする形になってしまった。それに関しては申し訳なく思う。小さく頭を下げながら、テーブルを片付け終えた小林くんに視線を合わせた。

「いえ、大丈夫ですよ。……一瀬さんと同じです。浅田さんの披露宴が終わるまでの…待ち合わせの時間潰しでしたから。本当に気になさらないでください」

 小林くんが手帳をパタリと閉じながら、ふっと笑みを浮かべて返答してくれる。その言葉に、ストン、と。腑に落ちる感覚があった。

(あ、そっか。藤宮くんも、浅田さんの結婚式に参列してるからか)

 彼らは大学の同期で。ふたりで良く飲みに行っている、と聞いている。だから私が智のお迎えでここに来ている、ということを知っているのだろう。
 明らかに『体育会系です』という藤宮くんが、小林くんの肩を組んで……披露宴の後にも飲みに行こうと話しているような様子が目の前で再生されるようだった。その待ち合わせ、ということなのか、と、小さく納得する。

 気にしないでください、と口にした小林くんが、その言葉を裏付けるかのように。テーブルの上のメニュー表を手に取って渡してくれる。相変わらず気が利く子だなぁと感心する。

「じゃ、お言葉に甘えて。ありがとう」

 にこり、と。改めて感謝の笑顔を小林くんに向けた。小林くんも「どういたしまして」と声をあげて、ふたたび手元の新書に視線を落とした。

 『本日のオススメ』と書いてあるエチオピア産のモカコーヒーを注文し「こちらの彼とは別会計で」と添える。私も鞄から通関士のテキストを取り出し、栞を挟んでいた部分までパラパラと捲っていく。

「……」

「………」

 無言の時間が続く。居心地の悪い無言ではなくて、心地よい無言の空間。
 注文したコーヒーがテーブルに届いて、淹れたてのコーヒーの華やかな香りが鼻腔をくすぐる。店員さんがするりと伝票を置いていった。

 黙々と、お互いに声も上げずに手元の本を読み進めていっているけれど。何となく頭に入ってこない。ずっと…… から。気になっていることがあるからだ。

 ほぅ、と。小林くんに気が付かれないように、心の中で小さくため息をついた。

(あの日の…池野さん。……なんか、変だった)

 あの日。三井商社の株主総会が開かれた日。その夜、『お詫び』として食事に連れて行ってもらった時のこと。

 食事中の会話は、ずっと。私と池野さんの出会いだったり、これまでの業務のやりとりで印象的だった事例だとか、私が智に出会う前の智がやらかした事件を池野さんが面白おかしく話してくれたり。そんな……昔のことを回顧するような会話が続いた。

 それはまるで、私が数度経験してきた、大学時代のアルバイト先や職場の送別会でのような雰囲気で。これまでの思い出をみんなで語っているような。


 一言でいえば。あの日の池野さんにはがあった。


 それからずっと。なんだか、胸がざわざわするのだ。胸の中に何とも言えないが生まれた、と表現した方が適切だろうか。仄暗い霧の中で、ざらりとした何かを掴まされたような。そんな気がするのだ。

 あの日以降。こうして腰を下ろしてテキストを読んでいても、胸の中に立ち込めるざらりとした感触に落ち着かなくて。目にする文章の全てが頭に入ってこない。文字が滑っていく。

(……あの直前に…片桐さんに話していたことも気になる…)

 片桐さんは池野さんに遭遇して、ひどく動揺していたようだった。けれど、翌日、帰り際にエレベーターホールで待ち伏せしていた時の片桐さんは……普段と変わらず、飄々とした雰囲気の。片桐さんだった。

(ん~……やっぱり、片桐さんが何を考えてるのか全然わかんない…)

 ヘーゼル色の瞳が脳裏をよぎり、思わず、むぅ、と。眉間に皺が寄る。

 テキストを捲る手を止めて、自分の右の手のひらを広げて見つめた。

「………」

 池野さんが片桐さんに、借りていたというライターを手渡しながら紡いだ……あの言葉。

(………頭がいいから…上手な才能…?)

 あの時、池野さんが口にしていた言葉はもっと長くて。けれど、私が覚えているのはこの言葉だけ。この言葉が何を意味するのか、全くわからない。
 三井商社に入社して以降、10年近く池野さんの部下をしている智なら、この言葉の意味が分かるかもしれない。そう考えて、あの日、残業して帰宅した智にこの言葉に心当たりがあるか訊ねてみた。けれど、リビングのソファに沈み込み口元に手を当てたままじっと考え込んで。

『………池野課長からはそんな言葉を言われたことがねぇ。何かのセリフか?それに、断片的すぎてわからんな…』

 と、細く整えられた眉を顰めながら告げられた。確かに、この単語だけでは前後が繋がらず全くわからないだろう。

 ため息をつきながら肩を落とすと、小林くんが小さく声をあげた。

「……どうされました?」

 手のひらに落としていた視線を上げると、小林くんが小首を傾げて心配そうな視線を向けてくれている。
 先日、片桐さんの付き纏い迷惑行為を阻止してくれた彼に、これ以上の心配をかけたくない。咄嗟にそんな考えが浮かび、慌てて笑顔を作った。何でもないよという言葉が喉元まで出かかったけれど。

(小林くんだったら…何か、わかるかなぁ……)

 智も。ノルウェー出張中に引っかかった『ぐるぐる』という言葉について。浅田さんに見解を求めようと思った、と…口にしていた。

 もし、彼がこの言葉に心当たりがあるとしたら。断片的だとしても、何かのヒントに繋がるかもしれない。

 そう考え、少し居住まいを正して、小林くんの黒い瞳を真っ直ぐに見つめる。

「あのね。ちょっと気になる言葉があって。『頭がいいから』っていう言葉の後に、『上手な才能』っていう言葉が続く文章。有名な言葉なのかな?何か……心当たりある?」

 私の言葉に、小林くんが。きょとん、とした表情を浮かべた。小林くんは、一見、少年のようなあどけない顔立ちだからか、その表情は何度見ても仔犬のようだなぁ、と……心の中でひとりごちる。鳩が豆鉄砲を喰らったようなその表情から、やはり心当たりはないのだろうと小さく肩を落とした。

 すぅ、と。小林くんが薄い唇を開いて、空気を飲み込む。吐き出されるであろう言葉を一足先に想像していたからか、小林くんから紡がれた言葉に意表を突かれた。


「シェイクスピアの作品に似たようなセリフが出てきますけれど。それでしょうか」


 シェイクスピア。想像もしていない単語だった。驚きのあまり声も出せないでいると、つらつらと。小林くんの口から、流れる水が重力に逆らわずに滝から滑り落ちていくように。淀みない解説が紡がれていく。

「十二夜という作品ですね。『頭がいいから阿呆の真似ができる。上手にとぼけてみせるのは特殊な才能』というセリフが出てきます。ロミオとジュリエットに代表される悲劇作品とは打って変わって、とても気持ちのいい喜劇作品です」

 思わず呼吸が止まる。ぼんやりとしか記憶していなかったけれど、池野さんが片桐さんに投げかけた言葉は、今彼が口にしたような文脈の言葉だったはず。

 有名なロミオとジュリエットは観に行ったことがある。けれど『十二夜』は初めて聞く作品名だ。

「……多分それだと思う。小林くんすごい、ありがとう」

 ほう、と。感嘆の吐息が自分の口から零れていく。

 まさか一発で答えが導き出されるとは思いもしていなかった。何かしらのヒントが貰えれば、とだけしか思っていなかったから、この結果に繋がった事は嬉しい誤算と言えよう。

 私の言葉に、小林くんが少しだけ居心地悪そうに私から視線を外していく。その動作の意味が噛み砕けず首を捻っていると。

「幼い頃から……舞台や歌劇、オペラとかにも。叔母に連れだされていて。大学に進学してからはご無沙汰ですけれど。すみません………その、育ちをひけらかすつもりはなかったのですが」

 ぽつり、と。苦々しそうな声色で、小林くんが小さく言葉を紡いだ。

 そう、だった。彼は九十銀行に連なる人物。質の高い教育を受けてきた人。だから彼がそう言った知識を持ち合わせているのは、ある種当然と言えば当然。

 そして、あんな低俗な噂が極東商社内で流れていたのだ。彼の耳に入っていないはずもない。私も知らないはずは無い、と、彼はそう考えているはず。
 だから……『自らの育ち』について抱える複雑な感情も、当たり前の感情だろう。

「ううん、そんなことないよ?そういう知識があるのって、素直にすごいと思う」

 にこり、と。破顔して返答する。口にしたその言葉に偽りはない。

 彼が抱えている重圧や苦労なんてこれっぽっちもわかってあげられないけれど、彼が持ち得る知識がここまで広範囲であることは、今携わっている食品のバイヤーとして営業成績を残すにあたって、絶対に良い方向に作用するはずだ。

 先ほど気まずそうに視線を外した小林くんが、ゆっくりと。真っ直ぐに私を見つめた。澄んだ黒い瞳と視線が交差する。

「………お役に立てましたか?」

「ええ、とても!本当にありがとう」

 ヒントが掴めれば、池野さんが片桐さんにどういう意図があってあの言葉を投げかけて、その言葉を受けた片桐さんがどうしてあんなに動揺していたのかがわかるかもしれない。

 胸の中に生まれたしこりを解消するための手掛かりが掴めた気がして、口元が思い切り綻ぶ。目の前の小林くんに改めて笑顔を向けると、彼がふっと口元を緩ませた。

「すみません、少しお手洗いに外してきますね」

 テーブルの上に広げていた新書をぱたりと閉じ、隅に移動させて、小林くんがゆっくりと席を立った。「行ってらっしゃい」と声をかけて、入り口に向かった小林くんの背中を見送る。

(……)

 九十銀行次期頭取の小林達樹としてではなく、ただひとりの人間として、ただの小林達樹として。何かを掴み取ろうと必死で努力してきたであろう、小林くんの逞しい背中。

 私にとって、彼は…守るべき可愛い後輩、でしかなかった。けれど、今は。彼に逆に守られている。あの夜だって、GPSが機能しておらず途方に暮れていた智を、小林くんがあの店まで導いてくれた。

 申し訳なさと不甲斐なさが先立って……気持ちが落ちていく。

(ううん。ここで落ち込んでいても意味はないんだから)

 彼の覚悟を、彼の想いを。私たちは受け止めなければいけない。改めて決意して心の中で小さく頭を振る。

(ネットで検索したら…その作品のあらすじとか、出てくるかしら)

 せっかくもらったヒントを水の泡にするわけにはいかない。手帳にメモを取って、『十二夜』を検索しようとスマホを手に取りロック画面を解除する。

「………?」

 カフェの入り口から私を呼ぶ、聞き慣れた声が聞こえた気がした。ふい、と、声のする方向に視線を向けて、視線が絡み合った人物に手を振った。
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