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本編・第三部

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 田邉部長が老眼鏡をかけたまま、私が作成した稟議書を目で追っている。その様子を田邉部長の席の隣に立ち、逸る心臓を抑えつつ、じっと眺めていた。

「……うん、いいんじゃないかな。起案、ご苦労さま。帰り際まで頑張ってくれて助かった。これを元に相談してきます」

 以前よりも節くれ立った指で老眼鏡を外し、田邉部長は穏やかな笑みを浮かべた。その仕草に、ほっと安堵のため息をつく。

 4月、税関に南里くんと加藤さんを連れて行った時。あの時に持ちかけられたベネフィット認証について、極東商社として認証を取得するという運びになり、各販売部と通関部の合同で稟議をあげることとなった。
 発案の通関部にて稟議書の草案を作成し、それを元に田邉部長が各販売部の部長たちともう一度話し合う流れになっており、その草案作成を頼まれていたのだ。正直、一発合格が貰えるとは思っていなかったから内心驚いたけれども。

 穏やかな笑顔に胸を撫で下ろしていると、「あぁ、そうだ」と田邉部長が声をあげた。

「三井商社がね?今日の株主総会前に、例の事件の顛末についての会見を行う、ということで。うちの広報部もその会見を見に行ったそうだ。明日にでもその辺りの詳細の通達、それから極東商社うちの各販売部に対して、不正取引を炙り出すための新しい対策についても通達が出ると思うよ」

 告げられた言葉に、やっぱり、と…小さくため息をついた。

 例の件が解決して以降、三井商社内では各営業課に定められていた商売の基本ルールが強化されたそうだ。循環取引や不正取引を防ぐための外部証憑の取得や、定期的なチェックリストの提出等々。智が担当している新部門についても同様で、新たな基本ルールに基づく業務の遂行がスタートしている、と聞いている。

 極東商社でも、各販売部には定められた独自ルールがある、ということは知っている。今回、それらが機能して片桐さんは該当取引が循環取引ではないか、ということに気がついたそうだから。

 そうして、その独自ルールを更に強化すべきだと提言したのも、片桐さんなのだそう。あれから毎日帰り際に待ち伏せされているけれど、その時に彼本人からこの話しを聞いたのだ。

「片桐は今回の一件の功労者、ということで、7月1日付けで課長代理に昇進することが決まったらしい。得意先からの評判も良かった片桐を、通関部から異動させるのは正直なところ本気で嫌だったけれども……元部下がこうして活躍してくれているのを見れるのは存外嬉しいものだねぇ」

 にこり、と。田邉部長が心底嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑顔に若干の複雑さを抱くけれど。

(……小林くんが畜産販売部で頑張ってるのを見て…私も嬉しかったもんなぁ……)

 この感情も、きっと……上に立つ者として当たり前のことなのだろう、と小さく心の中で頭を振る。

 嬉しそうに笑う田邉部長に、私も「そうですね」と笑顔を向けた。ふい、と腕時計に視線を落とすと、気がつけば終業時刻を過ぎている。そろそろ上がらせていただこう。
 残っている他のメンバーに「お疲れさまでした」と声をかけて、私はフロアを退出した。






「やぁ、知香ちゃん。今日もお疲れさま」

 ひらり、と。右手があげられる。左手を深いネイビーのスラックスのポケットに突っ込んだまま、片桐さんは螺旋階段に繋がる扉の隣の壁に凭れ掛かって、へにゃり、と。いつものように人懐っこい笑みを浮かべている。

 片桐さんがこうして私を待ち伏せするようになって、丸2ヶ月が経とうとしている。相変わらずお昼休み等の休憩中は絡みに来ず、こうして退勤の時だけ。
 退勤する時間が合って近くの交差点で待ち合わせている智の姿が見えれば、そっと私のそばを離れていく。今までの片桐さんだったら智の神経を逆撫でするような言葉で喧嘩を売りに行っているはずなのに。

 そんな今の片桐さんだからこそ……何を考えているのか、さっぱり読めないでいる。

 小さくため息をつきながら社員証をタイムカードの機械に翳し、なるべく感情を押し殺した声色で返答する。

「……課長代理昇進、おめでとうございます」

 彼は、私が主任に昇進した時。1日遅れだったけれど、「おめでとう、ずっと頑張っていたもんね」と声をかけてくれた。こうやって待ち伏せされていることと、昇進それに関しては別だから。形式上でも祝意を伝えておく方が後腐れなくていい。

「あはは、もう知ってるんだ。さては田邉部長から聞いた?」

 片桐さんは困ったように笑いながら、凭れ掛かっていた身体を起こして私に近寄ってくる。その様子を横目に、エレベーターの下ボタンを押して社員証を鞄に仕舞う。その代わりにスマホを取り出して視線を落とし、片桐さんを視界から追い出した。

「俺、営業マンとしては新人なのにさ?一気に課長代理になっちゃって。従兄叔父のコネ入社だから昇進も早いんだろうってやっかまれたら嫌だから、正直昇進なんてしたくなかったのにね~ぇ……」

 ほう、と。ため息をつきながら、片桐さんが到着したエレベーターの扉が閉まらないように扉を押さえていてくれている。

 待ち伏せが始まった頃。同じエレベーターに乗ることを拒否したくて、扉を押さえてくれていてもそのエレベーターには乗らない、という抵抗をした。密室にふたりきり、だなんて、この前の打ち合わせルームのようなことになったら目も当てられないから。

 結局、片桐さんもそのエレベーターに頑として乗らず、「俺がエレベーターの中で知香ちゃんに触ったらすぐに警察に通報していい」と真剣な目で諭され、私が根負けして、次に来たエレベーターに一緒に乗り込んだ。……意外なことに、片桐さんは先の言葉の通り私には全く触れなかった。

 あの時のことを回顧しながら扉を押さえてくれている片桐さんに小さく頭を下げて、エレベーターに乗り込み1階のボタンを押した。

「……小林くんのことをあんな風に言っていたツケが回ってきたんですよ」

 あれはホワイトデーの日では無かったか。小林くんが九十銀行頭取の甥、ということが明るみに出て、その噂を知っているか、と……片桐さんが嘲笑うような笑みを浮かべ、社員食堂で問いかけてきた時。悪意にまみれた低俗な噂に我慢がならず、大勢の社員がいる場で片桐さんに啖呵を切ったあの日。今でも……あの日の言葉を、後悔なんて1ミリもしていない。

(……思い出したらムカムカしてきた)

 彼はあの時、私には頭を下げたけれど、きっと小林くんには頭を下げてはいないだろう。あの時の私は片桐さんを信じて引いた。
 でも、あの時の片桐さんは今よりもっと狡猾で。その直後に、私に催眠暗示というあんな強引な手段を使ったのだから。きっとあの時の私に対する謝罪も演技だったのだろう。そう思うと苛立ちが収まらない。高い位置にあるヘーゼル色の瞳を強く睨みつける。

「あはは、確かにね。仏教では『バチがあたる』って言うんだっけ」

 片桐さんが困ったように、明るい髪と同じ色の眉を動かした。その動作と同時に、独特の浮遊感が私たちを包む。その感覚で、このオフィスビルの1階にあるエントランスに到着したことを認識した。

「片桐さんの場合はバチが当たるというよりは因果応報というような気がしますけれどもね」

 ふつふつと滾るような感情を抑えて一気に言葉を吐きだして、ふたたび隣の片桐さんを睨み上げた。扉が開くと同時に、片桐さんがエントランスに足を踏み出していく。

「相変わらず辛辣だね~ぇ?一応、今回の功労者ということは受け入れて欲しいんだけど?」

 精悍な顔立ちに苦笑いを浮かべて、大袈裟に肩を竦めながらエントランスに降り立った片桐さんがくるりと私を振り返る。ふわり、と。深いネイビーの背広の裾が翻った。

 そんな片桐さんを無視して、私は足早に片桐さんの横を通り抜けていく。シトラスの香りが鼻腔をくすぐって、その香りを振り払うようにずんずんと歩みを進めた。

 コツコツと音を立てながらエントランスを歩き、出入り口の自動ドアをくぐると―――久しぶりに目にする、琥珀色の瞳と視線が絡まって。驚きで目を見開いて、思わず足を止めた。

「久しぶりね、一瀬さん」

 にこり、と。柔和な笑みが目の前にあった。前回……ゴールデンウィーク明けにお会いした時は、黒川さんが引き起こした事件の謝罪として極東商社うちを訪問されていて。胸を抉るような沈痛な表情しかこの目に映せなかったけれど。今日は、本当に久しぶりに見る……やわらかな微笑み。

「池野さん……!」

 尊敬している人物に笑顔が戻っている、ということにひどく安心する。あの表情を見てしまったから、もしや一連の事件の責任を取ってこのまま辞職してしまわれるのでは、と心配になっていた。
 智の話によると、三井商社内ではそういう話も全くなく、今日の株主総会に向けて精力的に活動されている、ということだったけれども。

「株主総会、本当にお疲れ様でした」

 池野さんの笑顔を自分の目に映すことができて本当にほっとした。他社に所属している池野さんだけれども、私は彼女に憧れて総合職に転換したようなものだから。
 労いの言葉をかけながら、ぺこりと頭を下げて久しぶりに相対する池野さんに駆け寄ると、にこり、と。改めて柔和な笑みが私に向けられる。

「ありがとう。……一瀬さん、邨上から聞いてるわよね?今回の件に関して、私からのお詫びも兼ねて今から食事に行きましょう?いいところを予約してるから」

 ふふふ、と。いたずらっぽい笑みを浮かべ、池野さんが小さく首を傾げた。アーモンド色の髪がさらりと揺れ動く様子を眺めながら、赤い唇から紡がれた言葉の意味を噛み砕けずにぱちぱちと数度目を瞬かせる。

 智から聞いているはず、と言われても。そんな話、私は聞いていない。

 きょとん、とした私の表情を確認して、池野さんが柔和な笑顔を崩して苦笑いを浮かべつつ言葉を続けた。

「あら、聞いてなかった?午後、株主総会に行く直前に邨上に話をしたのだけれど」

「え……」

 思わぬ一言にふたたび目を見張る。けれど、赤い唇から告げられた言葉にひとつだけ心当たりがあった。申し訳なくなって、眉を下げて池野さんの琥珀色の瞳を見つめる。

「すみません、私のせいかもしれないです。きっと連絡は来ていると思うのですが、午後からスマホを触る時間が無くて」

 午後は受け持っている通関業務をこなしながら、稟議書の草案を作成していて、スマホを触る時間が無かった。退勤後も、待ち伏せしていた片桐さんに気を取られて……スマホのメッセージアプリも確認出来ていなかったから。

 そこまで考えて、そういえば片桐さんが隣にいたはずだった、と思い返していると、ふい、と。琥珀色の瞳が背後の片桐さんに向けられた。

 その動作に合わせて、私も後ろの片桐さんに視線を向けると。ヘーゼル色の瞳が、驚愕に彩られて大きく見開かれていた。宝石のようなその瞳が―――今にも音を立てて零れ落ちそうなほどに。


 他人に感情を読ませないはずの、片桐さんが……私にもわかるほど。明らかに、動揺している。


(…………珍しい…)

 心の中で小さく呟くと、池野さんが今にも歌い出しそうな、そんな楽しそうな声色で片桐さんに声をかけた。

も。久しぶりね?」

 片桐さんは、池野さんの言葉に、ぴくり、と。小さく身動ぎをして。瞬時に、へにゃり、と……いつもの人懐っこい笑みが精悍な顔に浮かぶ。

「……そう、ですね。も……変わりなくお元気そうで」

 片桐さんが、少しだけ言い淀みながら。顔に浮かべた笑顔とは相反する強張ったような声色で言葉を紡ぐ。

 池野さんと片桐さんは、仕事上面識があるはず。それなのに、お兄さん、お姉さんと呼び合っていることに一瞬の違和感を抱く。その違和感の正体を少しだけ考え込んで、ひとつの結論に行き当たった。

(……そっか、マスターのお店で…)

 片桐さんはマスターのお店の常連だと言っていた。そうして、池野さんはマスターの妹さん。仕事上の付き合いがある以前からプライベートで面識があったのだと理解するまで、数秒も必要なかった。

「ここでお兄さんにも会えてよかったわ。お兄さんにも用事があったのよ」

 池野さんが形の良い赤い唇を動かして、嬉しそうに言葉を紡いだ。そのセリフに、片桐さんが、ふたたび小さく身動ぎをする。

 カツカツと。池野さんの足元から奏でられる、軽快なピンヒールの音がいつもの交差点に響いた。アーモンド色の髪が、吹き付けた初夏の風でさらりと靡いている。

「兄に預けても良かったのだけれど。お兄さんも忙しくって、4月から兄の店に顔を出していないと聞いたから」

 池野さんが困ったように整えられた眉を動かしながら言葉を紡いだ。左肩にかけた鞄の中を右手でまさぐって、とても優雅な動作で。気品のある女優さんが優雅にハンカチを手に取るように。銀色に光る何かを取り出している。そうして、するり、と。その何かを片桐さんに差し出していた。

「この前、ライター借りたじゃない?返すのを忘れていたから。あの時はありがとう」

 その言葉を紡いで、にこり、と。ふたたび池野さんが柔和な笑みを浮かべた。
 目の前に差し出された銀の光を、片桐さんが人懐っこい笑みを浮かべたままぎこちない動作で手に取っていく。

「どういたしまして」

 彼にしては珍しく硬い声色で短く返答している。片桐さんの表情は、まるで……いつもの人懐っこい笑みが印字されたシールを、ぺたり、と。顔面に隙間なく貼り付けたような。そんな表情で。

(……?)

 片桐さんがここまで動揺している姿は初めて見た。本当に珍しいことがあるものだな、と、ふたりの様子を横からぼんやりと眺める。

 するり、と。池野さんの手から片桐さんの手に、その銀の光が移ると同時に。池野さんが片桐さんの貼り付けたような笑顔を見つめたまま、柔和な笑みを崩さずに口を開いた。


「お兄さん。あなたって人は、本当は頭がいいから阿呆の真似ができるのね。上手にとぼけてみせるのは、特殊な才能だわ?」


 池野さんの言葉に、片桐さんのへにゃりとした表情笑みが瞬時に強張った。

 池野さんが片桐さんに放った言葉。私にはさっぱりその意味が分からない。思わず池野さんと片桐さんを交互に見遣る。

「The eyes are the window of the soul?」

 妖艶ともいえる赤い唇から紡がれた流暢な英語。流暢すぎて、何を言っているのか私は全く聞き取れなかったけれど。片桐さんは、池野さんの言葉が聞き取れたようで。

 ヘーゼル色の瞳が大きく見開かれて、ひゅっと音を立てて息を飲んでいる様子を視界の端で捉えた。

 池野さんは、確かに世界をまたにかけた貿易営業のみで役員まで上り詰めた人ではあるけれど、大学は文学部だったと聞いている。今、耳にした英語は……英語科卒の加藤さんよりも、はるかに流暢な英語だった。

 何が起こっているのか、全く把握できない。思わず、ぽかん、と口が開く。

 くすくす、と。池野さんがいたずらっぽい笑みを浮かべて、くるりと身体を反転させ私の腕を取った。アーモンド色の髪がふわりと大きく翻って。

「さて。一瀬さん、行きましょう?」

「え、えぇ!?」

 ぐい、と。華奢な池野さんの身体からは想像もできない強い力で引っ張られて、身体が少しつんのめるように動く。引っ張られているからか、初夏の風が勢いよく顔に纏わりついていく。

 ハッと我に返って、背後の片桐さんに視線を向けた。

 誰も立ち入れない禁忌の森に悠然と佇んでいる…誰も手にできない、宝石のようなヘーゼル色の瞳。それが、段々と遠のいていくのに。

 その瞳は、ひどく動揺したように大きく揺れ動いて。

 私が……マスターのお店で、初めて片桐さんと出会って。ゼロから始めたらいい、と口にした、あの日の表情を。


 振り返った私の視界に映る、片桐さんは。
 あの瞬間と。全く同じ表情をしてるように、見えた。
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