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本編・第三部
【幕間】静かな祈りに、瞳を閉じて。
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「じゃ。プレゼントは真梨さんってことで」
「……は?」
達樹の薄い唇から放たれた衝撃のセリフに、世界中の時が止まった気がした。
優しく、肩を押されて。トス、と。先週、暑くなってきたからとパイル生地のソファカバーをかけた、ふたり掛けのソファに押し倒された。眼前に、達樹の黒曜石のような黒い瞳があって。心臓が大きく跳ねる。
(ど………どうして)
どうして、こうなったのか。全く、わからなかった。
1LDKの私の部屋に置いているローテーブルは、一人暮らしにはちょうどよく、ふたりで食事を取るには少し手狭で。背の高い達樹が、いつも所作が綺麗な達樹が。私の家にいる時だけは少し猫背になりながら箸を進める姿が………なんとなく、可愛いと感じてしまう。
カウンターキッチンの笠木に並べていたお皿たちをリビングのローテーブルに移しながら、スーツのジャケットを脱いでいる達樹に座るように促した。
「お祝いだから、洋食にしたんだけど。和食の方がよかったかしら」
達樹が首元のネクタイを緩めながら私に視線を向ける。色っぽいその姿に心臓が跳ねた。じんわりと赤くなりそうな顔を隠すように、達樹からそっと視線を外す。
「……洋食の方が好きですから。お気遣いありがとうございます」
紡がれたその言葉にほっとため息をついた。冷蔵庫からキンキンに冷えたシャンパンと普通の小さなグラスを持って、ソファに座る達樹の隣に身体を沈み込ませていく。
「シャンパングラスとか、ゾンビグラスとか。気の利いたグラスがないから申し訳ないけれど」
「いえ……こんな豪勢な誕生日の手料理、初めてです」
いつも寡黙で表情を表に出さない達樹の顔が少し綻んだ。その表情に、この一週間下準備を頑張って良かったと胸を撫で下ろす。
グラスにシャンパンを注ぎ、かちんと鳴らして。
「はい。誕生日、おめでと」
「ありがとう、ございます」
テーブルに並んだ料理はパッションフルーツのソースを絡めた冷たい魚介サラダ。メインにはインパクトの強い色鮮やかなアクアパッツァ。オードブル代わりのエビとホタテのロースト等々。
「いただきます。……月次処理をしながらこんなに作るの大変だったんじゃないですか?」
達樹がカトラリーを動かしながら私に視線を向けた。なんとなく気恥ずかしくなって、少し突き放すような口調で返答する。
「うちで食べることに決めてから結構時間あったし。少しずつ下準備出来るものにしたから、そうでもないわよ?全部ひとつの鍋で出来るし。まぁ、実家が料亭だから洋食のメニュー考える方が大変だったわ」
そう。私の実家は和食の料亭だから。洋食のメニューがなかなか思い付かずに、スマホを片手に先週から延々と悩んでいた。
誕生日のお祝いだから、やっぱり牛肉の方がいいかな、とか。
けど、ステーキよりは魚介類が好きなんじゃないか、とか。
そういえばこの前、商談の帰りに畜産販売部の先輩と食べに行ったアクアパッツァが美味しかったお店の話を聞いたな、とか。
思えば嫌いな物も好きな物も聞いてなかった、とか。
誕生日ならやっぱりケーキは用意しよう、でも、甘いものが嫌いだったらどうしよう、とか。
仕事をしながらも色々と悩んだ。でも、私の方がひとつ歳上だから。そういう弱い部分は見せたくなくて、ずっとずっと、なんでもないように装って過ごしていた。
「……美味しい、です」
猫背になりながらも、黙々と箸を進めていく達樹は、やっぱり可愛くて。
そして、美味しい、という言葉をくれた達樹が、途方もなく愛おしくて。
「………………ありがと」
いろんな感情を押し殺しつつそう言った。
今週中に起こった仕事の話をしながらシャンパンを飲み、料理をゆっくりと食べ進めていく。
会社ではお互いに避けるように日々を過ごしているし、終業のタイミングも一緒になることは少なく、平日は軽く連絡を取り合うくらいで。こうやって会話して同じ時間を共有出来るのは、今日のような金曜日の夜だけだ。
私たちの関係は、未だ公にしていない。というより、この先も結婚でもしない限りするつもりもない。私たちがこういう関係にあると公になって、それでも平然と仕事をしなければならないというのは私には無理だ。恥ずかしすぎて死ねる。想像しただけで手が震えそうだ。
故に。先輩や加藤には、好きな人がいる、と濁している。
達樹自身にも、公にしたくない、という想いがあるのだと思う。達樹には九十銀行頭取の甥で、次期頭取という役目がある。悪意にまみれた例の噂は鎮火しかかっているものの、そこに新たな火種を放り込みたくないと考えているのだろうと察している。
人間とは残酷なものだ。好意的に見られていたはずの先輩と平山さんの関係も、あんなことがあって一気に手のひらを返されたように先輩が悪者のような噂が瞬時に広まった。
そういった経緯もあって、達樹が私たちの関係を公にしたくないと考えていることに異論も無いから、ずっとこのままでいいと思っている。
テーブルの上に広げていた料理も私たちのお腹の中に消えていき、やがて買っておいたシャンパンも飲みきってしまった。
「……ご馳走さまでした。本当に美味しかったです。ありがとうございました」
パチリ、と。達樹が胸の前で手を合わせた。その声に、私も同様に手を合わせて「ご馳走さまでした」と小さく呟いて、目の前の食器達を重ねて片付けていく。
「お粗末さまでした。……コーヒー、飲む?」
ドクドクと速くなっていく心臓を抑えながら、必死に平静を保って隣の達樹に声をかけた。
「……お願いします」
達樹は少しだけ逡巡するように視線を彷徨わせ、私と同じように食器を片付けよう手を伸ばした。伸ばされたその手をパシッと掴んで、高い位置にある黒曜石のような瞳を睨み上げる。
「今日は手伝わせないから」
「……えぇ…」
咎めるような私の声に、達樹が困惑したように小さく吐息を漏らした。
達樹は男性にしては珍しく、家事を進んでするタイプだ。金曜日にこうしてどちらかの家に泊まることにしているけれど、私の家に来ても何かしらをしようとする。
私と一緒に幸せになりたい、と。偽りの関係に終止符を打ったあの日、達樹はそう口にした。だから、こうして日常の家事もはんぶんこにしようと思ってくれているのだと思う。
……でも。
「達樹の気持ちはありがたいけど。あんた今日は誕生日でしょう。今日くらいはそういうのをさせたくないってことくらい察しなさいよ」
ぎゅう、と。睨みつける目を、手首を握っている力を強くする。
キッチンに入って来られて、このあと出そうと思っているモノを見られたくない。その思いで、ひどくキツい口調になってしまったことに、小さく後悔するけれど。
(……バレたくないんだから。絶対に)
悟られてしまえば、努力が水の泡になってしまう。だから、自分を奮い立たせてぎゅっと達樹を睨み続けた。
私の言葉に、達樹が諦めたように身体から力を抜く。それを悟って小さく安堵の笑みを浮かべた。
「じゃ、ちょっと待ってて」
達樹の手首を握っていた手から力を抜いて、腕をテーブルに向ける。重ねた食器たちを流しに運び、コーヒーメーカーをセットして洗い物を始めた。
先輩が泊まりに来た時、先輩はハンドドリップでコーヒーを淹れていた。先輩の姿を見よう見まねで練習したけれど、独学ではどうにも難しかった。結局、コーヒーメーカーに頼る形になってしまったことは歯がゆい。
コーヒーメーカーが淹れ終わったことを知らせる音を奏でた。洗い物を一旦中断して、サーバーを手に取り、お揃いのマグカップにコーヒーを移す。
お盆にマグカップと、冷蔵庫から取り出した小さなお皿と、それからフォークを乗せて。緊張で強ばる身体を叱咤してリビングに戻った。
達樹はソファに沈みこんだまま、スマホと手帳を交互に見遣っている。きっと仕事のスケジュールを調整しているのだろう。畜産販売部に異動となって、食品のバイヤーとして、営業マンとして。少しずつ営業成績を残していっている姿は同じフロアだからこそ何となく感じていることだ。自分の事じゃないけれど、少しだけ胸の奥がくすぐったい気持ちになる。
「……達樹?」
そっと。名前を呼んで、昨晩手作りしたケークオショコラと、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いた。私の声に、達樹がふっと顔を上げて、はっと目を見張った。
ふるふると。黒い瞳が動揺で揺れ動いている。驚いているようなその姿に、小さな達成感と…なんとなくの恥ずかしさが込み上げてくる。
「チョコレートは大丈夫かしら。オレンジとナッツのケークオショコラよ」
そう口にしながら、ストン、と。先ほどまで腰を下ろしていた達樹の真横に沈みこんだ。
金曜日は仕事が終わったら待ち合わせて帰ることにしているから、達樹に知られずにケーキ屋に立ち寄るのは難しい。だったら作ってしまおうと考えついたわけだ。
達樹が甘いものが苦手だとしても、オレンジが混ざったケークオショコラにすれば大丈夫かもしれない、と思い立ち、夕食の下準備をしながらこちらの準備も進めた。
ケークオショコラは、オーブンで焼いてから一晩寝かせたほうが味が馴染んで舌触りも滑らかになる。今回のスケジュールにうってつけだ。
動揺していたような達樹が数度目を瞬かせた。そして、ゆっくりと口元を綻ばせて、薄い唇を開く。
「料理だけじゃなくて、こんなことまで。本当に嬉しいです」
心底嬉しそうに紡がれたその一言。その一言に、小さな罪悪感と、羞恥心が込み上げる。込み上げた感情を隠すように手元に視線を落とした。
「……その。プレゼントは、用意する時間がなくて」
そう。用意する時間がなかった、ということに、しておきたいのだ。
先日、加藤からネクタイピンには『あなたは私のもの』という意味がある、だなんて話しを聞いてしまい、既に贈ってしまったそれをひどく意識してしまったから。あの時は意味を知らなかったとはいえ、今更何かプレゼントを選ぶなんて行為は恥ずかしすぎて出来なかった。
かぁっと、耳が熱くなるのを感じる。それを隠すように、淹れたてのコーヒーを口にしようとマグカップに手を伸ばそうとして。
「じゃ。プレゼントは真梨さんってことで」
「……は?」
世界中の時が止まった気がした。ぴしり、と。音を立てて自分の身体が固まるのを感じる。
優しく肩を押されて。トス、と。ふたり掛けのソファに押し倒された。
視界に、肩甲骨くらいまで伸びた私の明るい髪が。ゆっくりと靡いていく様子が、スローモーションのように映った。
達樹の白いワイシャツの喉元から。深い紺色のネクタイが落ちて、揺れ動いている。
視線をネクタイから達樹の顔に向けると。澄んだ黒い瞳に、真っ直ぐに貫かれる。
ふわり、と。コーヒーの香りに交じって、達樹の香水の香りが鼻腔をくすぐっていく。
「……」
すっと。達樹が私の顔の横に置いていた手を動かして、無言のまま。その長い指で、私の唇を……ゆっくりとなぞった。
「………ちょ、ちょっと待って……!」
少しだけでいいから。一瞬でいいから、待って欲しい。現状を整理させて欲しい。というより、心の準備をさせて欲しい。
だって。こんなこと、想定すらしていなかった。
偽りの関係に終止符を打ってから。そういうことは一度もしていない。私に先輩を重ねた、達樹なりの償いなのだろうと思っていたから。
だから、達樹の気が済むまで、その感情を尊重しよう、と思っていた。
それが、こんなタイミングで。こんなことになるなんて。
(かっ、考えもしてなかったわよっ!?)
全身が心臓になったように熱い。顔が真っ赤になっていることはとうの昔に自覚している。
混乱のまま、達樹の胸を押して軽く抵抗する。私の行動に、達樹がムッとした表情をして、不満気に眉を動かした。
その仕草に。すっと心臓が冷えていく。沸騰しそうな身体が、冷凍庫に放り込まれたように一瞬で氷点下まで冷えた。
きっと、達樹は。身体を重ねるのを、拒否されたと思っているのだろう。偽りの関係でいたときは何度だって重ねていたのに。そう思っているのだと感じると、胸の奥がズキンと傷んで、じわりと視界が滲んだ。
はぁ、と。達樹が小さくため息をつく。拒否したことに対する文句のひとつでも言われるかもしれない、と、身構えたその瞬間。告げられた言葉に、今度こそ思考回路が停止した。
「あの日。俺には心の準備をさせなかったくせに?」
「………………はい?」
意味がわからない。なんの話だ。
滲んだ視界のまま、目の前の黒曜石のような瞳を見上げていると、達樹はふっと。愉しそうに口の端を吊り上げた。
「あの日。一大決心してケジメをつけようと思ったのに。俺に心の準備すらさせずに、ネクタイを引っ張って唇を奪っていったのはどこのどなたでしたっけ」
「……へ?」
達樹の、薄い唇から放たれる言葉。予想だにしていないその言葉に目を丸くする。
するり、と。達樹の長い指で、顎を捕らえられた。
逃げられない、と、理解した時には。もう、遅かった。
そっと。小さく。達樹が優しく囁く。
「だから。俺も、待ちません。心の準備もさせません」
そうして。達樹の、乾いた唇が。
私の、唇に。優しく重なった。
それは、私があの時にしたような、乱暴なそれではなくて。とても優しくて、あたたかい。
達樹の黒曜石のような瞳が閉じられている。長いまつ毛が、目の前にある。
合わされた唇から、達樹が私に向ける感情の全てが流れ込んでくるような。
こんな穏やかな時間が、いつまでも続きますように、と……静かに祈っているような。
ひどくやさしい、口付けで。
ゆっくりと。小さなリップ音を立てて、唇が離れていく。
私はまだ、現状が飲み込めずに。呆然と。呼吸すら忘れて、視界の端で深い紺色のネクタイが揺れ動いている様を、目の前に映し出される達樹の満足気な表情を。ただただ、眺めていた。
「………プレゼントはいただいたので。もう気にしないでくださいね」
ふわり、と。
はにかんだように、達樹が笑った。
「……は?」
達樹の薄い唇から放たれた衝撃のセリフに、世界中の時が止まった気がした。
優しく、肩を押されて。トス、と。先週、暑くなってきたからとパイル生地のソファカバーをかけた、ふたり掛けのソファに押し倒された。眼前に、達樹の黒曜石のような黒い瞳があって。心臓が大きく跳ねる。
(ど………どうして)
どうして、こうなったのか。全く、わからなかった。
1LDKの私の部屋に置いているローテーブルは、一人暮らしにはちょうどよく、ふたりで食事を取るには少し手狭で。背の高い達樹が、いつも所作が綺麗な達樹が。私の家にいる時だけは少し猫背になりながら箸を進める姿が………なんとなく、可愛いと感じてしまう。
カウンターキッチンの笠木に並べていたお皿たちをリビングのローテーブルに移しながら、スーツのジャケットを脱いでいる達樹に座るように促した。
「お祝いだから、洋食にしたんだけど。和食の方がよかったかしら」
達樹が首元のネクタイを緩めながら私に視線を向ける。色っぽいその姿に心臓が跳ねた。じんわりと赤くなりそうな顔を隠すように、達樹からそっと視線を外す。
「……洋食の方が好きですから。お気遣いありがとうございます」
紡がれたその言葉にほっとため息をついた。冷蔵庫からキンキンに冷えたシャンパンと普通の小さなグラスを持って、ソファに座る達樹の隣に身体を沈み込ませていく。
「シャンパングラスとか、ゾンビグラスとか。気の利いたグラスがないから申し訳ないけれど」
「いえ……こんな豪勢な誕生日の手料理、初めてです」
いつも寡黙で表情を表に出さない達樹の顔が少し綻んだ。その表情に、この一週間下準備を頑張って良かったと胸を撫で下ろす。
グラスにシャンパンを注ぎ、かちんと鳴らして。
「はい。誕生日、おめでと」
「ありがとう、ございます」
テーブルに並んだ料理はパッションフルーツのソースを絡めた冷たい魚介サラダ。メインにはインパクトの強い色鮮やかなアクアパッツァ。オードブル代わりのエビとホタテのロースト等々。
「いただきます。……月次処理をしながらこんなに作るの大変だったんじゃないですか?」
達樹がカトラリーを動かしながら私に視線を向けた。なんとなく気恥ずかしくなって、少し突き放すような口調で返答する。
「うちで食べることに決めてから結構時間あったし。少しずつ下準備出来るものにしたから、そうでもないわよ?全部ひとつの鍋で出来るし。まぁ、実家が料亭だから洋食のメニュー考える方が大変だったわ」
そう。私の実家は和食の料亭だから。洋食のメニューがなかなか思い付かずに、スマホを片手に先週から延々と悩んでいた。
誕生日のお祝いだから、やっぱり牛肉の方がいいかな、とか。
けど、ステーキよりは魚介類が好きなんじゃないか、とか。
そういえばこの前、商談の帰りに畜産販売部の先輩と食べに行ったアクアパッツァが美味しかったお店の話を聞いたな、とか。
思えば嫌いな物も好きな物も聞いてなかった、とか。
誕生日ならやっぱりケーキは用意しよう、でも、甘いものが嫌いだったらどうしよう、とか。
仕事をしながらも色々と悩んだ。でも、私の方がひとつ歳上だから。そういう弱い部分は見せたくなくて、ずっとずっと、なんでもないように装って過ごしていた。
「……美味しい、です」
猫背になりながらも、黙々と箸を進めていく達樹は、やっぱり可愛くて。
そして、美味しい、という言葉をくれた達樹が、途方もなく愛おしくて。
「………………ありがと」
いろんな感情を押し殺しつつそう言った。
今週中に起こった仕事の話をしながらシャンパンを飲み、料理をゆっくりと食べ進めていく。
会社ではお互いに避けるように日々を過ごしているし、終業のタイミングも一緒になることは少なく、平日は軽く連絡を取り合うくらいで。こうやって会話して同じ時間を共有出来るのは、今日のような金曜日の夜だけだ。
私たちの関係は、未だ公にしていない。というより、この先も結婚でもしない限りするつもりもない。私たちがこういう関係にあると公になって、それでも平然と仕事をしなければならないというのは私には無理だ。恥ずかしすぎて死ねる。想像しただけで手が震えそうだ。
故に。先輩や加藤には、好きな人がいる、と濁している。
達樹自身にも、公にしたくない、という想いがあるのだと思う。達樹には九十銀行頭取の甥で、次期頭取という役目がある。悪意にまみれた例の噂は鎮火しかかっているものの、そこに新たな火種を放り込みたくないと考えているのだろうと察している。
人間とは残酷なものだ。好意的に見られていたはずの先輩と平山さんの関係も、あんなことがあって一気に手のひらを返されたように先輩が悪者のような噂が瞬時に広まった。
そういった経緯もあって、達樹が私たちの関係を公にしたくないと考えていることに異論も無いから、ずっとこのままでいいと思っている。
テーブルの上に広げていた料理も私たちのお腹の中に消えていき、やがて買っておいたシャンパンも飲みきってしまった。
「……ご馳走さまでした。本当に美味しかったです。ありがとうございました」
パチリ、と。達樹が胸の前で手を合わせた。その声に、私も同様に手を合わせて「ご馳走さまでした」と小さく呟いて、目の前の食器達を重ねて片付けていく。
「お粗末さまでした。……コーヒー、飲む?」
ドクドクと速くなっていく心臓を抑えながら、必死に平静を保って隣の達樹に声をかけた。
「……お願いします」
達樹は少しだけ逡巡するように視線を彷徨わせ、私と同じように食器を片付けよう手を伸ばした。伸ばされたその手をパシッと掴んで、高い位置にある黒曜石のような瞳を睨み上げる。
「今日は手伝わせないから」
「……えぇ…」
咎めるような私の声に、達樹が困惑したように小さく吐息を漏らした。
達樹は男性にしては珍しく、家事を進んでするタイプだ。金曜日にこうしてどちらかの家に泊まることにしているけれど、私の家に来ても何かしらをしようとする。
私と一緒に幸せになりたい、と。偽りの関係に終止符を打ったあの日、達樹はそう口にした。だから、こうして日常の家事もはんぶんこにしようと思ってくれているのだと思う。
……でも。
「達樹の気持ちはありがたいけど。あんた今日は誕生日でしょう。今日くらいはそういうのをさせたくないってことくらい察しなさいよ」
ぎゅう、と。睨みつける目を、手首を握っている力を強くする。
キッチンに入って来られて、このあと出そうと思っているモノを見られたくない。その思いで、ひどくキツい口調になってしまったことに、小さく後悔するけれど。
(……バレたくないんだから。絶対に)
悟られてしまえば、努力が水の泡になってしまう。だから、自分を奮い立たせてぎゅっと達樹を睨み続けた。
私の言葉に、達樹が諦めたように身体から力を抜く。それを悟って小さく安堵の笑みを浮かべた。
「じゃ、ちょっと待ってて」
達樹の手首を握っていた手から力を抜いて、腕をテーブルに向ける。重ねた食器たちを流しに運び、コーヒーメーカーをセットして洗い物を始めた。
先輩が泊まりに来た時、先輩はハンドドリップでコーヒーを淹れていた。先輩の姿を見よう見まねで練習したけれど、独学ではどうにも難しかった。結局、コーヒーメーカーに頼る形になってしまったことは歯がゆい。
コーヒーメーカーが淹れ終わったことを知らせる音を奏でた。洗い物を一旦中断して、サーバーを手に取り、お揃いのマグカップにコーヒーを移す。
お盆にマグカップと、冷蔵庫から取り出した小さなお皿と、それからフォークを乗せて。緊張で強ばる身体を叱咤してリビングに戻った。
達樹はソファに沈みこんだまま、スマホと手帳を交互に見遣っている。きっと仕事のスケジュールを調整しているのだろう。畜産販売部に異動となって、食品のバイヤーとして、営業マンとして。少しずつ営業成績を残していっている姿は同じフロアだからこそ何となく感じていることだ。自分の事じゃないけれど、少しだけ胸の奥がくすぐったい気持ちになる。
「……達樹?」
そっと。名前を呼んで、昨晩手作りしたケークオショコラと、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いた。私の声に、達樹がふっと顔を上げて、はっと目を見張った。
ふるふると。黒い瞳が動揺で揺れ動いている。驚いているようなその姿に、小さな達成感と…なんとなくの恥ずかしさが込み上げてくる。
「チョコレートは大丈夫かしら。オレンジとナッツのケークオショコラよ」
そう口にしながら、ストン、と。先ほどまで腰を下ろしていた達樹の真横に沈みこんだ。
金曜日は仕事が終わったら待ち合わせて帰ることにしているから、達樹に知られずにケーキ屋に立ち寄るのは難しい。だったら作ってしまおうと考えついたわけだ。
達樹が甘いものが苦手だとしても、オレンジが混ざったケークオショコラにすれば大丈夫かもしれない、と思い立ち、夕食の下準備をしながらこちらの準備も進めた。
ケークオショコラは、オーブンで焼いてから一晩寝かせたほうが味が馴染んで舌触りも滑らかになる。今回のスケジュールにうってつけだ。
動揺していたような達樹が数度目を瞬かせた。そして、ゆっくりと口元を綻ばせて、薄い唇を開く。
「料理だけじゃなくて、こんなことまで。本当に嬉しいです」
心底嬉しそうに紡がれたその一言。その一言に、小さな罪悪感と、羞恥心が込み上げる。込み上げた感情を隠すように手元に視線を落とした。
「……その。プレゼントは、用意する時間がなくて」
そう。用意する時間がなかった、ということに、しておきたいのだ。
先日、加藤からネクタイピンには『あなたは私のもの』という意味がある、だなんて話しを聞いてしまい、既に贈ってしまったそれをひどく意識してしまったから。あの時は意味を知らなかったとはいえ、今更何かプレゼントを選ぶなんて行為は恥ずかしすぎて出来なかった。
かぁっと、耳が熱くなるのを感じる。それを隠すように、淹れたてのコーヒーを口にしようとマグカップに手を伸ばそうとして。
「じゃ。プレゼントは真梨さんってことで」
「……は?」
世界中の時が止まった気がした。ぴしり、と。音を立てて自分の身体が固まるのを感じる。
優しく肩を押されて。トス、と。ふたり掛けのソファに押し倒された。
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達樹の白いワイシャツの喉元から。深い紺色のネクタイが落ちて、揺れ動いている。
視線をネクタイから達樹の顔に向けると。澄んだ黒い瞳に、真っ直ぐに貫かれる。
ふわり、と。コーヒーの香りに交じって、達樹の香水の香りが鼻腔をくすぐっていく。
「……」
すっと。達樹が私の顔の横に置いていた手を動かして、無言のまま。その長い指で、私の唇を……ゆっくりとなぞった。
「………ちょ、ちょっと待って……!」
少しだけでいいから。一瞬でいいから、待って欲しい。現状を整理させて欲しい。というより、心の準備をさせて欲しい。
だって。こんなこと、想定すらしていなかった。
偽りの関係に終止符を打ってから。そういうことは一度もしていない。私に先輩を重ねた、達樹なりの償いなのだろうと思っていたから。
だから、達樹の気が済むまで、その感情を尊重しよう、と思っていた。
それが、こんなタイミングで。こんなことになるなんて。
(かっ、考えもしてなかったわよっ!?)
全身が心臓になったように熱い。顔が真っ赤になっていることはとうの昔に自覚している。
混乱のまま、達樹の胸を押して軽く抵抗する。私の行動に、達樹がムッとした表情をして、不満気に眉を動かした。
その仕草に。すっと心臓が冷えていく。沸騰しそうな身体が、冷凍庫に放り込まれたように一瞬で氷点下まで冷えた。
きっと、達樹は。身体を重ねるのを、拒否されたと思っているのだろう。偽りの関係でいたときは何度だって重ねていたのに。そう思っているのだと感じると、胸の奥がズキンと傷んで、じわりと視界が滲んだ。
はぁ、と。達樹が小さくため息をつく。拒否したことに対する文句のひとつでも言われるかもしれない、と、身構えたその瞬間。告げられた言葉に、今度こそ思考回路が停止した。
「あの日。俺には心の準備をさせなかったくせに?」
「………………はい?」
意味がわからない。なんの話だ。
滲んだ視界のまま、目の前の黒曜石のような瞳を見上げていると、達樹はふっと。愉しそうに口の端を吊り上げた。
「あの日。一大決心してケジメをつけようと思ったのに。俺に心の準備すらさせずに、ネクタイを引っ張って唇を奪っていったのはどこのどなたでしたっけ」
「……へ?」
達樹の、薄い唇から放たれる言葉。予想だにしていないその言葉に目を丸くする。
するり、と。達樹の長い指で、顎を捕らえられた。
逃げられない、と、理解した時には。もう、遅かった。
そっと。小さく。達樹が優しく囁く。
「だから。俺も、待ちません。心の準備もさせません」
そうして。達樹の、乾いた唇が。
私の、唇に。優しく重なった。
それは、私があの時にしたような、乱暴なそれではなくて。とても優しくて、あたたかい。
達樹の黒曜石のような瞳が閉じられている。長いまつ毛が、目の前にある。
合わされた唇から、達樹が私に向ける感情の全てが流れ込んでくるような。
こんな穏やかな時間が、いつまでも続きますように、と……静かに祈っているような。
ひどくやさしい、口付けで。
ゆっくりと。小さなリップ音を立てて、唇が離れていく。
私はまだ、現状が飲み込めずに。呆然と。呼吸すら忘れて、視界の端で深い紺色のネクタイが揺れ動いている様を、目の前に映し出される達樹の満足気な表情を。ただただ、眺めていた。
「………プレゼントはいただいたので。もう気にしないでくださいね」
ふわり、と。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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