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本編・第三部

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 終業時刻を迎えて、隣に座る南里くんが椅子ごとくるりと身体を私に向けた。

「一瀬さん、何かお手伝いすることありますか?」

 南里くんのその声に、デスクの上に広げた書類をくるりと見回す。
 あと手元にあるのは、西浦係長と加藤さんからへルプで回された畜産関係の通関処理だけ。南里くんは私と同じ農産チームだから、彼にこれらの書類を手伝ってもらうのはちょっと筋違いな気がする。
 腰掛けている椅子を少しだけ右に動かして、身体を南里くんに向ける。

「あと残ってるのは畜産関係だけだし、これもあと少しで処理し終えるから、南里くんはもう上がっていいわよ?」

 南里くんのくりくりした瞳と視線がかち合う。私のその言葉に彼がキラキラした笑顔を私に向けた。

「じゃぁ俺、お先しますね」

 南里くんはそう口にしながら、デスクの上の消しゴムのカスなどを纏めて足元のゴミ箱に放り込んでいく。視界の端に捉えた南里くんの横顔は、まさに音符が飛んでいるような、今にも歌い出しそうな雰囲気で。南里くんのその笑顔に、思わず苦笑いを浮かべた。

「うん、お疲れさま」

 南里くんは明らかに音符を飛ばしたまま、三木ちゃんが座る席の後ろの行動予定表の自分のマグネットを退社に動かして、フロアを退出していった。


 章さんが先週の金曜日に我が家に来て、一週間が経った。今朝、しっかりと元気を取り戻した章さんが、「もう大丈夫です、お世話になりました」と口にし、ぺこりと頭を下げて、今日の仕事を終えた夕方から自宅に帰る、と智に話していた。智はもう少しここに居たらどうだ、と言っていたけれど。

『一週間過ごしてみて、お互いに助け合って生活してるにーちゃん達見てたら、俺も落ち込んでらんねぇなって思ったから。明日からの土日、出会い求めてちょっと遊びに行ってみるわ』

 智そっくりのダークブラウンの瞳を困ったように細めて、短く切り揃えた黒髪をガシガシと掻きながらながら章さんはそう言葉を紡いだ。新たな出会いを求められるほどに章さんの心も回復しているようで、智も私もほっとしたものだ。

(……やっぱり、あの日からひとりぼっちにしなかったことが功を奏したのかなぁ)

 結婚したいと思った相手を幸せにしたい、と考えて仕事を頑張った結果、破局というこういう結末を迎えてしまい、章さんの落胆と絶望はいかばかりだっただろうか。それでも、私たちの存在が彼の心の回復に一役買えたようで何よりだ。


 そうして屈託のない笑顔を向けた章さんを送り出して、私たちもそれぞれ出勤した。先週とは違い、穏やかな金曜日を終えられそうだなとぼんやり考えながら、先ほど音符を飛ばしながら退勤していった南里くんの様子を脳裏に浮かべる。

(……結局、異動の話しは無し、か…)

 ゴールデンウィーク前に、徳永さんから告げられた、彼等の関係について。知ってしまった以上、田邉部長にはこっそりと話しを通している。その時に、同一部内ではあるけれども、課が違うから寛大な対応をお願いしたい、という私の意見を添えていたからなのか、彼らに係る人事異動の内示は2週間経っても音沙汰無しだ。

 今日は金曜日だから。南里くんは、きっと徳永さんとデートの約束でもしていたのだろう。浮き足立っている彼の様子を思い出すとなんだか可愛らしく感じて、くすりと笑みが溢れた。

(このまま…南里くんとも徳永さんとも、一緒に仕事が出来たらいいなぁ……)

 南里くんの成長は目覚ましいものがある。本当に、水を含んでいないスポンジのようにぐんぐんと色々なことを吸収していく。幼いように感じていた彼の言動も、私も気掛けて注意しているのもあるし、恐らく徳永さんがプライベートの場面でも色々と注意しているのだろう。言葉遣いだったり、歳上の人物との接し方にも改善が見られて、私が彼に対して抱いていた『危険な無邪気さ』は鳴りを潜めたように感じている。

 南里くんの同期の加藤さんも、ぐんぐんと成長していっている。配属初日に感じたように、彼女本人が他人と会話していても、2課内で交わされる会話等も把握しているようだった。彼女には一体耳が何個ついているのだろう、と、少し羨ましく思う。

 そこまで考えて、はっと自分を取り戻す。今日から章さんがいない、以前の生活に戻る。さすがに章さんの前では智と手を繋いだりは出来なかったから、今日くらいはぎゅっと抱きしめて欲しい。

(この辺の書類、早く片付けて帰ろう)

 智は今日はいつもより遅くまで残業になるだろう、と、お昼休みにメッセージアプリに連絡が来ていた。あの甘い声を早く耳に入れたい。改めて手に持った書類達に視線を落とし、ひとつひとつ処理を進めていくこと、1時間。

 トントン、と。書類を軽く纏めてクリップで留める。

(……これで終わり、かな?)

 そう心の中で独りごちて、くるりと自分のデスクの上を見回す。クリップ留めした書類を手に持って席を立ち、その書類を私と同じように残業している西浦係長に手渡した。

「一瀬さん、いつもすみません。私がまだ未熟なばかりに」

 西浦係長が、垂れ気味の眉を動かして申し訳なさそうに声を上げた。その声に、広げた手のひらを胸の前で小さく振って返答する。

「いえいえ。貿易に携わっていらっしゃらなかったのに1ヶ月と少しでここまで捌けるようになるなんて、信じられないくらい飲み込みが早い方だと思いますよ?」

「そういっていただけると本当に助かります…」

 申し訳なさそうな表情はそのままに、それでも穏やかにほんわかと謝意を伝えられる。その声に「とんでもないです」とにこりと笑みを浮かべながら返答した。

 実際に、西浦係長の業務の飲み込みは驚くほど早い。通関業に携わって10年以上の水野課長が指導をしていることを加味しても早すぎるほどだ。商品開発部にいた西浦係長は、やはり頭の回転が早く飲み込みも良い、元来優秀な方なのだろう。

(やっぱり、今年の通関士の試験は一発合格しちゃうだろうな……)

 私も負けていられない。勉強のペースを上げつつ、営業成績も出していかねば。改めて決意して、自分のデスクに戻りPCを操作して社外メールや社内メールをひとつずつチェックしていく。

 届いている社外メールのほとんどは、シンポジウム後の交流食事会で名刺交換をした企業の担当者からの、通関料金等に関するメールだった。料金表や受注の流れに関する文章を打ち込み、それらのメールに返信して、今日はもう上がらせてもらおうと席を立った。





 女性社員用の更衣室に滑り込み、自分のロッカーを開いて鞄を引っ張り出す。私服で勤務するようになって制服に着替える時間が省けるようになったからか、以前に比べて少しだけ……といっても、ものの5分程度だけれども、早く帰れるようになった。

 その分、家事や通関士の勉強ができる時間が増えた。シンポジウムよりも前にもっと早く決断していれば良かったかなぁなんて考えても、後の祭りだ。

 スマホを手に取ってメッセージアプリを起動させ、智とのトーク画面を開く。

(……まだ…残業中、かな?)

 昼休みにやり取りし、私が送ったメッセージに既読が付いている以外、変化がない。先に帰っているね、と打ち込んで送信し、ほう、とため息をついた。

(そういえば……誕生日プレゼント、どうしよう)

 智の誕生日まで、あと1ヶ月半ほどだ。当初の予定では、私の誕生日の時にしてもらったように、美味しいお店でディナーでもと考えていたけれど。その日は智が浅田さんの結婚式に参列することになっているから、その計画はおじゃんとなった。

(ほんと、どうしようかなぁ……)

 何をあげようか、と、ずっと考えあぐねている。

 いっそのこと欲しいものを本人に聞いてみよう、と思い立ち、帰省からこちらに戻る際の飛行機の中で、そう本人に訊ねたところ。

『知香の全部』

 と、真顔で返された。飛行機の機内にいるから耳がおかしくなっているのか、と、一瞬考え込んだけれど、噛んで含めるようにふたたび同じ単語を左耳元で囁かれた。唐突にぶっ込まれたその単語に顔が真っ赤になった事は言うまでもない。
 というより、そもそも。とっくの昔に、私の全部は智のものだ、と、私も智に伝えているし、智だって私の全ては自分のものだと口にしているのに、これ以上何を欲しがるというのだろうか。

 あの場面を思い出して赤く火照りかけた頬を冷ますように軽く頭を振る。鞄を肩にかけて、首から下げている社員証が入った名札を手に取って首から外しながらエレベーターホールに足を向けると、ふわり、と。この2週間毎日嗅いでいる、シトラスの香りが鼻腔をくすぐった。

 半ばげんなりしながら目の前のエレベーターホールに視線を向ける。案の定、ヘーゼル色の瞳と視線がかち合って、大きくため息をついた。

「今日もお疲れさま。ため息なんてついてどうしたの?知香ちゃん」

 飄々とした雰囲気の、片桐さんの声が。私と片桐さんだけのエレベーターホールに響いた。それはまるで、残業中である彼女を長い間待ち侘びていたような、そんな言葉と声色。片桐さんの整った顔が仕事の疲れも何のそのというように、嬉しそうに綻んでいる。

 この空間の向こう側にある、螺旋階段に繋がる扉の横の壁に凭れかかって。片桐さんは左手をスラックスのポケットにいれたまま右手をひらりと上げた。

 片桐さんには私のため息の理由がわからないはずはないのに、白々しい事この上ない。

「……お疲れさまです。その理由がわからないのは本当に重症だと思いますけれども」

 最低限の会話を淡々と口にして、エレベーターの扉の前に立ち、手に持った社員証をタイムカードの機械に翳す。ネックストラップをくるくると巻き付け社員証を鞄に仕舞って、代わりにスマホを取り出し、片桐さんの存在を無視するかのようにスマホに視線を落とした。

 私の動作に、片桐さんが凭れかからせた身体を起こして私に歩み寄ってくるのを視界の端で捉える。

「ほ~んと、知香ちゃんってばつれないよね~ぇ?俺、こんなにアプローチしてるのに」

 こてん、と。小首を傾げながら、くすくすと声を上げて笑う。その動作に合わせて、さらりと明るい髪が揺れた。

「……」

 アプローチも何も。こんな待ち伏せされるような行動は、私にとっては単なる付き纏い、ストーカー、迷惑行為でしかない。片桐さんが口にした言葉に、思わずむっとする。

 このエレベーターホールでの待ち伏せが始まって丸2週間。片桐さんに黒川さんから救ってもらい、智に対して循環取引の証拠を提供してもらったとはいえ、あれに関しては私も智も頭を下げて感謝の言葉を伝えた上に、帰省時のお土産も心ばかりだけれど渡しているのだ。それとこれは別と認識しても差し支えない、と、私はそう思う。

 あれ以降何を考えているのか、さっぱり読めない片桐さんのこの行動。さすがにそろそろ堪忍袋の尾が切れそうだ。

 ぎゅ、と。高い位置にあるヘーゼル色の瞳をきつく睨み上げて。私に付き纏うのもいい加減にしてください、と声をあげようと、息を大きく吸い込んだ瞬間に。

 見覚えのある黒い背中が、私と片桐さんの間に割り込んで。久しぶりに嗅ぐ香水の香りが、漂った。




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