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本編・第三部

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 トントン、と。包丁を使って、智が買ってきてくれた玉葱を刻んでいく。今夜はエビピラフを作るつもりで材料を揃えて欲しい、と、智に頼んでいた。土日のことも考えて少しだけ多めに野菜類を買ってきてくれていたからか、章さんの分の夕食も賄えそうで、ほっとため息をつく。

 智は、下のエントランスで蹲っていた章さんをいつものソファに座らせて、カウンターキッチンの笠木でココアを淹れている。カカオの甘い香りが、ほわり、と。キッチンにもリビングにも広がっていく。

(そう言えば……普段はコーヒーばっかりなのに、誰かの話しを聞くこういう時は、やっぱりココアを準備するんだ)

 私が、クリスマスイブに初めてここに足を踏み入れた時。……不感症と言われた、ということを智に伝えた、あの時。こうやって、ココアを用意してくれて私の話を聞いてくれていた。

 あれから何かの本で読んだけれど、ココアには自律神経を整える成分が含まれている、のだそう。その辺りも、きっと智は織り込み済みで……飲み物を準備してしているのだろうと察した。

 知識を持つ、ということは、自分の身を助けるだけでなく、周囲の人への優しさにも繋がっていくのだと気が付かされて、智の新たな一面を知って少しだけ嬉しくなる。

 ココアを淹れ終えた智が、来客用のマグカップを手に取って、硝子天板のローテーブルにことり置いた。ゆっくりと、章さんの隣に腰をおろしていく。

「……どうしたんだ、章。突然俺の家に来て。何があった?」

 俯いたままの章さんに、心配そうな視線を向けて智が声をかけたのを視界の端で確認する。玉葱を刻み終わり、その流れで人参を刻みつつ、そっと章さんに視線を向けた。

 目の周りが真っ赤。きっと、ひどく泣いていたのだろうと察する。ここまで泣き腫らすなんて、本当に何があったのだろう。

 智が問いかけた声に、章さんが小さく身動ぎする。

「………彼女に婚約破棄された」

 ポツリ、と。この世界が終わったかのような、そんな絶望を孕んだような声で呟かれた言葉に、思わず人参を刻む包丁が止まる。

「……は?」

 智が呆気にとられたような表情をして、驚いたような声を発した。章さんはそのまま、ポツポツと事情を話し出した。



 去年の夏頃から彼女がいたこと。その彼女と、年明けから結婚を前提に同棲していたこと。
 ホワイトデーに、指輪は用意していないけれどもプロポーズをしてOKをもらったこと。章さんの仕事が落ち着いたら、親に挨拶に行く話をしていたこと。
 4月に入って以降、章さんの勤め先の税関はとんでもなく忙しくて、自宅にも帰れないような日々が続いたこと。
 それを彼女さんが『大事にされていない』と感じて、寂しさから他の男性を見つけて…つい先ほど別れを告げられ家を出ていかれたこと。

 そして……気がついたら、このマンションの下に蹲っていたこと。



「………」

 全ての事情を聞いた智は、苦虫を噛み潰したような表情をしている。

 章さんが無意識のうちに智を頼ったのは、智も……婚約破棄をされた経験があるからだろう。絢子さんの弟さんと、章さんは同じ大学で。智と絢子さんの間に起きた事を章さんはご存知だし、絢子さんのその後を教えてくれたのも、章さんだった。

 私は婚約をする寸前での破局だった。だから、智とは置かれていた立場が少しだけ違う。

 それでも。章さんが抱える感情や絶望を想像すると、胸の奥がチクリと痛む。その痛みを堪えながら、兄弟の時間を邪魔しないように、メニューをエビピラフから鍋に変更して、夕食の準備を淡々と進めていく。

 無言の章さんに、智が章さんの背中をポンポン、と、優しくさすりながら。ゆっくりと、口を開いた。

「……他の男を見つけて一方的に出ていったその彼女もどうかと思うけどな?お前も…きっと、ひとりで頑張りすぎたんだ」

「……ん…」

 智の穏やかな声に、章さんが小さく声を上げて鼻を啜り上げる音が響く。ゆっくりと、噛んで含めるように、まるで小さな子供に言い聞かせるかのように。智は言葉を続けた。

「彼女を自分の手で幸せにしてやりてぇって思いで、章は仕事を一心不乱に頑張ってたんだろうけど。……俺は、幸せっつぅのは、ふたりで作り上げるもんだと思ってんだ」

「……」

 章さんはじっと俯いたまま、小さく身動ぎをした。その背中を、宥めるようにゆっくりとさすりながら、智が困ったように笑う。

「章の気持ちもわかるぜ?俺らは男だから。大事な人を自分だけの手で幸せにしてやりてぇって思いも。……けどな、お前はひとりで頑張りすぎたんだ」

 小さく吐息を吐き出しながら。まるで、昔の自分に語りかけるように、穏やかに。今度は章さんの頭をゆっくりと撫でていく。

「人間はひとりでは生きられねぇもんだよ。……もう少し、お互いにお互いのことを補うっていう視野があればよかったのかもしれねぇなぁ。俺はお前の兄貴だから、どうしたってお前の肩を持っちまうけどさ。章だけが悪いわけじゃねぇと思うぞ、にーちゃんは」

 きっと。智は、去年の自分が欲しかった言葉を、章さんにかけているのだろう、と思う。

 だって、私も。あの時は私の全てを否定されたように感じていたから。私を肯定してくれるそんな言葉が欲しい、と。そう思っていたから。

 切れ長の瞳を優しく細めて。智が、小さく、囁くように声を発した。

「……お前はよく頑張った。もう、ひとりきりで頑張らなくていい」

 その言葉を受け取った章さんが、嗚咽を噛み殺すような声を上げる。ぎゅう、と。膝に置いた拳が握りしめられた。

「しばらくはここに泊まっていーから。落ち着つくまでここにいろ。大丈夫……お前はひとりじゃねぇから」

 肩を震わせて、今にも大声で泣き出しそうな章さんの姿につられて思わず貰い泣きしそうになる。その姿を、視界から追い出して、ぎゅっと……唇を噛んで堪えた。




 章さんの涙が落ち着き始めた頃合いを見計らって、私はふたりが座るテーブルにカセットコンロを設置し、深めの鍋をコンロの上に置いた。本当はエビピラフの予定だったけれど、きっと、今の章さんは食欲がそこまで無いだろうから。

「夕食は、温かい鶏鍋にしました。お肉とかお野菜とかの固形物が食べれなければ、お出汁だけでも口に入れてくださいね」

 そう口にして、そっと泣き腫らした章さんに視線を向ける。幸子さんお母様に似ているであろう丸っこい輪郭の章さんは、ワイルドな見た目の智と雰囲気が全く違う。それでも、章さんの瞳は智にそっくりなダークブラウンだ。兄弟なのだな、と、改めて実感する。

「お腹減ってる時って、思考力も低下しますから。……3人で、一緒に食べましょう?」

 そう口にして、ゆっくりと取り皿とお箸を並べていく。


 ふっと。脳裏に……ひとりきりで、真っ暗な宵闇の中、蹲って動けなくなっていた…昔の私の影が見えた気がした。


 ひとりじゃない。だから。私も…智も。章さんも……きっと、大丈夫。


(……ばいばい。昔の、私…)


 その言葉を投げかけながら、小さく蹲る私の幻影を、私の心の中でそっと抱きしめた。







 夕食を終えて、玄関横の物置きになっている部屋から智が来客用の布団を引っ張りだしてきているのを横目に、3人分の食器を洗って片付けていく。

 食事の前に、智が章さんに落ち着くまでここに泊まるように言っていた。智はきっと、章さんをひとりぼっちにさせたくないのだろう。年末に邨上家に挨拶に行ったとき、徹さんも…智が幸子さんのもとに行こうとするのではないかと心配していたと口にしていた。だからこそ、智が考えている事も当然と言えば当然のことで。

 この世の終わりのような暗い表情をしていた章さんだけれど、夕食を取って少しだけ生気を取り戻したようだった。智が腕に抱えている布団一式に気が付いて、リビングのローテーブルを避けて布団が敷けるようにしてくれている。

「にーちゃん…ゴメン。ありがとう。……知香さんも、お気遣いいただいてすみません」

 敷いた布団の上にぺたりと座り込んだ章さんが、身体を縮めて小さく頭を下げた。食器についた泡を流していく手を止めてにこりと章さんに笑みを向け、「いえいえ」と口にすると、お風呂が沸いたというお知らせ音がリビングに響く。

「章、先に入ってこい。服は俺の置いてっから」

 智が掛け布団を広げながら、顎をくいっとお風呂の方に向けて章さんに声をかけた。

「ん……何から何までありがと、にーちゃん…」

 章さんが布団の上に座り込んだまま、ふたたび泣きそうに声を震わせる。その様子に、智が苦笑したように章さんの腕を引っ張って、半ば強引に章さんの身体を立ち上がらせた。

「ほら、行った行った。お前が入らねぇと俺と知香が入れねぇだろ?」

 ぶっきらぼうながらも、愛情に満ちた智のその言葉。兄弟仲の良さを実感して、口元が少しだけ綻ぶ。

 章さんをお風呂に送り出した智が、脱衣所の扉が閉まる音を聞いて小さくため息をついた。私が立っているキッチンに足を向けて布巾を手に取り、私が洗い終えた食器を拭き上げながら申し訳なさそうに私に視線を向ける。その動作に含まれる智の意図が察せずに、思わず目を数度瞬かせた。

「……俺、知香に確認を取らねぇで章に泊まってけって言っちまった。すまない」

 しゅん、としたような智の表情。それは帰省した時に、お母さんに爪を立てたらダメでしょうと怒られていたムギの表情にそっくりで。思わずくすりと笑みが零れた。

 智は、本当に……猫みたいだ。イタリアとノルウェーの出張中に遭遇した金色の瞳をした黒猫を思い出す。あの黒猫が智に似ているのか、智が黒猫に似ているのかはわからないけれども。

 気まぐれに私を揶揄って思いっきり翻弄させるし、かと言えば唐突に膝枕を強請って思いっきり甘えてくる時もあるし。

 智のイタズラっぽい子どもみたいな接し方に、困ってはいるけれども嫌いじゃない、っていうのも。きっとバレているのだろうな、と思うと。なんとなく気恥ずかしくなって、それを隠すように声を上げた。

「気にしなくていいよ。智の大事な家族のことだもの」

 最後のお皿の泡を流し終えて、手から水を軽く払い落としながら隣の智に視線を向けた。

 私の実家に帰省中の智の言動から感じたこと。智は私の両親を、自分の親のように大事にしてくれていた。もちろん、初めて顔を合わせるから、という配慮もあったのだろうけれど、お父さんともお母さんとも、たくさん会話をしてくれていた。

 だから、私だって……智の家族を蔑ろにするような言動はしたくないし、するつもりもない。

 私も布巾を手に取って、洗い終えたお皿たちを拭き上げていく。私の言葉に、ふっと。智が小さく息を吐き出した。

「……ん。章は、いずれ知香のになるんだしな」

「!?」

 ぴしり、と。お皿を拭き上げる手が止まる。紡がれた言葉を噛み砕いて、ぼんっと音を立てて顔が赤くなるのを自覚した。

(……もっ、ほんと!こういう所!絶対わかってやってる!)

 唐突にそういう事を口にして、私を揶揄う。そして、その反応を楽しんでいるのだ。赤くなったまま不満げに頬を膨らませて、ゆっくりと視線を右斜め上に向ける。

 ニヤリ、と。智は、やっぱりいつものように。口の端をつり上げて、ダークブラウンの瞳を意地悪く細めて。楽しそうに、笑っていた。




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