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本編・第三部

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 コツコツと、ヒールの音を響かせていく。左手に持った定期券が入ったパスケースを改札に翳して顔を上げると、ホームの柱に凭れかかっていた切れ長の瞳が優しく細められた。嬉しくなって、私の帰りを待っていてくれた愛おしい人にパタパタと駆け寄っていく。

「ただいま」

 私の声に、智がやわらかく「おかえり」と声を発した。毎日聞いているはずの智の声なのに、いつ聞いたって低いその声は私の耳にじんわりと広がって、あたたかくて甘い感覚を生み出していく。顔を綻ばせながら、ふたたび「ただいま」と口にした。

「頼まれてたメイク落とし、買ってっから」

 智がそう口にして、左手に持ったレジ袋を少し持ち上げてカサカサと揺らした。それは、この駅に直結しているスーパーのロゴマークが入っているレジ袋。電車に揺られている時に、先に買い物してるから、と、智からメッセージアプリで連絡があった。ついでに切れかけていた私のメイク落としも買って欲しい、と送っていて、私の頼んだものを買ってきてくれているのだ。

「ありがと。家帰ったらその代金精算するね」

「ん、りょーかい」

 ふっと。智が優しげに笑って、右手をするりと差し出した。その手に当たり前のように自分の左手を絡めて恋人繋ぎにする。ふたりで横並びになりながら地上に登り上がる階段に向けて歩みを進めていく。

(……傷、だいぶ塞がってる)

 恋人繋ぎをした左手に、智の右手の手のひらの瘡蓋が当たる。その感覚に、心の中で小さく安堵のため息をついた。


 今週の、月曜日。片桐さんの証拠を元に、浅田さんと藤宮くんの協力を得て黒川さんの不正を暴いた、あの日。黒川さんと相対していた時に、智が自分を落ち着けるために握りしめた拳で、手のひらを自分の爪で切り裂いたのだそうだ。

 月曜日に日付が変わる少し前に帰宅した智の手のひらを見て、自分の手のひらを切り裂くまで強く握りしめるほどに緊迫した場面だったのだと察して、改めて背筋がぞっとした。

 あれから5日が過ぎて、今日は金曜日。その手のひらの傷跡も、ほとんど塞がりかけている。水仕事をするたびに顔を顰めるその様子が見ていられなくて、傷が治るまで私が全ての家事をすると宣言した。その分、こうして買い物等を智が担当してくれている。

 池野さんが水面下で動いていたアシストもあって、黒川さんは月曜日に三井商社を懲戒解雇となった。循環取引だけでなく、架空取引や横領をしていた、ということを、月曜日に極東商社うちに謝罪に訪れた池野さんから聞いたのだ。それらの複合的な要因で、彼を懲戒解雇とすることとなった、と。

 いつだって柔和な笑みを浮かべている池野さんが、声を震わせながら私や水野課長に頭を下げていた応接室でのあの場面を思い出すと、胸がぎゅっと痛む。

 通関部だけでなく、農産販売部にも謝罪にいく、と…池野さんは口にして、アーモンド色の髪を靡かせながら応接室を去っていった。

 これで、智を引き摺り下ろそうとしていた黒川さんの脅威は過ぎ去った。懲戒解雇となった黒川さんは、意外な事に不服申し立て等を行うこともなく、素直に三井商社から去っていったそうだ。

(……あとは…片桐、さんなのよね…)

 地上に登り上がる階段をふたりで登っていき、地上に出ると同時に、ほぅ、と小さくため息をつく。ヘーゼル色の瞳を思い出して、自宅へ向かう足取りが重くなる。

 片桐さんは。月曜日に、三井商社のオフィスビルの下で、智を待ち伏せしていたのだそうだ。そうして、智にふたたび―――私を奪い取る、と。宣戦布告をした、のだそう。

 5月の生温い風が、私たちの間を吹き抜けていく。その風に紛れるように、智に聞こえないように。ふたたび小さくため息をついた。

(片桐さん。何を考えてるんだろ……)

 今の彼は。マーガレットさんの代わりとして私を見ているのではなくて、私を私として見ているから。私が嫌がることはしない、と。直感でそう思っていたのに。

 宣戦布告をしたからか、私に付き纏わなくなっていた4月と違い、火曜日から毎日、私の仕事が終わるのをエレベーターホールで待っているのだ。通関部と農産販売部は階が違うのに、わざわざ通関部がある階まで登ってきて。

 それを私が何度となくあしらいながらも、彼は私が最寄駅に到着した電車に乗り込むまでを見届けて去っていく。電車を待つホームでは、私から目を離さないように、そして何かを警戒するかのように周辺に視線を向けながら、飄々とした口調で私を口説いてくる。
 片桐さんは黒か深いネイビーのスーツを身に纏っていることが多い上に、明らかにハーフという顔立ちだからか、それはさながら政府要人といった重要人物を守るSPのようで。

(……本当に…何を考えてるんだろ)

 彼が何を考えているのか。私にはさっぱりわからない。唯一救いなのは、以前のように自宅までは付き纏われなくなったこと。私のことを私として見ている、片桐さんなりの変化なのだろうか、と考えるのは少々楽観的すぎるだろうか。

「……今日も。片桐、いたのか?」

 カサカサと。智が左手に持っているレジ袋が擦れる音がする。その音に紛れるような、囁くように紡がれた言葉。不安げに震える智の低い声に、こくんと首を縦に振って小さく肯定する。そして、左隣にいる智の顔を見上げて投げかけられた問いに返答した。

「今日も……昨日と同じように、エレベーターホールから電車に乗り込むまで。それ以上はなにも」

 私の言葉に、苦々しい表情をしながら小さく舌打ちをして、智がダークブラウンの瞳を細めた。ふい、と。智が私から視線を外して、唸るように小さく呟く。

「……あんにゃろ…何考えてやがんだ…」

 智の、小さな声が。5月の風に紛れて消えていく。その言葉に、自然と視線が落ちて私たちの足元に向く。

「黒川のこと、解決したし。時間が合う時は、前みてぇに会社の近くで待ち合わせよう。朝もできる限り一緒の時間に」

 黒川さんを警戒し、別れようと嘘をつかれて以降、会社の近くで待ち合わせて帰ることが無くなって、その代わりにこうして自宅の最寄駅で待ち合わせて一緒に帰ることになっていた。

 逆に…朝は。片桐さんが私に催眠暗示をかけようとして、それを跳ね返した夜に。片桐さんが私から手を引くと宣言したからこそ、時間をずらして出社するようになったのだ。

 黒川さんの件が片付いて、片桐さんがふたたび私のことを奪うと智に改めて宣戦布告した以上、智がそういう結論に辿り着くのも至極当たり前のことだと思う。
 智のその提案に、小さく返答した。

「……うん…」

 私にも、智にも。片桐さんの思惑は、わからない。彼が何を思い、智にふたたび宣戦布告をしたのか。彼が何を思い、私にふたたび付き纏うようになったのか。

 ふたりで横並びになって歩いていくと、あっという間に自宅マンションに辿り着く。

 そういえば、こうやって駅を降りて5分もしないで到着するのに、私が先に帰宅していたら智は必ず電車を降りてすぐ電話をかけてくるせっかちなところは以前と変わらない。昨日も…私が先に帰宅して夕食を作っていたところに、智が電話をかけてきて。最近はそれがわかっているから、智の方が帰りが遅い時は最寄駅まで帰ってくる時間を計算して、スマホにマイク付きのイヤホンを差し込んで待機しているようにしている。

 仕事で疲れて帰ってきて、真っ先に私の声を聞きたい、と智が考えていることに、智が私に向ける溺愛っぷりを感じて、多少の恥ずかしさとこそばゆさはあるけれども。
 それで少しでも智が癒されるのであれば、それでいいかなぁ、なんて考えに至れるようになったのは、私も智と同じように智の声を聞くだけで仕事の疲れが癒やされるように感じているから、なのかもしれない。

(……声を聞くだけで、元気になれるって……本当に幸せなことだなぁ…)

 そう考えると、思わず口元が緩んでいく。

 これも。なんの変哲もない、日常のひとつだけれども。こんな、些細なことでも幸せだと感じられる。そんな……小さくても、あたたかい幸せで。この両手を。もちろん、智の両手も。いっぱいにしていきたい。

(…私、欲張りかなぁ。幸せで手をいっぱいにしたい、だなんて……)

 そんな事をぼんやりと考えていたら、エントランスに繋がる自動ドア付近に、座り込んでいる人影があることに気がついた。違う家の人がオートロックの鍵を失くして途方に暮れているのだろうか、と小さく小首を傾げながら足を進める。

 ふと、隣を歩く智が足を止めて立ち止まった。くんっと腕が引っ張られる。

「……あきら?」

 立ち止まったままの智が、驚いたように小さく呟いた。それは、年末に……智の実家に挨拶に行った時に会った、智の弟さんの名前で。
 智の声に、緩慢な動作で蹲った人影が顔を上げた。

「さとし、に…いちゃ……」

 徹さんにも、圭さんにも似ていない。ぱっちり二重の瞳に、丸っこい顔立ち。どことなく、柔和な雰囲気がある。その二重の瞳が、真っ赤に染まって……智を見つめていた。



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