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本編・第三部

199 降りてくるのを、待っていた。(下)

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 エレベーターホールに向かい、社員証を取り出してタイムカードの機械に翳す。両手を使って社員証にネックストラップをくるくると巻き付けていくと、左手の人差し指と中指の火傷がチリチリと痛んだ。その痛みに、思わず顔が歪む。

「……って…」

 小さく声をあげると、その痛みが全身に広がるような気がして。思わず舌打ちをした。

 彼女がいたずらっぽい笑みを俺に向けて喫煙ルームから立ち去ってから。しばらく身動きが出来ないでいた。灰が俺の手元に迫っていることにすら気が付かず、熱さと痛みでようやく我に返った。慌てて左手を冷やし、フロアに戻って今日一日の最後の仕事を終えた頃には終業時刻を1時間ほど過ぎていた。

(……本当に、俺の感情をいちいち乱してくれるね。知香ちゃんの周りにいる人間は)

 下にあったエレベーターがこの階に上ってくる無機質な音が響く中、知香ちゃんから受け取ったお土産の紙袋の取っ手を弄びながら、ほう、とため息をつく。


 小林くんも、真梨ちゃんも、智くんも。もちろん、知香ちゃん自身も。
 通関部に配属された流暢な英語を喋る女も―――今日、相対した、あの琥珀色の瞳を持つ女も。


 俺の感情を、乱して回る。乱された心が軋んで、音を立てて割れていく。

 俺の中に抱えていた、この世界の残酷さに対する怒りも、信じてもいない神に対する恨みも、俺の生きる意味を奪ったくだらない争い聖戦に対する憎しみさえも。何もかもが、知香ちゃんの周りにいる人間に乱されて、壊されていくようで。

(……気に入らない)

 気にいらない。

 俺は『愛すること』の意味が噛み砕けていないのに、『あなたは愛することを思い出せた』と俺に言い放ったあの赤い唇も。
 『昔の自分を赦してあげなさい』というたった一言で火傷をするまで放心した自分も。


 知香ちゃんの周りにいる人間も、何もかもが気に入らない。


 チン、と、軽い音がして、エレベーターが到着する。それに乗り込んで、エントランスに降りた。ゴウンゴウンと、駆動音が響く。

 感情を乱されて苛立つ自分を抑えるために、静かな空間にいたかった。だからなのか……乗り込んだエレベーター独特の駆動音が、今日はひどく不快に感じた。


 いっそのこと、この世界から全ての音が消えてしまえばいいのに。
 そうすれば、俺を乱して回る声たちは俺の耳に届かなくなる。
 穏やかに微笑む知香ちゃんだけをそばに置いて、俺は静かに暮らせるのに。


 そんな、巫山戯たことを。延々と考えていた。


 エレベーターが1階のエントランスに到着して出入り口まで歩き、その横に設置してある自動販売機を通り過ぎて、俺の沈んだ顔を映し出す自動ドアが動いて――― と、視線がかち合うまでは。


「……お前か。邨上を隠れ蓑に、俺を…追い込んだのは」

 交差点を通り過ぎていくヘッドライトの光に、憤怒に歪む脂ぎった顔が照らされている。一週間ぶりに相対するその顔を、その細い瞳を、じっと見つめた。

「お前にわかるか?認められない、という虚無感が。存在しないものとして扱われる人間の、孤独が」

 憎悪が、敵意が。それらを孕んで凍結させた氷の刃が。俺に向かって、音速でぶつけられる。

(……今度は俺に逆恨み、か)

 存在しないものとして扱われる人間。それは私生児として生きてきた黒川自身のことだ。認知されないからこそ、これまで父親から存在しないものとして扱われてきたのだろう。それに対しては同情する部分もある。

 ……が。

 投げつけられた氷の刃から読み取った、黒川の生き方。こいつはこれまで、自分の身に起こる全ての事象を他人の所為にして生きてきた。自らを省みることすらせず、全てを他人になすり付けて、生きてきた。

 他人事ながら、黒川の『他人に責任をなすりつける』生き方には反吐が出る。まるで、真夏の戦場で回収され続々と収容されていく死体に沸いた蛆虫のようだ。

(……気持ち、悪い)

 全てを他人になすり付ける気持ち悪さと、それが当たり前だと認識しているおぞましさに。ふつり、と。俺の中の糸が、切れた。

「そんなの知らないね。自分の存在は、自分で作り上げるものだ」

 侮蔑、嫌悪、拒絶。負の感情を己の顔に貼り付けて、自業自得の憤怒にまみれた黒川を嘲笑う。

 自分の存在は自分の手でこの世界に刻むものだ。大学を卒業し、軍隊に入隊し、諜報機関に属し。明日をも知れぬ日々を、俺は過ごしてきた。Maisieを失ったこの世界にあるのは、孤独だけ。そんな俺に、今更孤独の重さをぶつけてくる、黒川の傲慢さは度し難かった。

 所詮。この男は、安穏とした日本で。『光』の世界を生きてきた人間だ。
 博愛の賢者や救世の英雄に泣いて叫んでも、俺の生きる意味を彼らは無慈悲に取り上げていき、仕舞いには涙さえ枯れ果てる。泣くことさえ出来なくなる。そんな『闇』の世界に生きてきた俺に。


 『光』の世界を生きてきた男が、俺に一体何を語るというのだろう。

 孤独は寂しい。認められないのは辛い。存在を認めて。俺を知って。おおかた、そんなところか。

 そんな高尚な説教など、神が救ってくれるという幻想を騙る牧師のような、そんな薄っぺらい説経など、俺は聞きたくもない。


(……気に、入らない)


 考えれば考えるほど身体の奥から湧き上がる感情を抑えることが出来なくなった。気が付けば―――かっとなって、言葉を放っていた。

「お前の人生はお前のものだ。だから、お前が引き起こしたことは俺が背負うものではない。他人になすりつけるものでもない。他でもない、お前が背負うものだ」

 ふるり、と。黒川の身体が揺れる。それはまるで俺が放った言葉の刃がグサリと刺さったかのようで。俺は至極満足げに微笑む。

「お前がどうなろうと知ったことか。俺は俺のために。俺の存在を自分で刻むために、俺の大切な場所をお前から護っただけだ」

 自分でその言葉を口にして。ぱたり、と。あの赤い唇が俺に告げた言葉のが。自分の中に、落ちてきた。



(………そっかぁ…)



 そう。今の俺は、Maisieではなくて―――知香ちゃんを。他でも無い、知香ちゃん自身を、愛し始めているから。

 知香ちゃんがMaisieではない、と。受け入れている。Maisieがこの世界に居ないことを、受け入れ始めている。


 だから俺は、あの時。知香ちゃんを護った。意識を失った知香ちゃんを連れ帰ることもせず、知香ちゃんが想いを寄せている智くんの到着を待った。
 そうして、智くんに証拠の束あの封筒を投げつけることで。知香ちゃんが大切にしている、極東商社この場所を護った。

 それが―――知香ちゃんが。あの時、『今の俺は』と、言った理由。知香ちゃんの瞳に、信頼の光が宿っていた、理由。

 あの赤い唇が俺に告げた言葉は。あの焦げ茶色の瞳に宿る信頼の光は。俺に、俺すら気が付いていなかった俺の本心を……気が付かせて、くれた。


(あはは……なるほどねぇ…)




 くすり、と。思わず、笑みが零れる。

 それは、あの夜のように。知香ちゃんに、俺がMaisieがいないこの世界のことを受け入れられていない、と、言外に突き付けられて、その事実にようやく気が付けたように。

 自分の本心に気が付けていなかった己に向けての、嗤い。



 ……だったの、だけれども。

 今、この瞬間。俺の目の前に……黒川がいる、ということを。……失念、していた。



 ふるふると。黒川の身体が、小刻みに揺れている。

「お前にも、この絶望を教えてやる。……とびっきりの絶望を与えてやる」

 黒川が小さく呟いた言葉の真意を悟り、己の失態に気が付き……指先から、ゆっくりと温度が消えていくのを感じた。

(しく、じっ…た……)


 目の前の、黒川は。俺と知香ちゃんが、恋人関係だと。勘違いしている、のだった。

 智くんが、かっとなって。黒川を…挑発した結果。
 黒川の矛先が……彼女に、向いた。

 だから。今……俺が、口にした言葉が、導く結果は。


「一瀬知香。この女を。お前の手から、奪ってやる」


 予想を外さない、黒川の口から放たれた言葉。

 全身からゆっくりと血の気が引いていく。
 心臓の音だけが、やけに耳についた。

 自分の中に生まれた動揺を押し込めて、黒川の脂ぎった表情を。無感動を装いながら眺めた。


 見つめる先の、黒川の瞳。その細い瞳に爛々と燃え滾る憎悪。その光は。お前など死んでしまえというモノではなく。お前の大切な女を消してやるという……あまりにも身勝手な、憎悪で。



「お前の大事な女を。俺が」


『この世界から、消してやる』



 黒川の口が、そう動いた。声は出さずに。
 俺が―――智くんに向かって、宣戦布告をした時のように。




 くるり、と。黒川が踵を返す。
 そうして。その、黒い背中が。

 光が沈まない……この街の雑踏に、消えていった。







 カンカン、と。俺の革靴に取り付けられたトゥスチールが、アスファルトを叩いている。

「……」

 向かう先は、極東商社が入るオフィスビルから徒歩の距離で行ける―――三井商社が入っている、オフィスビル。

(……智くん他人のこと、笑えなくなっちゃったね~ぇ?)

 くすり、と。自嘲気味の笑みが零れる。



 俺と、智くんは、背中合わせの同族だ。

 かっとなりやすい彼が、黒川の恨みを買った。そして、そんな智くんを俺は先週、胸ぐらを掴んで、その言動を咎めた。

 逆説的に言えば。俺も―――かっと、なりやすい。



(俺も……あの日。そして、さっき。黒川の恨みを買った)

 あの夜。黒川が、知香ちゃんの腕を掴んでいるあの場面を見た瞬間。瞬間的に全身が沸騰して……咄嗟に『俺の女』と口にした。俺とデキていると勘違いさせた方が、智くんの立場を危うくさせるという目論見も外れる。あの時はそう判断したけれど。

(かっとなって下したその判断が……知香ちゃんを危険に晒すことに繋がった)

 俺が―――あの夜に、そしてついさっき。黒川を挑発した形になったから。彼女を、これまで以上に危険に晒すことになった。

 黒川は、さっき。声に出さずに俺に言葉を投げつけた。それはきっと……俺が録音をしている可能性を考慮したからだ。あの言葉は、明らかに『予告』となりえる。


(……道化を、演じてあげるよ。かっとなっちゃった俺の責任だしね~ぇ?)


 さぁ、っと、風が吹き抜ける。俺の考えを肯定するように、5月の生温い風が背後から吹き付けていく。背中を押されているようで、なんとも気分が良くなる。


「……~♪」

 カンカン、と。俺の足元から奏でられる軽快な音楽に合わせて。昨年大流行した【砂糖のように甘い】君へ贈る歌を、小さく口ずさむ。英詞だからこそ、俺の耳には聞き馴染みがひどくいい。


 気分良く。俺は、歩いていく。
 ダークブラウンの瞳を、この目に映すために。


 お前たちを助けたからと言って、以前の宣戦布告を撤回するつもりはない、と突きつけて。新たに宣戦布告をして……彼女を付け狙う道化を演じる。

 これまで以上に彼女に付き纏うようにしていれば、黒川の片鱗が見えた瞬間に黒川を押さえることができる。その上に、俺がMaisieの代わりでなく知香ちゃん自身を愛し始めたことに気付いている智くんも、これまで以上に彼女の身の回りに気を張るだろう。

 黒川が知香ちゃんを狙うこんな状態がいつまで続くかはわからないけれど。

(………今、俺が出来るのは。これが、精一杯)

 そう呟くと同時に、三井商社が入るオフィスビルの前に辿り着いた。知香ちゃんから貰ったお土産の紙袋を出入り口になっている階段の最上部にそっと置いて、その隣に腰をおろした。ふい、と、視線を空に向ける。

「…………綺麗、だ」

 ずぅっと…光が沈まない、この街。その夜の群青が、ゆっくりと深くなっていく。

「あはは……ほんとだねぇ…」


 俺は。あの赤い唇が言ったように。悲しみを抱えすぎていたのだろう。


 Maisieを失ったことに固執して、欲張って欲張って。この悲しみを手離したくない、と。我慢を知らない幼子のように、ずっとずっと……泣き叫んでいたのだ。


 深くなっていく夜の美しさを、この目に映せる小さな『幸せ』さえ。
 生きていなければ叶わない、死んでしまえば永遠に叶わない、こんな些細な幸せさえ。
 悲しみを両手いっぱいに抱え込んで。そんな些細な幸せさえ、今の俺では、掴むことすら出来ないのだから。


「こんな…欲張りな俺じゃ……知香ちゃんを幸せになんて、出来るはずもないね~ぇ……」


 ぽつり、と。深くなっていく夜の群青を眺めながら、小さく呟いた。


(……)


 のろのろと腕を動かして、ワイシャツの襟首をまさぐる。鈍い光に包まれた、ロケットペンダントを取り出して、カチリと開いた。

 そこに写るのは―――俺が、愛して、Maisieの……生前の姿。


「俺は、今度こそ……間に合わせてみせるから」


 胸騒ぎがした、あの夜。規則違反間違いを恐れて、動かなかったから。俺が正しい、と思ったことを、選択して、正しく行動したから。

 だから、俺は間に合わなくて。
 ―――Maisieを失った。


「……Maisie…怒るかなぁ。俺は、間違ってる…って」

 きっと。俺の真意を知っているMaisieは怒るだろう。そして、俺はきっと、Maisie嫌われるだろう。

 それでも、俺は。間違っているとわかっている、幼い願いを、幼い行動を。

 止めることなんて、できない。


「……さよならだ、Margaret

 俺は……今から、愛して人のために、間違った行動をする。

 Margaret。きみは。



「……俺の。最愛、



 囁くように、声帯を動かして。
 祈るように、手に持ったロケットペンダントに口付けた。




(……間違って、いるんだ)




 自分が引き起こしたことを、こんな形で他人になすり付ける黒川も。
 その憎悪の矛先が彼女に向いたと気付いて、愛している知香ちゃんを恐怖を与えるこんな形で護ろうとする俺も。


 全部全部。間違っている、と。わかっている。


 それでも。
 正しく行動したって、神は俺から生きる意味Margaretを奪っていった。


 この手から取り上げられる正しさなら。
 いっそ……間違いを選び取る道化を演じることで。



「……今度こそ。俺の大事なモノを、護ってみせるよ」



 高層ビルの隙間から、白んだ月が昇っていく。

 その月が。黄金色にゆっくりと染まっていく様子を、眺めながら。





 ただただ、静かに。

 彼が降りてくるのを、待っていた。
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