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本編・第三部

197 雑踏に、消えていった。(下)

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 黒川の一件を片付けた後。連休明けで溜まっていた業務に追われた。定時で上がれるはずもないと判断し、昼休みに弁当をつつきながら知香に『大幅に残業になる』とメッセージアプリで連絡を入れた。知香も連休明けで忙しいのか、しばらく経っても既読はつかない。

(片桐に……土産は渡せただろうか)

 今回は片桐からの情報が無ければ進まなかった。知香を俺から奪おうと狙っていることを赦すつもりもない。知香に対して催眠暗示を使ったことは、俺は一生涯、赦すことなど出来ない。けれど。

 ……今朝、玄関先で知香に頼んだ伝言の通り。諸々が落ち着いたら…今回の情報提供に関する感謝と、知香を救ってくれたことへの感謝と……あの電話の場で濡れ衣を着せたことへの謝罪をする。きちんと、頭を下げる。片桐に借りだけを作りたくない、という邪心が無いわけでもない。だが。

(……感謝、してるぜ…)

 弁当に入れた卵焼きを口に運びながら、ヘーゼル色の瞳を脳裏に思い浮かべてゆっくりと目を閉じた。





 そうこうしているうちに、あっという間に夜の帳が訪れる。

(久しぶりに……こんな遅くまで残業したな…)

 時刻は23時を迎えようとしていた。エレベーターに乗り込みながら、スマホを手に取る。メッセージアプリには知香からの労いの言葉と、知香自身も22時頃帰宅した旨が書かれていた。

『片桐さんにお土産を渡して、伝言もしてるよ』

 その一文に目を通して、ほっと息を吐く。会いに行く……とは言っても、俺は片桐の家を知らない。片桐は知香をつけたことで俺たちの家を知っているが。
 共通の知人であるマスターに聞く、という手もあるが、マスターは口を割らないだろう。マスターはそういった顧客に関することは口にしないタイプだし、そもそも住所なんていうものは個人情報にあたる。それを漏洩するようなことはマスターは絶対にやらないだろう。

 だから、ゴールデンウィーク前に持ちかけられた食用花の商談を兼ねて……極東商社へ赴く形にはなる。

 スマホから視線を外して、右の手のひらを見つめる。午前中、黒川と相対していた時に、自分の爪で引き裂いた手のひら。改めてその傷跡を視認すると―――ジクジクと、痛みが走る。

 赤黒く酸化した血液が、爪と指の間に入り込んでいる。あれからすぐに手を洗い綺麗にしたつもりだったが、落ちきれていない。帰宅したら知香の頬を撫で、問題が解決した喜びを分かち合う前に、使い古しの歯ブラシなどで変色した血液を丁寧に洗い落とさなければ。

(……いつ、極東商社に行けるだろうか)

 手のひらから視線を外して、スマホを背広のポケットに押し込む。ビジネスバッグから手帳を取り出しパラパラと捲って、明日以降のスケジュールを確認する。チン、と軽い音がして、独特の浮遊感に包まれた。
 1階に到着したことを認識して、開いた手帳に視線を落としたままエレベーターの扉が開くのを視界の端で捉えて足を踏み出した。


 ふわり、と。5月の生温い風に乗って、シトラスの香りが漂う。


 緩慢な動作で、のろのろと顔を上げる。このオフィスビルの出入口……エレベーターの正面には外気を遮るものがない。このオフィスビルは出入口から入り組んだ1階の内部にエレベーターが設置してある。エレベーターの正面から数メートル先に数段の階段があり、そこが出入口となっている。

 その階段の最上部の端に座り込んでいる黒い背中。その隣に―――薔薇祭りが開催されていたテーマパークの、小さな紙袋。


 知香の実家の家族であるムギと同じ、明るい髪。
 その髪が揺れて、俺を振り返れば。
 ヘーゼル色の瞳と―――視線がかち合う、はずだ。


「………随分と遅くまで残業するんだね~ぇ?知香ちゃん、家にひとりで寂しがってる思うけど?」

 ふわり、と。片桐が立ち上がって、俺を振り返り、くすり、と。笑みを浮かべた。

「……諸々が落ち着いたら、俺から会いに行く、と言っただろう。お前から会いに来てくれなくても良かったのだが」

 パタン、と。開いた手帳を閉じて、ヘーゼル色の瞳を真っ直ぐに見つめた。片桐が腕を背中に回して、自分の腰から下に向けて黒いスーツを軽くはたき、そこに付着した砂塵をパタパタと落としている。

「随分な態度だね~ぇ?忙しいこの俺が会いに来てやったのに」

 にこり、と。ヘーゼル色の瞳が俺を嗤うように歪んだ。

 わざわざ、を強調するように紡がれたその言葉に、自分の頬がピクリと動いたことを認識する。

(………いっつも…いちいち俺の神経を逆撫でする言い方をしてきやがって……)

 ふつふつと。先ほど見た、指と爪の間に入り込んだ酸化した血液のような―――赤黒い感情が込み上げるのを、唇を噛んで押し殺す。

 目の前にいる片桐は。かっとなりやすい俺を、あの夜にも咎めた。

(かっとなるな……落ち着け。冷静に……)

 そう自分に言い聞かせながら、にこりと嫌味を込めた笑みを返す。

「その忙しいお前に手間をかけさせないようにと思って、俺から会いに行く、と言ったのだが?……なんだ、イギリス帰りの帰国子女には良かったか?」

 俺と片桐は。同族、だから。

 俺が苛つく言葉も、片桐は熟知している。だから逆に―――片桐が苛つく言葉も、俺は熟知しているのだ。

 ピクリ、と。片桐の明るい髪色と同じ色の眉が、不愉快そうに跳ね上げられた。

「……」

「………」

 じっと。無言のまま、ただただ、睨み合いが続く。


 俺たちは、背中合わせの同族。俺が知香に出会うタイミングが、片桐よりも少しだけ早かっただけ。俺よりも早く、片桐が知香に出会っていれば。今の片桐は、俺だった。とはいっても、俺は片桐のように催眠暗示を使う、などという卑怯な手は絶対に使わないだろうが。


「……黒川は懲戒解雇になったんだ?」

 沈黙を破ったのは片桐だった。感情が篭っていない無機質な声が、出入口のコンクリートの壁に反響する。

 本来ならば、他社の人間に自社の人間の懲戒処分やその根拠を示すことは褒められたものではない。が……片桐は、今回に限っては関係者だ。詳しい顛末を知る権利は十分にある。

 そう結論付けて小さく息を吸い、ヘーゼル色の瞳を見つめて口を開く。

「………そうだ。循環取引の損失を埋めるために架空取引をして、」

「その架空取引を利用して横領、管理部門に関わる人間をにしていた。どうせそんなところでしょ?」

 俺の言葉を遮るように、俺が口にしようとしていた言葉を片桐が紡いだ。寸分も違えていないその言葉に虚を突かれる。
 片桐が、はぁ、と。大きく肩を落としながら、つまらなさそうにヘーゼル色の瞳を俺の足元に向け、するりと腕を組んだ。

「循環取引に手を染めた人間が今以上に綻びないようにと辿る末路はどの国でも一緒か。頭が足りない奴の考えることはわかりやすくてイヤになるね」

「……」

 どの国でも、一緒。片桐が口にした言葉に、なぜ片桐が循環取引の片鱗に気がついたかを察する。

(………不正を暴くそういう任務にも就いていた…ということか)

 諜報機関に属していた、と。片桐は口にしていた。諜報機関といえば、政治に関わるものや敵対国に対する軍事力の情報収集・分析等が主たる任務なのだろうと考えていた。だからこそ―――マスターの店で偶然、一度だけ接触した俺のことを調べられることが出来たのだろう、と思ってたのだが。

(部門を異動するほど……諜報機関に在籍していた期間が長い、のか?)

 恐らく。軍事関係の部門で情報収集の任務に就いていた時期もあれば、こういった―――不正を暴き、政府首脳に報告をあげるような任務にも就いていた時期もある、ということなのだろう。

 なんにせよ、片桐のその経験からくる勘と情報収集能力によって、俺が……俺と知香が。助けられたことは、揺るがない事実だ。

「……片桐。今回の一件に関して、俺から謝罪と感謝を」

 俺の言葉に、ふい、と。片桐の視線が、俺の足元から俺の顔に向けられる。ヘーゼル色の瞳と視線がかち合って、覚悟を決めるかのように小さく息を飲み一気に言葉を吐き出した。

「まずは、先週。シンポジウム会場で。事情も聞かずにあの電話口でお前を罵倒したこと。あの時の言葉は全て撤回する。申し訳なかった」

 その言葉を口にして、片桐に向けて腰を曲げて深々と頭を下げた。その動作で、自分の髪がふわりと揺れ動くのを感じる。

「……」

 腰を曲げたまま、ただただ頭を下げ続ける。片桐からは、何の反応も―――何の感情も。伝わってこない。

 ゆっくりと、頭を元の位置に戻す。

 出入り口の電灯に照らされている、片桐。俺を見つめている感情の見えないヘーゼル色の瞳が、すぅっと細められる。が、片桐は口を開く気配は全くない。

 その仕草で、言いたいことがあるならそのまま続けろ、と言われているように感じた。次の言葉を、息を吸い込んで一気に吐き出す。

「……黒川から知香を護り、知香を黒川の毒牙から救ってくれたこと」

 俺がそこまで口にしたところで、片桐が身体の前で組んだ腕からのぞく手が、ピクリと動いた。その動作を無視して言葉を続ける。

「そちらからの証拠の提供により、黒川を懲戒解雇まで持っていけた。……三井商社のメンツを護れたこと。この2点に、深い感謝を」

 そうして、ふたたび。腰を曲げて、深々と頭を下げた。



 ただただ、沈黙が続く。
 俺はその重い沈黙の中でも、片桐に頭を下げ続けた。



「……You’re disgusting.気に入らないな

 ポツリ、と。片桐が、それだけを呟く。イタリア出張を経て英会話を勉強していたからか、片桐が放った英語がはっきりと理解できた。

「………何が気に入らない?」

 謝罪し、感謝し。頭を下げた人間に向ける言葉が『気に入らないそれ』か。この男は、いちいち俺の神経を逆撫でしてくれる。

 ふつふつと込み上げる怒りを、かっとなりそうな自分を。午前中に自分の爪で裂いた時の手のひらの痛みを思い出し、暴走しそうになる自分を抑え込んで頭をゆっくりと上げながら片桐に問いかけた。

「知香ちゃんも、俺に頭を下げた。お前も、頭を下げた。俺はこれで胸がすくはずなのに、気に入らない」

 ヘーゼル色の瞳が、じっと。何かを考え込むように、俺を見つめている。片桐は自分の中に生まれた自分の感情を測りかねているのだ、と察して、腕を組んだまま考え込んでいるその姿を睨めつけた。

「……あぁ。そうか」

 ポツリ、と。片桐が呟いた。その瞳が、その口元が。それぞれ歪んで弧を描く。それはまるで、白塗りの仮面に目と口だけが黒く塗られているかのようだった。

 ぞくり、と。その不気味な表情に背筋が凍る。思わず小さく息を飲んだ。

「知香ちゃんとお前が同じ事をしてるから、気に入らないのか」

 俺と知香が、同じ事をしている。長年連れ添った夫婦が似たような行動をする、ということが俺と知香の身に起きていて―――それが気に入らない、と。片桐は本能的に察したのだろう。

「あはは、そっかぁ……なるほどねぇ」

 片桐が組んでいた腕を解いて右手で拳を作り、曲げた指先を口元に持っていく。くすくすと……声をあげて、嗤っている。
 その表情に、その嗤い方に。ふたたびドス黒い感情が込み上げる。それを押し込めて、努めて冷静に片桐に問いかけた。

「黒川に。知香のことを、俺の女と言ったのだろう」

 黒川から知香を救ってくれたことは感謝している。事実と異なる情報が黒川に渡っていたことで黒川に勘違いさせ、午前中のあの場で時間稼ぎをする猶予が俺に与えられたことも、感謝している。

 ……が、どさくさに紛れて知香を自分のモノと言い放った。これに関しては、別だ。度し難いと感じている。

 知香に愛されて、知香を愛しているのは。目の前にいる片桐柾臣ではなく、今ここに立っている邨上智だ。

「その言葉を嘘にするつもりはな~いよ?お前ならわかるでしょ?」

「……」

 あの夜。知香に催眠暗示を仕掛け、知香自らにその催眠暗示を破られた片桐は、『手を引く』と俺に宣言した。

 ……だが。

 あの夜。知香が黒川に睡眠薬を飲まされて、知香を救い出した片桐は。その宣言を、『よっぽどのことがない限りは違えるつもりはなかった』と、俺に突きつけた。

(知香を……害そうとする存在が現れない限りは、と)

 ならば。片桐は。この男が考えていることは。

「黒川という邪魔者が消えた。小林くんという騎士ナイトもいない。前回と違ってお互いにポーンすら持っていない。これで堂々と一騎討ちが出来る、というわけだ」

 ヘーゼル色の瞳が。俺を、真っ直ぐに貫いている。告げられた言葉は、俺が想像していた通り。

(……宣戦、布告)

 黒川という存在を潰したとて。黒川が知香を害そうとした事実は消えない。先週、片桐が俺の胸ぐらを掴んで、俺の顔の前で放った言葉の通り。その事実は一生、消えることはない。

 知香を、一瞬でも危険に晒したお前から―――今度は正々堂々と、真正面から奪い取る、と。片桐は、そう言いたいのだろう。

 ぐっと。右手を握り締める。先ほど閉じた手帳が塞がりかけていた傷跡に当たり、傷口から不快な痛みが走る。その痛みを堪え、目の前の片桐を睨みつけた。

 片桐が、僅かに腰を屈めた。その動作を警戒するも、片桐はするりと腕を伸ばし足元に置いていた紙袋の取っ手を握る。腕を持ちあげて、その小さな紙袋を自分の顔の横で揺らした。

「お菓子。ありがとう。俺のことが嫌いだけど幸せであるように、ってさ。お前からの宣戦布告もいいところだよね~ぇ?」

 くすり、と。片桐が声をあげて、嗤う。


 知香に預けた、片桐に向けて用意したお菓子は2種類。マシュマロと、バームクーヘン。

 片桐が知香に香典返しとして渡したマカロンに込められた意味。『特別に大切な人間』への贈り物。

 お菓子に意味を込めた片桐へ、俺も意味を込めて返したのだ。
 マシュマロは『あなたのことが嫌い』、バームクーヘンは『幸せであるように』。

 片桐と俺は、相容れるはずもない。嫌いだ。一生をかけても、俺は片桐のことを好きになることは出来ないだろう。

 けれど。


「……愛した人間を失くした哀しみを、俺は本当の意味で理解はしてやれねぇ。それでも…俺は、お前に……幸せになって欲しいと思う」

 自分の中の感情が、ここまで変わるとは思っていなかった。絢子の時もそうだ。俺の全てを砕いた絢子を、恨んで、憎んでいた。でも。

『私の知らないところで、幸せになってくれたら』

 知香は、そう言った。憎むのではなく、恨むのではなく。自分から見えない場所で、幸せであってくれたら、と。


 人間関係は、鏡。
 知香は……そのことを、本能的に悟っている。だから、恨みや憎しみという感情を、意図して持たないようにしているのだ。


 片桐は俺に歩み寄ったつもりはないだろう。俺も、片桐を心から赦す気には到底なれない。
 ……それでも。

(………知香の隣に立つなら。一歩を踏み出さねぇと)

 自分の目を細めながら、己の願いを片桐に向けて小さく吐き出した。

「………そんなことだろうと思った。やっぱりお前、傲慢だね。自分のことを勝者winnerだと思っている人間の言葉だ」

 小さく肩を竦めながら、片桐が呆れたように声をあげる。

 俺は自分のことを勝者だと思ったこともない。俺が……知香に出会うのが一瞬だけ早かった。それは、ただの偶然の出来事で。俺が―――勝者だからでは、ない。

 片桐がふたたび笑みを浮かべた。それは、俺を嘲笑うような……残虐な微笑み。

「お前が知香ちゃんを手離せば、その願いはいとも簡単に叶うんだけどね~ぇ?」

「知香は手離さない。絶対に」

 片桐の言葉に即答する。それだけは、絶対に―――世界がひっくり返っても、有り得ない。
 俺の言葉に片桐がふたたびくすりと笑みを浮かべた。

「だから。俺は、お前に会いに来た。何かに意味を込めるのではなく、自分の口で……宣戦布告をするために」

 片桐は。その言葉を残し、くるりと踵を返した。



 そうして。その、黒い背中が。

 ずぅっと光が沈まない……この街の雑踏に、消えていった。




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