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本編・第三部

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 打ち合わせルームに向かって歩く片桐さんの黒い背中を視界の端で捉えつつ、メモ帳と筆記用具を手にし、一度椅子を引く。デスクの足元に隠していた紙袋から小分け用の紙袋を取り出し、目的の包装紙のお菓子を入れる。その紙袋の取っ手を右腕にかけて、打ち合わせルームのドアを開いた片桐さんの背中を追うように足を踏み出した。

「先輩……」

 三木ちゃんの真横を通った瞬間、三木ちゃんが震えるような声で、小さく私を呼び止める。『行かないで』とでもいうような、今にも泣き出しそうな三木ちゃんの声。ふい、と、三木ちゃんに視線を向けた。整えられた眉が苦しそうに歪んで、勝気な瞳が翳って大きく揺れ動いている。

 三木ちゃんは。交流食事会で、黒川さんに拐かされそうになった私を寸手のところで救ってくれた片桐さんのことを知らない。これまで、私にしつこく付き纏っていた片桐さんの姿しか、知らない。彼女が不安がるのも当然だ。

 三木ちゃんのその表情に、彼女を安心させるようにふわりと微笑んで。

『大丈夫よ』

 声を出さずに、口だけを動かして。ふたたび打ち合わせルームに向かって、足を動かした。



 片桐さんが、打ち合わせルームのドアを開けて私が入室するのを待ってくれている。長年イギリスに住んでいたからか、こういう紳士的な動作がさらりと出来るのはさすがだなと感心する。

 一度、開かれたそのドアの前で立ち止まる。緊張で走る心臓を落ち着けるように、身体の前に抱えたノートと筆記用具を右手でぎゅっと握りしめて、目の前にあるヘーゼル色の瞳を見据えた。

(……大丈夫)

 自分に言い聞かせるように、心の中で呟いて。そろり、と、打ち合わせルームに足を踏み出した。


 パタン、と。ドアが閉まって。トス、と、肩を押された。


(っ、!?)


 これまで、制服に合わせて履いていた黒のローヒール。今日は、オフィスカジュアルな私服に合わせて以前よりも数センチ高めのヒールを履いていたから。少しバランスを崩すだけで、身体が後ろに大きくよろめいた。右腕にかけた紙袋が、私のスカートに擦れる乾いたような音が小さく聞こえた。


 ふわり、と。鼻腔を直接的にくすぐる……シトラスの、香り。


 気づいた時には、もう身動きが取れなかった。私の顔の真横に、片桐さんの手が、腕がある。背中は、ぴとりとドアに押し付けられて。眼前に……細く歪んだヘーゼル色の瞳が、あった。



「……飛んで火に入る夏の虫、だっけ。いいコトワザだと思わな~い?……知香ちゃん」



 くすり、と。片桐さんが心底愉しそうに小さく囁いて。私の頬をそっと撫でた。



「……ど、ういう、おつもりですか」

 思ったよりも掠れた声が自分の喉から零れ落ちた。
 ドクドクと、心臓が早鐘を打つ。喉が引き攣る。


 ドアに押しつけられて―――身動きが取れない。


 私の声に、片桐さんがくっと喉を鳴らして、私の頬を撫でていた指を滑らせた。するりと右手で私の顎を捕らえ、くい、と。上を向かされる。片桐さんと、視線がかち合う。

「今の声。いいね……唆る」

 片桐さんが、すぅ、と。そのヘーゼル色の瞳を細めて、ちろりと唇を舐めた。
 その仕草は、まるで、大好物の獲物を差し出され、食事の前に舌舐めずりをしている……蛇のような。

 ざぁっと音を立てて全身の血の気が引いていく。

 脳がパニックを起こしている。先週のような、フロア外の研修ルームでならまだしも。フロア内の、打ち合わせルームで。この薄いドア1枚を隔てて、大勢の社員さんがいるという場所で。こんな風に迫られるとは思っていなかった。

 身体が硬直する。顎だけしか掴まれていないのに、ヘーゼル色の瞳に貫かれて身体が動かない。

 何も持っていない左手を動かして、片桐さんを突き飛ばせばいいだけなのに。足を動かして、腰を曲げて片桐さんの腕からすり抜けたらいいだけなのに。


 いざという時に―――身体が言うことをきかない。


「大声出しますよっ」

 唇が触れそうなほど、顔が近い。こんなに顔を近づけられたのは、三木ちゃんのおばぁ様の葬儀の後に、片桐さんにつけられて……まだ、智だけが住んでいた自宅に駆け込んだ時、以来だ。

 身体は動かないけれど、喉だけは、動く。小さく咎めるような声をあげて、片桐さんのヘーゼル色の瞳を刺し貫くほど睨みつけた。

 私のその言葉を受けて、片桐さんが揶揄うように小さく笑い声をあげた。その吐息が、ふわりと私の頬に当たる。

「いいけど。よ?」

「ッ!」

 塞ぐ。その言葉の意味はすぐにわかった。ゼロ距離に顔があるこんな状態で、その言葉の意味を察せられないほど鈍くはない。

 片桐さんに。智だけのこの唇を。奪われたく、ない。その想いで、ぐっと下唇を噛み締める。

「あ~ぁ、噛み締めたら傷がついちゃうでしょ?……悪い子だね~ぇ?」

 戯けたように片桐さんが笑いながら言葉を紡いだ。つぅ、と。顎を捕らえている手から、器用に親指だけを動かして、私の唇をそっとなぞる。

「どういうつもりも何も。……ちょ~っとさ、一度助けられたからって無防備すぎない?逆に心配になっちゃうんだけど?」

 じっと。ヘーゼル色の瞳が鮮やかに細められたまま、心底愉しそうに私を見つめている。

(……)

 そう。私は、先週……片桐さんに助けられた。だから。

「……今の片桐さんは、私が嫌がることはしない」

 目の前にあるヘーゼル色の瞳をふたたび強く睨みつける。引き攣る喉を叱咤して、笑顔を浮かべたままの片桐さんに言葉を投げつけた。

 整えられた片桐さんの眉が、ぴくりと動く。

「……どうしてそう思える?」

 すっと。片桐さんの表情から笑顔が消え、飄々とした声が、一瞬で低くなる。

 何を考えているかわからない、何とも言えない……片桐さんの、瞳。

 よく見れば、その瞳は単色ではなくて、色が混ざっているのが見て取れた。瞳孔の付近は、片桐さんの髪に似た明るい茶色で……その周辺が緑がかっていて。瞳の縁は、黒とも茶色とも言える色。茶色と緑の黒の3色が輪になったような、独特の瞳をしていた。

(……綺麗)

 これまで。彼の瞳は、私にとっては畏怖の対象だった。でも。よく見れば。彼の瞳は―――とても、澄んでいる。

 私が持ち得る語彙力を全て使って表現するならば。深い深い、誰も立ち入ることの出来ない、禁忌の森。その奥深くへと入り込んでいった先に……薄らと差し込む太陽の光を浴びて、ノスタルジックで妖艶な光を帯びて佇んでいる『宝石』。

 そんな宝石のような瞳を見つめたまま、何も握っていない左手をそっと動かして、目的の場所に触れる。

(……やっぱり)

 手を動かした指先の感触で、確信を持った。そうして、まるで動かぬ証拠を突きつけるように言葉を放つ。


「だって……鍵、かけてない」


 そう。片桐さんは、私の後ろのドアの鍵をかけていなかった。

 この打ち合わせルームには内鍵がついていて。私が先週、ここで徳永さんの話しを聞いた時、そして、水野課長にこの件を相談した時。内鍵を閉めて、話をした。


 けれど、片桐さんは。ドアを閉めたあの瞬間に、鍵をかけなかった。それは。


「私が、いつでも逃げられるように。そうでしょう、片桐さん」

「……」

 ヘーゼル色の瞳は、以前のような動揺すらみせない。ただただ、無感情に私を貫いている。


 先週。意識を失った私を、強引に自分のモノにすることも出来た。なのに、それをせずに、智が迎えに来るのを待っていた。
 あまつさえ―――循環取引の証拠を、智に託す、ということをしてまで。

 それはきっと。私をマーガレットさんの代わりとして見ているのではなくて。


(私のことを……私を、想って、くれているから)


 だから。彼は、私を害すつもりは、さらさら持ち合わせていない、はず。

 なおも黙ったままの片桐さんに、畳み掛けるように言葉を続けようと、口を開いたその瞬間。

 ふっと。片桐さんが私の顎から手を離した。ふい、と、ヘーゼル色の瞳が、私を視界から追い出すようにそっぽを向く。

 片桐さんの身体が、ゆっくりと離れていく。私の顔の真横に置いていた腕も手も、私から離れていく。

「……興が削がれた」

 私の顎を掴んでいた右手で前髪を掻きあげて大きくため息をつきながら、片桐さんがポツリと呟いた。そうして、くるりと踵を返して打ち合わせルームの中に設置された椅子に右手をかける。

「わざわざ自分からふたりきりになりたがったのは、俺に話があるからでしょ?」

 片桐さんが、左手に持っていた封筒をテーブルに放り投げた。パサリ、と乾いた音が聞こえると同時に、右手で引いた椅子に腰掛け、背もたれに片桐さんが身体を預ける。金具が軋む甲高い金属音が、この空間に反響するように響いた。

 別に、進んでふたりきりになりたがったわけじゃない。けれど。


(……聞きたいことも…言いたいことも。たくさん、あるんだから)


 ぎゅっと左手を握りしめる。ゆっくりと足を踏み出して、テーブルを挟んで片桐さんの正面にある椅子の前まで歩いた。右手で持っていたノートと、右腕にかけていた紙袋をテーブルの上にそっと置く。椅子を引いて腰をかけて、すっと背筋を伸ばす。

 つまらさそうな表情をしている片桐さんを、まっすぐに見つめた。背もたれに身体を預けたまま、するりと優雅に足を組んで、私が口を開くのを待っている。

「……まず。あの日のお礼を。黒川さんから…助けてくださって、ありがとうございました」

 そこまで一気に言い終えて、ぺこりと頭を下げた。さらり、と、自分の髪が、かけた耳から落ちていく。

「あの時。片桐さんが来てくださらなければ、私は……」

 そこまで口にして、あのテラついた髪が脳裏をよぎり声が震えた。


 あの時。片桐さんが助けてくれなければ。

 私は、ここに……生きていなかったかもしれない。
 心労をかけっぱなしの親の顔も、昨年のお盆に見たっきりで……親孝行のひとつすらできず。
 ……私を愛してくれている智を、独り。この世界に置きざりにしていたかも、しれない。

 そう思うと、改めて寒気がする。


 無言の空間が広がる。片桐さんの呼吸の音すら、聞こえない。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、そっと顔を上げる。眼前に現れたヘーゼル色の瞳を、じっと見つめた。

「それと。循環取引の証拠の提供について。……彼からも、言伝を頼まれています。感謝します、ありがとうございました、とのことです」

 そうして、テーブルの上に置いた紙袋に手を伸ばして、紙袋をスッとテーブルの中央部まで押し込んだ。

「これは……本当に心ばかりですが。私たちからの、気持ちです」

「……」

 片桐さんが、私から視線を外して、テーブルの上の紙袋をじっと見つめている。

「……諸々が落ち着いたら。彼が、片桐さんに会いにいく、と…そう、伝えて欲しい、と」

 身体の奥から、絞り出すように。智からの伝言を、一言一句間違えないように。目の前の片桐さんに伝えた。


 ただただ。別世界のような無言の空間が、広がる。


 この打ち合わせルームはフロア内にあるから、フロアの喧騒が聞こえてくるはずなのに。まるで、世界中から音が消え去ったような、そんな感覚に陥っていく。


「……別に、俺は君たちを助けるために証拠を提供したわけじゃな~いよ?」

 くすり、と。片桐さんが笑って、組んでいた足を崩した。テーブルに片肘をついて、こてん、と首を傾げる。

「俺さ、前にも言ったけど、諜報機関にいたからさ?こういうの、よく知ってるんだよね~ぇ?」

 確かに。片桐さんは、あの夜に。そんなことを言っていた。智のことを、調べた、とも。普通の人間は、そんなことは不可能だ。

「……」

 じっと。片桐さんの真意を推し量るように、整った顔に貼り付けられた笑みを見つめる。片桐さんはへにゃりと人懐っこい笑顔を浮かべたまま。

「……そんな俺を新人だと思い込んで俺のことを下に見ていた黒川に目にもの見せてやるには、三井商社の内部から崩す。これが一番手っ取り早かったからね~ぇ」

 そこまで口にした片桐さんの飄々とした口調が。一瞬で、くるりと。低いそれに、切り替わる。

「端的に言えば。のが気に食わなかった。ただ、それだけ」

 低く響く片桐さんの声に、一瞬、息が止まった。ヘーゼル色の瞳が……昏い色を孕んで。私を貫いていく。

 片桐さんが、片肘をついていた腕をするりと動かして、テーブルに向けて放りなげた封筒から書類を引っ張り出し、それを私の前に差し出した。

 差し出された一枚の資料。それは、今回の件に気が付いた日付や推測などが書き込まれたメモが時系列に並べられて、切り貼りされたもの。言葉での補足など必要ないほど、詳細に纏められたその資料。そこには、三井商社や極東商社だけではなく、他の商社も関わっているということが垣間見えた。

 私が当初考えていたよりも……規模が大きい。思わず、ひゅっと息を飲む。

「上場企業である極東商社うちが、3月下旬からこっちの1ヶ月半という短期間とはいえ循環取引に関わっていたんだ。今年の3月期の決算修正にも関わってくる。監査法人への説明、報道機関対応、株価下落も懸念される事態だった」

 地を這うような、片桐さんの低い声が、打ち合わせルームに淡々と響く。

 極東商社は上場企業で。ひとたび不正それが発覚すると、企業にとって金銭的なダメージがあるだけではなく、社会的信用も失墜し、企業の存続が危ぶまれる事態になり得る。

 先々月に迎えた本決算。速報では、極東商社の業績は増収増益だった。しかも、過去最高の差引利益を叩き出している。だからこそ。

 三井商社を起点に、極東商社を含めた商社が他にも数社絡んでいる、となれば。マスメディアで、とんでもなくセンセーショナルに報道されるに違いなかった。

 冷えた空気をその身に纏わせていた片桐さんが、ふたたびへにゃり、と。飄々とした雰囲気に瞬時に切り替えて、優雅に微笑んだ。

「言ったでしょ?別に俺は君たちのために証拠を提供したわけじゃない。あくまでも極東商社を護るため、だ。そこは勘違いしないで欲しいね」

 そうして、片桐さんがくすりと嗤う。身体の重心を、椅子の背もたれに傾けて。意味ありげな嘲笑いを浮かべたまま、目の前に差し出された書類が入っていた薄紅色の封筒でするりと口元を隠した。

「俺が証拠を提供し、起点となった三井商社から内部告発を起こしてもらう。そうすれば極東商社は情報を包み隠さず公表した、と見なされ世間から理不尽に批判されることはなくなる。……関与していた他の企業は正直どうなろうと俺の知ったことじゃぁない」

 するすると、なんでもないように告げられた言葉に愕然とする。用意周到な人物だとは思っていた。けれど、ここまで裏を読んで行動していた、なんて。

 つぅ、と。ヘーゼル色の瞳が、細められた。

「……あそこまでお膳立てされて黒川のことを告発出来ないようであれば、俺が智くんごと…いや、三井商社ごと潰しに行ってたよ?」

「っ…」

 その言葉は、冗談でもなんでもない、と。通関業務にしか携わったことがない私でも、一瞬で理解できた。


 この人は。今、口にしたように。
 極東商社に害をなすような企業があれば…叩き潰す、と。
 それを為しえる能力を、それを叶える情報力を。
 その、覚悟を。彼は、持ち合わせている。


 するり、と。片桐さんが口元を隠していた封筒を外して、椅子から立ち上がる。私が差し出したテーブルの上の紙袋を手に持った。もう、この話はこれで終わりだ、と。そう言いたげな動作。

 トス、トス、と。片桐さんが出入り口のドアに向かって歩いていく。片桐さんの明るい髪が揺れ動く。

「……っ、片桐さん!」

 勢いよく席を立ったからか、ガタン、と。椅子が大きな音を立てた。その音に、私の声に。片桐さんの身体がびくりと跳ねて、その場に立ち止まる。

 ゆっくりと。彼が、私を振り向いた。

 彼が今、私に向かって口にしたことや、彼が取った行動の真意は……正直、わからない。片桐さんは、本心を他人に読ませない人だから。


 黒川さんに下に見られていたのが本気で気に食わなかっただけなのかもしれない。
 私たちを助けるために、行動を起こしてくれたのかもしれない。

 ヘーゼル色の瞳の奥深くに潜む真意は、きっと。
 私たちに読ませるつもりもないのだろうけれど。


「………あなたが、そういうつもりがなかったとしても。私が…私たちが、あなたの行動で助けられたのは紛れもない事実です。だから……本当に、ありがとうございました」

 一気に言葉を吐きだして、腰を曲げて。彼に頭を下げた。10秒ほど同じ体勢を保ち、ゆっくりと顔をあげる。

 片桐さんの瞳が。先週、意識が途切れる寸前に、私が目にしたように。言いようの無い感情を湛えて、大きく揺れ動いている。

 そうして、ふっと口の端を歪めて。ヘーゼル色の瞳が、やさしく細められた。

「……Not at all.」

 片桐さんは、それだけを口にして。カチャリ、と。打ち合わせルームのドアを押し開いて行った。



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