172 / 273
本編・第三部
194
しおりを挟む
「おはようございます」
お土産を入れた紙袋を身体の前に抱えて、通関部のフロアに足を踏み入れながら軽く頭を下げた。
「おはようございます、先輩っ」
今日は長期休暇明けの月曜日。今朝の早出担当は三木ちゃん。朝から彼女の溌剌とした声を聞くと、休暇モードになっていた身体に、仕事スイッチが入るような感覚になる。「おはよう」と、もう一度挨拶を返しながら、三木ちゃんのデスクの後ろの行動予定表のマグネットを在席に動かした。
「先輩、今日から私服なんですね?」
三木ちゃんが、ぱちりとした目を数度瞬かせて私の服装を見遣った。その視線に苦笑しながら返答する。
「うん、この前スーツ着てきたでしょう?いい機会かなと思って」
極東商社の女性総合職は、私服でも制服でも勤務可となっている。半年前に総合職になってからもずっと制服だったけれど、総合職らしく、オフィスカジュアルな服装で勤務しようかと思いたったのだ。制服じゃない、というだけで、今まで以上に総合職としての意識が高まった気がする。先週のシンポジウムに参加したのが、本当に良いきっかけになったと思う。
「えっとね、お土産、これ買ってきたの。気に入ってもらえるといいんだけど」
そう口にしながら、身体の前に抱えた紙袋から淡いピンク色の不織布でラッピングされた小さな包みを取り出して椅子に腰掛けたままの三木ちゃんに手渡す。三木ちゃんから向けられる「開けても?」という期待に満ちた視線に、「もちろん」という気持ちを込めて微笑みかえす。
三木ちゃんがデスク上の書類を脇によけて、私が手渡した包みを開封していく。
「わぁ!薔薇のハンドクリーム!?」
三木ちゃんが整った顔に満面の笑みを浮かべ、手元のハンドクリームから私に視線を合わせた。
いつもは地元の銘菓をお土産として買ってきていたけれど、今回はせっかく薔薇祭りに行ったのだから、と思って、通関部の女性陣には薔薇の香りがするハンドクリームを選んだ。
「三木ちゃん、お休み中はずっとご実家のお手伝いに行っていたのでしょう?水仕事で手が荒れ気味だったりしているかなと思って」
私の言葉に、三木ちゃんが「嬉しいです!」と、頬をほんのり赤らめて顔を綻ばせる。その表情に、ほっとため息をついた。
年明けにおばあ様が亡くなられてから、土日はずっと実家の料亭のお手伝いに行っている、という話を聞いていたから、ゴールデンウィーク中もきっとそうだろう、とアタリをつけていたのだ。甘いものが好きな三木ちゃんへのお土産として、薔薇の味がするお菓子と迷ったけれど、ハンドクリームにしたのはそれが理由だった。
5月に入って随分暖かくはなったけれど、まだまだ乾燥する日が続く。お休み期間中なのに水仕事をたくさんこなしてきたであろう三木ちゃんにも、あのむせかえるような薔薇の香りをお裾分けしたい気持ちもあって、園内のお土産屋さんでかなり悩んだ結果、ハンドクリームに落ち着いたのだ。
三木ちゃんが早速そのハンドクリームを手のひらに塗っている。ほわり、と、薔薇の香りが漂って、ふたりでその香りにふたりでうっとりする。休暇中に起こったことを話しながら連休明けの書類を捌こうと自分のデスクに向かった、その時。
「お、一瀬さん。この前はびっくりしたぞ」
私の背後から、驚いたような声が響いた。ぽん、と、肩を軽く叩かれる。真横を見上げると、大迫係長が心配そうな表情を湛えて私をじっと見つめていた。
「食事会の後半、深川係長から体調不良で帰したって聞いたが大丈夫だったか?」
「あ……」
大迫係長の言葉に、小さな罪悪感が込み上げる。シンポジウムのあとの交流食事会で、梅酒を口にして。その梅酒に苦味を感じて、盛られたかもしれない、と判断して……ペアを組んでくれていた農産販売部の深川係長に体調が優れないと嘘をつく形であの場を辞したのだった。
「……ご心配おかけしました。あのあとすぐに帰宅して寝たので、大丈夫でしたよ」
内心で、嘘をついてすみません、と謝りながら、大迫係長に柔らかく笑みを返す。私のその言葉に、ほっとしたように大迫係長が口元を緩ませた。
「交流食事会で名刺交換した先のリストアップと、新規取引先になりえそうな会社のリストアップ、今日の午後から手をつけていこう。よろしくな」
ふたたび、ぽんぽん、と。肩を優しく叩いて、大迫係長が1課のブースに向かっていく。
(……すみません、大迫係長…)
チクリ、と。心を縫い針で刺されたような痛みがする。それを振り払うように、心の中で小さく頭を振った。大迫係長の背中を追うように、私も自分の席に腰を下ろして、連休明けの積み重なった書類に目を通していった。
朝礼を終えると、けたたましく鳴り響く外線の数が徐々に増えていく。連休明けだからか、どの会社からも問い合わせが多い。電話を取り指名された人物へその電話を取り次いだりしながら、ひとつひとつ丁寧に通関処理を進めていく。
ある程度片付いたところで不意に左手の腕時計に視線を向けると、時計の針は10時半を少し回ったところだった。
(……大丈夫、かな…)
智の話によると、今日の朝一番には黒川さんから依頼されていたグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼の差し止めの電話を、智から水野課長宛てにすると言っていた。未だその話しは私の目の前の席に座る水野課長からは回ってきていない。変な緊張感から嫌な汗が脇にじっとりと滲んでいる。
大丈夫。片桐さんから提供された『循環取引』の証拠もあるのだ。もう少しすれば、きっと智から通関部宛てに電話があるはず。
自分に言い聞かせるように、小さく心の中でそう呟いた。ドクドクと速度を上げていく心臓を無視して、隣に座る南里くんに業務を託そうと補足の書き込みを進めていた極東商社の農産販売部からの通関依頼書に視線を落とすと、ふたたびけたたましく外線が鳴った。ふっと顔を上げて、目の前の受話器を取る。
「極東商社通関部、一瀬です」
電話の向こう側で不自然な空白があった。電話機の調子が悪くて、名乗った声が途切れてたのだろうか。再度名乗ろうと小さく空気を吸い込む。
すると、震えるような声色と、小さなため息とともに。
『……三井商社の邨上です』
智の、電話応対用の低くて落ち着いた……それでいて、少しだけ震えるような声が左耳のスピーカーから響いた。
やっと。通関差し止めの電話が、来た。そのことに私もほっと安堵のため息を小さく吐く。
(これで……やっと、終わる)
どっと、肩から力が抜けた。妙な安心感から涙が零れそうになるのを必死に堪える。込み上げてくる何かに震える喉を叱咤しながら「少々お待ちください」と声をかけて保留ボタンを押し、目の前に座る水野課長に視線を向けた。
「水野課長。三井商社の邨上さんからお電話です」
私の声に、水野課長がふい、と、顔をあげた。銀縁メガネの奥のつり目が、ふっと優しく細められる。
それは……まるで、『よく堪えた』と。褒められているような。そんな表情だった。
水野課長が優しげな表情を真剣なそれに切り替えて、電話を代わった。水野課長の応答する声しか聞こえないけれど、内容は明らかに通関依頼の差し止めに関するもの。
胸にじんわりと広がる安堵感。その安堵感を隠しながら、何事もなかったかのように。視線を手元に落として先ほどから進めていた補足の書き込みを進めていく。
(……それにしても、南里くんと徳永さんがねぇ…)
先週。徳永さんから告げられた、彼等の関係について。
知ってしまった以上、田邉部長には、こっそりと話しを通している。同一部内ではあるけれども、課が違うから寛大な対応をお願いしたい、という私の意見を添えて。
(どうなるかなぁ……やっぱり、異動になっちゃうかな…)
徳永さんが異動になるか、南里くんが異動になるか。はたまた、課が違うからと見逃されるか。
あの出来事がきっかけで異動ラッシュとなり、ようやく落ち着いてきた通関部だったのに。これからどうなるだろう。ぼんやりと考えていると、水野課長が受話器をカチャリと置いて私を呼び止めた。
つり目の瞳にじっと見据えられる。その視線に含まれる水野課長の意図を何となく察した。
「明日グリーンエバー社から積み込みで…明後日通関予定の、三井商社からグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼があっただろう」
これが不正な取引かもしれない、と勘づいていることを悟られるな、と。初めに相談した際に言っていた水野課長。だから、この件を通関部のブースで話す時も、私は知らないテイでいなければならない。『話を合わせろ』という水野課長の意図を受け取って、素知らぬ顔で返答する。
「はい、ありました」
私のその返答に、一瞬だけ満足そうな表情を浮かべた水野課長が、瞬時に苦々しく顔を歪めた。その意図が掴めず、小さく小首を傾げる。
「………あれはキャンセルだそうだ。担当の黒川さんが不正な取引をしていたらしく、懲戒解雇となるそうでな」
懲戒解雇。その言葉の意味を噛み砕いて、演技でも何でもなく、素で驚いた。
「えぇ!?」
素っ頓狂な声が自分の喉から上がった。まさか、黒川さんが懲戒解雇となるなんて。
彼は確か、三井商社の社長の……命の恩人の息子さん、だったはず。だからこそ、大学時代に警察沙汰を起こしても社長が庇ってきたし、今まで社内で色々とやらかしてもクビに出来なかったのではなかったのだろうか。
衝撃的な展開に、鳴り響く外線の音が遠く聞こえている。
状況が飲み込めず茫然としていると、ふわり、と。1週間ぶりに鼻腔をくすぐる、シトラスの香りが漂った。
「あ~らら、情報が回るのが早かったですね?」
苦笑したような声が響く。その声がした通関部のブースの入り口に視線を向けると、苦笑いを浮かべている片桐さんの姿があった。
「………早々に農産販売部の方にも連絡が行っていたか」
水野課長が少し下がった銀縁メガネを右手でずり上げながら、ゆっくりと椅子を半転させて水野課長に歩み寄る片桐さんに視線を合わせた。
「災難だったな、循環取引に巻き込まれていたのか。お前はバイヤーとしては新人だから、黒川とやらに侮られて都合のいい隠れ蓑として使われていたのだろう」
片桐さんが水野課長の言葉に前髪を掻き上げながら、困ったように笑みを浮かべた。明るい髪がふわりと揺れる。
「あはは、ご名答です。先月まで通関部にいたから、割と早い段階でこれが循環取引ではないかと気がつけました。これまでの皆さんのご指導のおかげですよ」
トス、トス、と。片桐さんの革靴につけられたトゥスチールがフロアのカーペットに吸収される音が響く。片桐さんが西浦係長の背後を通って水野課長の真横まで歩き、手に持った封筒を水野課長に差し出しながら、再び口を開いた。
「で、中川部長からの指示で、今回の事の顛末を通関部にも報告してくるように、と。水野課長、今お時間大丈夫ですか?」
片桐さんの問いに、水野課長が小さく首を縦に振った。さらり、と、艶のある黒髪が揺れ動いている。
「俺は大丈夫だが、」
「水野課長!先日のサーベイ検査の件で税関からお電話です」
水野課長の返答を遮るように、先程鳴っていた電話を取った加藤さんが水野課長を呼び止めた。その声に水野課長が目を軽く見張って、申し訳なさそうに目の前に座る私に視線を向ける。
「…………すまん、一瀬。俺の代わりに行けるか」
私に視線を向けた水野課長に倣うように。片桐さんも、ふい、と。私に視線を向けた。ヘーゼル色の瞳と、視線がかち合う。
サーベイ検査についての電話なら、そちらが優先されるべきだ。賠償金等が絡むサーベイ検査に関しては、今在席しているメンバーで対応できるのは水野課長以外いない。そして、そもそも。
「……わかりました。そもそも、今回の三井商社の通関に関しては、私が担当ですから」
私が担当していた通関業務に関する話しだ。私も、今回の事の顛末を知る権利はあるはず。スッと席を立って、フロアの出入り口に設置してある打ち合わせルームに視線を向けた。運良く、空室になっている。
……水野課長の提案は、願ったり叶ったりだ。
このままだと、片桐さんとあの打ち合わせルームでふたりきりになってしまう。今まで言い寄られていたことや、催眠暗示を仕掛けてきた彼に対する信用度は、私にとってはゼロに等しいけれど。それらに怖気付いている場合では、ない。
片桐さんには。言わなければならないことがたくさんある。聞きたいことも……たくさん、ある。
(………ここは、会社だし。周りには、たくさん人がいる。何かあれば大声を出せばいい)
汗ばむ手のひらをぐっと握りしめて。高い位置にあるヘーゼル色の瞳を、強い意志を込めて見つめた。
「……片桐係長。私が通関部としてお話しを伺います。打ち合わせルームでよろしいですか?」
私の言葉に。片桐さんが、ヘーゼル色の瞳を細めながら、ふっと口の端を吊り上げた。
「……ん。行こうか」
それだけを呟いて、私が視線を向けた打ち合わせルームに向かって、片桐さんがくるりと踵を返した。歩く動きに合わせて、明るい髪が揺れ動くのを視界の端で眺めながら。
私は、自分を落ち着けるように。小さく、吐息を吐き出した。
お土産を入れた紙袋を身体の前に抱えて、通関部のフロアに足を踏み入れながら軽く頭を下げた。
「おはようございます、先輩っ」
今日は長期休暇明けの月曜日。今朝の早出担当は三木ちゃん。朝から彼女の溌剌とした声を聞くと、休暇モードになっていた身体に、仕事スイッチが入るような感覚になる。「おはよう」と、もう一度挨拶を返しながら、三木ちゃんのデスクの後ろの行動予定表のマグネットを在席に動かした。
「先輩、今日から私服なんですね?」
三木ちゃんが、ぱちりとした目を数度瞬かせて私の服装を見遣った。その視線に苦笑しながら返答する。
「うん、この前スーツ着てきたでしょう?いい機会かなと思って」
極東商社の女性総合職は、私服でも制服でも勤務可となっている。半年前に総合職になってからもずっと制服だったけれど、総合職らしく、オフィスカジュアルな服装で勤務しようかと思いたったのだ。制服じゃない、というだけで、今まで以上に総合職としての意識が高まった気がする。先週のシンポジウムに参加したのが、本当に良いきっかけになったと思う。
「えっとね、お土産、これ買ってきたの。気に入ってもらえるといいんだけど」
そう口にしながら、身体の前に抱えた紙袋から淡いピンク色の不織布でラッピングされた小さな包みを取り出して椅子に腰掛けたままの三木ちゃんに手渡す。三木ちゃんから向けられる「開けても?」という期待に満ちた視線に、「もちろん」という気持ちを込めて微笑みかえす。
三木ちゃんがデスク上の書類を脇によけて、私が手渡した包みを開封していく。
「わぁ!薔薇のハンドクリーム!?」
三木ちゃんが整った顔に満面の笑みを浮かべ、手元のハンドクリームから私に視線を合わせた。
いつもは地元の銘菓をお土産として買ってきていたけれど、今回はせっかく薔薇祭りに行ったのだから、と思って、通関部の女性陣には薔薇の香りがするハンドクリームを選んだ。
「三木ちゃん、お休み中はずっとご実家のお手伝いに行っていたのでしょう?水仕事で手が荒れ気味だったりしているかなと思って」
私の言葉に、三木ちゃんが「嬉しいです!」と、頬をほんのり赤らめて顔を綻ばせる。その表情に、ほっとため息をついた。
年明けにおばあ様が亡くなられてから、土日はずっと実家の料亭のお手伝いに行っている、という話を聞いていたから、ゴールデンウィーク中もきっとそうだろう、とアタリをつけていたのだ。甘いものが好きな三木ちゃんへのお土産として、薔薇の味がするお菓子と迷ったけれど、ハンドクリームにしたのはそれが理由だった。
5月に入って随分暖かくはなったけれど、まだまだ乾燥する日が続く。お休み期間中なのに水仕事をたくさんこなしてきたであろう三木ちゃんにも、あのむせかえるような薔薇の香りをお裾分けしたい気持ちもあって、園内のお土産屋さんでかなり悩んだ結果、ハンドクリームに落ち着いたのだ。
三木ちゃんが早速そのハンドクリームを手のひらに塗っている。ほわり、と、薔薇の香りが漂って、ふたりでその香りにふたりでうっとりする。休暇中に起こったことを話しながら連休明けの書類を捌こうと自分のデスクに向かった、その時。
「お、一瀬さん。この前はびっくりしたぞ」
私の背後から、驚いたような声が響いた。ぽん、と、肩を軽く叩かれる。真横を見上げると、大迫係長が心配そうな表情を湛えて私をじっと見つめていた。
「食事会の後半、深川係長から体調不良で帰したって聞いたが大丈夫だったか?」
「あ……」
大迫係長の言葉に、小さな罪悪感が込み上げる。シンポジウムのあとの交流食事会で、梅酒を口にして。その梅酒に苦味を感じて、盛られたかもしれない、と判断して……ペアを組んでくれていた農産販売部の深川係長に体調が優れないと嘘をつく形であの場を辞したのだった。
「……ご心配おかけしました。あのあとすぐに帰宅して寝たので、大丈夫でしたよ」
内心で、嘘をついてすみません、と謝りながら、大迫係長に柔らかく笑みを返す。私のその言葉に、ほっとしたように大迫係長が口元を緩ませた。
「交流食事会で名刺交換した先のリストアップと、新規取引先になりえそうな会社のリストアップ、今日の午後から手をつけていこう。よろしくな」
ふたたび、ぽんぽん、と。肩を優しく叩いて、大迫係長が1課のブースに向かっていく。
(……すみません、大迫係長…)
チクリ、と。心を縫い針で刺されたような痛みがする。それを振り払うように、心の中で小さく頭を振った。大迫係長の背中を追うように、私も自分の席に腰を下ろして、連休明けの積み重なった書類に目を通していった。
朝礼を終えると、けたたましく鳴り響く外線の数が徐々に増えていく。連休明けだからか、どの会社からも問い合わせが多い。電話を取り指名された人物へその電話を取り次いだりしながら、ひとつひとつ丁寧に通関処理を進めていく。
ある程度片付いたところで不意に左手の腕時計に視線を向けると、時計の針は10時半を少し回ったところだった。
(……大丈夫、かな…)
智の話によると、今日の朝一番には黒川さんから依頼されていたグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼の差し止めの電話を、智から水野課長宛てにすると言っていた。未だその話しは私の目の前の席に座る水野課長からは回ってきていない。変な緊張感から嫌な汗が脇にじっとりと滲んでいる。
大丈夫。片桐さんから提供された『循環取引』の証拠もあるのだ。もう少しすれば、きっと智から通関部宛てに電話があるはず。
自分に言い聞かせるように、小さく心の中でそう呟いた。ドクドクと速度を上げていく心臓を無視して、隣に座る南里くんに業務を託そうと補足の書き込みを進めていた極東商社の農産販売部からの通関依頼書に視線を落とすと、ふたたびけたたましく外線が鳴った。ふっと顔を上げて、目の前の受話器を取る。
「極東商社通関部、一瀬です」
電話の向こう側で不自然な空白があった。電話機の調子が悪くて、名乗った声が途切れてたのだろうか。再度名乗ろうと小さく空気を吸い込む。
すると、震えるような声色と、小さなため息とともに。
『……三井商社の邨上です』
智の、電話応対用の低くて落ち着いた……それでいて、少しだけ震えるような声が左耳のスピーカーから響いた。
やっと。通関差し止めの電話が、来た。そのことに私もほっと安堵のため息を小さく吐く。
(これで……やっと、終わる)
どっと、肩から力が抜けた。妙な安心感から涙が零れそうになるのを必死に堪える。込み上げてくる何かに震える喉を叱咤しながら「少々お待ちください」と声をかけて保留ボタンを押し、目の前に座る水野課長に視線を向けた。
「水野課長。三井商社の邨上さんからお電話です」
私の声に、水野課長がふい、と、顔をあげた。銀縁メガネの奥のつり目が、ふっと優しく細められる。
それは……まるで、『よく堪えた』と。褒められているような。そんな表情だった。
水野課長が優しげな表情を真剣なそれに切り替えて、電話を代わった。水野課長の応答する声しか聞こえないけれど、内容は明らかに通関依頼の差し止めに関するもの。
胸にじんわりと広がる安堵感。その安堵感を隠しながら、何事もなかったかのように。視線を手元に落として先ほどから進めていた補足の書き込みを進めていく。
(……それにしても、南里くんと徳永さんがねぇ…)
先週。徳永さんから告げられた、彼等の関係について。
知ってしまった以上、田邉部長には、こっそりと話しを通している。同一部内ではあるけれども、課が違うから寛大な対応をお願いしたい、という私の意見を添えて。
(どうなるかなぁ……やっぱり、異動になっちゃうかな…)
徳永さんが異動になるか、南里くんが異動になるか。はたまた、課が違うからと見逃されるか。
あの出来事がきっかけで異動ラッシュとなり、ようやく落ち着いてきた通関部だったのに。これからどうなるだろう。ぼんやりと考えていると、水野課長が受話器をカチャリと置いて私を呼び止めた。
つり目の瞳にじっと見据えられる。その視線に含まれる水野課長の意図を何となく察した。
「明日グリーンエバー社から積み込みで…明後日通関予定の、三井商社からグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼があっただろう」
これが不正な取引かもしれない、と勘づいていることを悟られるな、と。初めに相談した際に言っていた水野課長。だから、この件を通関部のブースで話す時も、私は知らないテイでいなければならない。『話を合わせろ』という水野課長の意図を受け取って、素知らぬ顔で返答する。
「はい、ありました」
私のその返答に、一瞬だけ満足そうな表情を浮かべた水野課長が、瞬時に苦々しく顔を歪めた。その意図が掴めず、小さく小首を傾げる。
「………あれはキャンセルだそうだ。担当の黒川さんが不正な取引をしていたらしく、懲戒解雇となるそうでな」
懲戒解雇。その言葉の意味を噛み砕いて、演技でも何でもなく、素で驚いた。
「えぇ!?」
素っ頓狂な声が自分の喉から上がった。まさか、黒川さんが懲戒解雇となるなんて。
彼は確か、三井商社の社長の……命の恩人の息子さん、だったはず。だからこそ、大学時代に警察沙汰を起こしても社長が庇ってきたし、今まで社内で色々とやらかしてもクビに出来なかったのではなかったのだろうか。
衝撃的な展開に、鳴り響く外線の音が遠く聞こえている。
状況が飲み込めず茫然としていると、ふわり、と。1週間ぶりに鼻腔をくすぐる、シトラスの香りが漂った。
「あ~らら、情報が回るのが早かったですね?」
苦笑したような声が響く。その声がした通関部のブースの入り口に視線を向けると、苦笑いを浮かべている片桐さんの姿があった。
「………早々に農産販売部の方にも連絡が行っていたか」
水野課長が少し下がった銀縁メガネを右手でずり上げながら、ゆっくりと椅子を半転させて水野課長に歩み寄る片桐さんに視線を合わせた。
「災難だったな、循環取引に巻き込まれていたのか。お前はバイヤーとしては新人だから、黒川とやらに侮られて都合のいい隠れ蓑として使われていたのだろう」
片桐さんが水野課長の言葉に前髪を掻き上げながら、困ったように笑みを浮かべた。明るい髪がふわりと揺れる。
「あはは、ご名答です。先月まで通関部にいたから、割と早い段階でこれが循環取引ではないかと気がつけました。これまでの皆さんのご指導のおかげですよ」
トス、トス、と。片桐さんの革靴につけられたトゥスチールがフロアのカーペットに吸収される音が響く。片桐さんが西浦係長の背後を通って水野課長の真横まで歩き、手に持った封筒を水野課長に差し出しながら、再び口を開いた。
「で、中川部長からの指示で、今回の事の顛末を通関部にも報告してくるように、と。水野課長、今お時間大丈夫ですか?」
片桐さんの問いに、水野課長が小さく首を縦に振った。さらり、と、艶のある黒髪が揺れ動いている。
「俺は大丈夫だが、」
「水野課長!先日のサーベイ検査の件で税関からお電話です」
水野課長の返答を遮るように、先程鳴っていた電話を取った加藤さんが水野課長を呼び止めた。その声に水野課長が目を軽く見張って、申し訳なさそうに目の前に座る私に視線を向ける。
「…………すまん、一瀬。俺の代わりに行けるか」
私に視線を向けた水野課長に倣うように。片桐さんも、ふい、と。私に視線を向けた。ヘーゼル色の瞳と、視線がかち合う。
サーベイ検査についての電話なら、そちらが優先されるべきだ。賠償金等が絡むサーベイ検査に関しては、今在席しているメンバーで対応できるのは水野課長以外いない。そして、そもそも。
「……わかりました。そもそも、今回の三井商社の通関に関しては、私が担当ですから」
私が担当していた通関業務に関する話しだ。私も、今回の事の顛末を知る権利はあるはず。スッと席を立って、フロアの出入り口に設置してある打ち合わせルームに視線を向けた。運良く、空室になっている。
……水野課長の提案は、願ったり叶ったりだ。
このままだと、片桐さんとあの打ち合わせルームでふたりきりになってしまう。今まで言い寄られていたことや、催眠暗示を仕掛けてきた彼に対する信用度は、私にとってはゼロに等しいけれど。それらに怖気付いている場合では、ない。
片桐さんには。言わなければならないことがたくさんある。聞きたいことも……たくさん、ある。
(………ここは、会社だし。周りには、たくさん人がいる。何かあれば大声を出せばいい)
汗ばむ手のひらをぐっと握りしめて。高い位置にあるヘーゼル色の瞳を、強い意志を込めて見つめた。
「……片桐係長。私が通関部としてお話しを伺います。打ち合わせルームでよろしいですか?」
私の言葉に。片桐さんが、ヘーゼル色の瞳を細めながら、ふっと口の端を吊り上げた。
「……ん。行こうか」
それだけを呟いて、私が視線を向けた打ち合わせルームに向かって、片桐さんがくるりと踵を返した。歩く動きに合わせて、明るい髪が揺れ動くのを視界の端で眺めながら。
私は、自分を落ち着けるように。小さく、吐息を吐き出した。
0
お気に入りに追加
1,546
あなたにおすすめの小説
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
【R18完結】エリートビジネスマンの裏の顔
白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます───。
私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。
同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが……
この生活に果たして救いはあるのか。
※サムネにAI生成画像を使用しています
【R18】ドS上司とヤンデレイケメンに毎晩種付けされた結果、泥沼三角関係に堕ちました。
雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向けランキング31位、人気ランキング132位の記録達成※雪村里帆、性欲旺盛なアラサーOL。ブラック企業から転職した先の会社でドS歳下上司の宮野孝司と出会い、彼の事を考えながら毎晩自慰に耽る。ある日、中学時代に里帆に告白してきた同級生のイケメン・桜庭亮が里帆の部署に異動してきて…⁉︎ドキドキハラハラ淫猥不埒な雪村里帆のめまぐるしい二重恋愛生活が始まる…!優柔不断でドMな里帆は、ドS上司とヤンデレイケメンのどちらを選ぶのか…⁉︎
——もしも恋愛ドラマの濡れ場シーンがカット無しで放映されたら?という妄想も込めて執筆しました。長編です。
※連載当時のものです。
孕むまでオマエを離さない~孤独な御曹司の執着愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「絶対にキモチイイと言わせてやる」
私に多額の借金を背負わせ、彼氏がいなくなりました!?
ヤバい取り立て屋から告げられた返済期限は一週間後。
少しでもどうにかならないかとキャバクラに体験入店したものの、ナンバーワンキャバ嬢の恨みを買い、騒ぎを起こしてしまいました……。
それだけでも絶望的なのに、私を庇ってきたのは弊社の御曹司で。
副業がバレてクビかと怯えていたら、借金の肩代わりに妊娠を強要されたんですが!?
跡取り身籠もり条件の愛のない関係のはずなのに、御曹司があまあまなのはなぜでしょう……?
坂下花音 さかしたかのん
28歳
不動産会社『マグネイトエステート』一般社員
真面目が服を着て歩いているような子
見た目も真面目そのもの
恋に関しては夢を見がちで、そのせいで男に騙された
×
盛重海星 もりしげかいせい
32歳
不動産会社『マグネイトエステート』開発本部長で御曹司
長男だけどなにやら訳ありであまり跡取りとして望まれていない
人当たりがよくていい人
だけど本当は強引!?
【R18】御曹司とスパルタ稽古ののち、蜜夜でとろける
鶴れり
恋愛
「私のこと、たくさん愛してくれたら、自信がつくかも……」
◆自分に自信のない地味なアラサー女が、ハイスペック御曹司から溺愛されて、成長して幸せを掴んでいく物語◆
瑛美(えみ)は凡庸で地味な二十九歳。人付き合いが苦手で無趣味な瑛美は、味気ない日々を過ごしていた。
あるとき親友の白無垢姿に感銘を受けて、金曜の夜に着物着付け教室に通うことを決意する。
しかし瑛美の個人稽古を担当する着付け師範は、同じ会社の『締切の鬼』と呼ばれている上司、大和(やまと)だった。
着物をまとった大和は会社とは打って変わり、色香のある大人な男性に……。
「瑛美、俺の彼女になって」
「できなかったらペナルティな」
瑛美は流されるがまま金曜の夜限定の恋人になる。
毎週、大和のスパルタ稽古からの甘い夜を過ごすことになり――?!
※ムーンライトノベルス様にも掲載しております。
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R18・完結】蜜溺愛婚 ~冷徹御曹司は努力家妻を溺愛せずにはいられない〜
花室 芽苳
恋愛
契約結婚しませんか?貴方は確かにそう言ったのに。気付けば貴方の冷たい瞳に炎が宿ってー?ねえ、これは大人の恋なんですか?
どこにいても誰といても冷静沈着。
二階堂 柚瑠木《にかいどう ゆるぎ》は二階堂財閥の御曹司
そんな彼が契約結婚の相手として選んだのは
十条コーポレーションのお嬢様
十条 月菜《じゅうじょう つきな》
真面目で努力家の月菜は、そんな柚瑠木の申し出を受ける。
「契約結婚でも、私は柚瑠木さんの妻として頑張ります!」
「余計な事はしなくていい、貴女はお飾りの妻に過ぎないんですから」
しかし、挫けず頑張る月菜の姿に柚瑠木は徐々に心を動かされて――――?
冷徹御曹司 二階堂 柚瑠木 185㎝ 33歳
努力家妻 十条 月菜 150㎝ 24歳
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。