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本編・第三部

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「おはようございます」

 お土産を入れた紙袋を身体の前に抱えて、通関部のフロアに足を踏み入れながら軽く頭を下げた。

「おはようございます、先輩っ」

 今日は長期休暇明けの月曜日。今朝の早出担当は三木ちゃん。朝から彼女の溌剌とした声を聞くと、休暇モードになっていた身体に、仕事スイッチが入るような感覚になる。「おはよう」と、もう一度挨拶を返しながら、三木ちゃんのデスクの後ろの行動予定表のマグネットを在席に動かした。

「先輩、今日から私服なんですね?」

 三木ちゃんが、ぱちりとした目を数度瞬かせて私の服装を見遣った。その視線に苦笑しながら返答する。

「うん、この前スーツ着てきたでしょう?いい機会かなと思って」

 極東商社の女性総合職は、私服でも制服でも勤務可となっている。半年前に総合職になってからもずっと制服だったけれど、総合職らしく、オフィスカジュアルな服装で勤務しようかと思いたったのだ。制服じゃない、というだけで、今まで以上に総合職としての意識が高まった気がする。先週のシンポジウムに参加したのが、本当に良いきっかけになったと思う。

「えっとね、お土産、これ買ってきたの。気に入ってもらえるといいんだけど」

 そう口にしながら、身体の前に抱えた紙袋から淡いピンク色の不織布でラッピングされた小さな包みを取り出して椅子に腰掛けたままの三木ちゃんに手渡す。三木ちゃんから向けられる「開けても?」という期待に満ちた視線に、「もちろん」という気持ちを込めて微笑みかえす。

 三木ちゃんがデスク上の書類を脇によけて、私が手渡した包みを開封していく。

「わぁ!薔薇のハンドクリーム!?」

 三木ちゃんが整った顔に満面の笑みを浮かべ、手元のハンドクリームから私に視線を合わせた。
 いつもは地元の銘菓をお土産として買ってきていたけれど、今回はせっかく薔薇祭りに行ったのだから、と思って、通関部の女性陣には薔薇の香りがするハンドクリームを選んだ。

「三木ちゃん、お休み中はずっとご実家のお手伝いに行っていたのでしょう?水仕事で手が荒れ気味だったりしているかなと思って」

 私の言葉に、三木ちゃんが「嬉しいです!」と、頬をほんのり赤らめて顔を綻ばせる。その表情に、ほっとため息をついた。

 年明けにおばあ様が亡くなられてから、土日はずっと実家の料亭のお手伝いに行っている、という話を聞いていたから、ゴールデンウィーク中もきっとそうだろう、とアタリをつけていたのだ。甘いものが好きな三木ちゃんへのお土産として、薔薇の味がするお菓子と迷ったけれど、ハンドクリームにしたのはそれが理由だった。

 5月に入って随分暖かくはなったけれど、まだまだ乾燥する日が続く。お休み期間中なのに水仕事をたくさんこなしてきたであろう三木ちゃんにも、あのむせかえるような薔薇の香りをお裾分けしたい気持ちもあって、園内のお土産屋さんでかなり悩んだ結果、ハンドクリームに落ち着いたのだ。

 三木ちゃんが早速そのハンドクリームを手のひらに塗っている。ほわり、と、薔薇の香りが漂って、ふたりでその香りにふたりでうっとりする。休暇中に起こったことを話しながら連休明けの書類を捌こうと自分のデスクに向かった、その時。

「お、一瀬さん。この前はびっくりしたぞ」

 私の背後から、驚いたような声が響いた。ぽん、と、肩を軽く叩かれる。真横を見上げると、大迫係長が心配そうな表情を湛えて私をじっと見つめていた。

「食事会の後半、深川係長から体調不良で帰したって聞いたが大丈夫だったか?」

「あ……」

 大迫係長の言葉に、小さな罪悪感が込み上げる。シンポジウムのあとの交流食事会で、梅酒を口にして。その梅酒に苦味を感じて、盛られたかもしれない、と判断して……ペアを組んでくれていた農産販売部の深川係長に体調が優れないと嘘をつく形であの場を辞したのだった。

「……ご心配おかけしました。あのあとすぐに帰宅して寝たので、大丈夫でしたよ」

 内心で、嘘をついてすみません、と謝りながら、大迫係長に柔らかく笑みを返す。私のその言葉に、ほっとしたように大迫係長が口元を緩ませた。

「交流食事会で名刺交換した先のリストアップと、新規取引先になりえそうな会社のリストアップ、今日の午後から手をつけていこう。よろしくな」

 ふたたび、ぽんぽん、と。肩を優しく叩いて、大迫係長が1課のブースに向かっていく。

(……すみません、大迫係長…)

 チクリ、と。心を縫い針で刺されたような痛みがする。それを振り払うように、心の中で小さく頭を振った。大迫係長の背中を追うように、私も自分の席に腰を下ろして、連休明けの積み重なった書類に目を通していった。






 朝礼を終えると、けたたましく鳴り響く外線の数が徐々に増えていく。連休明けだからか、どの会社からも問い合わせが多い。電話を取り指名された人物へその電話を取り次いだりしながら、ひとつひとつ丁寧に通関処理を進めていく。

 ある程度片付いたところで不意に左手の腕時計に視線を向けると、時計の針は10時半を少し回ったところだった。

(……大丈夫、かな…)

 智の話によると、今日の朝一番には黒川さんから依頼されていたグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼の差し止めの電話を、智から水野課長宛てにすると言っていた。未だその話しは私の目の前の席に座る水野課長からは回ってきていない。変な緊張感から嫌な汗が脇にじっとりと滲んでいる。


 大丈夫。片桐さんから提供された『循環取引』の証拠もあるのだ。もう少しすれば、きっと智から通関部宛てに電話があるはず。


 自分に言い聞かせるように、小さく心の中でそう呟いた。ドクドクと速度を上げていく心臓を無視して、隣に座る南里くんに業務を託そうと補足の書き込みを進めていた極東商社うちの農産販売部からの通関依頼書に視線を落とすと、ふたたびけたたましく外線が鳴った。ふっと顔を上げて、目の前の受話器を取る。

「極東商社通関部、一瀬です」

 電話の向こう側で不自然な空白があった。電話機の調子が悪くて、名乗った声が途切れてたのだろうか。再度名乗ろうと小さく空気を吸い込む。

 すると、震えるような声色と、小さなため息とともに。

『……三井商社の邨上です』

 智の、電話応対用の低くて落ち着いた……それでいて、少しだけ震えるような声が左耳のスピーカーから響いた。

 やっと。通関差し止めの電話が、来た。そのことに私もほっと安堵のため息を小さく吐く。


(これで……やっと、終わる)


 どっと、肩から力が抜けた。妙な安心感から涙が零れそうになるのを必死に堪える。込み上げてくる何かに震える喉を叱咤しながら「少々お待ちください」と声をかけて保留ボタンを押し、目の前に座る水野課長に視線を向けた。

「水野課長。三井商社の邨上さんからお電話です」

 私の声に、水野課長がふい、と、顔をあげた。銀縁メガネの奥のつり目が、ふっと優しく細められる。

 それは……まるで、『よく堪えた』と。褒められているような。そんな表情だった。

 水野課長が優しげな表情を真剣なそれに切り替えて、電話を代わった。水野課長の応答する声しか聞こえないけれど、内容は明らかに通関依頼の差し止めに関するもの。

 胸にじんわりと広がる安堵感。その安堵感を隠しながら、何事もなかったかのように。視線を手元に落として先ほどから進めていた補足の書き込みを進めていく。

(……それにしても、南里くんと徳永さんがねぇ…)

 先週。徳永さんから告げられた、彼等の関係について。

 知ってしまった以上、田邉部長には、こっそりと話しを通している。同一部内ではあるけれども、課が違うから寛大な対応をお願いしたい、という私の意見を添えて。

(どうなるかなぁ……やっぱり、異動になっちゃうかな…)

 徳永さんが異動になるか、南里くんが異動になるか。はたまた、課が違うからと見逃されるか。

 あの出来事がきっかけで異動ラッシュとなり、ようやく落ち着いてきた通関部だったのに。これからどうなるだろう。ぼんやりと考えていると、水野課長が受話器をカチャリと置いて私を呼び止めた。

 つり目の瞳にじっと見据えられる。その視線に含まれる水野課長の意図を何となく察した。

「明日グリーンエバー社から積み込みで…明後日通関予定の、三井商社からグァテマラ向けの冷凍ブロッコリーの通関依頼があっただろう」

 これが不正な取引かもしれない、と勘づいていることを悟られるな、と。初めに相談した際に言っていた水野課長。だから、この件を通関部のブースここで話す時も、私は知らないテイでいなければならない。『話を合わせろ』という水野課長の意図を受け取って、素知らぬ顔で返答する。

「はい、ありました」

 私のその返答に、一瞬だけ満足そうな表情を浮かべた水野課長が、瞬時に苦々しく顔を歪めた。その意図が掴めず、小さく小首を傾げる。

「………あれはキャンセルだそうだ。担当の黒川さんが不正な取引をしていたらしく、懲戒解雇となるそうでな」

 懲戒解雇。その言葉の意味を噛み砕いて、演技でも何でもなく、素で驚いた。

「えぇ!?」

 素っ頓狂な声が自分の喉から上がった。まさか、黒川さんが懲戒解雇となるなんて。

 彼は確か、三井商社の社長の……命の恩人の息子さん、だったはず。だからこそ、大学時代に警察沙汰を起こしても社長が庇ってきたし、今まで社内で色々とやらかしてもクビに出来なかったのではなかったのだろうか。

 衝撃的な展開に、鳴り響く外線の音が遠く聞こえている。

 状況が飲み込めず茫然としていると、ふわり、と。1週間ぶりに鼻腔をくすぐる、シトラスの香りが漂った。

「あ~らら、情報が回るのが早かったですね?」

 苦笑したような声が響く。その声がした通関部のブースの入り口に視線を向けると、苦笑いを浮かべている片桐さんの姿があった。

「………早々に農産販売部の方にも連絡が行っていたか」

 水野課長が少し下がった銀縁メガネを右手でずり上げながら、ゆっくりと椅子を半転させて水野課長に歩み寄る片桐さんに視線を合わせた。

「災難だったな、循環取引に巻き込まれていたのか。お前はバイヤーとしては新人だから、黒川とやらに侮られて都合のいい隠れ蓑として使われていたのだろう」

 片桐さんが水野課長の言葉に前髪を掻き上げながら、困ったように笑みを浮かべた。明るい髪がふわりと揺れる。

「あはは、ご名答です。先月まで通関部にいたから、割と早い段階でこれが循環取引ではないかと気がつけました。これまでの皆さんのご指導のおかげですよ」

 トス、トス、と。片桐さんの革靴につけられたトゥスチールがフロアのカーペットに吸収される音が響く。片桐さんが西浦係長の背後を通って水野課長の真横まで歩き、手に持った封筒を水野課長に差し出しながら、再び口を開いた。

「で、中川部長からの指示で、今回の事の顛末を通関部にも報告してくるように、と。水野課長、今お時間大丈夫ですか?」

 片桐さんの問いに、水野課長が小さく首を縦に振った。さらり、と、艶のある黒髪が揺れ動いている。

「俺は大丈夫だが、」

「水野課長!先日のサーベイ検査の件で税関からお電話です」

 水野課長の返答を遮るように、先程鳴っていた電話を取った加藤さんが水野課長を呼び止めた。その声に水野課長が目を軽く見張って、申し訳なさそうに目の前に座る私に視線を向ける。

「…………すまん、一瀬。俺の代わりに行けるか」

 私に視線を向けた水野課長に倣うように。片桐さんも、ふい、と。私に視線を向けた。ヘーゼル色の瞳と、視線がかち合う。

 サーベイ検査についての電話なら、そちらが優先されるべきだ。賠償金等が絡むサーベイ検査に関しては、今在席しているメンバーで対応できるのは水野課長以外いない。そして、そもそも。

「……わかりました。そもそも、今回の三井商社の通関に関しては、私が担当ですから」

 私が担当していた通関業務に関する話しだ。私も、今回の事の顛末を知る権利はあるはず。スッと席を立って、フロアの出入り口に設置してある打ち合わせルームに視線を向けた。運良く、空室になっている。



 ……水野課長の提案は、願ったり叶ったりだ。

 このままだと、片桐さんとあの打ち合わせルームでふたりきりになってしまう。今まで言い寄られていたことや、催眠暗示あんなことを仕掛けてきた彼に対する信用度は、私にとってはゼロに等しいけれど。それらに怖気付いている場合では、ない。



 片桐さんには。言わなければならないことがたくさんある。聞きたいことも……たくさん、ある。



(………ここは、会社だし。周りには、たくさん人がいる。何かあれば大声を出せばいい)

 汗ばむ手のひらをぐっと握りしめて。高い位置にあるヘーゼル色の瞳を、強い意志を込めて見つめた。

「……片桐係長。私が通関部としてお話しを伺います。打ち合わせルームでよろしいですか?」

 私の言葉に。片桐さんが、ヘーゼル色の瞳を細めながら、ふっと口の端を吊り上げた。

「……ん。行こうか」

 それだけを呟いて、私が視線を向けた打ち合わせルームに向かって、片桐さんがくるりと踵を返した。歩く動きに合わせて、明るい髪が揺れ動くのを視界の端で眺めながら。

 私は、自分を落ち着けるように。小さく、吐息を吐き出した。



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