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本編・第三部
【幕間】長すぎた夜を越えて、迎えた朝には。
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パチャリ、と。湯船に張られたお湯を叩くように、自分の腕を湯面におろした。手のひらにお湯を掬って、顔を洗う。
「……」
ゴールデンウィーク最終日の夕方。真梨さんの都合がようやく空いた。長期休暇期間中、ということもあり、真梨さんの実家の料亭は忙しそうだった。
初めて足を踏み入れた真梨さんの自宅。1LDKのとてもシンプルな部屋。リビングにはローテーブルとソファだけ。真梨さんはその見た目から派手に思われがちで、それは昨年、配属された通関部での初めての挨拶の時に、俺が真梨さんに抱いた第一印象でもあった。気が強いような口調ということも相まって、俺と違って口が達者で華やかな友好関係を築いてきた人なのだろう、と。
年が明けてから偽りの関係を持ってしまって、それから色々あって、こうして恋人関係になった。彼女に抱く印象は日々刻々と変化していく。
(……知らなかったなぁ…)
会社では自分の意見を押し通すようにみえて、それは噛み砕いていけば他人のためであることとか。
それを隠すためにあえて強気な態度を崩さないようにしていることとか。
派手好きなようにみえて、実は洋服も家具も持ちものも、シンプルなものを揃えてある、とか。
真梨さんがひとりで野外フェスに行くのが好きなのは、ある意味そうやって日々押し込めている自分を解放できる瞬間だから、なのかもしれない。
たぶん、というか恐らく。とんでもなく鈍い真梨さん自身は、きっとそれにすら気がついていないのだろうけれど。
(……知らなかった)
知らなかったことを知っていく。知れば知るほど、真梨さんに惹かれていく。俺はきっと、一瀬さんへの閉じ込めた想いを、胸の奥に大事にしている宝箱を、後生大事に、それこそ一生抱えていくのだろう、なんて思っていたけれど、それすら、軽く超えていくほどに。
知れば知るほど、真梨さんという存在に。俺は、溺れていっているような。そんな気がする。
(……今年の真梨さんの誕生日。野外フェスのチケットをプレゼントしよう)
今年の真梨さんの誕生日は、運が良く土曜日だ。彼女は8月5日生まれ。何かしらの野外フェスが開催されているはずだろう。今からあと3ヶ月もあるけれど、俺はこれまで野外フェスというものに全くと言っていいほど縁がなかった。今から調べ始めておけばきっと、万全なプレゼントが用意出来るだろう。彼女はひとりで行きたがるだろうから、もちろん、用意するのは彼女の分だけ。
そんなことをつらつらと考えていたら、手足の先はおろか身体の芯まで暖まったように感じる。そろそろ上がらないとのぼせてしまいそうだ。パチャリ、と水音を立てて湯船から立ちあがり、脱衣所へ続くドアを開いた。
洗面台の前に真梨さんが用意してくれていた真っ白なバスタオル。それを手に取って、濡れそぼった髪をガシガシと拭いた。手早く身体を拭きあげて、一晩分の下着と寝間着が入った足元の紙袋から取り出し全てを身につけていく。
じっとりと、汗ばんでいく。不快な汗ではなく、ある種の爽快感を孕んだ汗。首にかけたバスタオルで額に浮かんだその汗を拭いながら、真新しい、買ったばかりと思われる紺色のスリッパにつま先を差し入れる。きっと、このバスタオルもスリッパも。俺のためにと準備してくれていたのだろう。その心配りに口元が綻ぶ。
俺の家に真梨さんが泊まりに来る時は、俺はそんな気配りすら思いつかなかった。これまで叔母に押し付けられた友好関係をなぞるだけの人生だったからか、今まで他人を自宅に泊めたこともなくて。そんな当たり前の心配りすら、思考の片隅になかった。
そこまで考えて、自分の世間知らずさを他人のせいにしようとしている自分に気が付き、思いっきり頭を振った。水を含んだ髪がパチリと頬に当たる。
(………世間知らずなのは、自分のせいだ)
知ろうともしていなかった。自分の置かれた環境に嘆くばかりで、諦めて、流されて。そんな自分には、決別すると決めたのだ。
自分のための人生を生きるために。
俺の生命が尽きる時に、後悔しないために。
……真梨さんと。ふたりで、幸せになるために。
(……今度までに、真梨さん専用の何かを買っておこう…)
少しだけ申し訳なさを感じながら、脱衣所のドアを押し開いた。
スリッパの音を立てて廊下のフローリングを歩く。真梨さんはカウンターキッチンで明日の朝食の下準備をしていたようだった。連休中、実家の料亭の手伝いをして嫌というほど料理を作っただろうに、夕食も手の込んだ和食だった。明日の朝食くらいは手抜きしたっていいだろうに。真梨さんは本当に料理が好きなのだろうな、と、ぼんやり考えつつ、布巾を手に持っている真梨さんに声をかけた。
「お風呂、ありがとうございました」
「あら、もう上がった……の、」
俺の声に、真梨さんが驚いたように勝気な瞳を大きく見開いて、寝間着で身につけているTシャツの襟首の付近を凝視している。真梨さんのその視線の先にある傷痕のことを思い出して、しまった、と小さく後悔した。
すう、と。音を立てて、指先から温度が消えていく。
「あ~……すんません」
驚いている真梨さんから視線を外す。そっとTシャツの襟首を引き上げて、鎖骨の真下から横隔膜の付近まで走る手術痕を隠した。
5月に入ったから、寝間着を半袖のものにしたのだった。そして……今夜持ってきた寝間着は、首元が緩いもの。真梨さんが俺の家に泊まりに来る時は、気がけて喉元まで隠れる寝間着を選んでいたのに。昨年の秋以来久しぶりに着るから、すっかり忘れ去っていた。
そういえば。偽りの関係でいた頃。真梨さんを一瀬さんに重ねて抱いていたときは、彼女は絶対に俺の方を向かなかった。背中しか、向けなかった。それ以降、そういうことをしていない。だから、真梨さんがこの手術痕を見るのは初めてだろう。
「……俺は生まれた時、心室中隔欠損、だったらしいです。心臓って…こう、ふたつの部屋があって」
固まったままの真梨さんに説明するように、両手で拳を握って、その拳を目の前でくっつけた。
「このくっついている部屋の、真ん中の壁に穴が空いてる、という…先天的なもので。8割の患者は成長とともに穴が塞がるんですが、俺は塞がらなくて……2歳の時に、こう、絆創膏みたいなのをくっつける手術をしました」
そう。その手術が成功したのを見届けて―――その帰り道に。両親は、交通事故で死んだ。暗くなる気持ちを追い払うように努めて平静を意識しながらも、目の前の真梨さんではなく左手のリビングに置いてあるテレビに視線を向けた。組んだ拳を解いてぺこり、と頭を下げ、ふたたび胸元の襟首を引き上げる。
「なので今は健康ですよ。ですが、やっぱりこのケロイドは見た目グロいですし、真梨さんになるべく見せないようにします。嫌な思いをさせてすみません」
九十銀行頭取の甥。そして、次期頭取、という俺の肩書きに惹かれて言い寄ってきた歴代の遊び相手達の反応を鑑みるに、女性にとってはこの縦に真っ直ぐに走る手術痕はひどく衝撃的なものらしい。この引き攣れた手術痕が気持ち悪いからと関係を切られたこともあった。
真梨さんからそういう反応をされるかもしれない、と思うと……真梨さんに視線を合わせることすら、怖かった。
(………別れる、って…言われるかな……)
口が達者なはずの真梨さんが、さっきからずっと無言だ。言いようのない感情が湧き上がってきて、鼓動が速くなる。
身体の真正面にある、手術痕。
そういう時に、絶対的に見える位置にある、歪な痕。
次に告げられる、予想した言葉を聞きたくない。また、俺は―――長い夜に逆戻りするのか。
居た堪れなくなって、逃げるようにくるりと踵を返し、視線を向けていたリビングに足を踏み出した、その瞬間。
視界の端で、ふわり、と。真梨さんの明るい髪が揺れて。リビングに行こうとしていた身体が、くんっとつんのめる。
振り返ると、真梨さんが俺のTシャツの裾を引っ張っていた。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が、俺を真っ直ぐに貫いている。真梨さんの華奢な指先に、上着の裾を掴まれているだけ、なのに。
身動きが、全く、取れない。
「あんたが今までそれで何を言われたかは知らないけど、あんたが生きようとした証明でしょう?隠すんじゃなくて誇りなさいよ」
真梨さんが、その言葉を紡ぎながら、クイっと顎を動かした。それ、というのが、俺の胸の手術痕のことを指している、ということに気がつくまで。数十秒ほど、時間を要した。
赤く、ふっくらした唇が。ゆっくりと、俺に言い聞かせるかのように。言葉を紡いでいく。
「その傷痕は。達樹という存在の、証明よ」
「……っ、」
考えもしていない一言に、ヒュッと息を飲んだ。
俺という。存在の、証明。初めて、そんなことを言われた。
(…………存在の…証明)
たった、それだけの一言なのに。強烈なボディーブローを貰ったような気がする。
なんというか。偽りの関係が始まった、あの夜に。頬を叩かれて、俺のことが好きだと言われて以来の……衝撃的な一言。
じわり、と。身体の奥から熱くなる。込み上げるようなその感覚を押し殺すように、緩む口元を腕で隠すように動かした。
「……真梨さんって。ほんと、急にぶっ込んできますよね」
ぽつり、と。顔の下半分を隠して、彼女から視線を外したまま、正直な気持ちを吐き出した。
彼女は、本当に。俺の予想の斜め上をいく人だ。いつだって、俺の想像を超えた言葉を俺にくれる。
俺が欲しくて欲しくて仕方なかった、渇望していた言葉たちを。真梨さんは、躊躇いもなく……無意識に。俺に、くれる。
俺は―――無意識な彼女に、堕とされていく。
俺の言葉に、勝気な瞳を数度瞬かせて。真梨さんが呆けたような表情を浮かべている。
彼女は、きっと。無自覚だ。
だけれど。
(……そこが…きっと。俺は、好きなんだ)
真梨さんの、訳が分からない、とでもいうような、呆気にとられたような表情が、なんだかおかしくて。するりと腕を下ろして、真梨さんに視線を向けた。
「……このまま、鈍感な真梨さんでいてください」
苦笑しながら紡いだ俺の一言に、真梨さんが耳まで赤くなっていく。思わず、真梨さんを見つめる目を細めながら、ふっと笑みがこぼれた。
「……ッ、私もっ、お風呂っ、入ってくるからっ」
顔を真っ赤にしたまま、真梨さんが俺の上着から手を離して、くるりと身体を脱衣所の方へ反転させた。パタパタと、真梨さんの赤いスリッパが音を立てている。
ふ、と。その音が止まった。真梨さんが、脱衣所のドアに手をかけて、立ち止まっている。
「………明日。私、早出担当だから!」
身体の奥から絞り出すような、そんな震えた声が廊下に響いた。そうして、パタン、と。脱衣所のドアが開かれて、真梨さんの背中が消えていく。
「……?」
早出担当。通関部は、月曜日は土日を挟んで書類が嵩むから、管理職以外のメンバーで早出担当を決めて順繰りに回していっていた。その順番が、明日なのだ、と。真梨さんは俺に、そう告げた。その真意が読めず、真梨さんが消えていった脱衣所のドアを見つめて首を小さく傾げる。
(……明日は早起きに付き合え、ってことかな)
そう考えて、ふい、と。リビングのローテーブルに視線を移して。思わず、呼吸が止まった。
「………」
キラリ、と。銀の光が、リビングの照明に、煌めいている。雪のモチーフがついた、キーホールダーの先に。
「……ふっ…」
ゆっくりと、リビングのローテーブルに近づいて。その銀の光を、手に取った。
真梨さんは。自分は早出だから、先に家を出る。戸締りを頼みたいから、これを渡すわね、と。そう、言いたいのだろう。
やっぱり。真梨さんは、ちっとも素直じゃないし、鈍感だ。
「………そういう、素直じゃなくて、無自覚に俺の斜め上を行くところが……途方もなく可愛いって思ってるってこと。このままずっと…気がつかないでいてくださいね……」
俺用に誂えられた、この家の合鍵にそっと口付けながら。小さく、呟いた。
「……」
ゴールデンウィーク最終日の夕方。真梨さんの都合がようやく空いた。長期休暇期間中、ということもあり、真梨さんの実家の料亭は忙しそうだった。
初めて足を踏み入れた真梨さんの自宅。1LDKのとてもシンプルな部屋。リビングにはローテーブルとソファだけ。真梨さんはその見た目から派手に思われがちで、それは昨年、配属された通関部での初めての挨拶の時に、俺が真梨さんに抱いた第一印象でもあった。気が強いような口調ということも相まって、俺と違って口が達者で華やかな友好関係を築いてきた人なのだろう、と。
年が明けてから偽りの関係を持ってしまって、それから色々あって、こうして恋人関係になった。彼女に抱く印象は日々刻々と変化していく。
(……知らなかったなぁ…)
会社では自分の意見を押し通すようにみえて、それは噛み砕いていけば他人のためであることとか。
それを隠すためにあえて強気な態度を崩さないようにしていることとか。
派手好きなようにみえて、実は洋服も家具も持ちものも、シンプルなものを揃えてある、とか。
真梨さんがひとりで野外フェスに行くのが好きなのは、ある意味そうやって日々押し込めている自分を解放できる瞬間だから、なのかもしれない。
たぶん、というか恐らく。とんでもなく鈍い真梨さん自身は、きっとそれにすら気がついていないのだろうけれど。
(……知らなかった)
知らなかったことを知っていく。知れば知るほど、真梨さんに惹かれていく。俺はきっと、一瀬さんへの閉じ込めた想いを、胸の奥に大事にしている宝箱を、後生大事に、それこそ一生抱えていくのだろう、なんて思っていたけれど、それすら、軽く超えていくほどに。
知れば知るほど、真梨さんという存在に。俺は、溺れていっているような。そんな気がする。
(……今年の真梨さんの誕生日。野外フェスのチケットをプレゼントしよう)
今年の真梨さんの誕生日は、運が良く土曜日だ。彼女は8月5日生まれ。何かしらの野外フェスが開催されているはずだろう。今からあと3ヶ月もあるけれど、俺はこれまで野外フェスというものに全くと言っていいほど縁がなかった。今から調べ始めておけばきっと、万全なプレゼントが用意出来るだろう。彼女はひとりで行きたがるだろうから、もちろん、用意するのは彼女の分だけ。
そんなことをつらつらと考えていたら、手足の先はおろか身体の芯まで暖まったように感じる。そろそろ上がらないとのぼせてしまいそうだ。パチャリ、と水音を立てて湯船から立ちあがり、脱衣所へ続くドアを開いた。
洗面台の前に真梨さんが用意してくれていた真っ白なバスタオル。それを手に取って、濡れそぼった髪をガシガシと拭いた。手早く身体を拭きあげて、一晩分の下着と寝間着が入った足元の紙袋から取り出し全てを身につけていく。
じっとりと、汗ばんでいく。不快な汗ではなく、ある種の爽快感を孕んだ汗。首にかけたバスタオルで額に浮かんだその汗を拭いながら、真新しい、買ったばかりと思われる紺色のスリッパにつま先を差し入れる。きっと、このバスタオルもスリッパも。俺のためにと準備してくれていたのだろう。その心配りに口元が綻ぶ。
俺の家に真梨さんが泊まりに来る時は、俺はそんな気配りすら思いつかなかった。これまで叔母に押し付けられた友好関係をなぞるだけの人生だったからか、今まで他人を自宅に泊めたこともなくて。そんな当たり前の心配りすら、思考の片隅になかった。
そこまで考えて、自分の世間知らずさを他人のせいにしようとしている自分に気が付き、思いっきり頭を振った。水を含んだ髪がパチリと頬に当たる。
(………世間知らずなのは、自分のせいだ)
知ろうともしていなかった。自分の置かれた環境に嘆くばかりで、諦めて、流されて。そんな自分には、決別すると決めたのだ。
自分のための人生を生きるために。
俺の生命が尽きる時に、後悔しないために。
……真梨さんと。ふたりで、幸せになるために。
(……今度までに、真梨さん専用の何かを買っておこう…)
少しだけ申し訳なさを感じながら、脱衣所のドアを押し開いた。
スリッパの音を立てて廊下のフローリングを歩く。真梨さんはカウンターキッチンで明日の朝食の下準備をしていたようだった。連休中、実家の料亭の手伝いをして嫌というほど料理を作っただろうに、夕食も手の込んだ和食だった。明日の朝食くらいは手抜きしたっていいだろうに。真梨さんは本当に料理が好きなのだろうな、と、ぼんやり考えつつ、布巾を手に持っている真梨さんに声をかけた。
「お風呂、ありがとうございました」
「あら、もう上がった……の、」
俺の声に、真梨さんが驚いたように勝気な瞳を大きく見開いて、寝間着で身につけているTシャツの襟首の付近を凝視している。真梨さんのその視線の先にある傷痕のことを思い出して、しまった、と小さく後悔した。
すう、と。音を立てて、指先から温度が消えていく。
「あ~……すんません」
驚いている真梨さんから視線を外す。そっとTシャツの襟首を引き上げて、鎖骨の真下から横隔膜の付近まで走る手術痕を隠した。
5月に入ったから、寝間着を半袖のものにしたのだった。そして……今夜持ってきた寝間着は、首元が緩いもの。真梨さんが俺の家に泊まりに来る時は、気がけて喉元まで隠れる寝間着を選んでいたのに。昨年の秋以来久しぶりに着るから、すっかり忘れ去っていた。
そういえば。偽りの関係でいた頃。真梨さんを一瀬さんに重ねて抱いていたときは、彼女は絶対に俺の方を向かなかった。背中しか、向けなかった。それ以降、そういうことをしていない。だから、真梨さんがこの手術痕を見るのは初めてだろう。
「……俺は生まれた時、心室中隔欠損、だったらしいです。心臓って…こう、ふたつの部屋があって」
固まったままの真梨さんに説明するように、両手で拳を握って、その拳を目の前でくっつけた。
「このくっついている部屋の、真ん中の壁に穴が空いてる、という…先天的なもので。8割の患者は成長とともに穴が塞がるんですが、俺は塞がらなくて……2歳の時に、こう、絆創膏みたいなのをくっつける手術をしました」
そう。その手術が成功したのを見届けて―――その帰り道に。両親は、交通事故で死んだ。暗くなる気持ちを追い払うように努めて平静を意識しながらも、目の前の真梨さんではなく左手のリビングに置いてあるテレビに視線を向けた。組んだ拳を解いてぺこり、と頭を下げ、ふたたび胸元の襟首を引き上げる。
「なので今は健康ですよ。ですが、やっぱりこのケロイドは見た目グロいですし、真梨さんになるべく見せないようにします。嫌な思いをさせてすみません」
九十銀行頭取の甥。そして、次期頭取、という俺の肩書きに惹かれて言い寄ってきた歴代の遊び相手達の反応を鑑みるに、女性にとってはこの縦に真っ直ぐに走る手術痕はひどく衝撃的なものらしい。この引き攣れた手術痕が気持ち悪いからと関係を切られたこともあった。
真梨さんからそういう反応をされるかもしれない、と思うと……真梨さんに視線を合わせることすら、怖かった。
(………別れる、って…言われるかな……)
口が達者なはずの真梨さんが、さっきからずっと無言だ。言いようのない感情が湧き上がってきて、鼓動が速くなる。
身体の真正面にある、手術痕。
そういう時に、絶対的に見える位置にある、歪な痕。
次に告げられる、予想した言葉を聞きたくない。また、俺は―――長い夜に逆戻りするのか。
居た堪れなくなって、逃げるようにくるりと踵を返し、視線を向けていたリビングに足を踏み出した、その瞬間。
視界の端で、ふわり、と。真梨さんの明るい髪が揺れて。リビングに行こうとしていた身体が、くんっとつんのめる。
振り返ると、真梨さんが俺のTシャツの裾を引っ張っていた。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が、俺を真っ直ぐに貫いている。真梨さんの華奢な指先に、上着の裾を掴まれているだけ、なのに。
身動きが、全く、取れない。
「あんたが今までそれで何を言われたかは知らないけど、あんたが生きようとした証明でしょう?隠すんじゃなくて誇りなさいよ」
真梨さんが、その言葉を紡ぎながら、クイっと顎を動かした。それ、というのが、俺の胸の手術痕のことを指している、ということに気がつくまで。数十秒ほど、時間を要した。
赤く、ふっくらした唇が。ゆっくりと、俺に言い聞かせるかのように。言葉を紡いでいく。
「その傷痕は。達樹という存在の、証明よ」
「……っ、」
考えもしていない一言に、ヒュッと息を飲んだ。
俺という。存在の、証明。初めて、そんなことを言われた。
(…………存在の…証明)
たった、それだけの一言なのに。強烈なボディーブローを貰ったような気がする。
なんというか。偽りの関係が始まった、あの夜に。頬を叩かれて、俺のことが好きだと言われて以来の……衝撃的な一言。
じわり、と。身体の奥から熱くなる。込み上げるようなその感覚を押し殺すように、緩む口元を腕で隠すように動かした。
「……真梨さんって。ほんと、急にぶっ込んできますよね」
ぽつり、と。顔の下半分を隠して、彼女から視線を外したまま、正直な気持ちを吐き出した。
彼女は、本当に。俺の予想の斜め上をいく人だ。いつだって、俺の想像を超えた言葉を俺にくれる。
俺が欲しくて欲しくて仕方なかった、渇望していた言葉たちを。真梨さんは、躊躇いもなく……無意識に。俺に、くれる。
俺は―――無意識な彼女に、堕とされていく。
俺の言葉に、勝気な瞳を数度瞬かせて。真梨さんが呆けたような表情を浮かべている。
彼女は、きっと。無自覚だ。
だけれど。
(……そこが…きっと。俺は、好きなんだ)
真梨さんの、訳が分からない、とでもいうような、呆気にとられたような表情が、なんだかおかしくて。するりと腕を下ろして、真梨さんに視線を向けた。
「……このまま、鈍感な真梨さんでいてください」
苦笑しながら紡いだ俺の一言に、真梨さんが耳まで赤くなっていく。思わず、真梨さんを見つめる目を細めながら、ふっと笑みがこぼれた。
「……ッ、私もっ、お風呂っ、入ってくるからっ」
顔を真っ赤にしたまま、真梨さんが俺の上着から手を離して、くるりと身体を脱衣所の方へ反転させた。パタパタと、真梨さんの赤いスリッパが音を立てている。
ふ、と。その音が止まった。真梨さんが、脱衣所のドアに手をかけて、立ち止まっている。
「………明日。私、早出担当だから!」
身体の奥から絞り出すような、そんな震えた声が廊下に響いた。そうして、パタン、と。脱衣所のドアが開かれて、真梨さんの背中が消えていく。
「……?」
早出担当。通関部は、月曜日は土日を挟んで書類が嵩むから、管理職以外のメンバーで早出担当を決めて順繰りに回していっていた。その順番が、明日なのだ、と。真梨さんは俺に、そう告げた。その真意が読めず、真梨さんが消えていった脱衣所のドアを見つめて首を小さく傾げる。
(……明日は早起きに付き合え、ってことかな)
そう考えて、ふい、と。リビングのローテーブルに視線を移して。思わず、呼吸が止まった。
「………」
キラリ、と。銀の光が、リビングの照明に、煌めいている。雪のモチーフがついた、キーホールダーの先に。
「……ふっ…」
ゆっくりと、リビングのローテーブルに近づいて。その銀の光を、手に取った。
真梨さんは。自分は早出だから、先に家を出る。戸締りを頼みたいから、これを渡すわね、と。そう、言いたいのだろう。
やっぱり。真梨さんは、ちっとも素直じゃないし、鈍感だ。
「………そういう、素直じゃなくて、無自覚に俺の斜め上を行くところが……途方もなく可愛いって思ってるってこと。このままずっと…気がつかないでいてくださいね……」
俺用に誂えられた、この家の合鍵にそっと口付けながら。小さく、呟いた。
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一方、高木書店の目と鼻の先に、優紀の兄の幼なじみで、大企業の社長令息にしてカリスマ美容師の香坂玲伊が〈リインカネーション〉という総合ビューティーサロンを経営していた。
玲伊は優紀より4歳年上の29歳。
優紀も、兄とともに玲伊と一緒に遊んだ幼なじみであった。
店が近いこともあり、玲伊はしょっちゅう、優紀の本屋に顔を出していた。
子供のころから、かっこよくて優しかった玲伊は、優紀の初恋の人。
その気持ちは今もまったく変わっていなかったが、しがない書店員の自分が、カリスマ美容師にして御曹司の彼に釣り合うはずがないと、その恋心に蓋をしていた。
そんなある日、優紀は玲伊に「自分の店に来て」言われる。
優紀が〈リインカネーション〉を訪れると、人気のファッション誌『KALEN』の編集者が待っていた。
そして「シンデレラ・プロジェクト」のモデルをしてほしいと依頼される。
「シンデレラ・プロジェクト」とは、玲伊の店の1周年記念の企画で、〈リインカネーション〉のすべての施設を使い、2~3カ月でモデルの女性を美しく変身させ、それを雑誌の連載記事として掲載するというもの。
優紀は固辞したが、玲伊の熱心な誘いに負け、最終的に引き受けることとなる。
はじめての経験に戸惑いながらも、超一流の施術に心が満たされていく優紀。
そして、玲伊への恋心はいっそう募ってゆく。
玲伊はとても優しいが、それは親友の妹だから。
そんな切ない気持ちを抱えていた。
プロジェクトがはじまり、ひと月が過ぎた。
書店の仕事と〈リインカネーション〉の施術という二重生活に慣れてきた矢先、大問題が発生する。
突然、編集部に上層部から横やりが入り、優紀は「シンデレラ・プロジェクト」のモデルを下ろされることになった。
残念に思いながらも、やはり夢でしかなかったのだとあきらめる優紀だったが、そんなとき、玲伊から呼び出しを受けて……
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