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本編・第三部

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「あらぁ、ムギは知香ば好いとっとねぇ」

 パタパタとスリッパの音がして、おっとりとした声が玄関に響いた。ふい、と、声がした方に視線を向けると、私に似た丸顔のお母さんと目が合う。

「お母さん、ただいま」

「はい、おかえり。髪切ったとねぇ」

 穏やかなお母さんの声とその笑顔。腰まで届くウェーブがかった黒髪を緩く結んで左に流している。お母さんの、変わらない元気そうな姿。帰ってきたなぁと実感する。

 ムギを抱いた私の前に座り込んでいた智がすっと立ち上がって、お母さんに視線を合わせてにこりと爽やかに笑った。

「初めまして、邨上智と申します。この度はご挨拶が遅れ申し訳ありません」

 するすると。まるで職場で営業をしているかような滑らかな声で、智がお母さんに言葉をかけた。そこには緊張の「き」の字も見当たらない。

「知香がお世話になっています~、母の彌月です~」

 お母さんは相変わらず、のんびりした声で智に声をかけている。もう50代後半だというのに、ほんわかとした雰囲気は健在だ。

 ここではなんだから上がって、というお父さんの声に、智が靴を脱ぎ始める。私もそれに倣ってムギくんを床に下ろそうとするも、ジーパンに爪を立てられて抵抗される。

「いッ、ちょっと、ムギく~ん……!」

 飼い猫だから爪先は少しだけ切られているけれども、やはり痛いものは痛い。その痛みに顔を歪めると、お母さんが私の隣に膝をついて、ムギくんの首根っこを掴んだ。ムギくんの動きが止まったその瞬間に、私の膝の上から静かに抱き上げてその腕の中におさめて、ムギくんに視線を合わせている。

「こ~ら、ムギ。爪でかっしゃいだらダメって言いよろうもん(爪で引っ掻いたらダメだと言っているじゃない)」

 お母さんの腕の中のムギくんは明らかに、しゅん、としたような表情をしている。動物には表情が無い、なんて聞いたことがあったけれど、あれは嘘なんじゃないだろうか。

(そう言えば……この前会った黒猫も、表情豊かだったもんなぁ……)

 この前遭遇した、智にそっくりの金色の瞳の黒猫を脳裏に思い浮かべて、思わず、ふふ、と笑みがこぼれる。

「さぁさ、智さん、知香。上がりんしゃい。今日は新鮮なお刺身を用意しとるから」

 新鮮なお刺身、という言葉に、私のお腹から、ぐぅ、という大きな音がして。

「あらぁ、知香のお腹は相変わらず正直かねぇ」

 にこり、と。お母さんの穏やかな笑みが目の前あった。その言葉に、私の隣に立っていた智が、ぷっと声をあげて口元を押さえた。

 前にも……智の前で盛大にお腹が鳴った事があった気がする。お母さんと智のその笑みに、私は恥ずかしさで顔を真っ赤にしたのだった。






 リビングに繋がる廊下を歩いて行くと、お母さんの腕からピョンと飛び降りたムギくんが、首輪の鈴をチリチリと鳴らしながら、私の足元にすりすりと纏わりつく。えらく懐かれてしまったなぁと苦笑しながらその様子を眺めつつ、リビングに向かう。

 目の前のドアを開けると、テーブルには大皿に、ハマチ、イカ、まぐろ、サーモンの刺身盛り。それに鯛の頭で出汁を取ってあるであろうお味噌汁。

「あーっ!私が食べたかったやつ!」

 近所の回らないお寿司屋さんのロゴマークが入った黒い器。このお寿司屋さんの海鮮丼は、私が幼い頃からの大のお気に入りだ。実はこの海鮮丼を智に食べさせたいと思っていたから、このお寿司屋さんにも立ち寄ろうと思っていたのだ。

 私の大好物の料理がテーブルに所狭しと並んでいる光景に、両親の心配りを感じて思わず口元が緩む。お正月は衝動的にチケットをキャンセルしてしまったけれど、親孝行のためにもやっぱり時折は帰ってこないとなぁ、と、少しだけ心の中で反省する。

 智がスーツケースを開き、空港で買った手土産をお父さんに渡している。

「智さんはお酒呑むのかな」

 お父さんが少しだけ浮き足だった声で智に話しかけている。その言葉に、以前と変わらず毎晩チビチビと晩酌しているのだなと察する。
 お母さんは心臓のこともあってお酒は呑まないし、私も普段帰ってきても晩酌に付き合わないから、お父さんは智と呑むのを殊の外楽しみにしていたのだろう。

「呑めないことはないのですが、あまり強い方ではなくて晩酌の習慣は無いんです。ですが、今日はもちろん、博之さんにお付き合いしますよ」

 智が困ったように少しだけ肩を竦めながら、お父さんに返答する。今日は私も少しだけお父さんの晩酌に付き合ってあげよう、と、キッチンに足を運んで冷蔵庫を開けると、缶の梅酒が冷やしてあった。その缶を手に取ると、お母さんが、ふふ、と笑みを漏らす。

 私の考えなんて、お母さんにはお見通しなのだなぁと感じて、胸の奥がくすぐったい気持ちになる。

 立ち話をしているお父さんと智を席に着くように促して、私はいつもの定位置である椅子に腰を下ろす。私の右側に智が座った。目の前には、私が実家にいた頃に使っていたお箸や取り皿などが置いてあって、私が帰ってくるのを心待ちにしていたお母さんの気持ちがひしひしと感じられた。自分勝手な気持ちひとつで帰ってくる機会を蹴飛ばしてしまったという複雑な感情に、鼻の奥がつんとなる。

 親は偉大だ。離れて暮らしているからこそ、あと何度顔を見ることが出来るかわからない。昨年の一件で心配をかけたことや、今回の帰省に関して……智がお風呂に行って席を外した際にでもきちんと話をしよう、と小さく心に決めると、テーブルの下をうろうろしていたムギくんが、ぴょんとジャンプして私の膝の上に乗ってくる。私の隣に腰をおろした智が、ふたたび小さく身動ぎした。

「わ!もう、ムギく~ん……」

 私の批難めいた声もなんのその。そのまま私の膝の上で、くるりと身体を丸めてゴロゴロと喉を鳴らしだした。この強引さはまるで智にそっくりだと感じたあの黒猫のようだ。

「あらぁ、ムギはほんなごて知香ば好いとっとねぇ~(ムギは本当に知香が好きなんだね)」

 お母さんがくすくすと笑いながら、キッチンから刺身醤油のボトルを持って、テーブルを挟んだ目の前の椅子に座る。そのボトルから全員の小皿に醤油を注いでいく様子を眺めつつ困惑したまま助けを求めた。

「ちょっとお母さん、笑ってないでムギくん引き取ってよ~」

「そのまま寝かせとき~。ムギは食事中にイタズラさすけん困っとると(イタズラするから困っているのよ)」

「ええ~……」

 イタズラしないで大人しくしているなら、私の自由を犠牲に膝の上で寝かせておいた方がいい、とお母さんは判断したのだと理解し、むぅ、と口の先が尖っていく。

「知香の考えとること、口元に出るともいっちょん変わらんねぇ(口元に出るのも全然変わらないね)」

 ふふ、と。斜め前に座るお父さんが、智の目の前のグラスにビールを注ぎながら笑い声をあげた。

「そうですね、知香さんは考えていることが表情に出るので、僕もわかりやすくて助かっています」

 お父さんがビールを注ぐグラスを持ったまま、智がにこりと笑みを浮かべた。その言葉に思わずぶっと噴き出す。さっきからお父さんもお母さんも私の扱いがひどい気がする。これ以上智にを握られたくないのに!

 思わず、じとっとした視線を智に向ける。ダークブラウンの瞳と視線が交差すると、その瞳が愉しそうに細められ、口の端がふっとつり上がった。




 テーブルの上に広がる豪華な料理に舌鼓を打つ。お母さんが持ってきてくれた刺身醤油は九州独特の甘い醤油で、智が刺身に口をつけて驚いたような表情をしていたのが印象的だった。

 ゆっくりとした時間が穏やかに流れていく。智はやっぱり吞んでも赤くならない体質なのか、普段と全く変わらない。お父さんだけが酔ったように赤くなって、お母さんに「博之さん、そがん呑みすぎんと(そんなに呑みすぎないの)」と叱られ、グラスを取り上げられていた。

 お母さんが席を立ち、テーブルの上の小皿を重ねつつ、智に視線を向けた。

「智さん、お風呂沸いとるけん入っといで。知香、ムギばおろしてお風呂案内してき(案内しておいで)」

「ありがとうございます」

 お母さんのその言葉に、智がにこりと返答する。智をお風呂場に案内しようと、目を瞑って気持ちよさそうに眠っているムギくんの身体をそっと抱えた。ムギくんはゆっくりと明るい茶色の瞳を開いて寝惚けたように大きくあくびをした。

 リビングに視線を向けると、テレビ台の横にムギくん用だろうなと思われるアイボリーの丸いクッションがある。そのクッションのところまで歩き、床に膝をついてムギくんの身体をそのクッションにおろすと、くるりと身体を丸めてふたたびゴロゴロと喉を鳴らした。

「……かぁわいい…」

 可愛すぎる。猫ってどうしてこんなにも愛らしいのだろうか。

「アンモナイトならぬ、ニャンモナイトだな」

 笑いを堪えきれない、というような智の声が私の背後から降ってくる。その声に振り向くと、智が腰を曲げて私の後ろからムギくんを見おろしていた。確かに、真上から丸まったその体勢を眺めると、古代の化石のアンモナイトのよう。言い得て妙だ。思わず、ふふ、と笑みがもれる。

「智が出張中、智に似てる黒猫に会ったって言ったでしょ?あの子も膝に乗ってきて可愛かったんだよ」

 あの猫も可愛かった。智に似て強引で、根負けして膝に乗せた形だったけれども。

 私の言葉に、ダークブラウンの瞳がすっと細められた。

「………そう、なんだな」

 普段よりも少しだけ低くなった声が響く。不機嫌そうなその声色は、猫好きなのに相手にされない、という部分で拗ねているのだろうか。智にも意外と可愛いところもあるもんだなぁ、と、思わず口元が緩んだ。




 リビングに置いていたスーツケースから智の寝間着とタオル類を取り出し、リビングを抜け出して智をお風呂場に案内する。

 カチャリ、と脱衣所のドアを開けると、洗面台の上に真新しいバスタオルが置いてあった。きっと、お母さんが智用にと新しく用意してくれたのだろう。あとでお礼言わないと、と考えつつ、後ろをついてきた智をくるりと振り返る。

「えっとね、お湯は―――ッ!?」

 智がドアを締め終わると同時に、腕を掴まれて身体ごと引っ張られ、智の胸の中に抱き留められる。智の思わぬ行動に息が止まった。


「……ねぇ、知香さん。知香さんは、誰のもの?」


 小さく。左の耳元で、甘く囁かれる。智の熱い吐息が耳にかかって、びくりと身体が震えた。

 久しぶりに聞く、いつもと違う声のトーンに。智が、怒っている、と。瞬時に察した。

(え、えぇ!?)

 ちょっと待って欲しい。今日一日、智を怒らせるようなことは一切していないはずなのに!

 混乱したまま固まっていると、左耳の下に、チリチリと軽い痛みが走る。久方ぶりに感じるその痛み。所有痕をつけられる痛み、と気が付くのに、数秒も要らなかった。

「ちょっ……!さ、としっ……」

 ぞわりと背筋を這い上がってくるような感覚に、智の腕から逃れようと鍛えられたその胸板を押し返して身体を捩る。制止の声を小さくあげながら、顔を上げた。

 目の前にある、ダークブラウンの瞳と視線が交差する。その、瞳に……嫉妬の焔が宿っていることを確認して、小さく息を飲む。

「………知香の膝の上は俺だけのものなのに」

 ムスッとしたような声色。紡がれたその言葉。そのふたつを、ゆっくりと噛み砕いて……智は、ムギくんやあの時の黒猫に嫉妬しているのだ、と。ようやく理解が及んだ。

「え、えええ?……相手、猫、だよ?」

 思ったよりも、困惑したような声色が自分の喉から転がり出ていく。

 以前から、嫉妬深い人、だとは思っていた。三木ちゃんにもあんなセリフを吐くくらい独占欲が強いひとだ、とも。わかっているつもりだった。だけども、まさか動物相手にもヤキモチを妬く、だなんて夢にも思わないだろう。

「ヤなもんはヤ」

「そ……んな、子どもみたいな…」

 ダークブラウンの瞳が不服そうに細められて、私の言葉を否定する。その様子に、呆れたような声が自分の喉から上がった。分別のつかない幼子でもあるまいし、少しばかり独占欲が強すぎやしないだろうか。思わず眉間に皺が寄る。

 その間にも、じっと。智の真っ直ぐな視線に、貫かれる。目の前にある、ダークブラウンの瞳が……僅かに揺れ動いている。

 そっと。智が、顔を私の肩口にうずめた。その体勢のまま、小さく、小さく。囁くように言葉が発せられる。

「………特にムギ。あいつの色……片桐の髪の色に、似てんだろ…?」

「あ……」

 智が、口にしたその言葉に目を見開く。それは、予想だにしていなかった言葉だった。


 確かに。ムギくんの毛色は、片桐さんの髪の色を連想させるような明るい茶色だ。


(……私を…片桐さんに取られたみたいで、嫌、だった…の?)

 私の肩口に顔をうずめたままの智の表情は見えない。だけど……私を抱きしめたままの智の身体が、少しばかり震えているように感じたのは―――気のせい、なんかじゃない。

「……私は、智の、ものだよ…」

 智の背中に腕を回して、その背中をポンポンとさすりながら、小さく呟く。

 私は、智が不安に思う気持ちを、ちっともわかってあげられていなかった。片桐さんに間一髪で助けてもらったとはいえ、昨晩、黒川さんに睡眠薬を飲まされた件あんなことがあったばかりだ。不安にもなるだろう。その不安な気持ちを押し込めて、私の両親に挨拶する緊張とともに必死に隠していたのだ、と。そう考えると、胸の奥がチクリと痛む。

「……愛してる…」

 智の背中に回していた腕に力を込めて、智の身体を抱きしめる。すると、智がふっと笑うように吐息を漏らした。

「2階に上がったら、お仕置き、な」

「………ふ、ぇっ!?」

 予想の斜め上をいく言葉が飛び出して、思考が固まる。智がゆっくりと、私の肩口から顔を上げた。

「あ、もちろんゴム持ってきてねぇからつもりはねぇよ?だからそこは安心して、な?」

 私の表情に、にやり、と。智が心底面白そうに口角を上げた。茫然と、智の意地の悪い笑みを見上げる。
 つぅ、と。智が長い指で、私の鎖骨をトップスの上からなぞった。

「俺の、っつう、シルシ。ほとんど消えちまってるだろ?」

 私の部屋がある、2階。今日は私の部屋で智とふたりで眠るようにお母さんが布団を準備してくれているらしい。

 ノルウェー出張に出る前に付けられた所有痕はほとんど薄くなってしまっている。
 智は今夜、眠る前に。嫌というほど所有痕それを上書きするつもりだ。

「やっぱ、知香には。お仕置きして、俺を刻み込むのが、一番効くだろう?」

 だから、覚悟しろよ?と。智が、ダークブラウンの瞳を僅かに細めて。小さくわらった。

 その言葉に。私は顔を赤くして、酸欠を起こした魚のように……口をパクパクとさせるしか、なかった。




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