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本編・第三部
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眩いほど白かった五月の日差しが茜味を帯びて、ゆっくりと傾いていく。窓を開けていると少しだけ冷たい風とともに、嗅ぎなれた硫黄の香りを車内に運んでくる。
前方の車と車間距離を取って停車する。運転席に座ったまま少しだけ背伸びをすると、前方の道路はブレーキランプがずらり。見るからに渋滞している。
ここから向こうは市街地。温泉しかないこの地元には、ここから先に旅館がたくさんあるのだ。もう夕方に差し掛かり、チェックインする旅行者が多いのだろう。さすがゴールデンウィーク初日、これはちょっと迂回すべきかもしれない。
前の車が少しだけ動いたのを確認して、左にウインカーをあげてブレーキから足を離した。
「えっとね、本当だったら、この先の大通りから曲がった方が、実家がある住宅街に近いんだけど。この渋滞だから抜け道使うね」
そう口にしながら、ハンドルを回して真横に現れた小さな脇道に滑り込む。こういう事態になると予想していたからコンパクトカーを借りたけれど、それでも対向車がくればギリギリの距離ですれ違うような、そんな狭い農道。
周りを見渡せば、田んぼに水が張ってある。あと一カ月もすればここに青々とした若芽が植えられ、秋になれば黄金色の稲穂を湛えた風景が広がる。秋もシルバーウィークと名づけられた大型連休があるけれど、その頃は通関士試験の追い込みをしているから帰って来られないだろうなぁとぼんやりと考えつつ、真っ直ぐなその農道をひたすらに走っていく。
「……見渡す限りの平野だなぁ…」
ぽつり、と。智が呟いた。高層ビルが立ち並び、止まない喧騒に包まれる都会でも少し離れた場所に行けば小高い丘があったりするけれど、本当に地元はただただ平野が広がる。山なんて、遠い向こう側にしかない。
山と山の間に落ちて消えていくような、潤んだ西日に明々と照らされた淡い雲を横目に走る。すると、ふたたび大通りに合流する。その一つ手前の路地を曲がると、実家がある住宅街に出た。
ふぅ、と。智が長く長く、ため息をついた。肺が丸ごと出ていきそうなそのため息に、なんだか私まで緊張してくる。
ただ実家に帰るだけなのに、ハンドルを握る指先が冷たくなっていく。私も小さく息を吐いて、そのまま真っ直ぐに実家を目指した。
少し行った先の歩道に人影がある。多分、お父さんだ。速度を落としてハザードボタンを押してその人影の手前に停まる。
お父さんの焦げ茶色の瞳と視線が交差する。その瞳が驚愕に彩られて見開かれた。私が運転していたからびっくりしたのかな、と、ぽやっと考えていると、智がシートベルトを外してドアを開けて車から降りて、歩道に立ったままのお父さんに声をかけた。
「ご無沙汰しております、邨上です。この度はお世話になります」
穏やかな声色。にこりとした爽やかな営業スマイルを顔に貼り付け、久方ぶりの挨拶の声をかける智。あんなにも緊張しているのが、真横の私にも伝わるくらいだったのに。こんなにも饒舌に、そして己の感情の全てを押し込めることが出来る人だったのか。思わずこの場面を忘れて感心してしまった。智にとってはポーカーフェイスはお手の物、ということを改めて実感させられる。
「あ……あぁ、久しぶりだね、智さん」
智の声に、お父さんがはっと我に返ったように声をあげた。そうして、智に向かって右手を差し出す。ふたりが握手を交わしその手が離れるのを見届け、私は運転席から声を張り上げる。
「お父さ~ん。車、家の駐車場に停めていいの?」
私の声に、お父さんが目を瞬かせながら、実家の駐車場を指差す。
「うん、お母さんの車を動かしとるけん停めらるっよ。知香……髪切っとったったい」
「へ!?」
今更どうしてそんな事を言うのだろう。直近ではお花見歓迎会の後に、量を減らす程度に梳いて貰ったから切ったというほどではないはずなのだけれど、と、驚きで素っ頓狂な声が自分の喉から漏れ出るけれど。
(あ、そっか)
お盆に帰った時はまだ智と出会っておらず、腰まで届くロングヘアだった。今のようにショートヘアにしたのは11月に入ってから。だから、お父さんにとっては小学生振りに見る私のショートヘア姿だろう。
智を落とすために髪を切った、なんていう経緯は、恥ずかしくて言えない。なんとなくの気恥ずかしさを隠すように右耳に髪をかけながら、驚いたような表情をしたままのお父さんに視線を合わせる。
「あ~うん……去年の冬に入る頃に切ったと。お正月帰って来とらんけん、たまがらせたね(びっくりさせたね)」
私の言葉に、お父さんがうんうんと頷くように口を開いた。
「ちかっとたまがったばい。あがん長かったとによぉ切ったたいねぇ(少しびっくりした。あんなに長かったのによく切ったね)」
「いっちょんきびらんごとなったけん、毎日ラクかよ~(全然結ばなくなったから毎日ラクだよ)」
私の言葉に、お父さんの隣に立っていた智がきょとんとした表情をしている。お父さんと私の方言が通じていないのだろうと察してバツが悪くなり、左手を顔の前に持ってきて「ごめん」と小さく頭を下げた。
お父さんが先ほど指差した実家の駐車場に車を停める。にこやかに智とお父さんが会話をしている様子を眺めながらサイドブレーキを引いた。シートベルトを外して車を降りようとして、はっと我に返る。
(方言、思いっきり使っちゃった!)
それこそついさっき。方言を使うたびに内心で可愛いと思われるのが恥ずかしいから、意地でも使ってやらない、と決めたのに!
お父さんの方言に思わず引っ張られてしまった、と。心の中で盛大に頭を抱えつつ、お父さんと智をちらりと見遣る。お父さんは実家の玄関を開けようと背中を向けていた。智はトランクに入れたスーツケースを降ろそうと、停車させた車に歩み寄っている。ダークブラウンの瞳と視線が交差して、智が愉しそうに口の端を歪めた。
(~~~ッ)
あの顔は、絶っ対にわかってやっている。最悪だ。顔が火照るのを必死で隠しながら運転席を降りる。トランクを開けて、智がスーツケースをふたつおろしつつ、私にしか聞こえないような小さな声で。囁くような、低く甘い声で……巨大すぎる爆弾を落として行く。
『今度でいーから。方言で、「好き」って言ってくんね?』
紡がれた言葉に、顔がぼんっと音を立てて赤くなる。方言で告白してくれ、なんてどういう罰ゲームだ!実家に来てまでこんなに私を翻弄させないで欲しい。
ぎゅう、と。隣に立つ智を批難するかのように強く睨みあげると、智がふっとダークブラウンの瞳を細めて、幸せそうに笑いながら、当たり前のようにふたつのスーツケースをコロコロと転がして玄関に向かっていく。
荷物を持ってくれている、ということに対する感謝の気持ちと、明らかに揶揄われている、ということの恥ずかしさで、心の中は細い糸がぐちゃぐちゃに絡まったような感情でいっぱいだ。その感情をぎゅうと押し込めて、智の背中を追いかけるように車に鍵をかけて玄関に向かう。玄関の前の階段を数段登ると、お父さんがカチャリと玄関を開いた。
「彌月、ムギくん。智さんと知香が帰ってきたばい」
お父さんが家の中に声をかけている。開いた玄関のドアを固定しているお父さんに、智が小さく頭を下げて「お邪魔します」と声を上げた。その後に続いて私も「ただいま」と声を上げつつ玄関に足を踏み入れる、のだけれど。
彌月、は、お母さんの名前だけれど、その後に呼ばれた名前には心当たりがない。訝し気に首を捻る。
「ムギ、くん……?」
もしかして知らないうちに弟が出来たのだろうか。胸の内に浮かんだ有り得ない考えを、そんなバカな、と頭を振って追い払う。その間にも、チリチリ、と、家の奥から鈴の音が近づいて来る。
「あっ……!」
いつの間にか、薔薇柄の淡い紅色をした玄関マットの上に、ちょこん、と。茶トラ柄の猫がお行儀よく座り込んでいた。お父さんと私たちに交互に視線をやり、こてん、と、首を傾げている。それはまるで、お父さんに『この人たち誰?』と問いかけているような仕草。茶色の毛並みとお揃いの明るい茶色の瞳が、こちらをきょとんと見つめていた。
「ええっ!?猫飼い始めたの!?」
艶のある明るい茶色の毛並みの首元には、赤い首輪と小さな鈴。それを視認すると同時に、目の前の猫が一瀬家の新しい家族なのだと理解して目を剥いた。
私のその声に、お父さんは「あれ、言っとらんかったかな」と言葉を紡ぎながら、以前よりも白髪の混じった髪をガシガシと掻いた。
「秋頃、まだ目も開いとらん状態で向こうの公園の前に捨てられとったとよ。可哀想で我が家の子にしたと」
「そうだったの……」
この辺りは私が小学生の頃に開発された新興住宅街で、少し奥まったところに公園がある。その公園は人目につかないからか、昔から猫が捨てられていることが多かった。というわけで、この辺一帯の家庭は猫を飼っているお宅が多い。
すとん、と、玄関マットの横に腰をおろして手を伸ばす。チッチッと舌を鳴らすと、すぐ私に寄ってきて、私の指先のにおいをスンスンと嗅いでいる。
「あぁ、智さん。動物、苦手じゃないかい?大丈夫だったかな?」
お父さんが方言を押し込めて、立ったままの智に話しかけている。
「はい、大丈夫です。むしろ猫は好きなほうですよ」
智がにこやかな笑顔をお父さんに向けて、その場に腰をおろした。ダークブラウンの瞳がムギくんに向けられて、私と同じようにムギくんに手を伸ばしている。
(へぇ……猫が好き、っていうの、初めて知ったなぁ……)
そう心の中でひとりごちていると、私の指先の匂いを嗅いでいたムギくんが、智の伸ばした手には目もくれず、するりと私の膝の上に乗り、身体を上に伸ばしてそのまま私の頬を舐め出した。と同時に、ぴくり、と。智が小さく身動ぎをしたのを、横目で捉える。
「ぅ、わ!ムギくん、ちょっと……あはっ、くすぐったいってばっ」
ザラザラした舌が、少し痛いくらいだ。くすぐったさと僅かな痛みに、思わず身体を捩らせる。
秋頃に拾ったというムギくんはすでに成猫くらいの大きさで、それなりに重たい。ムギくんの前足が私の胸の辺りにあって、ムギくんが身体を寄りかからせている。ずっしりとしたその重さに耐えかねて、前足と胴に手を差し入れするりと身体を持ち上げた。明るい茶色の瞳が不服そうに細められる。
「ムギくんはほとんど甘えたりせんとよ。猫らしい猫で、誰かの膝に乗ったりはせんとけどね?よっぽど知香ば気に入ったとかなぁ」
お父さんが玄関のドアを閉めて内鍵をかけながら、苦笑したように声を上げて私を見遣った。その言葉に思わずムギくんの顔をじっと見つめて、私の身体ごと智の方向を向かせる。
「ムギくん、ほら。私の彼氏さんです。仲良くしてね~」
ムギくんの身体を揺らしながら、智に視線を合わせる。視線が交わったその切れ長の瞳に、一瞬、違和感を抱く。すっと……その瞳が細められたように感じたのだ。
(……?)
どうしたんだろう、と、きょとん、と智を見つめるも、智はいつもの変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。
「………ムギくん、よろしくな」
にこりとした笑顔を貼り付けた智が、ゆっくりと大きな手でムギくんの頭を撫でている。
(……んん~、ムギくんが智の手に見向きもしなかったのが……少しお気に召さなかったのかな?)
猫好き、なのに、猫に無視される、というのは単純に心に来るものだろう。それでも穏やかそうな声色で紡がれた言葉に智の優しさを感じて、今日眠る前にちょっとだけ慰めてあげよう、と。小さく心の中で呟いた。
前方の車と車間距離を取って停車する。運転席に座ったまま少しだけ背伸びをすると、前方の道路はブレーキランプがずらり。見るからに渋滞している。
ここから向こうは市街地。温泉しかないこの地元には、ここから先に旅館がたくさんあるのだ。もう夕方に差し掛かり、チェックインする旅行者が多いのだろう。さすがゴールデンウィーク初日、これはちょっと迂回すべきかもしれない。
前の車が少しだけ動いたのを確認して、左にウインカーをあげてブレーキから足を離した。
「えっとね、本当だったら、この先の大通りから曲がった方が、実家がある住宅街に近いんだけど。この渋滞だから抜け道使うね」
そう口にしながら、ハンドルを回して真横に現れた小さな脇道に滑り込む。こういう事態になると予想していたからコンパクトカーを借りたけれど、それでも対向車がくればギリギリの距離ですれ違うような、そんな狭い農道。
周りを見渡せば、田んぼに水が張ってある。あと一カ月もすればここに青々とした若芽が植えられ、秋になれば黄金色の稲穂を湛えた風景が広がる。秋もシルバーウィークと名づけられた大型連休があるけれど、その頃は通関士試験の追い込みをしているから帰って来られないだろうなぁとぼんやりと考えつつ、真っ直ぐなその農道をひたすらに走っていく。
「……見渡す限りの平野だなぁ…」
ぽつり、と。智が呟いた。高層ビルが立ち並び、止まない喧騒に包まれる都会でも少し離れた場所に行けば小高い丘があったりするけれど、本当に地元はただただ平野が広がる。山なんて、遠い向こう側にしかない。
山と山の間に落ちて消えていくような、潤んだ西日に明々と照らされた淡い雲を横目に走る。すると、ふたたび大通りに合流する。その一つ手前の路地を曲がると、実家がある住宅街に出た。
ふぅ、と。智が長く長く、ため息をついた。肺が丸ごと出ていきそうなそのため息に、なんだか私まで緊張してくる。
ただ実家に帰るだけなのに、ハンドルを握る指先が冷たくなっていく。私も小さく息を吐いて、そのまま真っ直ぐに実家を目指した。
少し行った先の歩道に人影がある。多分、お父さんだ。速度を落としてハザードボタンを押してその人影の手前に停まる。
お父さんの焦げ茶色の瞳と視線が交差する。その瞳が驚愕に彩られて見開かれた。私が運転していたからびっくりしたのかな、と、ぽやっと考えていると、智がシートベルトを外してドアを開けて車から降りて、歩道に立ったままのお父さんに声をかけた。
「ご無沙汰しております、邨上です。この度はお世話になります」
穏やかな声色。にこりとした爽やかな営業スマイルを顔に貼り付け、久方ぶりの挨拶の声をかける智。あんなにも緊張しているのが、真横の私にも伝わるくらいだったのに。こんなにも饒舌に、そして己の感情の全てを押し込めることが出来る人だったのか。思わずこの場面を忘れて感心してしまった。智にとってはポーカーフェイスはお手の物、ということを改めて実感させられる。
「あ……あぁ、久しぶりだね、智さん」
智の声に、お父さんがはっと我に返ったように声をあげた。そうして、智に向かって右手を差し出す。ふたりが握手を交わしその手が離れるのを見届け、私は運転席から声を張り上げる。
「お父さ~ん。車、家の駐車場に停めていいの?」
私の声に、お父さんが目を瞬かせながら、実家の駐車場を指差す。
「うん、お母さんの車を動かしとるけん停めらるっよ。知香……髪切っとったったい」
「へ!?」
今更どうしてそんな事を言うのだろう。直近ではお花見歓迎会の後に、量を減らす程度に梳いて貰ったから切ったというほどではないはずなのだけれど、と、驚きで素っ頓狂な声が自分の喉から漏れ出るけれど。
(あ、そっか)
お盆に帰った時はまだ智と出会っておらず、腰まで届くロングヘアだった。今のようにショートヘアにしたのは11月に入ってから。だから、お父さんにとっては小学生振りに見る私のショートヘア姿だろう。
智を落とすために髪を切った、なんていう経緯は、恥ずかしくて言えない。なんとなくの気恥ずかしさを隠すように右耳に髪をかけながら、驚いたような表情をしたままのお父さんに視線を合わせる。
「あ~うん……去年の冬に入る頃に切ったと。お正月帰って来とらんけん、たまがらせたね(びっくりさせたね)」
私の言葉に、お父さんがうんうんと頷くように口を開いた。
「ちかっとたまがったばい。あがん長かったとによぉ切ったたいねぇ(少しびっくりした。あんなに長かったのによく切ったね)」
「いっちょんきびらんごとなったけん、毎日ラクかよ~(全然結ばなくなったから毎日ラクだよ)」
私の言葉に、お父さんの隣に立っていた智がきょとんとした表情をしている。お父さんと私の方言が通じていないのだろうと察してバツが悪くなり、左手を顔の前に持ってきて「ごめん」と小さく頭を下げた。
お父さんが先ほど指差した実家の駐車場に車を停める。にこやかに智とお父さんが会話をしている様子を眺めながらサイドブレーキを引いた。シートベルトを外して車を降りようとして、はっと我に返る。
(方言、思いっきり使っちゃった!)
それこそついさっき。方言を使うたびに内心で可愛いと思われるのが恥ずかしいから、意地でも使ってやらない、と決めたのに!
お父さんの方言に思わず引っ張られてしまった、と。心の中で盛大に頭を抱えつつ、お父さんと智をちらりと見遣る。お父さんは実家の玄関を開けようと背中を向けていた。智はトランクに入れたスーツケースを降ろそうと、停車させた車に歩み寄っている。ダークブラウンの瞳と視線が交差して、智が愉しそうに口の端を歪めた。
(~~~ッ)
あの顔は、絶っ対にわかってやっている。最悪だ。顔が火照るのを必死で隠しながら運転席を降りる。トランクを開けて、智がスーツケースをふたつおろしつつ、私にしか聞こえないような小さな声で。囁くような、低く甘い声で……巨大すぎる爆弾を落として行く。
『今度でいーから。方言で、「好き」って言ってくんね?』
紡がれた言葉に、顔がぼんっと音を立てて赤くなる。方言で告白してくれ、なんてどういう罰ゲームだ!実家に来てまでこんなに私を翻弄させないで欲しい。
ぎゅう、と。隣に立つ智を批難するかのように強く睨みあげると、智がふっとダークブラウンの瞳を細めて、幸せそうに笑いながら、当たり前のようにふたつのスーツケースをコロコロと転がして玄関に向かっていく。
荷物を持ってくれている、ということに対する感謝の気持ちと、明らかに揶揄われている、ということの恥ずかしさで、心の中は細い糸がぐちゃぐちゃに絡まったような感情でいっぱいだ。その感情をぎゅうと押し込めて、智の背中を追いかけるように車に鍵をかけて玄関に向かう。玄関の前の階段を数段登ると、お父さんがカチャリと玄関を開いた。
「彌月、ムギくん。智さんと知香が帰ってきたばい」
お父さんが家の中に声をかけている。開いた玄関のドアを固定しているお父さんに、智が小さく頭を下げて「お邪魔します」と声を上げた。その後に続いて私も「ただいま」と声を上げつつ玄関に足を踏み入れる、のだけれど。
彌月、は、お母さんの名前だけれど、その後に呼ばれた名前には心当たりがない。訝し気に首を捻る。
「ムギ、くん……?」
もしかして知らないうちに弟が出来たのだろうか。胸の内に浮かんだ有り得ない考えを、そんなバカな、と頭を振って追い払う。その間にも、チリチリ、と、家の奥から鈴の音が近づいて来る。
「あっ……!」
いつの間にか、薔薇柄の淡い紅色をした玄関マットの上に、ちょこん、と。茶トラ柄の猫がお行儀よく座り込んでいた。お父さんと私たちに交互に視線をやり、こてん、と、首を傾げている。それはまるで、お父さんに『この人たち誰?』と問いかけているような仕草。茶色の毛並みとお揃いの明るい茶色の瞳が、こちらをきょとんと見つめていた。
「ええっ!?猫飼い始めたの!?」
艶のある明るい茶色の毛並みの首元には、赤い首輪と小さな鈴。それを視認すると同時に、目の前の猫が一瀬家の新しい家族なのだと理解して目を剥いた。
私のその声に、お父さんは「あれ、言っとらんかったかな」と言葉を紡ぎながら、以前よりも白髪の混じった髪をガシガシと掻いた。
「秋頃、まだ目も開いとらん状態で向こうの公園の前に捨てられとったとよ。可哀想で我が家の子にしたと」
「そうだったの……」
この辺りは私が小学生の頃に開発された新興住宅街で、少し奥まったところに公園がある。その公園は人目につかないからか、昔から猫が捨てられていることが多かった。というわけで、この辺一帯の家庭は猫を飼っているお宅が多い。
すとん、と、玄関マットの横に腰をおろして手を伸ばす。チッチッと舌を鳴らすと、すぐ私に寄ってきて、私の指先のにおいをスンスンと嗅いでいる。
「あぁ、智さん。動物、苦手じゃないかい?大丈夫だったかな?」
お父さんが方言を押し込めて、立ったままの智に話しかけている。
「はい、大丈夫です。むしろ猫は好きなほうですよ」
智がにこやかな笑顔をお父さんに向けて、その場に腰をおろした。ダークブラウンの瞳がムギくんに向けられて、私と同じようにムギくんに手を伸ばしている。
(へぇ……猫が好き、っていうの、初めて知ったなぁ……)
そう心の中でひとりごちていると、私の指先の匂いを嗅いでいたムギくんが、智の伸ばした手には目もくれず、するりと私の膝の上に乗り、身体を上に伸ばしてそのまま私の頬を舐め出した。と同時に、ぴくり、と。智が小さく身動ぎをしたのを、横目で捉える。
「ぅ、わ!ムギくん、ちょっと……あはっ、くすぐったいってばっ」
ザラザラした舌が、少し痛いくらいだ。くすぐったさと僅かな痛みに、思わず身体を捩らせる。
秋頃に拾ったというムギくんはすでに成猫くらいの大きさで、それなりに重たい。ムギくんの前足が私の胸の辺りにあって、ムギくんが身体を寄りかからせている。ずっしりとしたその重さに耐えかねて、前足と胴に手を差し入れするりと身体を持ち上げた。明るい茶色の瞳が不服そうに細められる。
「ムギくんはほとんど甘えたりせんとよ。猫らしい猫で、誰かの膝に乗ったりはせんとけどね?よっぽど知香ば気に入ったとかなぁ」
お父さんが玄関のドアを閉めて内鍵をかけながら、苦笑したように声を上げて私を見遣った。その言葉に思わずムギくんの顔をじっと見つめて、私の身体ごと智の方向を向かせる。
「ムギくん、ほら。私の彼氏さんです。仲良くしてね~」
ムギくんの身体を揺らしながら、智に視線を合わせる。視線が交わったその切れ長の瞳に、一瞬、違和感を抱く。すっと……その瞳が細められたように感じたのだ。
(……?)
どうしたんだろう、と、きょとん、と智を見つめるも、智はいつもの変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。
「………ムギくん、よろしくな」
にこりとした笑顔を貼り付けた智が、ゆっくりと大きな手でムギくんの頭を撫でている。
(……んん~、ムギくんが智の手に見向きもしなかったのが……少しお気に召さなかったのかな?)
猫好き、なのに、猫に無視される、というのは単純に心に来るものだろう。それでも穏やかそうな声色で紡がれた言葉に智の優しさを感じて、今日眠る前にちょっとだけ慰めてあげよう、と。小さく心の中で呟いた。
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