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本編・第三部

183 何度も、何度でも。(上)

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 ガタン、と、機体が揺れて着陸したことを認識する。着陸体勢に入ったアナウンスが流れた際に、背もたれを戻すように揺り起こした藤宮は、ふたたび船を漕いでいるようだった。

「おい、藤宮。着いたぞ」

 再度藤宮の肩を揺らして起こし、長時間座ったままで凝り固まった自らの身体を伸ばしていると、扉が開けば電子機器を使っていいというアナウンスが流れてくる。
 電源を落としたままの真っ黒な画面のスマホを手に取ると、『おかえり』という、知香の鈴を転がすような声が響いたような気がした。そっと目を瞑ると黒い背景に、はにかんだような表情を浮かべる知香の笑顔が浮かんでくる。

(……長かった…)

 ゆっくりと瞼を開き、俺たちを乗せた機体がゆっくりと駐機場に向かっていく様子を窓から眺めながら、心の内でそっと呟く。前回のイタリア出張は6泊8日だったが、今回はそれよりも長い7泊9日間。ひどく長く感じた。


 結局。俺の心の中で引っかかっている『ぐるぐる』という単語の意味はわからなかった。ノルウェーから帰ってくるまでの16時間も、座席に座ったままずっと考えていた。けれど、俺にはこの単語の意味の検討すらつかなかった。


 スマホの電源を入れて日記アプリを確認して……知香に連絡したら、真っ先に浅田に連絡を取ろう。俺が日本を離れている間に、黒川の不正な取引の証拠は掴めたのか、進捗を確認したい。ついでにこの『ぐるぐる』の意味について浅田に相談しよう。

 ……そこまで考えて、ちらり、と。横目で眠そうに目を擦っている隣の席の藤宮を見遣る。

(そういや……こいつ。帰り道、同じ方向だったな)

 藤宮は確か、俺がいつも降りる駅のひとつ先の駅が自宅の最寄り駅だと言っていた。黒川の一件を悟らせるわけにはいかないから、藤宮と別れてから浅田に連絡を取るべきだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、扉が開いたアナウンスが流れた。ようやくスマホが使える。電源を入れると、一週間分の通知が次々と入ってくる。
 その通知を全て無視してスマホから日記アプリにアクセスすると、知香からの新規書き込みが確認出来た。シンポジウムの会場の場所とスケジュールの時間、帰りはどこかで待ち合わせしたい旨が記してある。

 会場は自宅から歩いて20分くらいの距離の多目的施設。メッセージアプリを立ち上げて、手早く書き込む。

『ただいま。今、着陸した。手続きして電車乗ったら、ちょうど食事会が終わる頃にそっちに着く。施設の裏側で待ち合わせよう』

 書き込んで即座に送信するも、すぐに既読がつかない。ふい、と腕時計を確認すると、ちょうどメッセージアプリに記載された交流食事会が始まった頃合いだと理解した。それもそうか、と自分を納得させ、GPSのアプリを起動すると、やはり会場となった施設に知香が居ることが確認できた。

(新規顧客。獲得出来るといいな……)

 知香の成功は俺の成功でもある。そう心の中で小さく呟き、藤宮を連れて機体から空港に降り立った。





 ふたりで一緒に帰国手続きの列に並んでいると、俺の後ろに立っている藤宮が唐突に質問をぶつけてきた。

「先輩、この新部門を軌道にのせたら、やりたいことってありますか?」

「んん?…やりたいこと、なぁ……」

 新部門を軌道に乗せ次第、俺は管理職に引き立てられるはずだ。所謂幹部として、会社を経営する側に回ることになる。
 池野課長に出された課題の……俺が新しく手掛けたいと考えた、乾燥食材の事業に手を付けたい気持ちはある。が、その前に、黒川のような膿を出しきってしまいたい、という気持ちも……持ち合わせては、いる。

 藤宮のその問いに、思わず口元に手を当てた。改めて、自分が何を成し遂げたいのか、これから何をしなければならないのかを自分の中で整理する。

 ふ、と。愛おしい知香の顔が思い浮かんだ。知香と一緒に幸せになるために、俺は社長にまで上り詰めてやる、と。そう決めたんだ。

(……そういや、シンポジウムの議題が、持続可能型の農業…って話しだったな)

 先日確認した日記アプリには、今日参加するシンポジウムの議題がそういった内容だった、という書き込みがあった。今、その言葉が脳裏に浮かんだのは、きっと……俺が為すべきことでもあるのだろう。

「……今は自社を発展させる手段として、得意先のニーズに対応した売り先あっての買い付けや販売をしてるだろ?それを、『生産者に寄り添う』って形に持っていきてぇとは思ってる。今、どの業界でも重視されている持続可能型の産業……ってやつだな」

 そこまで口にすると、手続きの順番が回ってきた。俺、藤宮の順で手続きを終え、手荷物受取所に繋がる自動ドアをくぐる。

「それから、新部門をきっかけに営業課全体での連携の推進。畜産、水産、農産にとらわれない形の三井商社独自の営業スタイルを確立させたい。商材の共有、製品販売の販路拡大とトータルブランド化を図る。そんな感じだなぁ」

 俺の言葉をじっと聞いていた藤宮が、眉間に皺を寄せて渋い表情をした。その表情は明らかに俺が言っていることについていけてない、という様子で、思わず苦笑いが零れる。

「……話の知能指数が高すぎてよくわかんねぇっすけど、とにかく先輩が俺が思ってたよりも高度な目標立てているってことはわかりました…」

 社会人2年目、営業マンとしても成長途中の藤宮には少し難しかったかもしれない。自分の考えを噛み砕いてわかりやすく他人に伝える能力も、上に立つ人間に必要な要素だろう。今の俺には足りないものが多い。努力しなければ、と、改めて実感する瞬間だった。

 預けていた手荷物を受け取り、藤宮とともに電車に乗り込む。あと1時間もすれば知香に会えるだろう。

 会えたら、どんな声をかけよう。何から話そう。揺れる電車内の座席に座ったまま、ぼんやりと考える。

(あぁ……そうだ。オーロラが見れたんだった)

 オーロラは冬季の間しか見れないと思っていたが、オーロラ自体は1年中出ているのだそうだ。多くの観光サイトでシーズンが書かれているがこれは見えやすい時期を示しているだけ、という風に通訳から聞いて、4月に見えやすいという地域を教えて貰い、あまり期待せずに見に行ったら偶然見れた。あの時の感動はなかなか言葉では表現できない。

 知香と一緒に見に行きたい場所がまた増えた。オーロラを一緒に見たい。イタリアの夜空も、いつかは。

 イタリアの夜空を思い出していると、浅田に連絡を取ろうと考えていたんだった、と我に返る。スマホを手に取り、自宅の最寄り駅の到着時刻を調べて浅田にその時間に電話したい旨をショートメールで送る。

 知香が参加しているシンポジウムの会場は自宅の最寄り駅のひとつ手前だが、俺の自宅を知っている藤宮にこの件や知香とのことを悟られないために、自宅の最寄り駅まで出て歩いて多目的施設を目指す。歩きながら浅田と連絡を取るようにすれば合理的だろう。

 そうこうしているうちに浅田から返信が届いた。

『了解。多少の収穫有り、詳しくは電話で』

 収穫有り。その言葉に、心臓がいつもよりも大きく鼓動を刻んでいることを自覚する。

 どくどくと脈打つ心臓を堪え、ポーカーフェイスを駆使して藤宮と他愛のない会話を、左右に揺れる電車内でボソボソと続けていく。

 あっという間に、自宅の最寄り駅に到着する、というアナウンスが流れた。ビジネスバッグを肩に斜め掛けし、スーツケースの持ち手を伸ばしながら、藤宮に「連休明けな」と声をかけ、ホームに足を踏み出した。

 改札を通り抜けながら浅田に電話をかけると、数コールで呼び出し音が途切れた。

「何があった?」

 呼び出し音が途切れた瞬間に放った言葉に、電話口の浅田から苦笑するような吐息がもれた。

『そう焦んなって。まずは出張お疲れさん』

 労いの言葉がスピーカーから響いた。その言葉に謝意の言葉を返す時間すら惜しいと感じた。

『普段しねぇはずの帳合ちょうあい取引をしてる、つぅことまでは掴んだ。その先はわからねぇ』

 小さなため息の向こう側で、ライターの横車をジッと擦る音が響いた。恐らく浅田は自宅のベランダに出て煙草に火をつけているのだろう。案の定、それからすぐに、ふぅ、と。紫煙を吐き出すような長いため息が聞こえてくる。

 帳合取引。小売業者の仕入先として特定の卸業者が決定している取引のことを指す。
 小売業者AがメーカーC社の商品を仕入れたいと考える時、これを直接C社から仕入れるのではなく、卸商のB社を挟む取引とのこと。C社から直接仕入れるよりも、卸商から仕入れる方が卸商が得る口銭分だけ高くなる。
 その面のみを見れば小売業者には不利に見えるが、卸商の情報収集力を得て商品を幅広く知り仕入れることが可能。さらに卸商の信用力により直接メーカーから仕入れることによる、クレーム等のリスクが回避できる等のメリットがある。

 三井商社の水産チームや畜産チームではよくある取引だが、農産チームではあまり帳合取引を行っていなかったはずだ。それが今回の鍵か。

「いろいろ苦労をかけた。すまん。……感謝する」

 その言葉を紡ぎながら、浅田からは見えないとわかっていても小さく頭を下げる。俺の言葉に、浅田がふっと小さく吐息をもらして笑ったように感じた。

『いいってことよ。新部門のことで今まで以上に三井商社は注目されてる。不正取引が公に出ちまえばここぞとばかりに叩かれる。池野課長の面目丸潰れだ』

 小さく笑いながら、一気にその言葉を紡ぎ、そうして、すっと。浅田の声が低くなった。

『俺はあの人に救ってもらった。だから恩を返す。これは邨上だけの問題じゃねぇ』

「……」

 浅田は丸永忠商社から池野課長によって引き抜かれたということは知っているが、詳しい事情は知らない。こいつにはこいつなりの考えがあって池野課長に付き従っているのだろうとは思っていたが。


 その後はこの一週間の間に起きた出来事の報告をし合った。
 スーツケースを転がしながらスマホを耳に当て、スピーカーから流れる浅田の話しに耳を傾け、軽口を叩き合い、心の底から笑い合った。その感覚に―――俺は、やはり浅田は生涯の友となるだろう、と、確信に近いものを抱いた。


 あと少しで知香がいるはずの多目的施設に到着する、というところまで歩き、ふと。

(『ぐるぐる』っつう言葉のこと、浅田に聞いてねぇな……)

 俺にはわからない事でも、浅田ならわかるかもしれない。知香に……嘘をついた時。三人寄れば文殊の知恵だ、と、自分でもそう口にした。

 意を決して浅田の見解を得ようと小さく息を吸うと、『あぁ、そうだ』と。スピーカーから、思いもよらぬ言葉が飛び出して来た。



『そういや、今日は黒川が国主催のシンポジウムに出席して午後から不在だったんでな、証拠集めが捗ったぜ?』



 浅田のその一言に―――すっと、背筋が冷えた。


 それは。イタリア出張から戻った際の帰国手続きの列に並んでいる時にも、感じた……形容しがたい、感覚。


 国主催の、シンポジウム。

 黒川は、農産チーム。

 知香も……通関部として、参加している。

 そうして。片桐も―――参加、している。



 ノルウェーでも感じた、胸騒ぎ。
 これはきっと。


 何かの、予兆。


(……知香に、なにかがあった!)


 ギリギリと、スーツケースの持ち手をあらん限りの力で握り締める。


 黒川か。はたまた、片桐か。それともまさか。


(あのふたりが手を組んだ、か!?)


 そうであれば最悪だ。
 チカチカと目の前が明滅し、喉の奥がひりひりするような感覚がせり上がってくる。


 俺の地位を妬んでいる黒川と、知香の心を狙っている片桐。


 三井商社にも今回のシンポジウムの案内は来ていたが、参加を見送ることになっていたはずだ。どういう経緯で黒川が参加することになったのだろうか。


 4月の上旬。黒川と片桐、この両者に知香が遭遇した際。商談をしていたようだ、と言っていた。その商談の場で利害が一致し手を組んだとも考えられる。


「浅田。すまん、切る」

『あぁ?ちょっ、』

 訝しげな声をあげた浅田の最後の言葉を待たず、スマホを耳から外して、ブツリと通話を切った。即座に画面をメッセージアプリに切り替えて、眼前に表示された文言に―――思わず、足が止まった。


「か、たぎりに……盛られた?」


 ヘーゼル色の瞳が、面長の細い瞳が。
 俺の記憶の中で。俺を嘲笑っていた。

 スマホに表示された文字を理解する事を、脳が拒否しているのか。ただの風景となって、俺の視界を占拠している。

 あの夜と同じ手法を使ってくるはずはない、と、そう思っていた。やるなら違う手法を用いるはずだ、と。そう、思い込んでいた。

 一度失敗した手法は使わない。何故なら対象者に警戒されるから。俺が片桐だったらそうする。


 俺と片桐の発想は、ほぼ同じ。俺たちは、同族、だから。


 同族であるからこそ、その。そう理解した瞬間、身体の奥底から湧き上がる怒りを抑えきれなかった。

「ッ、ふざけんなクソが……!」

 鋭く言葉を放って革靴で地面を蹴り、施設に向かって走り出した。走りながらスマホをちらりと確認すると、知香からのメッセージは浅田に電話をかけてすぐの時間だった。


 悠長に長電話なんかしている場合ではなかった。
 意味のない後悔ばかりが、胸をじくじくと苛んでいく。

 全速力で走る。出張前に知香に選んでもらった、ホリゾンタルストライプの赤いネクタイが、俺の身体の動きに合わせて揺れる。


 飛行機の中で確認した時、GPSは機能していた。あの夜のように電磁遮蔽されている訳ではないはずだ。一縷の望みをかけて、知香の携帯に電話をかける。長く長く響くだけの呼び出し音が、俺に現実をつきつける。


(出てくれ、知香……頼む…………)


 手が震える。足が震える。それでも懸命に足を動かす。

 無機質な呼び出し音だけが、延々と響いている。

 じっとりした夏を予感させる風が、生理的に吹き出る汗に、不快な感覚を伴って身体に纒わりつく。

 スマホを耳に当てながら、全速力で走り続けた。心臓が痛い。手に持っているスーツケースなど、走る速度が落ちるのであれば捨ててしまいたい程だ。


 ふつり、と。呼び出し音が途切れた。無事か、と問いかけようとした、その瞬間。


『……やぁ、智くん』


 恐れていた声が、スピーカーから響いた。それはさながら、イタリアに向かう飛行機の中で見た、悪夢の再現のようだった。



 知香が、片桐の手に堕ちてしまった、という。
 俺が一番恐れていた―――現実。



 その声に、突き付けられた現実に。思わず走る足が止まって。
 ぶつり、と。俺の中のなにかが、弾けた。


「片桐、てめぇ…!」

『おぉっと。気持ちはわかるんだけどね、智くん。ちょ~っと待って欲しいんだけど?』

 戯けたような片桐のその声色に、俺を制止するような言葉に。視界が一瞬で赤く染まる。

「御託はいい。てめぇ、また知香にんだろう!」

 全速力で走り唐突に立ち止まったからか、腹部が締め付けられるように痛む。腹の底から沸き上がるような獣の咆哮を、必死で抑える。


 知香は無事なのか。今、どこにいるのか。この男に聞きたいことはたくさんある。



 奪われたなら、何度も、何度でも。奪い返してやる。他の誰でもない、知香が。俺の隣に立つことを望んでいるのだから。



 この男は今、自らが立てた作戦が成功して気分がいいはずだ。そこを利用して電話を切らせまい、と、この男に必死に喰らいつくような言葉を絞り出した。


 くすり、と。片桐が嗤う声が。スピーカーから響いた。




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