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本編・第三部

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 トス、トス、と。ヒールがカーペットに吸収される音がすると同時に、足を動かすたびにスラックスの衣擦れの音が小さく響く。
 三木ちゃんの家にお世話になるためのスーツケースを転がしながら、三木ちゃんと横並びになって、女性社員用の更衣室に向かう。

「先輩のスーツ姿、初めて見ました!なんだか不思議な気分ですけど、改めて先輩は総合職なんだなって感じがしてかっこいいですぅ」

 三木ちゃんが不思議そうな表情をしながらも、うっとりとした視線で隣を歩く私を見つめている。紡がれたその言葉に、その視線に。思わず苦笑いがこぼれた。

 ついにシンポジウムが開かれる日を迎えた。さすがに制服でシンポジウムと交流食事会に参加するわけにはいかず、就活の際に購入したスーツを着て出社してきたのだ。

 極東商社では総合職に転換した女性社員は支給されている事務服制服をそのまま着ていても構わないし、私服スーツでも構わないということになっている。これまでなんとなくの流れで制服のままだったけれど、この機会に私服に切り替えてもいいだろうか。

(ほんと、スーツなんて久しぶりに着たなぁ……)

 入社して一か月はスーツを着て出社して毎日制服に着替えていたけれど、いつの間にか私服で出社するようになった。

 あの頃は極東商社通関部の規模を拡大する、という過渡期の時期だった。通関部が発足したのはもう15年ほど前のことだけれど、私が入社した3年前は田邉部長と当時は課長代理だった水野課長、そして当時は主任だった大迫係長の3名だけしか所属しておらず、通関部に初めて一般職として配属されたのが私で。それから成長期を迎えて、当時から比べたら通関部は本当に大所帯の部所になった。

 これからも極東商社の各販売部を支え、そしてさらに通関部の業績を上げていくためにも。今日の交流食事会で新規取引先を必ず獲得してこなければ。改めてそう決意して、女子更衣室の扉を押し開くと。

「あっ、一瀬さん。おはようございます」

「徳永さん。おはよ」

 1課の徳永さんが、スカートを履き替えながらぺこりと頭を下げた。垂れ目の瞳と視線が交差する。可愛らしい垂れ眉を下げて困り眉になっているその様子に、私の頭上にはてなマークが浮かぶ。

「あの。一瀬さん。お昼休みにちょっとご相談したいことがあって……」

 徳永さんのその言葉に面を喰らった。彼女に何かを相談されるなんて初めてのことだ。いきなりどうしたのだろう。

 というより、お昼休みにはシンポジウムの会場に向かって、大迫係長や農産販売部のメンバーとこのオフィスビルを発っているはずだ。徳永さんはお昼休みと言ったけれど、私は今の方が都合がいい。

 そう考えてスーツケースをロッカーに仕舞い、パタリと閉じて徳永さんに向き直る。

「んっと、私、お昼休みはもう会社にいないと思うわ?今の方が都合がいいのだけれど。打ち合わせルームが空いてるだろうから今から行きましょ?」

 彼女に何かを相談されることは初めてだけれど。何となく、その相談の内容は検討がついた。
 きっと、今年の10月に総合職に転換したい、という相談なのだろう。徳永さんの1番身近な女性総合職は私。だから私に相談したい事がある、と申し出たのだろうと察した。

 私の言葉に、徳永さんが慌てたように手を身体の前で振って、「いえ!」と声を上げる。その動作の真意が噛み砕けず、きょとん、と目の前の彼女の顔を見つめた。

「え~っと……仕事のことといえば仕事のことですが…プライベートなことでもあって……打ち合わせルームを使うほどのことでは」

 困ったように視線を彷徨わせ、言い淀むように紡がれたその言葉にますます疑問が湧き出てくる。
 彼女の言葉によると公私両面が絡んだ相談事。そんな話しを更衣室のようなオープンな場で聞くほど配慮のない人間じゃない。

 私の隣で着替えている三木ちゃんに「先にフロアに行っているね」と目配せをして、徳永さんににこりと笑顔を向けた。

「ん~、とにかく更衣室ここじゃ何だから。打ち合わせルームに行きましょ?ね?」

 そうして、腰が引けている徳永さんの手を引いて、半ば無理矢理打ち合わせルームに彼女を引き込んだ。かちゃり、と、打ち合わせルームの鍵を下ろして席に着く。

「……で、どうしたの?なにかあった?」

 私の目の前に座った徳永さんが、顔をほんのりと赤くして視線を彷徨わせる。言い辛い内容なのだろうか。それなら彼女の仲で順序立ててしっかり話して貰おうと考えて、その言葉を最後に私は口を噤んだ。

 暫く沈黙ののち。何かを決心したような硬い表情で、徳永さんが口を開いた。

「…………一瀬さん。南里くんの教育状況って、どうなっていますか?」

「……へ?」

 一瞬、何を尋ねられたのか理解できずに、少しだけ間抜けな声が漏れた。

 どういうことだろう。どうして彼女から南里くんの話題が出てきたのか。そうして、どうして教育状況のことを尋ねられるのか、さっぱりわからなかった。

(もしかして……南里くん、私が知らないところでなにか粗相をしたの!?)

 彼は頭の回転も早く業務の飲み込みも早くてスポンジのような子だけれども、その胸の中には『危険な無邪気さ』を秘めている。その危険な無邪気さの被害を、早くも徳永さんが受けてしまったのだろうか。

 ざぁっと顔色が変わった私に、徳永さんがあたふたと声をあげる。

「いえ、南里くんがやらかした、とかではないんです」

 そうして。徳永さんが、ふっくらした頬を少しだけ赤く染めながら、衝撃的な言葉を続けた。

「………その。私が、彼は育ったかなと」

 異動願い。その単語に、ぴしりと音を立てて身体ごと思考が固まる。その言葉をゆっくり嚙み砕くこと、数十秒。

「…………ん!?」

 徳永さんの口から、南里くんの話題が出てきた。そして、その次に異動願いの話し。このふたつの事柄を結びつける、唯一の結論。

 停止してしまった思考回路を必死に動かしてその答えに辿り着き、思わず大声が出そうになった。慌てて口元を自らの手のひらで塞ぐ。

(南里くん、と、徳永さんが!?)

 極東商社は社内恋愛が多い。幼稚園が一緒だったという幼馴染である彼らがそういう関係に落ち着いたとしても、誰に咎められるわけでもない。
 ……ただし、それは同一部内ではない場合のみ。同一部内での社内恋愛は横領などの業務上の不正を防ぐ目的で、その関係が公になった時点でどちらかが異動になる。

 徳永さんはそれをわかっているからこそ、南里くんの教育係である私に報告を兼ねて南里くんの教育状況を確認しに来たのだろう。
 ただでさえ通関部は現在人員が足りていない。南里くんが育っていない状態で彼女が異動願いを提出するのは痛手だ。

 口元に当てていた手をゆっくりと膝の上に戻して、徳永さんに視線を合わせた。

「……正直に報告をしてくれて、ありがとう。彼の教育状況としては、まだまだ途中よ。この件については私だけでは判断出来ないから、南里くんにも徳永さんにも抜けられては困る、同一部内とはいえ所属している課が違うから寛大な対処を、ということも含めて田邉部長に報告しておくわね?それでいいかしら」

 隠しておくことも出来ただろうに、正直に報告をしてくれた彼女は本当に偉いと思う。私の言葉に、「もちろんです」と、徳永さんがやわらかく笑った。

「お忙しいのに、お時間をいただきすみませんでした。ありがとうございました」

 ぺこり、と、徳永さんが座ったまま頭を下げた。その様子に私も「いえいえ」と声をあげて。ふたりで打ち合わせルームを退出した。









 毎朝恒例の朝礼の最後に、田邉部長から大迫係長と私が今日は不在になることが改めて周知された。

「私は午後から業務会出席のため不在です。大迫と一瀬もシンポジウム参加のため不在。月次処理も重なり一段と業務が立て込むと思いますが、全員で協力して分担するように。それから、明日から長期休暇です。各々帰省や旅行等いろいろな予定があると思いますが、くれぐれも外出先で事故怪我のないようにお願いします」

 田邉部長が朝礼を纏め上げて、今日も頑張りましょう、と締めくくった。その声に全員で一礼し、全員がデスクに戻る。私はすとん、と、自分の席に腰を下ろして、社内メールや社外メールのチェックを始めた。

(……結局、黒川さんからの返信は無し、か…)

 受信していた社外メールをひとつひとつ確認して、黒川さんからの返信がないことに心の中で小さくため息をついた。結局、黒川さんが不正な取引を行っている、という証拠は全く見つからないまま、ゴールデンウィークを迎えてしまう。自分が巻き込まれている、と思うと、心の中でわけのわからない焦燥感がぐるぐると渦巻いていく。

 不正に巻き込まれたところで私は知らぬ存ぜぬを通せばそれで済む話。水野課長から言われたように、私たちは依頼されて通関業務を行っているだけ。不正な取引だと認識していたという言質を取らせなければいい。確かにそうだとは思う。けれども、そう簡単に開き直れるような性質ではない。この件の発端に、私にとって大切な智が絡んでいるということもある。どうにかしてその証拠を押さえて不正を暴いてやりたかったけれど。

(私が出来ることなんて、本当に何もないんだよね……)

 ふたたび小さくため息をついて肩を落とす。改めてタイムリミットまでの日数を数えようとじっと卓上カレンダーを見つめていると、不意に私を呼ぶ声がした。ふい、と1課のフロアに視線を向けると、先週と同じように大迫係長が2課が見える位置まで椅子を転がしパーティションからひょっこりと顔を出していた。

「一瀬、すまん。俺、ゴールデンウィーク明けの分をもう少しだけ片付けて打ち合わせ行くから。先に下の第3研修ルームに行っててくれないか」

「あ、はい。わかりました」

 大所帯になった2課と違って1課は大迫係長と徳永さんだけだ。メインで処理を行っている大迫係長の抱える仕事量は私の比ではない。大迫係長の代わりにしっかり打ち合わせに参加してこよう、と考えてPCの電源を落として席を立ち、普段よりも大きめな鞄に全ての資料を詰め込んで通関部のフロアを退出した。










 エレベーターホールの奥にある螺旋階段へ繋がる扉を開き、1階下の第3研修ルームに足を運んだ。

 ドアの表示は既に【使用中】に切り替わっている。農産販売部のメンバーが先に入っている、ということを認識した。あのヘーゼル色の瞳と相対する、ということに思いのほか緊張しているのか、肩にかけた鞄に触れる手が震えている。自分を落ち着けるように、ドアの前で大きく息を吐いた。

(……大丈夫。片桐さんとふたりきり、という事にはならないはずだから)

 何を怖がっているのか。片桐さんがいたところで、私は智が好きだという自分の気持ちは揺らがない。震える手のひらを握りしめてドアをノックし、そのドアを押し開いた。

「あ。知香ちゃん、おはよ~」

 キィ、と、蝶番が軋む音と共に、不快な声が響く。へにゃり、と、人懐っこい笑顔がそこにあった。ドアを開いたことで、シトラスの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 普段はスクール形式の配置をしている第3研修ルームの中は、机の配置がアイランド形式に変えられて、奥側のデスクに片桐さんひとりきり。ノートPCに向けていたであろうその視線を、ドアを押し開いた私に向けている。

「……おはよう、ございます」

 思っていたよりも硬い声が出た。ぎゅっと唇を結ぶ。

「ほかのメンバー、ゴールデンウィーク前でまだ商談途中なんだ。だから、俺だけ先に来たの。まさか知香ちゃんも俺と同じように先にくるなんてね~ぇ?」

 片桐さんの、楽しそうな声がふたりだけの室内に響いた。

 このままでは、片桐さんと密室にふたりきり、という事態になってしまう。せめてもの抵抗、私の意思表示として、ドアを閉めずにわざと開け放したまま、研修ルームに足を踏み入れた。片桐さんから遠い位置のテーブルの上に鞄を置いて、中に詰め込んだ今回のシンポジウムの資料を広げていく。

「ん~。すっごい警戒されてるね、俺」

 片桐さんが困ったように、こてん、首を傾げると同時に、さらり、と。明るめの髪が揺れる。
 その仕草に思わず顔を顰めながら、席に座ることなく立ったままヘーゼル色の瞳を睨み返した。

「……当然のことだと思いますが」

 私の言葉に、片桐さんが不機嫌そうに眉根を寄せて口を尖らせた。

「さすがに会社で襲う、とかはしないよ、俺。それくらいの分別は持ち合わせてるつもりだけどね~ぇ?」

 会社の飲み会であんなことをしでかしておいて、どの口が言うのか。ヘーゼル色の瞳を睨みつけたままでいると、片桐さんは口元を嬉しそうに歪ませて蠱惑的な表情を浮かべ、優雅な動作でするりと足を組んだ。

「ま、それくらい警戒心が強い方が安心だね。俺と知香ちゃんが恋人になったとして、他の男と密室でふたりっきり、なんてことになったら俺は耐えられないもん」

「っ」

 まるで、私が智と別れて自分を選ぶのが当然の確定事項、とでもいうように、片桐さんは悠々と言葉を紡いだ。その言葉に、ふつふつと滾る感情を押し殺して、努めて冷静に返答する。

「……片桐さんと私がそういう関係になる、なんて、絶っ対に有り得ませんから。無用なご心配です」

 そうして、私はヘーゼル色の瞳を視界から追い出し、すとん、と椅子に座って手元の資料に視線を落とす。

 すると、片桐さんはふっと笑って。

「ねぇ。マカロン、美味しかった?」

 心底、愉しそうに。ヘーゼル色の瞳を歪ませながら、私を見つめた。



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