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本編・第三部

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 マカロン。片桐さんから、香典返しとして受け取った、あれ。

 結局、あれは私たちが口にすることなく、智に会社に持って行ってもらった。浅田さんか藤宮くんに渡す、と言っていたけれど、結局どちらに渡したのかは私は把握していない。

 片桐さんのことは心底嫌いだけれども、宣戦布告を意味していたあのマカロンを食べていない、と突き放すのは、片桐さんの思惑通りに私が行動したように思えて、ひどく虫唾が走る。智からホワイトデーで貰った時の味を思い出しながら、淡々と返事をした。

「はい。美味しかったですよ。ありがとうございました」

 私の返答に、一瞬、驚いたような表情を片桐さんが浮かべた。そうして、嬉しそうにその整った顔をへにゃりと綻ばせる。

「そっかぁ。正直、智くんが食べさせないだろうって思ってたんだけど。食べてくれたんだねぇ」

 その言葉を口にして、つぅ、と。ヘーゼル色の瞳が、細く歪んだ。

(……っ、)

 それは。さながら、好物を目の前に差し出された、捕食者のような。そんな仕草で。

 瞬間的に、まずい、と思った。何がまずいのかはわからない。言いようのない恐怖感に、ぞくり、と身体が震えて……呼吸が、一瞬、止まる。

「……あぁ。でも、裏の意味は伝わってないってことかなぁ?」

 獲物を狙っているようで。けれど、何を考えているかわからない、何とも言えない……片桐さんの、瞳。

 はっ、と、小さく息を吐く。

 裏の意味。それはきっと『智に対する宣戦布告』のこと。それが伝わっていない、と、片桐さんは認識したのだろう。片桐さんは小さく吐息を吐き出して言葉を続けた。

「智くんも案外鈍いんだねぇ。彼だったら裏の意味がわかると思ってたんだけどさ?」

 そうして、くすり、と。意味ありげな嘲笑いを浮かべて組んだ足を崩し、テーブルに左肘を着いて、こてん、と首を傾げた。

「伝わっていないのなら意味がない。マカロンはね?特別に大切な存在、に、贈るものなんだよ。この意味、知香ちゃんならわかるよね~ぇ?」

「……」

 全身から体温がゆっくりと下がるのを感じる。ヘーゼル色の瞳が、私を雁字搦めに捕らえて、離さない。

 片桐さんが、ふたたび愉しそうに笑みを浮かべた。

「その意味を含んだマカロンを知香ちゃんが食べた。この事実さえあれば、今の俺には充分」

 言葉尻はやわらかいのに、私を捕まえるような。足元から伸びてきた蔓のようなナニかが、私の身体を這いあがってきているような。その感覚が、ひどく不快だ。その感覚を振り払うように、ヘーゼル色の瞳を睨みあげて反撃の言葉を口にする。

「……お生憎さまです。食べるわけないじゃないですか」

 智が鈍い、と言われたことも腹が立った。あなたの思い通りになんか動いてやるもんか。そんな意思を自分の視線に込めて、嘲るような笑みを反射して返す。片桐さんの感情の読めない表情を見つめ、鼻で笑うような表情を作ってみせた。

 首を傾けたまま、片桐さんの明るい髪色と同じ色の眉が、不愉快そうに跳ね上げられた。

「へぇ。俺に嘘をついたんだ」

 冷え冷えとした言葉。氷のように冷たい視線が、真っ直ぐに私に突き刺さる。先ほどの私の言葉が片桐さんの地雷を踏み抜いた、それだけは瞬時に理解した。

「俺は知香ちゃんにも、智くんにも。いうなれば小林くんにも、あぁ、真梨ちゃんにも。嘘をついたことは一度もないよ?なのに、知香ちゃんは俺に嘘をつく。どうして?」

「……っ」

 強い感情が籠った瞳で見据えられ、身体が一瞬で強張った。私と片桐さんだけの、この空間の気温が。一気に下がった気がした。唇を強く噛んで、その変化に飲み込まれないように自分を律する。

 冷えた空気をその身に纏わせていた片桐さんが、ふたたびへにゃり、と。飄々とした雰囲気に瞬時に切り替えて、優雅に微笑んだ。

「まぁ。どちらの返答であっても、この結果に繋がっていたってことは理解して欲しいな」

「え……?」

 どちらの返答で、あっても。その意味が噛み砕けなくて、茫然とヘーゼル色の瞳を見つめるしか出来ない。くすり、と、片桐さんが声を上げて笑った。

「食べていない、という返答であれば、俺の宣戦布告を前に尻込んだ、と取れる。食べた、という返答であれば、俺の気持ちを知香ちゃんが受け取った、と取れる」

「っ!?」

 思いもよらない言葉に、心臓がバクバクと音を立ててひどく速い鼓動を刻んでいる。シンポジウムのための資料を握る手のひらに、汗が滲む。

「わかる?知香ちゃんが俺から香典返しを受け取ったあの瞬間から。君たちは俺の手のひらの上なんだよ?」

 優しく、やわらかく問うのは声だけ。棘のついた蔓となって、私を搦め取っていく。

(……片桐さんは……智の言う通り………)

 彼は。狡猾で、口が上手くて、囲い込みを得意とするタイプの、ひと。その事実を、この現実を。まざまざと見せつけられていく。

「っ、どうして……どうして、私を。自分のものにしたいのに、どうして私をこうも追い詰めるんですか…?」

 絞り出すように放った声が、震える。身体の奥深い場所からせりあがってくるような、この酷く不快な感覚を、どう表現したらよいのだろう。込み上げてくる感覚を必死に押さえつけながら、僅かに滲んだ視界で懸命に目の前の片桐さんを睨みつけた。

 ずっと疑問だった。私のことを手に入れたいのなら、どうして私を追い詰めて、私が片桐さんを嫌いになるように仕向けるのか。

 その言葉を受けた片桐さんが、きょとん、とした表情を浮かべて、ヘーゼル色の瞳を数度瞬かせた。

「え?だってさ、こうすれば、知香ちゃんは俺を意識せざるを得なくなるでしょ?」

「……え」

 意味が、わからない。どうしてそんな言葉が返ってくるのだろう。

 ぽかん、とした表情を浮かべる私のそんな様子にも構わず、片桐さんは飄々とした雰囲気のまま言葉を続けた。



「好きの反対は『嫌い』じゃない。……『無関心』、なんだよ?」



 想定外の言葉に、ふつり、と。思考回路が、遮断される。



「智くんも、知香ちゃんに同じことをやったはずだよ?知香ちゃんが智くんを意識せざるを得ないような態度を、言動を。俺もそれをしてるだけ」



 出会った夜。あなた呼び、名前呼びを使い分けて。
 ハロウィンの夜。トリックオアトリート、という言葉で混乱した私の左耳で、またね、と囁いた。

 確かに、智も。私の意識が、智に向くように。私の視線は、智を追うように。囲い込んでいくような。そんな言動を、していた。



「だから。知香ちゃんが俺を意識せざるを得ない環境に持ち込んでる」



 まるで小さな子どもに、優しく言い聞かせるかのように。花が綻んだように、やわらかく、片桐さんは微笑んだ。それはまるで、慈愛に満ちた天使のような―――私にとっては、悪魔のような。


 するりと、片桐さんが長い脚を組んで、座っている椅子の背もたれに身体を預けた。ネイビーのスーツが、この場に似つかわしくない優雅な雰囲気を醸し出している。




「だからね?俺のこと。いい加減、好きになって?」




 ―――俺はこんなにも知香ちゃんが好きなんだから。



 片桐さんの声は聞こえないのに。片桐さんの唇が、そう動いたような。そんな、気がした。





 浅い呼吸をしながら顔をあげて、目の前の片桐さんの天使のようで、悪魔のような……そんな微笑みを滲んだ視界のまま見据えて。遮断された思考回路を繋げようと必死に頭を回転させていく。片桐さんを論破するための言葉がないかを探そうと、先ほどからの会話を頭の中で反芻する。

(……あ…)

 ふと。片桐さんとの、やりとりの中で。引っかかるものを、感じた。


『俺はこんなにも知香ちゃんが好きなんだから』


 彼は、そう口にしたように思えた。私の幻覚かもしれないけれども、彼の心の中にはこの言葉があったはずだ。

(……違う)

 片桐さんは、私に嘘をついていない、と言ったけれど。片桐さんも、嘘をついている。いや、ついて

 ぎゅう、と。ヘーゼル色の瞳を睨みつけて、できるだけ声を低くして強く言葉を紡いだ。

「………嘘をついていたのは、片桐さんも同じです」

 私の言葉に。片桐さんが心底面白くなさそうに私を見つめる。

「んん~。俺は知香ちゃんに嘘なんてついたことな~いよ?」

 ヘーゼル色の瞳が、氷のような冷たい光を宿して私を貫いた。その視線に怖気付く自分を叱咤して、強ばる喉を懸命に動かし、私は立て続けに被せるように言葉を紡いだ。

「マーガレットさんのことが好きなくせに、私を好きだと嘘をついた。それは紛れもない事実。揺るがない、事実。そうでしょう、片桐さん?」

「……っ」




 片桐さんが、大きく息を飲んだ。私の言葉に、虚をつかれた様な表情を。その精悍な顔に浮かべている。



「…………」


 私たちの呼吸も、纏う服の衣擦れの音さえもが鳴り止む。

 冷たい空気が落ちる。足元に、ひゅるひゅると落ちていく。
 それはまるで、太陽の光が届かない深海の底に、ゆらゆらと潮だけが揺らめいているような。
 何万光年先の星屑が音もなく消えていくような。

 ふたりだけの空間に。そんな沈黙が訪れていた。




「……ふ」

 静寂しじまを破ったのは、片桐さんだった。片桐さんの口元が、ゆっくりと歪む。その変化を私はハッキリと認識した。片桐さんが何かを口にしようと唇を開いた、その瞬間。

 バタバタと、廊下を誰かが走ってくるような。革靴の底がカーペットに擦れるような音がこの研修ルームに近づいてくる。

「わりぃ、遅くなった!」

 ガタン、と大きな音を立てて、大迫係長がこの研修ルームに走り込んでくる。

「あ、大迫係長。お久しぶりです」

 するり、と片桐さんが組んだ足を崩して、へにゃり、と。そのいつもの人懐っこい笑顔を大迫係長に向けた。

 片桐さんと、ふたりきりではなくなった。その事実に、ふたりに気が付かれないように小さく安堵のため息をつく。

 大迫係長が入室してすぐ、農産販売部のメンバーも入室してきた。初めて会話するメンバーもおり、片桐さんと相対したことで走った心臓を抑えて挨拶を交わし、シンポジウムに向けての打ち合わせが始まる。

「今回の議題の『持続可能な農業を実現するには』ということですが、これから世界では農業に限らず、人間が生きていくに当たって必要不可欠な食を守るという意味も含め、生産者の収入を維持し、消費者のために手ごろな価格の食料を確保していくことが重要になっていきます」

(……)

 先ほどまで私に向けていた、あの掴みどころのない、感情が見えず飄々とした雰囲気を封印した片桐さんが、淡々と言葉を続けていく。

(………この辺は…相変わらずなのね……)

 シンポジウムのための資料を読み上げつつ、アドリブで補足を付けていく片桐さんの俯いた表情をじっと見つめた。

 智と同じで、片桐さんも男の人にしてはまつ毛が長い。明るい髪色と同じ色のまつ毛が瞬きをする度に揺らめく。研修ルームの照明にキラキラと煌めいているその様子を眺めて、ハッと我に返る。

(これじゃ、片桐さんの思う壷じゃない)

 意識せざるを得ない環境に持ち込んでいる、と。片桐さんはそう言った。その言葉通りになっていて、思わず鳥肌がたつ。心の中で小さく頭を振って、手元の資料に視線を落とし、意識をこのあと参加するシンポジウムに向けていった。





 打ち合わせを終えて、一度女性社員用の更衣室に戻り、ロッカーに押し込んでいたスーツケースを引っ張り出す。脇のチャックを開けて、モバイルバッテリーを手に取った。

(……片桐さんが、一緒に参加してる。万が一のことを考えて…)

 今日は、智は夕方には帰国する。ちょうど交流食事会が始まる時間帯だ。前回の出来事を考えてGPSアプリを常時起動し、圏外でないかをこまめに確認した方がいい。

 スーツのジャケットのポケットから、スマホを取り出してロック画面を確認する。前回のイタリア出張に出る前の夜に隠し撮りした、智の穏やかな寝顔を眺めて。

(……大丈夫。なにも、起こらない)

 自分に言い聞かせるように心の中で小さく呟く。手に持ったスマホをぎゅっと握りしめて、スーツケースを手に持ち、更衣室の扉を押し開いた。










 シンポジウムのあとの交流食事会が済み次第、各自直帰していいということになっていた。だから今回は社用車を使用せずに、会場までは電車で移動していくことになっている。

 目的地は自宅から歩いて行ける距離の大きめの多目的施設の大ホール。

 目的地に近い、自宅の最寄り駅の一つ手前で電車を降りた。定期券の範囲内だけれども、ゴールデンウィーク明けに旅費の精算をするために敢えて切符を買った。

 片桐さんは先ほどの打ち合わせと変わらず、電車内でも一切絡みに来なかった。しかも、駅のホームに降りてからも……私に視線すら、向けない。

「……」

 恐らく。他の社員さんの目があるところでは、私になにかを仕掛けてくる気は無いのだろう。買った切符を改札に通して出口に向かいながら、私の斜め前で大迫係長と近況報告をして笑いあっている片桐さんに視線を向けた。

 帰りは会場から歩いて帰る予定だが、どこかで智と合流した方が身のためのような、そんな気がする。

 地上に登り上がる階段に向けて歩みを進めながら、そっとスマホを手に取り日記アプリを起動させて、会場の場所とどこかで合流したい旨を書き込んだ。

(きっと……今は空の上、よね)

 ノルウェーと日本は直行便が無く、経由便を使うそうだ。乗り継ぎをして16時間もかかる。それで明日は私の実家に向けて国内線の飛行機に搭乗する。身体を痛めないかどうかが心配。

 空港についたら、きっとこの日記を真っ先に見てくれるだろう。待ち合わせの指定の場所をメッセージアプリに連絡を入れてくれるはずだ。交流食事会の最中にスマホを確認出来るタイミングを作らなければ。

 地上に登り上がる階段を全員で登っていき、地上に出ると、夏を予感させるようなじっとりとした風が吹き付ける。

(あと……6、7時間もすれば、智に会える)

 早く、会いたい。ただいま、おかえり、と言い合って、手を繋いで欲しい。あの大きな手のひらで、頭を撫でて欲しい。


 早く……片桐さんから離れて、安心、したい。


 訳の分からない不安感が、ぐるぐると渦巻いている。胸騒ぎのような何かを堪えながら、多目的施設の自動ドアをくぐり抜けると『シンポジウム受付』と書いてある看板を認めた。

「私、受付行ってきますね」

 お花歓迎会の時に田邉部長から受け取った参加要項には、受付で会社名と名前が記載された名札を受け取ることになっていた。シンポジウムではそんなに活躍できないだろうから、これくらいは動かないと。そう考えて受付の列に並び、テーブルの用紙に記帳し首から下げるタイプの名札を係の人から受け取って、くるりと踵を返す。



「……あ。一瀬さん?」



 ふ、と。がした。強ばった身体を動かして、声がした正面に視線を向ける。

 面長の、細い瞳と。視線が交差した。ベタついた髪の脂がてらてらと光っている。
 
「く、ろかわ……さん」

 予想外の人物とこんな場所シンポジウム会場で遭遇したことの混乱から。目の前の人物の名前しか紡ぎ出せなかった。

 面長の瞳が、すぅ、と。値踏みするように細められたことを。混乱した思考の片隅で、視認した。
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