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本編・第三部

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 寝室のクローゼットから智の私服や寝間着、バスタオルなどをいくつかピックアップして、コンパクトに折り畳んでいく。リビングに置いている小さめのカゴに順番に重ね、次に自分の私服に手をつける。

「ん~……寝間着は実家に置いているのを使うとして。私は下着と洋服くらいでいいかな」

 今日はお昼前から薫と食事に行くことにしている。食事の後は三木ちゃんと合流して、それから火曜日の朝まで三木ちゃんの家にお世話になる予定。シンポジウムに出席した翌日早朝から私の実家に帰省するから、荷造りするなら今しかないということに気が付き今日は朝起きてからすぐに荷造りに手をつけ始めた。

 今回は智も一緒に帰るから、ふたり分の荷造りが必要。智が出張でノルウェーに持って行っているあの大きなスーツケースがふたり分の洋服を収納するにはちょうどよさそうだった。智が帰国して帰宅したらすぐに中身を入れ替えられるように、あらかたの洋服類は畳んでリビングに纏めて一か所に置いておいた。

「……これくらいかな?」

 まとめあげた洋服を前にひとりごちて、忘れ物がないか確認する。私は実家に置いてあるバスタオルや寝間着を活用する気満々だけれど、チャラそうな見た目に反して気遣い屋の智は、私の実家でタオルを借りるのですら気にして遠慮するだろうから。結果的に智の分の荷物が私の荷物よりも多くなってしまった。

「ま、しょうがないかな。帰って来たら持っていくものといかないもの、自分で分別してもらおう」

 よいしょ、と声をあげながら、重ねていた智の洋服とバスタオルを二つにわけてカゴに入れなおす。

 そうこうしているうちに薫との待ち合わせ時間が迫ってきた。顔を洗い、身支度を整える。今日は少しだけカジュアルにまとめようと考えて、オフホワイトのトップスと優しげなパステルミントグリーンのパンツに、長い着丈の淡いグレーのニットカーディガンを合わせた。

 手早くメイクをして玄関に向かうと、玄関に立てかけてある姿鏡に自分の姿が映り込む。

「……写真、智に送ろうかな」

 イタリア出張の時は、毎日こうして玄関の姿鏡でその日のコーディネートを写真におさめて日記アプリにアップロードしていた。今回は初日からずっと三木ちゃんの家にお世話になっていたから、一度もコーディネートの写真を送っていない。

 今、ノルウェーは日曜日の早朝の4時頃。きっと智はまだ眠って夢を見ている頃だ。起きたらこのコーディネートにどんな感想を書いてくれるだろう。そう考えるだけで、智がそばにいないという寂しさが紛れていく。

 口元がにやけるのを我慢しながら姿鏡の自分を写真におさめ、三木ちゃんの家にお世話になる用のスーツケースを手に持って玄関を押し開いた。








 人並みの向こうから、久しぶりに会う顔が飛び込んでくる。ふい、と手をあげて、3週間振りに会う薫のそのに。思わず悲鳴のような声をあげながら目を見開いた。

「えええっ!!薫、髪どうしたの!?」

「えへへ~~。似合う?」

 照れたような笑みを浮かべる薫。爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
 今月の初旬、南里くんと加藤さんを連れてグリーンエバー社に見学に行ったときに応対してくれた薫は、肩甲骨のあたりまで伸びたミディアムヘアだった。
 それが、今。耳まではっきりと見えるくらいのショートヘアになっていた。髪色も、チョコレート色から落ち着いた深みのあるブラウンへ変わっている。

「ちょっ、……本当にどうしたのよ、薫」

 高校時代、薫はずっとショートヘアだった。だからショートヘアが薫に似合わないはずもない。けれども、こんなにばっさりと髪を切って髪色も変えるくらいだ。彼女に何かが起こったとしか考えられなかった。

「えっとね?先月、モツ鍋食べに行ったときに、好きな人がいるって話ししたでしょ?」

 薫が肩にかけた鞄の紐を触りつつ腕を動かしながら、行こうか、と私を促してくれる。薫の背中を追って、目星をつけていたお店へと足を動かしていく。

「その好きな人。ショートヘアが好きみたいなの」

 隣を歩く薫が、恥ずかしそうに言葉を口にする。その一言で、一瞬で腑に落ちた。私も、智と付き合う前のデートで、好きな芸能人の話になり……智が上げた名前は、丸顔ショートカットの女優さんばかりで。智の好みはそれだ、と思い込んで髪を切った。結局、それも私を嵌めるための言葉だった、らしいけれども。

 なるほど、その人の好みに合わせて髪を切ったということ。なんだか、恋してる、って感じで、可愛い。頬をわずかに染めている薫の横顔を見ていると、私も自然と笑みが零れる。

「結婚前提の彼女さんがいるのはわかってるけど……今年の夏に勝負かけて、それでだめだったら諦めることにしたんだ」

「そっか……」

 女性が一大決心をして髪を切ったのだ。私が髪を切って、偶然遭遇した時。智は驚いたような表情をしていたけれど、結局のところそれも私を搦めとる手段のひとつだったわけで。だからあの表情は、きっと演技だったのだろう、と今更ながら感じるけれども。

(……薫の想い人は、智みたいに計算高く囲い込みをするようなひとではないだろうから、きっと…振り向いてくれるはず、だよね)

 薫の恋路がうまくいけばいいなぁ、と。小さく心の中で呟いた。









「……あ」

 食事を終えて薫と別れたあと、三木ちゃんとの合流場所であるオフィスビル付近の交差点までの道のりをスーツケースを転がしながら歩いていると、目の前に真っ黒で艶の良い、見覚えのある金色の瞳の猫が現れた。

 その金色の瞳と視線が交差し、その猫がゆっくりと私の足元に擦り寄ってくる。すとん、と腰を落としてその黒い毛並みを撫でながら、小さく語り掛けた。

「もしかして、キミ。先月も会った子かな?」

 新規顧客開拓の営業の帰り道にいつもの交差点で出会った、あの黒い猫。もしかしたら、あの猫なのかも。

 あの時はオフィスに戻らなきゃいけない時間が迫っていて、あまり撫でてあげられなかった。また今度出会ったら撫でてあげる、と言って撫でる手を止めた手前、今こうしてまたであって……撫でてあげない理由はない。

 座り込んだ私のふくらはぎに身体を擦り付けるように動き回っている。あの時はストッキング越しだったけれど、今日はミントグリーンのロングパンツ越しで。あの時のような毛並みの気持ち良さは感じられない。

 その背中を撫でていると、ぴょん、と。あの時のように膝の上に飛び乗ってきた。

「わ!……もう、本当に人懐っこいね、キミ」

「ニャァ」

 驚いて一瞬大きな声が出たけれど、そんなのはお構いなし。私の膝の上で座り込み、くるりと身体を丸めて金色の瞳を瞑らせ、ゴロゴロと喉を鳴らしだした。完全にリラックスしているようなその様子に思わず慌てふためく。

「えっ…ちょっと、ここで寝ないでよ~」

 撫でてあげるだけのはずだったのに、こんな風に膝の上で眠られても困ってしまう。これから三木ちゃんと合流しなければならないのだから。

 前足と胴に手を差し入れて、するりと身体を持ち上げた。瞑られていた金色の瞳が、不服そうに細められて私を見つめている。

 その瞳が、やっぱりあのダークブラウンの瞳にそっくりで。一瞬、どくんっと心臓が跳ねる。

「……んもう。そんな顔してもダメなものはダメです」

 ぷくっと頬を膨らませて、私の意思を伝える。すると、ぱたん、ぱたん、と。垂れた尻尾を不機嫌そうに、大きく揺らしている。

「ニャォ」

 『減るもんじゃないし、いーだろ?少しくらい眠らせろよ』とでもいうように、不機嫌そうな鳴き声が上がって金色の瞳に射すくめられる。その瞳に、不思議と少しだけ罪悪感が湧き上がってきた。

 ちらり、と視線を斜め前にやると、少し先の道端に、まるであつらえたように小さな四角いベンチが設置してあった。

「……ちょっとだけよ?」

 不服そうなその視線に根負けしてしまい、ゆっくりとベンチに向かって歩を進め、腰をかけて膝の上に猫の身体をそっと置いた。

「ニャァ」

 『ふむ、素直でよろしい』とでもいうような、満足そうな鳴き声と表情をして。金色の瞳を閉ざしてふたたび私の膝の上で身体を丸めた。

「似てるなぁ……」

 この多少強引なところは智にそっくりだ。先月会った時も、智に似てる、なんて思ったけれど。似てるを通り越して、そっくりだ。

 私の膝の上で丸まったまま、鼻先をすりすりと私のお腹に擦り付けてきた。これも智にそっくりで。くすり、と笑みがこぼれる。

 真上から丸まった猫の体勢を眺めると、それはさながら古代の化石のアンモナイトのよう。

「……かぁわいい…」

 野良猫のはずなのに、本当に人懐っこい。そう考えながら、膝の上で眠る猫の頭をゆっくりと撫でていく。ぱっと見は成猫くらいの見た目。それでも、身体の大きさよりも膝に乗っている重さは感じない。

 腕時計を確認すると、三木ちゃんとの待ち合わせ時間まではあと30分ほど余裕がある。ちょっとだけ……と自分にも言い訳をしながら、さわさわと頭を撫で続けた。

 そういえば。国際空港の近くに桜を見に行ってから、智はよく膝枕を強請ってくるようになった。膝枕をすると私は身動きがとれなくなるから、正直困っている。

 三木ちゃんにも独占欲丸出しであんな態度を取るくらいなのだ。きっと、膝枕をして私の自由を奪うことイコール私の時間を自分だけに使ってくれている、と満足感を感じているのだろう、と思う。

 膝枕をしている時の智は、英会話の本を読んだり、スマホで情報収集をしていたり。はたまた私の身体をまさぐってきて……セックスに雪崩れ込まされたり。

 不意に智とのセックスを思い出してかっと身体が熱くなる。外出先で何を考えているんだ、と、ふるふると頭を振ってその思考を追い出す。
 急にあんな場面を思い出してしまうなんて。完っ全に、性欲おばけの智に毒されている!なんだか恥ずかしくて、むぅ、と思わず口の先が尖っていく。

(あ……智、今日のコーディネート、見てくれたかな?)

 するりと鞄からスマホを取り出して日記アプリを立ち上げた。智から返信の書き込みが付いている。智に似てる猫にまた会ったんだよ、と、書いて送ろう。そんなことをぽやっと考えながら、智からの返信の文章を読んで。一瞬、思考が固まった。


『これ以上可愛くなられてその辺でナンパされたら困る。その格好、俺の前で以外はしないで欲しいんだけど』


 2度読んでもよく飲み込めなくて、3度目でようやく飲み込めた。

「……え、ええ?」

 書かれている文章を理解して、顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。


 不意に。初めて身体を預けた時に。出会ったあの日からずっと我慢していた、と言われたことを思い出して、ふたたび身体の奥がカッと熱くなるのを感じる。


 唐突にこうしてストレートな言葉をぶっ込んでくるところは未だに健在だ。愛してる、と、毎日囁かれていても、こういった不意打ちのようなセリフは本当に心臓に悪い。

「………っ…智の、バカっ……」

 その文章が表示されたスマホを持ったまま、そばにいない智に向かって悪態をつく。じんわりと、耳まで真っ赤になっていくのを自覚した。

「……帰ってくるまで…あと、2日……」

 そう。長かった9日間のノルウェー出張もあと2日。2日後のシンポジウムの日には、智も帰国する。するり、と、スマホを鞄に仕舞って。

「早く…会いたい、な……」

 智に似た膝の上の猫の頭を、そっと撫でながら。その言葉を小さく呟いた。


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