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本編・第三部
176
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お昼休憩からフロアに戻ると、電話を受けながら困惑している加藤さんの姿が飛び込んできた。なにかあったのかな、と考えながら彼女の後ろを通って自分の席に座り、彼女の電話が終わるのを待ってみる。カチャリ、と受話器が置かれて、私の視線に気が付いた加藤さんが、くるりと椅子ごと私の方を向いた。
「主任。丸永忠商社の午後からの通関分、えっと……サーベイ検査?が入るみたいなのですが」
「え、サーベイ!?」
告げられた単語に思わず目を剥く。
貨物搬入作業時に、貨物や輸送してきたコンテナがダメージを受けている場合、保険会社から派遣されたサーベイヤーが立会い調査を行い、破損の損害額などを確認する。この検査が完了するまでは貨物を搬入する倉庫では荷下ろし作業を中断せざるを得ない。
どうしてこうも今日はイレギュラーな事態が頻発しているのだろう。午前中は小林くんの不服申し立ての一件があった。ゴールデンウィーク前で通関の取り扱いも増えているから、相対的にイレギュラーな事例が起こっているだけなのだろうか。
丸永忠商社は小林くんが新たに捕まえてきた新規取引先。手早く対処しないと、逃げられてしまう。デスクの上に置いているメモ帳を鷲掴みし、加藤さんが受けた電話の内容を聞き取っていく。
「荷下ろしをしている倉庫は?」
食い気味な私の問いに加藤さんが大きな瞳を瞬かせて、慌てたように電話機の近くに置いていた自分のメモ帳に視線を落とした。
「グリーンエバー社です。担当は……えっと、確か中河さん、でした」
他人の名前を覚えるのが苦手、と言っていた加藤さんだけれど。最近は良くメモを取っていて、その人に関連する物事もメモして残しているらしく、彼女のそれも改善されてきたように思う。
倉庫の担当が薫なら、話はきっと早いだろう。ひとまず極東商社としては税関に連絡して指示を仰ぐほかない。
昼食後の歯磨きから戻った水野課長を捕まえて、バタバタと手続きを進めていく。
サーベイ検査は損害額が高額な場合に行われることが多い。その金額を一旦立て替える形になる。水野課長が通関部所有の当座残高を三木ちゃんに確認するように指示を飛ばし、各々がせわしなく業務を捌いていくこと、数時間。
腕時計を見遣ると、あっという間に終業時刻を1時間過ぎたところだった。
加藤さんと南里くんもこの時間まで残ってくれているけれど、新入社員のこのふたりに残業させることを田邉部長はよく思っていない。新社会人だからこそ、慣れない日常業務のあとはしっかり休むように口を酸っぱくして言っている場面を見ている。彼らにきりの良い所で切り上げて退勤するように促して、自分の椅子に腰掛けた。
(今日も一日早かった……)
イレギュラーな事態に対処すべく奔走したあとのひどく疲弊した自分の身体を叱咤しながら、PCを操作して社外メールをチェックする。届いているメールのほとんどは、ゴールデンウィーク明けの通関依頼だった。
(ん……あとは、来週の処理でもいい感じかなぁ…)
今日は金曜日。土日を跨いで処理しても構わない分。……だけれども。
(そうだ……来週の火曜日だ。例のシンポジウム)
ちらり、と、デスク上の卓上カレンダーに視線を向ける。今日は4月の最終営業日で、月次の仮締め作業を右斜め前に座る三木ちゃんが行ってくれている。
週明け月曜日はフリーだが、火曜日の午後からは田邉部長の代わりに出席するシンポジウムで、午前中はそのシンポジウムのために、大迫係長、それから農産販売部のメンバーと軽い打ち合わせが入っている。水曜日からはゴールデンウィーク。よくよく考えると、私が自由に動けるのは月曜日の一日だけ。
(……ん~…来週に回さずに今日片付けちゃおう)
いろいろとイレギュラーな事態に奔走して身体はしんどいけれど、ここで後回しにしたら月曜日の自分が苦しいだけだ。今、踏ん張るしかない。
幸か不幸か、智はノルウェー出張中。普段よりも遅く帰宅したところで智に迷惑をかけるわけじゃない。
そう考えて、ぐっと伸びをして。残業申請を延長し、休憩ブースでコーヒーを飲みつつ少しだけ休憩を挟もうと席を立つと、1課側のフロアから私を呼び止める声が聞こえてくる。
「一瀬さん。今、時間いいか?」
大迫係長が、2課が見える位置まで椅子を転がしパーティションからひょっこりと顔を出して、私を手招いている。呼び止められた理由はおそらく来週のシンポジウムの件だろう。
通関部のフロアを退出しようとしていた足を止め、1課のフロアに踵を返す。大迫係長から手渡された資料は、予想通りシンポジウムにかかるものだった。その資料をパラパラと捲って目を通す。
「議題は『持続可能な農業を実現するには』ということらしい。俺は正直、1課で取り扱いがある精密機械とかの知識しかねぇから、正直なところちんぷんかんぷんだ」
大迫係長が肩を大袈裟に竦めて私に視線を向け、言葉を続けた。
「先月末にこの話をもらった時、片桐は正社員登用辞退してウチ辞めるっうし、小林は異動願い出してるし、田邉部長からは俺を1課2課兼任にさせるかもしれないからって話しだったんでな。ま、西浦係長が異動になったからその話は立ち消えちまったんだけど」
「やっぱりそうだったのですね」
大迫係長の言葉に、思わずため息がもれた。
先月、あんなことがあって。2課のメンバーはそれぞれの選択をした。人が足らなくなって、急遽人事部に増員を願い出た形だったのだ。1課は空路担当で、農産関係の知識がないはずの大迫係長がどうしてこのシンポジウムに出席するという流れになったのか、正直疑問だった。
大迫係長は私の言葉を受けて、ゆっくりと椅子に沈み込んだ。
「で、だ。今回のシンポジウム、農産販売部が主に動いてくれている。シンポジウムの場では俺らはサポートするだけでいいらしい」
そうして、大迫係長がくいっと顎を動かして、私に手渡した資料を示す。先ほどから目を通していた資料は、農産販売部が作成した資料だったらしい。
「この資料を基に、火曜日の午前中に打ち合わせをするそうだ。悪いが、土日で読み込んできておいてくれないか」
三木ちゃんの家にお世話になったのは今朝まで。智も出張でいない。日曜のお昼は薫と食事に行く予定にしているけれど、それ以外は自宅に引きこもって通関士の試験勉強をするつもりでいたから特に支障もない。手元に落としていた視線を、椅子に座ったままの大迫係長に戻す。
「わかりました」
私の返答を受けた大迫係長がキコキコと椅子を揺らしながら、ぽつりと呟く。
「ま、片桐が出席するらしいからな。あいつは通関の知識も持ってる。俺らは通関部からも出席した、という実績を残すための、いわばお飾りで出席するっていうだけだ。そこまで気負わずにさらっと参加してこい、と田邉部長が言っていたぞ」
やはり、予想通り。片桐さんもこのシンポジウムに出席するのだ。大迫係長に気がつかれないように小さくため息をついて肩を落とす。
あの喫茶店で片桐さんと遭遇して、彼も参加すると聞いてから、もしかしたら業務の都合や人員の采配によっては片桐さんじゃなくなるかもしれない、と、淡い期待を抱いていたけれども。そんなに現実は甘くなかった。
「俺らの本番は、シンポジウムの後の交流食事会だ。名刺配り散らかして取引先を捕まえてくるのが主な役割だ」
くるくると。大迫係長が手に持ったボールペンを回しながら続けた言葉に、小さく頷いた。
正直、そうだろうなとは思っていた。黒川さんの一件でも感じたけれど、私たち通関部は依頼主の要望に沿って通関業務を代行しているだけ。農産品の輸入出に関する知識はあっても、そういった議題のシンポジウムでは力になれるはずがない。だから、シンポジウムの後の交流食事会でどれだけ新規顧客を獲得できるかが勝負なわけで。
手渡された資料を、ぐっと握りしめる。
(………片桐さんのことは一旦置いておくとして。交流会、頑張らなきゃ)
一般職から総合職に転換したものの、新たな取引先を捕まえてきた、という実績は残せていない。せっかく訪れた大チャンス。この機会を逃すわけにはいかない。
心の中で決意を新たにしていると、大迫係長が「そういや」と声をあげた。
「俺、婚約したんだ。冬に挙式すんの。一応、通関部メンバーは招待しようと思ってんだが、11月25日……一瀬さん、都合大丈夫か?」
さらっと、何でもない風に告げられた言葉。数秒遅れてその言葉の意味を理解した。最近、私の周りでは結婚ラッシュだなぁ、とぼんやり考えながら、ニコッと笑顔を貼り付ける。
「おめでとうございます。……えっと、10月は通関士の試験がありますけど、11月なら大丈夫です。よろこんで参列させていただきます」
10月の第1週目に通関士の試験で、大迫係長の挙式日が合格発表の日ではなかっただろうか。お祝い事にあやかって、是非とも合格発表に私の受験番号が載っているといいのに。
私の笑顔に大迫係長が幸せそうな笑みを返してくれる。その笑顔を見ていると、私まで幸せな気持ちになる。幸せオーラって本当にあるのだな、と、小さく心の中でひとりごちた。
「じゃ、そういうことで。諸々よろしくな」
そう締めくくって大迫係長は席を立つ。私にひらひらと手を振って行動予定表のところまで歩き、マグネットを退勤に動かして通関部のフロアを退出していった。
(……新規顧客獲得も、通関士の勉強も。頑張らなくちゃ……)
遠くなる大迫係長の背中を眺めつつ、その前に今日捌いて帰ろうと思っていたゴールデンウィーク明けの通関依頼を処理しなければ、と我に返る。大迫係長から受け取った資料を失くさないようにクリアファイルに挟んで、慌ててデスクに戻った。
(うう……随分遅くなってしまった……)
自然と漏れ出てくるあくびを噛み殺しながら自宅の最寄駅の改札に定期券を翳す。定期券を改札を通す音が明るく、ピッと人気のないホームに鳴り響いた。
あの後、ゴールデンウィーク明けの通関依頼分の処理を進めていくと、思ったよりも量が多くて。あれ以上残業せずに帰宅していたら月曜日がとんでもないことになっていただろうと思うと背筋が凍る。
イレギュラーな処理をこなし、残業もいつもよりも長くやって。今日くらいは夕食は手抜きしてもいいだろうか。そう考えて、駅に直結しているスーパーで出来合いの惣菜を買った。買い物袋と三木ちゃんの家にお世話になるための荷物を詰めたスーツケースを手に持って、地上に上がる階段をひとりで登りあがっていく。
階段の最後の一段を上り、地上に出た瞬間、強く大きな風が吹き抜けていった。その大きな風に誘われるように、ふい、と視線を斜め上に向けると、散り終えた桜の枝が先ほど吹き付けた風に大きく揺れている。
「……もう、春も終わっちゃうなぁ…」
ゆらゆらと揺れている桜の枝を見つめながら、ぽつりと呟いた。
今年は桜の開花が遅くて、春が長かったように感じたけれど。もう、来週から5月だ。
あっという間に月日は過ぎ去ってしまうんだなぁ、と、ぽやっと考えながら自宅のエントランスで郵便受けを確認すると、見覚えのある白い封筒が目に入った。
ゆっくりとその白い封筒を手にとって、宛名を確認する。寿の切手に、お手本のように達筆な筆字で『邨上 智 様』と記してある。
……そして、その封筒を裏返して。予想していた裏面の差出人の名前を。午前中に名刺交換をしたあの人の名前を、小さく読み上げた。
「……浅田、さん…」
これはきっと、三木ちゃんにも送られていた浅田さんの結婚式の招待状だろう。スピーチを頼まれる仲なのだろうから、てっきり会社で招待状を手渡しされているのかと思っていた。
「…………あ。そっか、出張に行ってるから…」
当の智は、ノルウェー出張に行っている。ゴールデンウィークの直前5月2日に帰国予定で、次に出社するのはゴールデンウィーク明け。だから浅田さんは手渡しではなく、郵送するという選択をしたのだろう。
招待状が届いた、ということは、出欠ハガキも同封されているはず。何日までに返送しなければならないのかの確認をした方がいいだろうから、今日の日記アプリで、私が代わりに開封して出欠ハガキの代筆をした方がいいのかまで確認しておいた方がいいだろう。
そこまでぼんやり考えて、手に持った白い封筒を見つめながら、ダークブラウンの瞳を思い浮かべた。
(……今、どうしてるかな…)
今、ノルウェーはきっと、金曜日のお昼を過ぎたころ。商談先の相手と食事でもしているのだろうか。
日記アプリでは、商談は順調だ、と書き込みがあった。英会話の勉強をしていたことが功を奏しているのだろう、通訳を介さずに智自身で英語で会話している部分もあるらしい。日本でも海外でも、ビジネスの場で自分の言葉で自分の意思を伝えられる、というのはかなりの強みになり得るのだろう。
白い封筒を手に持ったままエレベーターに乗り込んで、玄関に続く廊下を歩き、久しぶりに自宅の玄関を開けた。キィ、と、小さく蝶番が軋む音が響く。
その、瞬間。
『おかえり』
もう5日も聞けていない、智のあの低く甘い声で、「おかえり」と。いつもの声が響いた気がして、身体がびくりと跳ねた。
「……え?」
数度瞬きをしても、目の前に広がる宵闇の中のような、真っ暗な玄関は変わらなくて。状況を把握して、ハッと我に返る。
「…………そんなこと、あるわけないのに」
いくら寂しいからと言っても、これはないだろう。自嘲気味の笑いをこぼしながら、玄関の電気を灯してヒールを脱いでいく。
今週は、ずっと。仕事中も、終業後も。夜も、朝も、三木ちゃんと一緒だったから。こうして、ひとりの時間を噛み締める、なんてこともなくて。
だからこそ……今、きっと。反動で、寂しくて。
春、というひとつの季節が終わってしまう寂しさも相まって、人肌恋しくて。智の甘い声の幻聴が、聴こえてしまうのだろう。
ぎゅう、と痛む胸を堪えるように、手に持った白い封筒ごと、自分の身体を抱きしめる。
「……智…」
聞こえてきた幻聴の余韻を振り払うように。誰に聞かせるでもない名前を、小さく吐き出した。
「主任。丸永忠商社の午後からの通関分、えっと……サーベイ検査?が入るみたいなのですが」
「え、サーベイ!?」
告げられた単語に思わず目を剥く。
貨物搬入作業時に、貨物や輸送してきたコンテナがダメージを受けている場合、保険会社から派遣されたサーベイヤーが立会い調査を行い、破損の損害額などを確認する。この検査が完了するまでは貨物を搬入する倉庫では荷下ろし作業を中断せざるを得ない。
どうしてこうも今日はイレギュラーな事態が頻発しているのだろう。午前中は小林くんの不服申し立ての一件があった。ゴールデンウィーク前で通関の取り扱いも増えているから、相対的にイレギュラーな事例が起こっているだけなのだろうか。
丸永忠商社は小林くんが新たに捕まえてきた新規取引先。手早く対処しないと、逃げられてしまう。デスクの上に置いているメモ帳を鷲掴みし、加藤さんが受けた電話の内容を聞き取っていく。
「荷下ろしをしている倉庫は?」
食い気味な私の問いに加藤さんが大きな瞳を瞬かせて、慌てたように電話機の近くに置いていた自分のメモ帳に視線を落とした。
「グリーンエバー社です。担当は……えっと、確か中河さん、でした」
他人の名前を覚えるのが苦手、と言っていた加藤さんだけれど。最近は良くメモを取っていて、その人に関連する物事もメモして残しているらしく、彼女のそれも改善されてきたように思う。
倉庫の担当が薫なら、話はきっと早いだろう。ひとまず極東商社としては税関に連絡して指示を仰ぐほかない。
昼食後の歯磨きから戻った水野課長を捕まえて、バタバタと手続きを進めていく。
サーベイ検査は損害額が高額な場合に行われることが多い。その金額を一旦立て替える形になる。水野課長が通関部所有の当座残高を三木ちゃんに確認するように指示を飛ばし、各々がせわしなく業務を捌いていくこと、数時間。
腕時計を見遣ると、あっという間に終業時刻を1時間過ぎたところだった。
加藤さんと南里くんもこの時間まで残ってくれているけれど、新入社員のこのふたりに残業させることを田邉部長はよく思っていない。新社会人だからこそ、慣れない日常業務のあとはしっかり休むように口を酸っぱくして言っている場面を見ている。彼らにきりの良い所で切り上げて退勤するように促して、自分の椅子に腰掛けた。
(今日も一日早かった……)
イレギュラーな事態に対処すべく奔走したあとのひどく疲弊した自分の身体を叱咤しながら、PCを操作して社外メールをチェックする。届いているメールのほとんどは、ゴールデンウィーク明けの通関依頼だった。
(ん……あとは、来週の処理でもいい感じかなぁ…)
今日は金曜日。土日を跨いで処理しても構わない分。……だけれども。
(そうだ……来週の火曜日だ。例のシンポジウム)
ちらり、と、デスク上の卓上カレンダーに視線を向ける。今日は4月の最終営業日で、月次の仮締め作業を右斜め前に座る三木ちゃんが行ってくれている。
週明け月曜日はフリーだが、火曜日の午後からは田邉部長の代わりに出席するシンポジウムで、午前中はそのシンポジウムのために、大迫係長、それから農産販売部のメンバーと軽い打ち合わせが入っている。水曜日からはゴールデンウィーク。よくよく考えると、私が自由に動けるのは月曜日の一日だけ。
(……ん~…来週に回さずに今日片付けちゃおう)
いろいろとイレギュラーな事態に奔走して身体はしんどいけれど、ここで後回しにしたら月曜日の自分が苦しいだけだ。今、踏ん張るしかない。
幸か不幸か、智はノルウェー出張中。普段よりも遅く帰宅したところで智に迷惑をかけるわけじゃない。
そう考えて、ぐっと伸びをして。残業申請を延長し、休憩ブースでコーヒーを飲みつつ少しだけ休憩を挟もうと席を立つと、1課側のフロアから私を呼び止める声が聞こえてくる。
「一瀬さん。今、時間いいか?」
大迫係長が、2課が見える位置まで椅子を転がしパーティションからひょっこりと顔を出して、私を手招いている。呼び止められた理由はおそらく来週のシンポジウムの件だろう。
通関部のフロアを退出しようとしていた足を止め、1課のフロアに踵を返す。大迫係長から手渡された資料は、予想通りシンポジウムにかかるものだった。その資料をパラパラと捲って目を通す。
「議題は『持続可能な農業を実現するには』ということらしい。俺は正直、1課で取り扱いがある精密機械とかの知識しかねぇから、正直なところちんぷんかんぷんだ」
大迫係長が肩を大袈裟に竦めて私に視線を向け、言葉を続けた。
「先月末にこの話をもらった時、片桐は正社員登用辞退してウチ辞めるっうし、小林は異動願い出してるし、田邉部長からは俺を1課2課兼任にさせるかもしれないからって話しだったんでな。ま、西浦係長が異動になったからその話は立ち消えちまったんだけど」
「やっぱりそうだったのですね」
大迫係長の言葉に、思わずため息がもれた。
先月、あんなことがあって。2課のメンバーはそれぞれの選択をした。人が足らなくなって、急遽人事部に増員を願い出た形だったのだ。1課は空路担当で、農産関係の知識がないはずの大迫係長がどうしてこのシンポジウムに出席するという流れになったのか、正直疑問だった。
大迫係長は私の言葉を受けて、ゆっくりと椅子に沈み込んだ。
「で、だ。今回のシンポジウム、農産販売部が主に動いてくれている。シンポジウムの場では俺らはサポートするだけでいいらしい」
そうして、大迫係長がくいっと顎を動かして、私に手渡した資料を示す。先ほどから目を通していた資料は、農産販売部が作成した資料だったらしい。
「この資料を基に、火曜日の午前中に打ち合わせをするそうだ。悪いが、土日で読み込んできておいてくれないか」
三木ちゃんの家にお世話になったのは今朝まで。智も出張でいない。日曜のお昼は薫と食事に行く予定にしているけれど、それ以外は自宅に引きこもって通関士の試験勉強をするつもりでいたから特に支障もない。手元に落としていた視線を、椅子に座ったままの大迫係長に戻す。
「わかりました」
私の返答を受けた大迫係長がキコキコと椅子を揺らしながら、ぽつりと呟く。
「ま、片桐が出席するらしいからな。あいつは通関の知識も持ってる。俺らは通関部からも出席した、という実績を残すための、いわばお飾りで出席するっていうだけだ。そこまで気負わずにさらっと参加してこい、と田邉部長が言っていたぞ」
やはり、予想通り。片桐さんもこのシンポジウムに出席するのだ。大迫係長に気がつかれないように小さくため息をついて肩を落とす。
あの喫茶店で片桐さんと遭遇して、彼も参加すると聞いてから、もしかしたら業務の都合や人員の采配によっては片桐さんじゃなくなるかもしれない、と、淡い期待を抱いていたけれども。そんなに現実は甘くなかった。
「俺らの本番は、シンポジウムの後の交流食事会だ。名刺配り散らかして取引先を捕まえてくるのが主な役割だ」
くるくると。大迫係長が手に持ったボールペンを回しながら続けた言葉に、小さく頷いた。
正直、そうだろうなとは思っていた。黒川さんの一件でも感じたけれど、私たち通関部は依頼主の要望に沿って通関業務を代行しているだけ。農産品の輸入出に関する知識はあっても、そういった議題のシンポジウムでは力になれるはずがない。だから、シンポジウムの後の交流食事会でどれだけ新規顧客を獲得できるかが勝負なわけで。
手渡された資料を、ぐっと握りしめる。
(………片桐さんのことは一旦置いておくとして。交流会、頑張らなきゃ)
一般職から総合職に転換したものの、新たな取引先を捕まえてきた、という実績は残せていない。せっかく訪れた大チャンス。この機会を逃すわけにはいかない。
心の中で決意を新たにしていると、大迫係長が「そういや」と声をあげた。
「俺、婚約したんだ。冬に挙式すんの。一応、通関部メンバーは招待しようと思ってんだが、11月25日……一瀬さん、都合大丈夫か?」
さらっと、何でもない風に告げられた言葉。数秒遅れてその言葉の意味を理解した。最近、私の周りでは結婚ラッシュだなぁ、とぼんやり考えながら、ニコッと笑顔を貼り付ける。
「おめでとうございます。……えっと、10月は通関士の試験がありますけど、11月なら大丈夫です。よろこんで参列させていただきます」
10月の第1週目に通関士の試験で、大迫係長の挙式日が合格発表の日ではなかっただろうか。お祝い事にあやかって、是非とも合格発表に私の受験番号が載っているといいのに。
私の笑顔に大迫係長が幸せそうな笑みを返してくれる。その笑顔を見ていると、私まで幸せな気持ちになる。幸せオーラって本当にあるのだな、と、小さく心の中でひとりごちた。
「じゃ、そういうことで。諸々よろしくな」
そう締めくくって大迫係長は席を立つ。私にひらひらと手を振って行動予定表のところまで歩き、マグネットを退勤に動かして通関部のフロアを退出していった。
(……新規顧客獲得も、通関士の勉強も。頑張らなくちゃ……)
遠くなる大迫係長の背中を眺めつつ、その前に今日捌いて帰ろうと思っていたゴールデンウィーク明けの通関依頼を処理しなければ、と我に返る。大迫係長から受け取った資料を失くさないようにクリアファイルに挟んで、慌ててデスクに戻った。
(うう……随分遅くなってしまった……)
自然と漏れ出てくるあくびを噛み殺しながら自宅の最寄駅の改札に定期券を翳す。定期券を改札を通す音が明るく、ピッと人気のないホームに鳴り響いた。
あの後、ゴールデンウィーク明けの通関依頼分の処理を進めていくと、思ったよりも量が多くて。あれ以上残業せずに帰宅していたら月曜日がとんでもないことになっていただろうと思うと背筋が凍る。
イレギュラーな処理をこなし、残業もいつもよりも長くやって。今日くらいは夕食は手抜きしてもいいだろうか。そう考えて、駅に直結しているスーパーで出来合いの惣菜を買った。買い物袋と三木ちゃんの家にお世話になるための荷物を詰めたスーツケースを手に持って、地上に上がる階段をひとりで登りあがっていく。
階段の最後の一段を上り、地上に出た瞬間、強く大きな風が吹き抜けていった。その大きな風に誘われるように、ふい、と視線を斜め上に向けると、散り終えた桜の枝が先ほど吹き付けた風に大きく揺れている。
「……もう、春も終わっちゃうなぁ…」
ゆらゆらと揺れている桜の枝を見つめながら、ぽつりと呟いた。
今年は桜の開花が遅くて、春が長かったように感じたけれど。もう、来週から5月だ。
あっという間に月日は過ぎ去ってしまうんだなぁ、と、ぽやっと考えながら自宅のエントランスで郵便受けを確認すると、見覚えのある白い封筒が目に入った。
ゆっくりとその白い封筒を手にとって、宛名を確認する。寿の切手に、お手本のように達筆な筆字で『邨上 智 様』と記してある。
……そして、その封筒を裏返して。予想していた裏面の差出人の名前を。午前中に名刺交換をしたあの人の名前を、小さく読み上げた。
「……浅田、さん…」
これはきっと、三木ちゃんにも送られていた浅田さんの結婚式の招待状だろう。スピーチを頼まれる仲なのだろうから、てっきり会社で招待状を手渡しされているのかと思っていた。
「…………あ。そっか、出張に行ってるから…」
当の智は、ノルウェー出張に行っている。ゴールデンウィークの直前5月2日に帰国予定で、次に出社するのはゴールデンウィーク明け。だから浅田さんは手渡しではなく、郵送するという選択をしたのだろう。
招待状が届いた、ということは、出欠ハガキも同封されているはず。何日までに返送しなければならないのかの確認をした方がいいだろうから、今日の日記アプリで、私が代わりに開封して出欠ハガキの代筆をした方がいいのかまで確認しておいた方がいいだろう。
そこまでぼんやり考えて、手に持った白い封筒を見つめながら、ダークブラウンの瞳を思い浮かべた。
(……今、どうしてるかな…)
今、ノルウェーはきっと、金曜日のお昼を過ぎたころ。商談先の相手と食事でもしているのだろうか。
日記アプリでは、商談は順調だ、と書き込みがあった。英会話の勉強をしていたことが功を奏しているのだろう、通訳を介さずに智自身で英語で会話している部分もあるらしい。日本でも海外でも、ビジネスの場で自分の言葉で自分の意思を伝えられる、というのはかなりの強みになり得るのだろう。
白い封筒を手に持ったままエレベーターに乗り込んで、玄関に続く廊下を歩き、久しぶりに自宅の玄関を開けた。キィ、と、小さく蝶番が軋む音が響く。
その、瞬間。
『おかえり』
もう5日も聞けていない、智のあの低く甘い声で、「おかえり」と。いつもの声が響いた気がして、身体がびくりと跳ねた。
「……え?」
数度瞬きをしても、目の前に広がる宵闇の中のような、真っ暗な玄関は変わらなくて。状況を把握して、ハッと我に返る。
「…………そんなこと、あるわけないのに」
いくら寂しいからと言っても、これはないだろう。自嘲気味の笑いをこぼしながら、玄関の電気を灯してヒールを脱いでいく。
今週は、ずっと。仕事中も、終業後も。夜も、朝も、三木ちゃんと一緒だったから。こうして、ひとりの時間を噛み締める、なんてこともなくて。
だからこそ……今、きっと。反動で、寂しくて。
春、というひとつの季節が終わってしまう寂しさも相まって、人肌恋しくて。智の甘い声の幻聴が、聴こえてしまうのだろう。
ぎゅう、と痛む胸を堪えるように、手に持った白い封筒ごと、自分の身体を抱きしめる。
「……智…」
聞こえてきた幻聴の余韻を振り払うように。誰に聞かせるでもない名前を、小さく吐き出した。
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長男だけどなにやら訳ありであまり跡取りとして望まれていない
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