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本編・第三部

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 黒い大きなスーツケースを玄関の壁に立てかけて、座り込んだまま革靴の紐を結んでいる黒い背中をじっと見つめる。革靴を履き終えすっと立ち上がり、トントン、と爪先で床を叩いて。くるりと智が私を振り返った。

「……じゃ、行ってくる」

 さらり、と、黒髪が揺れ動いた。複雑そうな感情を湛えたダークブラウンの瞳と、視線が交差する。

「…うん……」

 智が大きい手のひらで私の髪を撫でた。その感覚に強烈な寂しさが込み上げて、じわり、と、視界が歪む。唇を噛んでそれをぐっと堪えた。

「……大丈夫。たった9日間だ」

 私を安心させるかのように、ふっと。小さく智が笑った。



 結局。浅田さんの協力を得ても、黒川さんが不正な取引をしているという証拠は何も掴めないまま。
 あっという間に2週間が過ぎ、智が出張のため、日本を発つ日が来てしまった。



 7泊9日のノルウェー出張。4月のノルウェーは日本の冬と同じくらい寒いそうで、智の相棒の黒いスーツケースにはクローゼットに仕舞い込んでいたダウンやセーターなどをたくさん詰めた。
 3月から10月がサマータイムで、日本との時差は7時間。ノルウェーが正午のとき、日本は19時。イタリア出張の時とほぼ変わらない。

「……うん。ごめんね、心配かけちゃって。はい、冬物のコート」

 不安な気持ちを押し殺すように、にこりと笑みを浮かべる。

 時差もあるし、連絡もイタリア出張の時と同じように日記アプリでしか取れない。

 けれど、前回と違うのは、智がいない平日の間は、私は三木ちゃんの家にお世話になる、ということ。前回のように一人きりで過ごすわけじゃない。寂しさだってきっと前回ほどじゃないはず。

 黒川さんの件は証拠も掴めておらず、片桐さんのことだって解決していない。
 でも、過去に警察沙汰を引き起こしている黒川さんは『不正な取引』という形で私に害をなそうとしているとわかったし、片桐さんも社員登用された。唯一の身内である槻山取締役の顔を立てなければならないから、前回のようなあんな強引な手段は使ってこない、はず、だ。


 だから、寂しくもないし、不安がる必要もない。


 そう、わかっているのに。


 ずっとずっと、仕事をしている時間以外は毎日一緒だから、隣に智がいない、というのを想像するだけで。心にぽっかり穴が空いたような感覚に陥ってしまう。

「……帰ってきたら、ゴールデンウィークだろ?知香の生まれ故郷見んの、楽しみにしてっから」

 寂しい、と感じている気持ちが。智に伝わったのだろうか。智がやわらかく微笑みながら話題を変え、ぽんぽん、と。ふたたび私の頭を撫でた。

 智が出張から帰ってきた翌日から、私の実家にふたりで帰ることにしている。同棲を父に認めてもらった時に、父は智に「ゴールデンウィークは一緒に帰っておいで」と言ったらしい。遊びにおいで、ではなく、帰っておいで、と。同棲を認めてもらったのは電話口だったけれども、父はよほど智のことを気に入ったようだった。

 私の生まれ故郷までは飛行機で2時間ほど。ノルウェーから帰国したばかりの智には、2日連続で飛行機に乗ってもらうことになるけれども、こればかりはスケジュール上、仕方ない。

「……生まれ故郷、っていっても、私の地元、本当に何もないよ?平野部だし、田舎だもん。温泉しか無いし」

 少しだけ口の先を尖らせながら言葉を紡いだ。

 そう。地元は途方もなく田舎で、隣の県は都会、その反対側の隣の県は有名な観光地をいくつも有している。『通り抜けする県』という印象が強い県なのだ。不名誉なことに、平野部で真っ直ぐな道路が多い、ということ、そして前述の通り通り抜けされる県ということも相まって、交通事故発生件数が日本一という地域。

 平野部ゆえに、何処に行くにも車が必須。一家に一台ではなく、ひとりに一台必要なほどだ。

 唯一誇れるのは、温泉地が多くて、旅館がたくさんあり日帰り温泉ができる旅館も多い、ということくらいだろうか。
 バレンタインの時に夕食に作った温泉湯豆腐は、そんな地元の特産料理だ。

 私の表情に、智が楽しそうに声をあげた。

「知香が小さい頃にどんな景色を見て育ったのかも見たいし、本場の温泉湯豆腐も食いてぇ。ノルウェーでの商談、頑張るしかねぇな」

 にこにこと満面の笑みで紡がれる言葉に、まるで遠足に心踊らせた子供のようだと感じて、くすりと笑みが零れる。

 智はお正月に連れて行ってもらったあの実家で生まれ育ったのだそうだ。絢子さんもこちらの生まれだったそう。幼少期は徹さんも多忙で家族旅行の記憶もあまり無いらしい。社会人となってからは自分の仕事が忙しくなかなか旅行にも行けていない。

 そんな事情も相まって、私の実家に帰ることを指折り楽しみにしてくれている。

 地元帰省を楽しんでくれるといいな、と小さく心の中で呟いて。こんなことしている場合じゃない、と、我に返る。

「智、そろそろ出ないと。藤宮くんと待ち合わせてるんでしょう?」

 ノルウェーには入社2年目の藤宮くんの教育を兼ねて一緒に連れて行くそうで、海外に行くのが初めての彼と途中で待ち合わせているらしい。国際空港で勝手がわからず迷子になられても困るから、という理由だそうだ。

 促すような私の言葉に、智が左腕を持ち上げて腕時計をちらりと見遣って。

「……そうだな…」

 その言葉を小さく呟いて、ふぅ、と、智が小さくため息をついた。ダークブラウンの瞳と、視線が交差する。

「知香。行ってらっしゃいの、キス。してくれねぇ?」

 こてん、と。智が強請るように首を傾げた。その色っぽい姿に、どくんっと心臓が跳ねる。
 ドキドキとする心臓を抑えながら、無事に帰国するように、と願いを込めて。智の鍛えられた胸に手を当てて少しだけ背伸びをし、智の唇に軽く触れる。

「……行ってらっしゃい」

 ゆっくりと唇を離して、じっと切れ長の瞳を見つめながら、それだけを呟いた。
 名残惜しいけれど、いい加減出発してもらわないと。私も今日は仕事だ。智を送り出してから、私も身支度しなければならない。

「………ん。行ってくる」

 そう口にして、智が少しだけ顔を下げた。ふたたび唇が軽く合わさる。ゆっくりと唇が離れていく感覚に涙が零れそうになるけれど、ここで泣いては智がせっかく楽しい話題に変えてくれた心配りを台無しにしてしまう。

 ぐっと堪えて、再度、行ってらっしゃい、と、声をあげた。

 智が玄関の扉を押し開いていく。その扉を支え、廊下に身体を半分出して。智がエレベーターに乗り込み、扉が閉まる瞬間に私を見つめて手をあげた。その姿を、玄関からじっと眺める。

「……泣かない、って決めた、もん…」

 震える声で小さく呟くと同時に、はらり、と。一筋の雫が落ちて。その雫を、寝間着の袖で拭い、ぱんっと軽く自分の頬を叩いた。

「…………よし。今日も仕事頑張るぞっ」

 自分に言い聞かせるように。いつもよりも大きく、声をあげた。







 カツカツと、ヒールの音をさせながら。沈んだ心を振り払うように軽快に歩いていく。電車を降り、いつもの改札を通って、オフィスビルに近い出口まで足を進めて。澄んだ黒い瞳と、視線が交差した。

「……あ、小林くん。おはよ」

 にこっと笑顔を向けながら朝の挨拶の言葉を投げかけた。小林くんが私の言葉にぺこりと頭を下げる。

「………おはようございます、一瀬さん」

 穏やかな声で紡がれる朝の挨拶。小林くんとこうして最寄駅で遭遇するのは久しぶりだ。というより、小林くんと会話すること自体が久しぶりのような気がする。通関部のお花見歓迎会の前日に、1階のカフェで席を探していた時以来だ。

 あれから仕事の方はどうなんだろう。少しは慣れたのかな、なんて考えていると、小林くんが私の足元に……正確には私が握りしめたままのスーツケースに視線を落とした。

「通関部でどこか出張にでも行かれるのですか?珍しいですね」

 澄んだ瞳を訝しげに細めながら、ぽつり、と小林くんが問いかけた。

 通関部は、出張なんてほとんど無い。だから小林くんの疑問は至極当たり前のことで。

 コロコロと、数日分の着替えが詰まったスーツケースを引いていく。小林くんと横並びになってオフィスビルのエントランスに向かって歩きつつ、智が絡んでいるこの一件をどう説明しようか少しだけ逡巡する。



 あの夜。小林くんは、やっと前に進める、と、口にした。その様子に、きっと小林くんの中で私に対する感情に区切りがついたのだろう、と、私はそう思っている。

 小林くんからしてみれば、智は恋敵。でも、もう、小林くんの中では。恋敵、という過去形になっているだろう。



 そこまで考えて、正直に理由を話すことにした。

「ううん。ちょっとね、彼が出張なんだ。……のこと、まだ解決してないから。三木ちゃんのお家に数日間お世話になることにしたの」

 小林くんが私の言葉に、小さく息を飲んで立ち止まる。あの夜に片桐さんが私にを知っている小林くんだから、片桐さんが私をまだ諦めていない、と察して、きっと驚いたのだろう。

 立ち止まった小林くんを振り返り、驚かせてごめん、と口にしようとした瞬間。小林くんが、予想外の言葉を小さく呟いた。

「……三木さんの家に、ですか?」

「え?ええ。そう」

 小林くんが引っかかった「三木ちゃんの家」、という単語。どうしてその単語に引っかかったのかが私には全く分からなくて。少し後ろに立ち止まった小林くんを見つめたまま、小首を傾げつつ小林くんの問いに肯定の言葉を口にする。

 私のその言葉を受けて、小林くんが、じっと考え込むように。すっと目線を足元に落としていく。

「……すみません。ちょっと色々と驚いたもので」

 小林くんが澄んだ瞳を数度瞬かせて、ふたたび足を動かし始めた。ふわり、と、小林くんの香水の香りが漂って。私も小林くんの後を、コロコロとスーツケースを転がしながらゆっくりと歩いていく。

 小林くんは智よりは背が低いけれど、圧倒的に私より足が長い。なのに、今、歩く速度は私と一緒で。きっと私に歩幅を合わせてくれているのだろうと察する。

 どこまでも聡くて、こうして気配りが出来て優しい子だから。小林くんにも……幸せになって欲しいな、と、素直に思う。

「驚かせてごめんね。あの人、ほんとしつこいのよね……」

 ほう、と、小さくため息をつきながら、エレベーターの上ボタンを押した。上りのエレベーターが到着して、他社の社員さんに混じって小林くんとふたりで乗り込んだ。通関部と畜産販売部のフロアがある階にふたりで降り立つと。

「……何か力になれることがあれば、俺にも言ってくださいね」

 ぽつり、と、小林くんがふたたび私の足元のスーツケースを見つめて呟いた。

(……やっぱり、小林くんは本当に優しいなぁ…)

 小林くんの申し出はありがたいけれど。いくら彼の中で区切りがついたのだろうと推測できても、小林くんの気持ちを慮るならその言葉を正直に受け止めるのは、彼の優しさを私にとって利用しているようで。とても……いや、かなり気が引けた。

「……うん、ありがとう。何かあったら、声、かけるね?」

 社交辞令のような言葉を紡いだ自分を、少しだけ嫌いになりそう。ぎゅっと胸の奥が痛むのを無視して、小林くんに、心の中で……こんな風にしか答えられられなくてごめん、と小さく謝りながら。

 じゃあね、と。小林くんに手を振って、女性社員用の更衣室に足を向けた。



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