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本編・第三部
168
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「今年の誕生日?確かクリスマスだったか。そこまでに新部門を軌道に乗せるって?」
浅田さんがニヤニヤと智を揶揄うように笑みを浮かべた。
智の口から飛び出してきた思いもよらない言葉。私にはまだ、その言葉が頭に届いていないようで。
(え、えええ?私の、誕生日までに、って……?)
脳内は完全に大混乱に陥っていた。
確かに、去年の私の誕生日の日。お付き合いがキチンと始まったあのクリスマスの日。結婚を前提に、と言われて、深い青をしたベルベットの箱を目の前に差し出されて。智のその想いも言葉も受け取り、快諾した。
あの箱に。本当に指輪が入っている、それをふわりと開けてくれる……そんな瞬間はいつ訪れるだろう、と、最近夢見がちに考えていたけれど。
さっき智が口にしたように。新部門のことも落ち着いていないし、きっと……当分、先になるはずだと思っていた。それこそ、新部門が軌道に乗るまで。だから、年単位かかるだろうと。
私だって、通関士試験が今年の10月に控えている。総合職に転換したばかりだし、新入社員の教育も担当している。主任にも昇進した。色恋にうつつを抜かしている場合じゃない。
お互いに責任のある仕事を担っているからこそ、結婚のタイミングは慎重にならなければ、と……智も考えているのだろう、と、思って、いた。
(わ、私の誕生日まで?あと…8ヶ月しかないじゃない……!?)
智は今までそんなこと、一言も私に言ったことなかった。だからこそ、智が考えているタイムリミットに思いもよらないタイミングで触れて。かぁっと全身が燃えるように熱くなる。
私は耳まで真っ赤にしたまま、混乱する思考の中で智と浅田さんの会話に耳を傾け続けた。
「そーやって自分を鼓舞すんのも、邨上が営業成績上げ続けてこられた理由のひとつだもんなぁ」
浅田さんがいたずらっぽく笑いながら智の身体を肘で小突いた。智はその言葉を受けて、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしている。
「……お前、気付いてたのか」
普段からポーカーフェイスを保っている智が、浅田さんの一挙手一投足に振り回されている様に見えるこの様子は珍しい気がした。
「あ~、お前をちゃんと見てりゃわかるわ。人からビックマウスだと嗤われたとしても、そう公言して『やり遂げなきゃならねぇ』って思いは、少なくとも営業課の人間には伝わってんよ。言葉は言霊で、自信がないと口にしてしまえば失敗するって考えてることも。それを何よりも一番に大事にしてる、っつうことも」
浅田さんのその言葉を受けて。智が会社でどういう評価を受けているのかを目の当たりにし、私も思わず胸が熱くなった。
これまで智とは、直接の取引はしたことがない。だから、どういう風に会社で仕事に取り組んでいるのか、どういう風に商談をしているのか、全く知らなくて。
智の仕事に向き合う姿勢を、きちんと評価してもらえている、ということは、揺るがない事実で。
だからこそ、今回の件が……黒川さんの完全な逆恨みである、ということも。混乱した思考の中でも、その真実にだけは辿り着けた気がした。
(……あんな人の思い通りになんか、絶対に。絶対にさせない)
改めて、そう決意して。ぎゅっと小さく唇を噛み締める。浅田さんが、そのいたずらっぽい笑みを瞬時に切り替えて、今までになかったような真剣な表情で口を開いた。
「……それはさておき。ぐだぐだしてっと例の横恋慕野郎に掻っ攫われんぞ。あんな手段使ってくるサイコパスだからな」
「…………」
浅田さんに見つめられたままの智がぐっと押し黙る。
例の横恋慕野郎。それはきっと片桐さんのことで。
そして、あんな手段、というのは、あの夜の出来事のことだ。
あの夜、帰国したばかりの智は同行していた浅田さんに荷物を預けて私を助けに来てくれた。だから私の素性は伏せているが、何が起きたのかは掻い摘んで説明している、と言っていた。
横目でチラリと確認すると、浅田さんは真剣な瞳をして真っ直ぐに智を見つめている。浅田さんはそれほどまでに智のことを大切に……それこそ、親友と思ってくれている、ということを。浅田さんの言葉で、その表情で、しっかりと感じ取った。
はぁ、と、浅田さんが大きく肩を上下させてため息をつく。
「にしても、その野郎のツラ、拝んでやりてぇよ。さぞかしキレーなツラしてんだろうな、その野郎」
浅田さんが心底つまらなさそうに片桐さんへの嫌味を呟く。その言葉に、細く整えられた眉を動かして、智が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「……今日、うちに来たぞ」
(は!?)
智の一言に、身体が硬直する。思わぬタイムリミットを聞かされて熱を持っていた身体が、まるで冷凍庫に放り込まれたかのように一気に冷えていく。驚きで声が出そうになるのを、浅田さんに勘付かれないように唇を噛んで、それを隠すように口元に手を当てた。
片桐さんが?三井商社に?
(な、にを、しに……行ったの、あのひと…)
混乱した思考では、その事実がひとつも噛み砕けない。ただただ、心臓が大きく鼓動を刻んでいるのを感じる。
「はぁ!?何しに」
私の疑問を、浅田さんが代わりに智に投げ掛けてくれた。素っ頓狂な声が、静かな電車に大きく響く。
智がその行動を咎めるように「うるさい」と声を上げて浅田さんの後ろ頭を軽く叩いた。後頭部を叩かれた浅田さんも、すまんというように小さく頭を動かす。
「商談。新部門のことで」
智が淡々と浅田さんに言葉を向けた。
聞くと、新部門に絡む形での商売の提案をされて、それを受ける形になりそうだ、ということだった。
「帰り際に俺に視線だけで宣戦布告して帰りやがった。そっちの目的もあったんだろう」
不快感を隠すこともなく、智が眉間に皺を寄せながら、苛々したようにつり革を掴んでいる指をトントンと動かしている。
「………色々と用意周到過ぎねぇか、そいつ。まじでナニモンだよ、おい……」
愕然としたような浅田さんの言葉が、ガタンガタンと揺れる電車内の音に紛れて小さく響いた。
ゆっくりと、乗っている電車が速度を落とす。すると、浅田さんが足元に置いたビジネスバッグを手に持った。恐らく浅田さんは、次に止まる駅で下車するのだろう。
「とりあえず、何かあったらすぐ言えよ。俺も出来る限り協力してやっから」
浅田さんが手に持ったビジネスバッグの中を漁りパスケースを引っ張り出した。その様子を、智が口元に手を当ててじっと見つめている。
駅に到着し、車両のドアが、プシュ、と、圧縮された空気で開く軽快な音が響く。「じゃあな、邨上」と別れの言葉を口にした浅田さんが車体からホームに足を踏み出した。
「……浅田」
「ん?」
口元から手を離した智が、固い表情を浮かべて浅田さんを呼び止めた。その呼びかけに、浅田さんはきょとんとした表情で智を振り返る。
「………明日、話したいことがある。時間とって俺のところまで来てくれるか」
浅田さんは振り返ったまま、じっと。智の強張ったような表情を見つめている。そうして、二重のぱちりとした瞳を和らげ、ふっとその口の端をつり上げた。
「いいぜ。親友の頼みだしな。前から思ってたが、お前、いつもひとりで抱え込みすぎなんだよ」
「……」
浅田さんのその言葉に、智はバツが悪そうな表情をして顔を背けた。扉が閉まるというアナウンスが、ホームに設置されたスピーカーから明るい音楽とともに流れてくる。
「ま。とりあえず明日な」
そう口にして、浅田さんが降りたばかりの車両に背を向け、ヒラヒラと手を振った。プシュ、という音が響き、ドアが閉まる。
独特の感覚があり、車体が揺れ、再度進行方向へと動き出した。
「……」
じっと。智が、何かを噛みしめるように、浅田さんが降りて行ったドアを見つめている。その様子に、揺れ動く車内でバランスを崩さないように慎重に足を運んで、そっと智に近寄った。
「………お疲れさま」
出来る限り小さな声で智に話しかける。
「………ん、知香もお疲れ」
智も小さく囁くように言葉を返してくれる。その声色は、浅田さんに向けていたような声ではなく、……低く、甘い声色で。そんな声は私だけに向けてくれているのだ、と、今更ながらに実感して、胸の奥が少しだけむず痒くなる。
「……いい同僚さんだね、浅田さんって」
顔が赤くなるのに気がつかないふりをしながら、考えていた事をそっと伝えた。短時間だったけれども、ふたりの間にある深い信頼関係を肌で感じ取ることが出来て、僅かばかり沈んでいた心が浮き立っていく。
「……ん。あいつのことは、信用に足ると思ってるよ」
ダークブラウンの瞳を眩しそうに細めながら、智が小さく呟いた。その言葉に、浅田さんに明日話したいと言った件は、黒川さんのことだろうと察する。
電車内で黒川さんや三井商社に商談で訪れたという片桐さんのことを口にするのは憚られた。だから。全く違う話題をぶつけることにした。
「………知らなかった。浅田さんってうちの最寄駅の一つ手前だったんだね」
ふふ、と。小さく笑みを浮かべる。
もしかしたら。智の家に引っ越してから、これまで私は帰り道に浅田さんと何度かすれ違ったりしていたのかもしれない。
「そう言えば、結婚式のスピーチ、するんだ?」
さっき智がもう原稿は仕上がっている、と口にしていた。夕食の後に寝室のノートPCに向かう姿を毎日見ていたけれど、仕事のことだけじゃなくスピーチの原稿まで作っていたのかと思うと、やっぱり智はできる人なのだなと実感した。
「そう。あいつ、4月1日に入籍したんだと。で、6月25日に挙式っていう話だ」
「えっ……」
6月25日。智の、誕生日。今年のその日は、偶然にも日曜日だったのだ。去年、智が私の誕生日に食事に連れて行ってくれたように、今回は私が智を食事に連れて行ってあげたいと思っていろいろとリサーチしているところだった。
「……そっか…」
明らかに落ち込んだように肩を落とした私に、智が困ったように眉を下げて頬を掻いた。
「ごめんな。まさかその日に結婚式が入るなんて思ってもみなかったんだ」
ガタンガタンと、静かに揺れる車内でふたりで同じポールを握りしめる。
「……や、仕方ないよ。日曜日だし、なんてったってジューンブライドだもの」
6月に結婚式を挙げると一生涯にわたって幸せな結婚生活を送ることが出来ると言われていることは知っている。その日は日曜日だし、そこに結婚式が重なったとしてもこればかりは仕方のないことだ。
「……じゃぁ、知香も。挙げるなら6月がいいか?」
「へっ!?」
突然の流れに動揺する。まさか『浅田さんの結婚式』の話題から、『私たちの将来』に話が飛ぶとは思っていなかったから。
あまりのことに顔を赤くして口をパクパクとさせていると、ニヤリ、と。さっき浅田さんが智に向けたように、今度は智が口の端をつり上げて。ダークブラウンの瞳を、意地悪く細めた。
「…………今年のクリスマス。楽しみにしておいてくれ、な?」
「!?」
その言葉に、ぼんっと音を立てて顔が赤くなるのを自覚した。
私のその表情に、くくくっ、と、喉の奥を鳴らして。
智が、楽しそうに。幸せそうに。笑みを浮かべた。
浅田さんがニヤニヤと智を揶揄うように笑みを浮かべた。
智の口から飛び出してきた思いもよらない言葉。私にはまだ、その言葉が頭に届いていないようで。
(え、えええ?私の、誕生日までに、って……?)
脳内は完全に大混乱に陥っていた。
確かに、去年の私の誕生日の日。お付き合いがキチンと始まったあのクリスマスの日。結婚を前提に、と言われて、深い青をしたベルベットの箱を目の前に差し出されて。智のその想いも言葉も受け取り、快諾した。
あの箱に。本当に指輪が入っている、それをふわりと開けてくれる……そんな瞬間はいつ訪れるだろう、と、最近夢見がちに考えていたけれど。
さっき智が口にしたように。新部門のことも落ち着いていないし、きっと……当分、先になるはずだと思っていた。それこそ、新部門が軌道に乗るまで。だから、年単位かかるだろうと。
私だって、通関士試験が今年の10月に控えている。総合職に転換したばかりだし、新入社員の教育も担当している。主任にも昇進した。色恋にうつつを抜かしている場合じゃない。
お互いに責任のある仕事を担っているからこそ、結婚のタイミングは慎重にならなければ、と……智も考えているのだろう、と、思って、いた。
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智は今までそんなこと、一言も私に言ったことなかった。だからこそ、智が考えているタイムリミットに思いもよらないタイミングで触れて。かぁっと全身が燃えるように熱くなる。
私は耳まで真っ赤にしたまま、混乱する思考の中で智と浅田さんの会話に耳を傾け続けた。
「そーやって自分を鼓舞すんのも、邨上が営業成績上げ続けてこられた理由のひとつだもんなぁ」
浅田さんがいたずらっぽく笑いながら智の身体を肘で小突いた。智はその言葉を受けて、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしている。
「……お前、気付いてたのか」
普段からポーカーフェイスを保っている智が、浅田さんの一挙手一投足に振り回されている様に見えるこの様子は珍しい気がした。
「あ~、お前をちゃんと見てりゃわかるわ。人からビックマウスだと嗤われたとしても、そう公言して『やり遂げなきゃならねぇ』って思いは、少なくとも営業課の人間には伝わってんよ。言葉は言霊で、自信がないと口にしてしまえば失敗するって考えてることも。それを何よりも一番に大事にしてる、っつうことも」
浅田さんのその言葉を受けて。智が会社でどういう評価を受けているのかを目の当たりにし、私も思わず胸が熱くなった。
これまで智とは、直接の取引はしたことがない。だから、どういう風に会社で仕事に取り組んでいるのか、どういう風に商談をしているのか、全く知らなくて。
智の仕事に向き合う姿勢を、きちんと評価してもらえている、ということは、揺るがない事実で。
だからこそ、今回の件が……黒川さんの完全な逆恨みである、ということも。混乱した思考の中でも、その真実にだけは辿り着けた気がした。
(……あんな人の思い通りになんか、絶対に。絶対にさせない)
改めて、そう決意して。ぎゅっと小さく唇を噛み締める。浅田さんが、そのいたずらっぽい笑みを瞬時に切り替えて、今までになかったような真剣な表情で口を開いた。
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「…………」
浅田さんに見つめられたままの智がぐっと押し黙る。
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そして、あんな手段、というのは、あの夜の出来事のことだ。
あの夜、帰国したばかりの智は同行していた浅田さんに荷物を預けて私を助けに来てくれた。だから私の素性は伏せているが、何が起きたのかは掻い摘んで説明している、と言っていた。
横目でチラリと確認すると、浅田さんは真剣な瞳をして真っ直ぐに智を見つめている。浅田さんはそれほどまでに智のことを大切に……それこそ、親友と思ってくれている、ということを。浅田さんの言葉で、その表情で、しっかりと感じ取った。
はぁ、と、浅田さんが大きく肩を上下させてため息をつく。
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(は!?)
智の一言に、身体が硬直する。思わぬタイムリミットを聞かされて熱を持っていた身体が、まるで冷凍庫に放り込まれたかのように一気に冷えていく。驚きで声が出そうになるのを、浅田さんに勘付かれないように唇を噛んで、それを隠すように口元に手を当てた。
片桐さんが?三井商社に?
(な、にを、しに……行ったの、あのひと…)
混乱した思考では、その事実がひとつも噛み砕けない。ただただ、心臓が大きく鼓動を刻んでいるのを感じる。
「はぁ!?何しに」
私の疑問を、浅田さんが代わりに智に投げ掛けてくれた。素っ頓狂な声が、静かな電車に大きく響く。
智がその行動を咎めるように「うるさい」と声を上げて浅田さんの後ろ頭を軽く叩いた。後頭部を叩かれた浅田さんも、すまんというように小さく頭を動かす。
「商談。新部門のことで」
智が淡々と浅田さんに言葉を向けた。
聞くと、新部門に絡む形での商売の提案をされて、それを受ける形になりそうだ、ということだった。
「帰り際に俺に視線だけで宣戦布告して帰りやがった。そっちの目的もあったんだろう」
不快感を隠すこともなく、智が眉間に皺を寄せながら、苛々したようにつり革を掴んでいる指をトントンと動かしている。
「………色々と用意周到過ぎねぇか、そいつ。まじでナニモンだよ、おい……」
愕然としたような浅田さんの言葉が、ガタンガタンと揺れる電車内の音に紛れて小さく響いた。
ゆっくりと、乗っている電車が速度を落とす。すると、浅田さんが足元に置いたビジネスバッグを手に持った。恐らく浅田さんは、次に止まる駅で下車するのだろう。
「とりあえず、何かあったらすぐ言えよ。俺も出来る限り協力してやっから」
浅田さんが手に持ったビジネスバッグの中を漁りパスケースを引っ張り出した。その様子を、智が口元に手を当ててじっと見つめている。
駅に到着し、車両のドアが、プシュ、と、圧縮された空気で開く軽快な音が響く。「じゃあな、邨上」と別れの言葉を口にした浅田さんが車体からホームに足を踏み出した。
「……浅田」
「ん?」
口元から手を離した智が、固い表情を浮かべて浅田さんを呼び止めた。その呼びかけに、浅田さんはきょとんとした表情で智を振り返る。
「………明日、話したいことがある。時間とって俺のところまで来てくれるか」
浅田さんは振り返ったまま、じっと。智の強張ったような表情を見つめている。そうして、二重のぱちりとした瞳を和らげ、ふっとその口の端をつり上げた。
「いいぜ。親友の頼みだしな。前から思ってたが、お前、いつもひとりで抱え込みすぎなんだよ」
「……」
浅田さんのその言葉に、智はバツが悪そうな表情をして顔を背けた。扉が閉まるというアナウンスが、ホームに設置されたスピーカーから明るい音楽とともに流れてくる。
「ま。とりあえず明日な」
そう口にして、浅田さんが降りたばかりの車両に背を向け、ヒラヒラと手を振った。プシュ、という音が響き、ドアが閉まる。
独特の感覚があり、車体が揺れ、再度進行方向へと動き出した。
「……」
じっと。智が、何かを噛みしめるように、浅田さんが降りて行ったドアを見つめている。その様子に、揺れ動く車内でバランスを崩さないように慎重に足を運んで、そっと智に近寄った。
「………お疲れさま」
出来る限り小さな声で智に話しかける。
「………ん、知香もお疲れ」
智も小さく囁くように言葉を返してくれる。その声色は、浅田さんに向けていたような声ではなく、……低く、甘い声色で。そんな声は私だけに向けてくれているのだ、と、今更ながらに実感して、胸の奥が少しだけむず痒くなる。
「……いい同僚さんだね、浅田さんって」
顔が赤くなるのに気がつかないふりをしながら、考えていた事をそっと伝えた。短時間だったけれども、ふたりの間にある深い信頼関係を肌で感じ取ることが出来て、僅かばかり沈んでいた心が浮き立っていく。
「……ん。あいつのことは、信用に足ると思ってるよ」
ダークブラウンの瞳を眩しそうに細めながら、智が小さく呟いた。その言葉に、浅田さんに明日話したいと言った件は、黒川さんのことだろうと察する。
電車内で黒川さんや三井商社に商談で訪れたという片桐さんのことを口にするのは憚られた。だから。全く違う話題をぶつけることにした。
「………知らなかった。浅田さんってうちの最寄駅の一つ手前だったんだね」
ふふ、と。小さく笑みを浮かべる。
もしかしたら。智の家に引っ越してから、これまで私は帰り道に浅田さんと何度かすれ違ったりしていたのかもしれない。
「そう言えば、結婚式のスピーチ、するんだ?」
さっき智がもう原稿は仕上がっている、と口にしていた。夕食の後に寝室のノートPCに向かう姿を毎日見ていたけれど、仕事のことだけじゃなくスピーチの原稿まで作っていたのかと思うと、やっぱり智はできる人なのだなと実感した。
「そう。あいつ、4月1日に入籍したんだと。で、6月25日に挙式っていう話だ」
「えっ……」
6月25日。智の、誕生日。今年のその日は、偶然にも日曜日だったのだ。去年、智が私の誕生日に食事に連れて行ってくれたように、今回は私が智を食事に連れて行ってあげたいと思っていろいろとリサーチしているところだった。
「……そっか…」
明らかに落ち込んだように肩を落とした私に、智が困ったように眉を下げて頬を掻いた。
「ごめんな。まさかその日に結婚式が入るなんて思ってもみなかったんだ」
ガタンガタンと、静かに揺れる車内でふたりで同じポールを握りしめる。
「……や、仕方ないよ。日曜日だし、なんてったってジューンブライドだもの」
6月に結婚式を挙げると一生涯にわたって幸せな結婚生活を送ることが出来ると言われていることは知っている。その日は日曜日だし、そこに結婚式が重なったとしてもこればかりは仕方のないことだ。
「……じゃぁ、知香も。挙げるなら6月がいいか?」
「へっ!?」
突然の流れに動揺する。まさか『浅田さんの結婚式』の話題から、『私たちの将来』に話が飛ぶとは思っていなかったから。
あまりのことに顔を赤くして口をパクパクとさせていると、ニヤリ、と。さっき浅田さんが智に向けたように、今度は智が口の端をつり上げて。ダークブラウンの瞳を、意地悪く細めた。
「…………今年のクリスマス。楽しみにしておいてくれ、な?」
「!?」
その言葉に、ぼんっと音を立てて顔が赤くなるのを自覚した。
私のその表情に、くくくっ、と、喉の奥を鳴らして。
智が、楽しそうに。幸せそうに。笑みを浮かべた。
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