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本編・第三部

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 片桐さんの名前が出た瞬間、智の身体が僅かに強張ったように感じた。横並びになって沈み込んでいるソファの上で、ぎゅう、と、繋いだままの手を握る。

「……土曜日に。片桐さんが、マスターに香典返しを渡してたの、覚えてる?私も片桐さんのお母様のお葬式に参列したから、それで…」

「片桐から香典返しを渡された、ってことか」

 私が伝えたかったことを察して、智が硬い声色でその先を口にした。その言葉に、うん、と小さく頷く。そうして首だけを動かして。

「それが、あれ。……まだ、開けてないの」

 ダークブラウンで統一された家具のひとつ…テレビボードの横に立てかけて置いておいた紙袋を指さしながら、真横に座る智に視線を向ける。

 一応、智に報告を入れてから中身を確認しようと思っていた。何が入っているのかも警戒してしまうくらい、片桐さんに対しての信用は、ない。

 智がその紙袋を睨みつけるように、じっと見つめている。そうして、考え込むように空いた右手を口元に当てた。

「……ただの香典返し、だろう。変なものは入っていない…とは思うが」

「うん…」

 そう。単なる香典返しのはずなのだ。けれど、それをひとりで開ける勇気は、私にはなかった。

 じっと紙袋を見つめていた智が、ソファに沈み込ませていた上半身を起こして、小さくため息を吐き出しながらゆっくりと立ち上がる。それに合わせて私もソファから立ち上がった。

 するり、と、絡めていた手をほどいて、智は紙袋の前で座り込む。その紙袋に手をかけ、中から四角い箱を取りだして。薄墨で『志』と記された熨斗紙を固定してるセロハンテープを、智が爪の先でひっかいて剥がしていくその仕草を眺めながら、心臓が大きく鼓動を刻んでいるのを感じる。

 がさりと大きな音を立てて、高級百貨店の包装紙が捲られる。淡いレモン色の箱に、すぅっと背筋が冷える。嫌な予感がして、喉が凍り付く。

「……ま、さかと……思う、けど」

 掠れたような声が私の唇から響いていく。ひゅうひゅうと喉が音を立てている。

 ホワイトデーの時以来に見る、その淡いレモン色の箱。智が手に持った上蓋を勢いよく取り払う。

 眼前に現れたのは、ホワイトデーで智から贈って貰ったものと全く同じマカロンだった。

「……ふ…ざけやがって…」

 ぎり、と。手に持った上蓋を握り締め、智が苛立ったように。低く、低く呟く。

「あの野郎……ぜってぇマカロンを贈る意味をわかってやってんだろ……!!」

 低く、鋭い声色で。智が、怒りを堪えた表情で言葉を吐き捨てた。

 あの時、智は。マカロンは、『特別に大切な存在にプレゼントするもの』と教えてくれた。

「………これって…」

 これは……恐らく。いや、確実に。片桐さんからの言外のメッセージだ。



 私を諦めていない、ということを、智にも、私にも伝えるための。云わば、宣戦布告のような。そんな意味を含んでいるのだろう。



 目の前に現れたヘーゼル色の瞳が、私を嘲笑うかのように歪んだ。ふるり、と頭を振ってその幻覚を振り払う。

 ゆっくりと、全身の血の気が引いて、指先が氷のように冷えていく。

(もしかして……これがあったから…今日はサッと引いて行った……の……?)

 どうして、今日はいつものようにしつこく食い下がられなかったのか。それは、香典返しこれに託したメッセージがあったから…なのかも、しれない。

 片桐さんが私を諦めていない、ということは、知っていた。けれど……その意思を、こんな形で明確に突き付けられることになるとは思ってもみなかった。

 青ざめた私の表情を、智が横目でちらりと確認して。

「……恐らく、知香が想像している通りだ。これは…俺に対する宣戦布告のつもりだろう」

 激しい感情の渦を押し殺すように、智が箱に入ったマカロンを睨みつけて。手に持った淡いレモン色の上蓋を元の位置に戻していく。

「これは食べるな。俺が会社に持って行って浅田か藤宮にでも渡す」

「……うん…」

 正直なところ、食材を無駄にはしたくなかった。このマカロンだって、棄てられるために作られたわけじゃない。誰かに食べてもらうために、作られたもののはず。

 それは理屈ではわかっていることだ。けれど、それでもこれを口にする気にはなれない。だから智の提案はありがたかった。その提案にこくんと首を動かす。

 ゆっくりと腰を落として、智が床に放り投げた包装紙を手に取る。ガサガサと音を立てながら、ざわめく心を、自分を落ち着けるように。その包装紙を折り畳んでいく。

 智がゆっくりと立ち上がって、小さく吐息をもらしながら、私に視線を合わせた。

「……他の人間が同じものを贈られているとか、わかるか?」

 ダークブラウンの瞳が、激情を堪えるように揺れ動いている。その問いかけに、ううん、と首を横に振った。

「終業後に……新入社員の子とふたりでいる時に渡されたの。一緒に参列した水野課長とか、三木ちゃんとかは残業中で。通関部のフロアに顔を出してから私を探したみたいで、片桐さんが手に持っていたのはもうこの紙袋だけだった」

 オフィスビルの出入口にある自動販売機の辺りで接触された時のことを思い出しながら、あの時の状況を説明していく。


 そうして。


「……片桐さんがここのエントランスで待ち伏せしていた時に、私、智に言ったことあるよね。片桐さんって、私を見ているのに、私を見ていない目をすることが多いの」

 片桐さんの瞳は。私の向こう側にいた、亡くなってしまったマーガレットさんを見ていた。それなのに。

 じわり、と、言いようのない不安感が身体の奥からせり上がってくる。その感覚を必死に堪えながら、絞り出すように言葉を続けた。

「片桐さんは、私に、……もうこの世にいない、マーガレットさんのことを重ねているから。なのに……今日は」

 手に持った包装紙を、ぎゅっと握り締めて、大きく息を吸い込む。

「なのに今日はそうじゃなかった。私を、見ていたの。どうしてかはわからないけれど」

 自分の中に生まれた不安感を、その言葉を乗せて一気に吐き出した。そうして、ぎゅ、と唇を結ぶ。そうでもしないと、また涙が零れてしまいそうだった。

 包装紙を固く握りしめた私の手に、智が優しく手を重ねてくれる。その仕草に、強ばっていた身体が少しずつ解れていくのを感じた。

 ダークブラウンの瞳が、私の顔を覗き込んで。真っ直ぐに、私を見つめる。

「絶対に奪わせない。知香は俺のものだ。俺は、知香のものだ。……知香は。俺に出逢うために、世界から全ての色を失った俺を立ち直らせるために、この世に生を受けたんだと思ってる。だから、俺は知香を絶対に手放さない」

「っ……」

 じんわりと、その言葉が胸に広がっていく。温かくて、優しくて、それでいて激しい智の想いが、私の身体の奥まで沁み渡っていく。

 どんな殺し文句だろう。『愛している』といわれるよりも、ずっと、……ずっと。

 ふわり、と。智の胸の中に抱き寄せられる。いつもより速い智の智の鼓動が、ぴとりとくっついた左耳から聴こえてくる。

「片桐が知香を欲しがっているのは、忘れられねぇ女を知香に重ねているから。そうだろう?……でも。知香のその話だと、しれねぇ」

「……あ…」

 頭上から降ってきた智の言葉に思わず目を見開く。

 片桐さんは亡くなったマーガレットさんを忘れられず、その代わりに私を欲していた。あの……私を見ているのに、私を見ていない瞳がそれを物語っていた。

 けれど。今、智が口にしたように―――その前提が覆っているのなら。

 言葉を失っている私の背中を、宥めるように。智が優しくぽんぽんと叩いた。

「あいつの中でなんの心境の変化があったのかまではわからねえ。今までの行動の全ては、とにかく『忘れられねぇ女に似た知香が欲しい』という動機だったんだろう。だからあの時、催眠暗示というある種の強引な手段に出た。………けど、これからあいつは本気で知香の『心』を奪いに来る可能性がある」

「……こころ…」

 私を見ているのに、私を見ていない、ヘーゼル色の瞳。その意味を、やっと噛み砕けた気がする。

「……片桐は、俺と同じ。囲い込みを得意とするタイプだ。知香の心を手に入れようと、これまで以上に知香の感情を揺さぶってくると思う。だから、俺が何度だって、知香に愛してるって言うから」

 そうして、智が。囁くように、小さく、小さく呟いた。

「……知香。俺の気持ちを、……絶対に。忘れないでくれ」

「……」

 智の、まるで何かに縋るような、そんな悲痛な声が左の耳元で響く。

 そうして、ぎゅう、と。力強く抱きしめられる。私を抱き締める智の身体が、小刻みに震えている。

「奪わせや、しない。絶対に。片桐になんか、絶対に渡してやらねぇ」

 まるで私にも、智自身にも言い聞かせるように。言葉を続ける。
 私は智の背中に腕を回して。ワイシャツの後ろ身頃を握り締める。

「うん……智が、私を見て、愛してくれているから。だから……絶対に、大丈夫」

 片桐さんがどんな風に私の心を揺さぶってこようとするのかなんて、知らない。けれど、私は。

(私は。智に出逢うために、生まれてきたんだ)

 だから、絶対に。智のことを手放さない。智を愛してるって気持ちは、何があっても揺るがない。

 そもそも、片桐さんは。他者の気持ちを、感情を。自分の目的のために揺さぶって利用するような人だ。他人の噂を愉しそうにばらまいて、貶めるような人。例え彼が改心しても、ううん、世界がひっくり返っても。私は彼のことを、絶っ対に。好きになんて、なれるはずがないのだ。

 ゆっくりと、身体が離れて。私は少しだけ背伸びをして。唇が合わさった。

「……俺の出張中。三木が一緒にいないときに何かあったら、躊躇わずにすぐに警察に駆け込め。いいな?」

 智の熱い手のひらが、私の頬に触れて。ダークブラウンの瞳に強く射抜かれる。離れた唇から紡がれた言葉に、うん、と小さく頷く。

「出来る限り、GPSも起動させておいてくれ。俺の手が届かないところで何かあったら……俺は、知香を助けられねぇから」

 GPSのアプリをスマホに入れたのは、過去に警察沙汰を引き起こしている黒川さんが、どういう手段で智を引き摺り下ろそうとしてくるかわからないから、という理由だった。けれど、片桐さんが私を諦めていない、ということは……今日のように帰り際を狙われる可能性もある。

 智が私の頬から手のひらを離して、そっと。足元に落ちた奉書式の挨拶状を手に取った。



「……お前なんかに。知香を渡さない」



 智の唇から、強い意志を孕んで、ぽつり、と、転がってきた言葉。

 その言葉が、私たちの吐息だけが響くリビングに。


 静かに消えていった。

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