136 / 273
本編・第三部
163
しおりを挟む
「は……?」
遠くなる片桐さんの背中を茫然と眺めながら、思わずぽかんと口が開く。
何が起きたのか、よく分からなかった。私を見ているヘーゼル色の瞳。いつもとは違う片桐さんの瞳に、酷く混乱する。
智は、片桐さんが私を諦めていないと言っていた。三木ちゃんもそれを知って、智の出張中は自分の家に来てくださいと言ってくれた。
その事実を知っているから。片桐さんが私に『香典返し』を渡そうと接触してきたら、絶対にしつこく食い下がられると想定していた。
なのに、そうじゃなかった。片桐さんが、こうしてさっと引いていく、ということに。非常に不本意ながらも肩透かしを食らってしまったのだ。
(な、んで……?)
何が起こっているのか全く分からない。状況が飲み込めずにひとり混乱していると。
「主任……?」
隣に立ったままの加藤さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。その声にはっと我に返る。
「あ、……ごめんね、話の途中で」
とにかく今はそれを考え込んでいる場合じゃない。私と片桐さんの間に何があったのか、その事情を知らない加藤さんをこんな風に巻き込んでしまったから、それだけはフォローに入らなければ。
「いえ。あの方が、例の……トラブったと言われていた…」
加藤さんが少し言い辛そうに口をすぼめる。先週、南里くんと加藤さんを連れて各販売部に挨拶周りに行った際に、螺旋階段を使って移動している南里くんに伝えた話しだろう。新入社員である彼女に、人間関係でいらぬ懸念を与えたくない。さっと笑顔を作って、フォローに入る。
「そう、片桐係長。先週まで通関部にいたの。今は農産販売部所属」
そうして。どう説明すべきか、少し逡巡する。片桐さんには……しつこく言い寄られて、あんなことをされて。それでも、彼は仕事は真面目にこなすし、私と三木ちゃん以外からの社員受けはよかった。取引先からの評判も上々だった。彼女にいらぬ先入観を与えないように、慎重に言葉を選ぶ。
「トラブったって南里くんには言ったけれど、なにも仕事上でトラブったわけじゃないの。……要はね、南里くんが三木ちゃんに付き纏っていたみたいに、私も彼から付き纏われていた時期があっただけ。仕事はすごく出来る方だからその面での信用はしているわ。プライベートでは彼を相手にしたくないだけ」
先ほどは全く食い下がられなかった。だから、あったと過去形で表現する。片桐さんがあの時のように何かを企んでいての今日の言動かもしれない、という警戒心はある。業務上の信用はあるけれど、それ以外の信用は私にとってはゼロ、むしろマイナスだ。
でも、それは私から見た角度の話であって、加藤さんから見た角度の話ではない。社会人になりたてだからこそ、何事もフラットな視線で見られるようになって欲しい、と思っての言葉だった。
「こんな風に巻き込んじゃってごめんね。まさか今日こうして接触されるとは思っていなかったの。……彼が先月まで畜産関係の通関業務を担当していて。異動の際にきちんと引継ぎはしてもらっているけれど、もしかしたら彼にしかわからないことも出てくるかも。その時、片桐係長に訊ねてもらう機会があるかもしれないわ。だから、個人的には、加藤さんには彼に対して変な先入観は持たないで欲しいなとは思っているの」
もう一度、加藤さんににこりと笑みを向ける。片桐さんにはしっかりと水野課長に引継ぎをしてもらっている。畜産チームになっている加藤さんから彼になにかを訊ねるような事態にはならないとは思うけれど。万が一の時の為に、それだけは言い添えておきたかった。
「……わかりました。主任にとっては言いたくもなかったことでしょうに、しっかり伝えてくださってありがとうございます。そう言えば、田邉部長から言われたのですが、役員懇談会って、どういう感じなんですか?」
加藤さんが、ぺこり、と頭を下げながら話題をさっと切り替える。小林くんに似て聡い子でありがたい。
(そういえば……凌牙に捨てられたあの日も…小林くんは私の意思を汲み取ってくれて)
あの時は。これ以上触れるな、という意思を小林くんは汲み取ってくれた。
もう、半年になるのか。もっと経っている気がしたのに。そんなことをぼんやりと考えながら、彼女の質問に答えていく。
「取締役とか言われるような役員の方々って、私たちは普段接することがないでしょう?だから、そういった方々との交流の場って感じかなぁ。要は立食パーティーなの」
「なるほど……全社的な飲み会って思えばいいですか?」
確かに、言い得て妙だ。簡単に言えば、全社的な飲み会であることは間違いがないのだから。
「そうね、そんな感じよ。実行委員が司会をしたりする感じ」
私のその言葉に、加藤さんが、ううっと。絶望したように、その綺麗な顔を歪める。
「司会……私、そういうの苦手なのですが…出来ますかね……」
加藤さんががっくりと肩を落とす。さらり、と、加藤さんの長い髪が揺れる。その仕草を見ながら、あまり感情を表に出さない子という最初の印象がどんどん変わっていく。先週は単に私たちに対して人見知りしていただけだったのかもしれない。
(可愛いなぁ……)
お人形さんのような見た目で近寄りがたい印象があったけれど、話すと案外人間っぽくて。見た目だけじゃなくて、中身も可愛らしい子だという風に感じる。
私の後輩たちは本当に可愛い子たちばかりだ。三木ちゃんはさることながら、小林くんも可愛かった。加藤さんも、南里くんも。本当に、私は周囲の人たちに恵まれている環境で、好きな仕事を嫌いにならずにいられている、と実感する。
退職する、という決断を智が反対してくれなかったら、この可愛い子たちとの関わりすら捨て去ってしまうところだった。
(本当に……智には、助けられてばかりだ…)
だからこそ。智を引き摺りおろそうとしているであろう黒川さんの企みを暴きたい。智の力になりたい。あんな自分勝手な人の思い通りにはさせない。
そう、小さく決意した。
「ただいま……」
キィ、と、無機質な音を立てて玄関の扉を開く。片桐さんあの瞳のことをぼうっと考えていたら電車を乗り過ごすところだった。
結局、色々と考えても答えは出なかった。いつもだったらあの場面でしつこく口説かれるはずなのに、それもなくて。まぁ、それはそれで、安心といえば安心なのだけれど。
「はぁ……」
わからないことだらけだ。黒川さんが何を考えているのかも、今朝の智の様子も、片桐さんのことも。
大きなため息を吐き出しながら、ゆっくりとキッチンに立つ。
智には、加藤さんと別れてから書きかけのメッセージを送信した。既読はついたけれど、返信はない。ノルウェー出張の前で、仕事も立て込んでいるのだろう、と思う。
今日の晩御飯は野菜炒めを作ろうと考えて野菜室に入っていた野菜を刻んでいく。
(……)
トントンと野菜を刻む音に混じって、ぞわぞわと。得体の知れない恐怖感が足元を這いずっている。
私は、ただ。智とふたりで。穏やかで、あったかい毎日を過ごせたら、それでいいのに。どうしてこうも私の周りにはトラブルが巻き起こるのだろう。
悔しさと、哀しさと、やるせなさで。じわり、と視界が滲む。
「ただいま」
ギィ、と、玄関が開く音が聞こえて、智の低く甘い声が聞こえた。一旦包丁を置いて、ぐい、と、トップスの袖で滲んだ涙を拭きあげる。
リビングのドアを開けると、玄関先で智が疲れたような顔をして、スーツのジャケットを脱いでいた。
「おかえり、お疲れさま」
パタパタと駆け寄り、ビジネスバッグとジャケットを受け取る。
「……昨日も、朝も。ごめんな」
智の大きくて温かい手が、私の頬を労わるように撫でる。ダークブラウンの瞳が、不安気に揺れているのを確認して。
「ううん、事情があったのなら、仕方ないよ。ご飯、作ってるから。先に食べよう?」
にこり、と。智の不安を取り払うように、笑みを浮かべて。頬に当てられた智の大きな手に、私の手のひらを添えた。
目の前にあるダークブラウンの瞳が、大きく揺れる。
「……知香。泣いてた?」
「え……?」
どうして、わかったのだろう。涙は落ちる前に拭いたはずなのに。
驚いたまま智の顔を眺めていると、ゆっくりと。智がその薄い唇を動かした。
「目元のメイク……よれてる」
智が、頬に当てていた手を動かして、長く角張った親指で。私の眦をそっと撫でた。
目元のメイクがよれている、ただそれだけで。私が涙を拭ったのだ、と、悟ってくれるほど。
智は、私のことを日々見てくれている。それほどに……私を愛してくれているのだ、と、改めて実感して。
(……やっぱり……私は、智に…隠し事なんて、出来ないんだ……)
温かい智の指に、触れられていることで。堰き止められていた様々な感情が溢れ出てくる。
「……っ、ごめ…」
脈拍が上がって。世界が思い切り歪んだ。
ぽろぽろと、涙が零れていく。
本当は、泣きたくなんて、なかった。
泣くつもりなんて、これっぽっちも、なかった。
智の力になりたい。
智の手を煩わせたくない。
智が忙しいことなんてわかりきっていること。事情を話さずに今朝出ていったことも、しょうがない、と、わかりきっている。
でも。
ただ、ただ。不安、だった。
何が起きているのか、私には全然わからない。
黒川さんのことも、片桐さんのことも。
どうして、昨日は日付が変わるまで帰ってこなかったの?
どうして、何も言ってくれなかったの?
どうして、片桐さんはあんな瞳をしてるの?
どうして……智は。
そんな、苦しそうな目を、してるの?
智が私に触れるだけで。私を硬く包んでいる殻にヒビが入って。私は、強がるということが、平気なフリが、全く出来なくなる。
我慢を知らない幼い子どものような、暴れる感情を必死に押し込めていた自分が。丸裸になって、智の前に曝け出されていく。
はらはらと、涙が重力に逆らわずに、私の目から零れ落ちて、智の指先を濡らしていった。
ダークブラウン色の瞳を細めながら、吐息を漏らして、智が小さく呟く。
「……ごめんな、何も話さず出て行って。メッセージも返せなくて……今日一日、不安だったろう……本当に、すまない」
声を震わせながら、智が言葉を紡いだ。そうして、ふわり、と。鍛えられた胸の中に、私の身体をおさめて、私の髪を、背中を。ゆっくりと撫でてくれる。
その大きくて温かい手は、どこまでも優しくて。私の涙を加速させていく。
「……っぅ、もっ、ほんと…何が、どう、なって、るのか、わか…なくて」
しゃくりを上げながら話す私の背中を優しくさすったまま、智が私をぎゅうと抱きしめて。私の肩口に顔をうずめた。
「すまない……」
ただただ。
やるせなさと、悔しさを孕んだような、そんな声色で紡がれる智のその言葉が。
左の耳元で、小さく響いた。
遠くなる片桐さんの背中を茫然と眺めながら、思わずぽかんと口が開く。
何が起きたのか、よく分からなかった。私を見ているヘーゼル色の瞳。いつもとは違う片桐さんの瞳に、酷く混乱する。
智は、片桐さんが私を諦めていないと言っていた。三木ちゃんもそれを知って、智の出張中は自分の家に来てくださいと言ってくれた。
その事実を知っているから。片桐さんが私に『香典返し』を渡そうと接触してきたら、絶対にしつこく食い下がられると想定していた。
なのに、そうじゃなかった。片桐さんが、こうしてさっと引いていく、ということに。非常に不本意ながらも肩透かしを食らってしまったのだ。
(な、んで……?)
何が起こっているのか全く分からない。状況が飲み込めずにひとり混乱していると。
「主任……?」
隣に立ったままの加藤さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。その声にはっと我に返る。
「あ、……ごめんね、話の途中で」
とにかく今はそれを考え込んでいる場合じゃない。私と片桐さんの間に何があったのか、その事情を知らない加藤さんをこんな風に巻き込んでしまったから、それだけはフォローに入らなければ。
「いえ。あの方が、例の……トラブったと言われていた…」
加藤さんが少し言い辛そうに口をすぼめる。先週、南里くんと加藤さんを連れて各販売部に挨拶周りに行った際に、螺旋階段を使って移動している南里くんに伝えた話しだろう。新入社員である彼女に、人間関係でいらぬ懸念を与えたくない。さっと笑顔を作って、フォローに入る。
「そう、片桐係長。先週まで通関部にいたの。今は農産販売部所属」
そうして。どう説明すべきか、少し逡巡する。片桐さんには……しつこく言い寄られて、あんなことをされて。それでも、彼は仕事は真面目にこなすし、私と三木ちゃん以外からの社員受けはよかった。取引先からの評判も上々だった。彼女にいらぬ先入観を与えないように、慎重に言葉を選ぶ。
「トラブったって南里くんには言ったけれど、なにも仕事上でトラブったわけじゃないの。……要はね、南里くんが三木ちゃんに付き纏っていたみたいに、私も彼から付き纏われていた時期があっただけ。仕事はすごく出来る方だからその面での信用はしているわ。プライベートでは彼を相手にしたくないだけ」
先ほどは全く食い下がられなかった。だから、あったと過去形で表現する。片桐さんがあの時のように何かを企んでいての今日の言動かもしれない、という警戒心はある。業務上の信用はあるけれど、それ以外の信用は私にとってはゼロ、むしろマイナスだ。
でも、それは私から見た角度の話であって、加藤さんから見た角度の話ではない。社会人になりたてだからこそ、何事もフラットな視線で見られるようになって欲しい、と思っての言葉だった。
「こんな風に巻き込んじゃってごめんね。まさか今日こうして接触されるとは思っていなかったの。……彼が先月まで畜産関係の通関業務を担当していて。異動の際にきちんと引継ぎはしてもらっているけれど、もしかしたら彼にしかわからないことも出てくるかも。その時、片桐係長に訊ねてもらう機会があるかもしれないわ。だから、個人的には、加藤さんには彼に対して変な先入観は持たないで欲しいなとは思っているの」
もう一度、加藤さんににこりと笑みを向ける。片桐さんにはしっかりと水野課長に引継ぎをしてもらっている。畜産チームになっている加藤さんから彼になにかを訊ねるような事態にはならないとは思うけれど。万が一の時の為に、それだけは言い添えておきたかった。
「……わかりました。主任にとっては言いたくもなかったことでしょうに、しっかり伝えてくださってありがとうございます。そう言えば、田邉部長から言われたのですが、役員懇談会って、どういう感じなんですか?」
加藤さんが、ぺこり、と頭を下げながら話題をさっと切り替える。小林くんに似て聡い子でありがたい。
(そういえば……凌牙に捨てられたあの日も…小林くんは私の意思を汲み取ってくれて)
あの時は。これ以上触れるな、という意思を小林くんは汲み取ってくれた。
もう、半年になるのか。もっと経っている気がしたのに。そんなことをぼんやりと考えながら、彼女の質問に答えていく。
「取締役とか言われるような役員の方々って、私たちは普段接することがないでしょう?だから、そういった方々との交流の場って感じかなぁ。要は立食パーティーなの」
「なるほど……全社的な飲み会って思えばいいですか?」
確かに、言い得て妙だ。簡単に言えば、全社的な飲み会であることは間違いがないのだから。
「そうね、そんな感じよ。実行委員が司会をしたりする感じ」
私のその言葉に、加藤さんが、ううっと。絶望したように、その綺麗な顔を歪める。
「司会……私、そういうの苦手なのですが…出来ますかね……」
加藤さんががっくりと肩を落とす。さらり、と、加藤さんの長い髪が揺れる。その仕草を見ながら、あまり感情を表に出さない子という最初の印象がどんどん変わっていく。先週は単に私たちに対して人見知りしていただけだったのかもしれない。
(可愛いなぁ……)
お人形さんのような見た目で近寄りがたい印象があったけれど、話すと案外人間っぽくて。見た目だけじゃなくて、中身も可愛らしい子だという風に感じる。
私の後輩たちは本当に可愛い子たちばかりだ。三木ちゃんはさることながら、小林くんも可愛かった。加藤さんも、南里くんも。本当に、私は周囲の人たちに恵まれている環境で、好きな仕事を嫌いにならずにいられている、と実感する。
退職する、という決断を智が反対してくれなかったら、この可愛い子たちとの関わりすら捨て去ってしまうところだった。
(本当に……智には、助けられてばかりだ…)
だからこそ。智を引き摺りおろそうとしているであろう黒川さんの企みを暴きたい。智の力になりたい。あんな自分勝手な人の思い通りにはさせない。
そう、小さく決意した。
「ただいま……」
キィ、と、無機質な音を立てて玄関の扉を開く。片桐さんあの瞳のことをぼうっと考えていたら電車を乗り過ごすところだった。
結局、色々と考えても答えは出なかった。いつもだったらあの場面でしつこく口説かれるはずなのに、それもなくて。まぁ、それはそれで、安心といえば安心なのだけれど。
「はぁ……」
わからないことだらけだ。黒川さんが何を考えているのかも、今朝の智の様子も、片桐さんのことも。
大きなため息を吐き出しながら、ゆっくりとキッチンに立つ。
智には、加藤さんと別れてから書きかけのメッセージを送信した。既読はついたけれど、返信はない。ノルウェー出張の前で、仕事も立て込んでいるのだろう、と思う。
今日の晩御飯は野菜炒めを作ろうと考えて野菜室に入っていた野菜を刻んでいく。
(……)
トントンと野菜を刻む音に混じって、ぞわぞわと。得体の知れない恐怖感が足元を這いずっている。
私は、ただ。智とふたりで。穏やかで、あったかい毎日を過ごせたら、それでいいのに。どうしてこうも私の周りにはトラブルが巻き起こるのだろう。
悔しさと、哀しさと、やるせなさで。じわり、と視界が滲む。
「ただいま」
ギィ、と、玄関が開く音が聞こえて、智の低く甘い声が聞こえた。一旦包丁を置いて、ぐい、と、トップスの袖で滲んだ涙を拭きあげる。
リビングのドアを開けると、玄関先で智が疲れたような顔をして、スーツのジャケットを脱いでいた。
「おかえり、お疲れさま」
パタパタと駆け寄り、ビジネスバッグとジャケットを受け取る。
「……昨日も、朝も。ごめんな」
智の大きくて温かい手が、私の頬を労わるように撫でる。ダークブラウンの瞳が、不安気に揺れているのを確認して。
「ううん、事情があったのなら、仕方ないよ。ご飯、作ってるから。先に食べよう?」
にこり、と。智の不安を取り払うように、笑みを浮かべて。頬に当てられた智の大きな手に、私の手のひらを添えた。
目の前にあるダークブラウンの瞳が、大きく揺れる。
「……知香。泣いてた?」
「え……?」
どうして、わかったのだろう。涙は落ちる前に拭いたはずなのに。
驚いたまま智の顔を眺めていると、ゆっくりと。智がその薄い唇を動かした。
「目元のメイク……よれてる」
智が、頬に当てていた手を動かして、長く角張った親指で。私の眦をそっと撫でた。
目元のメイクがよれている、ただそれだけで。私が涙を拭ったのだ、と、悟ってくれるほど。
智は、私のことを日々見てくれている。それほどに……私を愛してくれているのだ、と、改めて実感して。
(……やっぱり……私は、智に…隠し事なんて、出来ないんだ……)
温かい智の指に、触れられていることで。堰き止められていた様々な感情が溢れ出てくる。
「……っ、ごめ…」
脈拍が上がって。世界が思い切り歪んだ。
ぽろぽろと、涙が零れていく。
本当は、泣きたくなんて、なかった。
泣くつもりなんて、これっぽっちも、なかった。
智の力になりたい。
智の手を煩わせたくない。
智が忙しいことなんてわかりきっていること。事情を話さずに今朝出ていったことも、しょうがない、と、わかりきっている。
でも。
ただ、ただ。不安、だった。
何が起きているのか、私には全然わからない。
黒川さんのことも、片桐さんのことも。
どうして、昨日は日付が変わるまで帰ってこなかったの?
どうして、何も言ってくれなかったの?
どうして、片桐さんはあんな瞳をしてるの?
どうして……智は。
そんな、苦しそうな目を、してるの?
智が私に触れるだけで。私を硬く包んでいる殻にヒビが入って。私は、強がるということが、平気なフリが、全く出来なくなる。
我慢を知らない幼い子どものような、暴れる感情を必死に押し込めていた自分が。丸裸になって、智の前に曝け出されていく。
はらはらと、涙が重力に逆らわずに、私の目から零れ落ちて、智の指先を濡らしていった。
ダークブラウン色の瞳を細めながら、吐息を漏らして、智が小さく呟く。
「……ごめんな、何も話さず出て行って。メッセージも返せなくて……今日一日、不安だったろう……本当に、すまない」
声を震わせながら、智が言葉を紡いだ。そうして、ふわり、と。鍛えられた胸の中に、私の身体をおさめて、私の髪を、背中を。ゆっくりと撫でてくれる。
その大きくて温かい手は、どこまでも優しくて。私の涙を加速させていく。
「……っぅ、もっ、ほんと…何が、どう、なって、るのか、わか…なくて」
しゃくりを上げながら話す私の背中を優しくさすったまま、智が私をぎゅうと抱きしめて。私の肩口に顔をうずめた。
「すまない……」
ただただ。
やるせなさと、悔しさを孕んだような、そんな声色で紡がれる智のその言葉が。
左の耳元で、小さく響いた。
0
お気に入りに追加
1,544
あなたにおすすめの小説

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
独占欲強めな極上エリートに甘く抱き尽くされました
紡木さぼ
恋愛
旧題:婚約破棄されたワケアリ物件だと思っていた会社の先輩が、実は超優良物件でどろどろに溺愛されてしまう社畜の話
平凡な社畜OLの藤井由奈(ふじいゆな)が残業に勤しんでいると、5年付き合った婚約者と破談になったとの噂があるハイスペ先輩柚木紘人(ゆのきひろと)に声をかけられた。
サシ飲みを経て「会社の先輩後輩」から「飲み仲間」へと昇格し、飲み会中に甘い空気が漂い始める。
恋愛がご無沙汰だった由奈は次第に紘人に心惹かれていき、紘人もまた由奈を可愛がっているようで……
元カノとはどうして別れたの?社内恋愛は面倒?紘人は私のことどう思ってる?
社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。
「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」
ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。
仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。
ざまぁ相手は紘人の元カノです。
あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお断りいたします。
汐埼ゆたか
恋愛
旧題:あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお受けいたしかねます。
※現在公開の後半部分は、書籍化前のサイト連載版となっております。
書籍とは設定が異なる部分がありますので、あらかじめご了承ください。
―――――――――――――――――――
ひょんなことから旅行中の学生くんと知り合ったわたし。全然そんなつもりじゃなかったのに、なぜだか一夜を共に……。
傷心中の年下を喰っちゃうなんていい大人のすることじゃない。せめてもの罪滅ぼしと、三日間限定で家に置いてあげた。
―――なのに!
その正体は、ななな、なんと!グループ親会社の役員!しかも御曹司だと!?
恋を諦めたアラサーモブ子と、あふれる愛を注ぎたくて堪らない年下御曹司の溺愛攻防戦☆
「馬鹿だと思うよ自分でも。―――それでもあなたが欲しいんだ」
*・゚♡★♡゚・*:.。奨励賞ありがとうございます 。.:*・゚♡★♡゚・*
▶Attention
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

忘れたとは言わせない。〜エリートドクターと再会したら、溺愛が始まりました〜
青花美来
恋愛
「……三年前、一緒に寝た間柄だろ?」
三年前のあの一夜のことは、もう過去のことのはずなのに。
一夜の過ちとして、もう忘れたはずなのに。
「忘れたとは言わせねぇぞ?」
偶然再会したら、心も身体も翻弄されてしまって。
「……今度こそ、逃がすつもりも離すつもりもねぇから」
その溺愛からは、もう逃れられない。
*第16回恋愛小説大賞奨励賞受賞しました*
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。