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本編・第三部

【幕間】浅ましい願いの果てに 〜 side 真梨

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 トス、トスと。ヒールがカーペットに吸収される音が響く。女性社員の更衣室に入り、カチャリ、と自分のロッカーを開く。化粧ポーチを手に取って、壁掛け時計を見遣った。

(……南里、絶っ対、小林に私のこと言ってる)

 ううう、と、胸を掻き毟りたい衝動を、ロッカーを乱暴に閉めることで紛らわせた。

(もう……終わり、だわね………)

 ほう、と、大きくため息をついて、化粧ポーチのチャックを開いていく。






 偽りの関係に終止符を打ったとは言え、順番があべこべになった私たちは『恋人』というような間柄には進展していない。

 土日は私が実家の―――料亭の仕込みの加勢に行くから、今のところデートらしいデートは、小林がじれったい告白をしたあの日だけで。

 金曜日には。あの交差点で待ち合わせて、どちらの家に帰る。先週はあの交差点に近い小林の家に帰った。同じ食事をして、同じベッドで眠る、というのが……どうも暗黙の了解、らしい。

 当事者である私が『らしい』と、表現するのもおかしい気がするけれど。

 だって、今日は。きちんとした関係が始まってから、2度目の金曜日。もしかしたら、今日は―――そうはならないかもしれないから。

 化粧ポーチからファンデーションを取り出して、コンパクトの内鏡を覗き込み、よれている部分を直していく。

 南里に言い寄られている、ということは、小林には報告していない。だって、小林は。

(まだ、先輩のこと、想ってるだろうし)

 小さくため息をつく。

 身体だけの関係から始まったからか、あの日、小林が私にじれったい告白をして以降……この2週間、小林は自分から私に触れることはしなかった。先週、小林の家に泊まっても、せいぜい同じベッドの上で眠る程度で。

 その距離感すらじれったく感じているけれど。私に先輩を重ねた小林の、……せめてもの償いであるとわかっているから。だから、何も言わずにそのままにしている。

 それでも……それでも。きちんとした関係が始まったとはいえ、小林の心の中には、まだ先輩がいるはずなのだ。

 それもそうだろう。小林が先輩を想っていた期間は1年近く。対して、私たちの偽りの関係が始まってからは3ヶ月程度。

 だから……よく言っても、友達以上恋人未満、みたいな関係で。これから先、ゆっくり私のことを『恋人』だと思ってくれればいい、と思っていた。故に、私は小林の気持ちに触れずに今日まで過ごしてきた。



 ……それがこんな事態になるなんて、思いもしていなかった。



 小林はお人好しだ。先輩に好きな人がいるから、と、自分は身を引く決意をする程に。自分が傷付いて、泥水を啜ってもいいと考えるくらい、お人好しだ。

 そんな小林に。私が、南里から迫られている、なんて伝えてしまえば。

(『一瀬さんを忘れられていない俺は三木さんを幸せに出来ない、三木さんを好きでいる人と一緒になってください』なんて言われて……別れを告げられるのがオチだもの)

 その場面を想像すると、耐え難かった。ファンデーションのコンパクトの蓋をパチリと閉めて、はぁぁ、と。肺がまるごと出ていきそうなくらいの大きなため息を吐く。

 きっと。南里は小林に何かしらを言っているはずだ。片桐が南里に告げたように、『自分は三木さん狙いだ』、というような、そんなことを。だから、きっと。



 今夜。あの交差点で。
 きっと、私たちの関係は―――終わる。



「………仕方ない、ものね」



 小林が呆然と空を見上げていた、あの夜。私が無理矢理に、抱かせたから。小林に生きていて欲しい、なんていう、私の浅ましい願いで。小林を偽りの関係に引き摺り込んで、苦しませたから。



 その代償は、私が引き受けるべきもので。



「……よし」

 パン、と、軽く頬を叩いて。自分を奮い立たせるように、ふたたびロッカーを開いた。化粧ポーチを自分の鞄に仕舞い、自分の心を閉じ込めるように。


 ―――ロッカーをゆっくりと閉じた。













 終業時刻を迎えて、残業をして。それでもデスクの上に積み上がっているクリアファイルの山。
 早くしなくちゃ、と。焦燥感ばかりが込み上げていく。

「すみません、三木さん……付き合わせてしまって」

 私の目の前のデスクに座っている加藤が、私と同じようにたくさんのクリアファイルを山積みにして、いつの間にか私を見ていた。焦っている表情を見られたかもしれない、と、慌てていつもの笑顔を作る。

 アフターファイブの予定なんて微塵もなさそうな素振りで、「何言ってんの?」と、加藤に笑顔を向ける。いくら私が加藤の教育係とはいえ、条件反射的に笑顔で心にもないことを言ってのける自分の浅ましさを改めて突きつけられ、心の中で大きなため息をつく。そして、気の毒に感じるほど真っ青な顔で私を見遣る彼女に視線を合わせた。

「ふたりで探した方が早いでしょ?」

「本当にすみません。私が書類を失くしたばっかりに……」

 放っておくと土下座までしそうな勢いの加藤に、色んな思いが渦巻く心を押し込めて、ふわり、と、笑ってみせた。

 加藤は給与振り込み口座登録の申請書を昼休みに受け取ってきたらしいのだけれど、それを午後に任せた書類整理の最中に、たくさんのファイルの中に紛れ込ませてしまったのだそうだ。

 昨日、それから今日の午前中は小林と同じように黙々と集中して業務に取り組んでいたのに、今日の午後は……どこか上の空だった。

 私が新入社員の頃。同じように書類を失くしてしまった時。先輩が一緒に残って探してくれた。あの時の先輩は肩甲骨が隠れるくらいの長さで。ローポニーで纏めて、ふわり、と、その髪をなびかせながら、やわらかく笑顔を向けてくれた。だから。

 こんな同じ状況で、自分だけ先に帰れるわけもない。

「いいのよ。その代わり、あんたが先輩になったときはこうして後輩を手伝うこと!いいわね?」

 加藤を励ます声にわざとらしく弾みをつけて、書類を探す作業を再開する。

 通関部はこのフロアの入り口のすぐ近くにある。大きなフロアは、1mくらいのパーティションで仕切っているだけの空間。その中に、通関部、畜産販売部、広報部が入っていて。
 通関部2課はフロアの出入口すぐ目の前。他のブースの人達が出入りする様子が確認できる位置。
 ……だから、小林がずいぶん前に退勤していることは視界の端で確認済み。あの交差点で……待ちぼうけをさせている、ということ。

 跳ねる心臓を抑え、指先に付けたラメ入りの指サックで一気に書類を捲っていった。












「手伝って頂いて……本当にありがとうございました」

「どういたしまして。見つかって良かったわね」

 ふたりで探し回った結果、探していた書類は結局業務ノートの中に挟まっていた。手を取り合って喜んだあと、涙目になっていた加藤の手を引いて、未だ残業中の1課の大迫係長に警備を依頼し、ふたりで女性社員の更衣室に引っ込んだ。

 手早く私服に着替えて、カーディガンを羽織り、鞄を肩にかける。本当は走ってこの更衣室を出ていきたいところだけれど、変に慌てると、真っ青な顔をして私への謝罪を口にした加藤に、罪悪感を抱かせそうで。

 結局、平静を装いつつ、加藤に「明日のお花見歓迎会、楽しみにしてね」、と声をかけて。とてもゆっくりと、更衣室の扉を閉めた。


 扉を閉め終えた後、身を翻して、足早にエレベーターホールに向かいつつスマホを確認する。けれど、小林から連絡は入っていなかった。きっと今もあの交差点で待っているだろう。

 私に別れを告げる言葉を、考えながら。

 それを想像するだけで、この場で泣きたくなるくらい胸の奥が痛んだ。

(……偽りだろうと、騙し討ちだろうと。好きな人に初めてを捧げられた。短い時間だったけれど、恋人として隣に居させてくれた。だから、いい夢を見せてもらったと思わないと、ね…)

 小林から別れを告げられても、堂々としていよう。いい夢を見せてもらえたと、からっと笑ってその言葉を受け入れよう。



 それが、私の浅ましいエゴで小林を苦しめた―――愚かな私に対する、罰。



 そう心に決めて、今から向かう、と、メッセージアプリを起動しようとして。

「あ」

 電池が無くなりました、と。充電マークが表示されて、画面が真っ暗になった。思わず額に手を当てる。

「そうだった……」

 昨日、残業になって……ヘロヘロになって帰宅して、力尽きて充電をせず眠ってしまったんだった。

 きっと。これが最後になるであろうメッセージだったのに。今から向かう、という言葉すら伝えられず。やるせない気持ちを吐き出すように、小さく息を吐きながらぽつりと呟くしかなかった。

「困ったわ…」

「なにが困ったんですか」

 不意に背後から昼休み振りに聞く愛おしい声が聞こえた。その甘い声に、びくりと身体が震える。

 恐る恐る振り返ると。あの交差点で待ち合わせているはずの小林の姿がそこにあった。どうしてここに小林がいるのか飲み込めなくて、思わず呼吸が止まる。

 会社では過剰なくらいに接触を避けるようにしていたから。だから、まさかこうして声をかけられるなんて思っていなかった。

 ジャケットの裾をふわりと靡かせながら、革靴がカーペットに擦れる足音を響かせて、いつもの真っ直ぐで綺麗な姿勢のまま、小林が私に近寄って来る。

 会ったらどんな言葉をかけようか、と、考えていた。だって、きっとこれが、私たちの最後になるはずだから。

 なのに。今、思考回路が、綺麗に停止してしまっている。



 黒曜石のような瞳。
 肩にかけた鞄に添えられた左手。
 すっとした綺麗な姿勢。




 全部、全部、いつもの、小林。

 いつもの小林のはずなのに、そこに少し―――違和感があって。



 その違和感に、全身が氷漬けにされたように動かない。小林が近づいて、私の目の前に立ち、小さくため息を吐いて。私の腕をぐっと掴んで引っ張った。硬直した身体がつんのめって、ようやく足を動かすことができた。

 掴まれた腕から伝わる小林の体温。カーディガン越しに伝わるその冷たさに、春が来たとはいえ冷たい風に吹かれながら、長時間あの交差点で待っていてくれたのだ、と、気がついて。申し訳なさと、嬉しさと、そこまでして別れを告げたかったのか、と。……虚しさが込み上げる。

 エレベーターホールの向こう側の、螺旋階段に繋がる扉を小林が押し開いていく。ギィ、と、蝶番が軋む音が響いた。

「ちょっ、小林、なに?」

 会社でこんな風に接触されるとは思っていなかった。わけがわからずに混乱した思考のまま、小林がゆっくり振り返るのを呆然と見つめる。
 蝶番が軋んで、バタン、と音を立てて扉が閉まったと同時に、小林は掴んだままの私の腕を自分の方に引き寄せた。とん、と。小林の腕の中に、私の身体が収まって。

 小林の思わぬ行動に、目を見開く。ひやり、と、小林のスーツの冷たさが、ぴとりとくっついた頬に伝わって。

 抱き締められている、と、数秒後に理解した。

 そうして、瞬時にここが社内であることを思い出した。我に返って身をよじって逃れようと試みるも、それが引き金となったのか、小林の腕の力はどんどん強くなっていく。

「ちょっとっ、ここっ、会社っ」

 螺旋階段は声が響く。だから、出来うる限り声を潜めて小林に抗議した。

「……そうやって声を上げなければ気が付かれませんから。というより今何時だと思ってるんですか。ほとんど帰っていて人居ませんって」

 小林も、いつもよりも小さな声で囁くように言葉を紡ぐ。

 小林に抱き締められる、なんて、初めてで。嬉しいという感情と、ここは会社なのにという怒りと、今まで私に触れなかったのに急にどうしたんだ、という混乱が。勢いよく綯い交ぜになっていく。

「………南里に宣戦布告されたので、奪えるものなら奪ってみろって言いました」

「…………は?」

 ふたたび、思考回路が停止した。完全に、別れを告げられる気でいたから。ショートした、というのが、正しい表現のような気もするけれど。

「……そんなに頼りないですか、俺は」

 小林が私を抱き締めている腕の力が一層、強くなる。



 押し殺していても、伝わる。
 小林の内側から、冷たく迸る……低い、感情。



 寡黙で穏やかなはずの小林。そんな小林の思わぬ苛烈な一面に、紡がれた言葉に。はっと小さく息を呑んだ。

(……南里のこと伝えなかったこと、頼りないって思われているからって…思っていたの?)

 ゆるゆると、顔を上げる。目の前に、愛おしい人の顔があって。端正とも言える顔立ち、一重の澄んだ瞳。


 その、澄んだ瞳に。
 どこか苦い感情が浮かんでいて。


 ほんの一押しすれば泣いてしまいそうな。何かを堪えているような、何かを我慢しているような。



 苦しそうな表情かおを、していた。



「……俺、言いましたよね。傷の舐め合いだと思わせる気はないって」

 小林の唇から、ぽつり、と、転がってきた言葉。それは、ひどく哀しい色をしていた。

 私の心に、グサリと。研ぎたてのナイフを突き立てられたように、胸の奥が軋んだ。その痛みに、その哀しい声色に、ゆっくりと全身から力が抜けていく。

「……頼ってくれなくてもいいです。せめて、俺を同じ場所に立たせてください。隣に、立たせてください」

 小林が、黒曜石のような黒い瞳を、小さく揺らして。私を、真っ直ぐに貫いていった。

「……降りかかる火の粉を、一緒に払わせてください」

 小林の、その言葉に。心が、震えた。

(………やっぱり、あんたは、どこまで行ってもお人好しね…)

 他人に迫られていることを隠していたのなら。その事実に対して怒るか、もしくはそもそも言って欲しくないかのどちらかだろうに。

 降りかかる火の粉を、共に払わせてくれ、だなんて。



 ―――同じ場所に、立たせてくれ、だなんて。



 浅ましい私とは違う、ひどく優しい小林の強さに。

 込み上げる何かのせいで視界が滲むのを隠すように、小林のワイシャツに、自分のまぶたを擦り寄せた。

「……あんたがそれで、死ぬときに後悔しないなら、ね……」

 小さく、呟いて。そろり、と。冷たくなった小林の身体に、私の体温を分け与えるように。



 両腕を、小林の背中に回した。


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