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本編・第三部

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 火曜日と水曜日の新入社員一斉研修を終えて、昨日の木曜日から本格的に通関の業務を学ぶことになった南里くんと加藤さん。

 加藤さんはどちらかというと小林くんタイプ。黙々と取り組む姿勢がそっくりだ。英語科を卒業しているからか、通関に必要な英字の書類を難なく読みこなしていく姿は、正直見惚れるくらいだった。自分から多くを語るタイプではなく、話しかければ言葉を返してくれる。
 けれど、どうも電話対応が苦手らしい。人の名前が覚えられないタイプなのだそうだ。何事も熱心にメモを取っているから、いずれ克服できるだろう。教育係である三木ちゃん以外の名前はまだうろ覚えで、結局私のことも『主任』と呼びに戻ってしまった。……まぁ、間違いはないのけれど。

 南里くんは……片桐さんの予想通り、頭の回転が速く、スイスイと業務の流れを吸収して行った。ただ、英語全般が苦手のようで、単語を読み込むのも必ず一度詰まってしまっている。……けれど、英語科卒の加藤さんと比べると酷というもの。
 そして、何よりやはり社会人としての言葉遣いやマナー等で目につく部分が多く、大学を卒業してすぐの人間だから仕方ないとはいえ、そちらの面で気がかりなことが多い。

 ふたりとも、仕事を覚えようという強い志が目に見える。三木ちゃんが渡していた業務ノート……原型は私が作って、片桐さんに教えるときに作り替えるように三木ちゃんに指示をだしたあの資料を、ふたりとも火曜日と水曜日ですべて目を通してくるというツワモノ。正直、あの膨大な量の業務ノートに目を通してくるとは思っておらず、三木ちゃんと顔を見合わせてしまった。


 通関業務は基本的に国際標準化された通関システムを使用する。私が携わるような通関業者、グリーンエバー社のような倉庫業者、そして税関官署・運輸業者・航空会社・船会社・船舶代理店等の相互を繋ぐ巨大システム。最近は通関士試験においても、この通関システムの機能について問う設問が出題されることが多い。

 この通関システムを扱うためには税関に扱い者登録を行わなければならない。税関に赴き、戸籍謄本等の公的書類をもって扱い者登録を行う。

 ついでに、今日の金曜日のアポを取って、よく電話でもやり取りをする税関の職員さんに、私、三木ちゃん、そして南里くんと加藤さんの4人で挨拶に行った。

 ……のだけれど。





「ベネフィット認証?」

 三木ちゃんと一緒に南里くんと加藤さんの紹介をし、軽く情報交換をしていた際に響いた聞き慣れない単語に、ぱちりと目を瞬かせた。いつもよくやり取りをする税関職員の山口さんから、さらりと書類を手渡される。

「そうです。御社でも認証取得を目指していただけないかと思っておりまして」

 山口さんの説明を聞くと、ベネフィット認証とは、貨物のセキュリティ管理と法令遵守の体制が整備された事業者に対して、税関が承認・認定を行い、税関手続の緩和を提供する制度のこと。

 要は、認証取得を行えば、その企業は通関業務の一部が簡素化されるらしい。

「あの大規模テロがきっかけで設立された国際的な認証制度なのですが、対象は通関業者だけでなく荷主にも適用されます。極東商社さんは各販売部も抱えていらっしゃる。それぞれの部門から個別に申請を行ってもらわなければならないという煩雑さはありますが、メリットは大きいかと」

 世界を震撼させた大規模テロ。テレビで見たあの光景は忘れられない。あのテロをきっかけに世界を巻き込んで大きな戦争が起こった。日本には軍隊がないから実感がないけれど、あれをきっかけにした戦争は未だに終戦を迎えていないのだそうだ。

 ぱらぱらと受け取ったレジュメを捲る。確かに、この認定を受けることで受けられる恩恵は大きいだろう。通関部だけでなく、各販売部にも大きなメリットがある。

 レジュメに記載されている認定を受けるためのスケジュールを確認する。官民パートナーシップに基づくプログラムであるからか、公官庁の面談から書類審査、実地審査を経て、認証取得まで1~2年かかるらしい。

 本当なら、業務効率改善のために即決したいところ……だけれども。私は、主任とはいえ、ただの社員だ。こういう大きな認定を受けるか受けないかを判断するのは役員の方々のお仕事。認定には一層厳しい法令遵守のための体制整備を行うことが求められる。今は一旦、持ち帰るしかない。

「……私では決められませんので、持ち帰って検討します。認定を受けるにしても全社的な稟議が必要となると思いますので、お返事には半年、もしくは1年ほどお時間をいただく可能性があります」

 私の困ったような返答に、山口さんがふうわりと笑って口を開いた。

「もちろんです。上場企業の極東商社さんに取得いただけたとなれば他の荷主さん、運送業者さんも積極的に取得を目指してくれるでしょうから。このベネフィット認証は日本だけでなく世界のあらゆる国が導入しています。それらを二国間で相互に承認することにより、二国間物流におけるセキュリティレベルを向上させつつ、一層の物流円滑化を目指すものですから、ぜひ前向きにご検討ください」

 その説明に、わかりました、と返答をして、三木ちゃんに目配せをし、南里くんと加藤さんを連れて税関の応接室を退出した。









「一瀬さん。すごく基本的なことを聞くんですけど。リンギって何ですか」

 オフィスビルに帰る道中で、南里くんがくりっとした目を瞬かせ、私の隣を歩きながら質問を投げかけてくる。その質問に、内心で「まぁ、この前まで大学生だったんだし」、と、苦笑しつつ返答する。

「会社の上層部にお伺いを立てることよ。例えば、極東商社で言えばあなた達の採用もそう。採用試験があって、人事部が合否を判断して、内定の連絡をする。それが受諾されれば、こういう人を雇いたいです、と、上層部にお伺いを立てるの。退職もそう。他には、今回みたいに全社的に関わることだったり、あとは契約の類いも稟議が必要ね」

「なるほど。下から上に『こういうことをしたいです』って許可を貰うってことですね」

 聞くところによると、南里くんは大学生時代にアルバイト等の経験がなく、会話の中で飛び交う言葉のひとつひとつが初めて聞く言葉らしい。だから言葉遣いや立ち振る舞いに不安感が残るのか、と、納得した。それでも、教えたことはきちんとメモを取って吸収していっている。まさに、水を含んでいないスポンジのようだった。

 南里くんが繰り出す質問に答えながら、徒歩でオフィスビルに戻って行く。オフィスビルに近づくと、後ろを歩いていた三木ちゃんが私の肩をトントンと叩いた。突然のことに、きょとん、としながら真後ろの三木ちゃんを振り返る。

「先輩、あと少しでお昼休みに入りますし、1階のカフェで昼食を取りません?東翔会会費を使って南里、加藤も含めて昼食を取ってくるように田邉部長から言われているので」

「え、そうなの?」

 三木ちゃんの言葉に軽く目を見張る。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳がゆっくりと瞬いた。

「そうなんですぅ。明日のお花見歓迎会は社内交際費から落とすようにと言われてて」

 確かに、前期は東翔会会費も社内交際費も、期限ギリギリの3月になってから慌てて使う羽目になった。先月の期末慰労会で東翔会会費は全額使用出来たけれど、2次会費用に充てた社内交際費も予算の半分くらいしか使用出来なかった経緯もあるし、今期始まってすぐからこうしてこざこざと使うように指示されるのも納得がいく。田邉部長は今期は計画的に使用していく心づもりなのだろう、と察した。

 オフィスビルには極東商社以外の会社も入居しているから、あのカフェは他社の社員さんも並んでお昼時は非常に混む。

 腕時計を見遣ると、12時少し前。今の時間はまだ混んでいない時間帯。4人で行っても、席を取ることは可能だろう。

「わかったわ。田邉部長も計画的に使おうという考えでいらっしゃるなら、そうしましょう。お昼は混むからこの時間から行けば大丈夫よね」

 そう口にして、三木ちゃんに笑いかけ、4人でカフェのドアを潜っていく。レジに並ぶと、並んでいる列に店員さんが順々にメニュー表を手渡してくれている。そのメニュー表を受け取って、南里くんと加藤さんに手渡した。

「主任。ここ、何がおすすめですか?」

 加藤さんが悩むように眉根を寄せて、手元で広げたメニュー表から視線を私に移す。その困ったような表情ですら、まるでお人形のような完璧な造形。思わずはっと息を飲むほど、綺麗だった。

「……主任?」

 こてん、と首を傾げた加藤さんに見つめられる。さらり、と、艶のある長い黒髪が揺れた。我に返って、加藤さんの問いを脳裏で反芻させる。

「あ、ごめん。ちょっとぼうっとしてた。……私はいつもサンドイッチとカフェオレよ。ここ、野菜が新鮮で美味しいの」

 メニュー表のサンドイッチの写真を指差して、にこり、と、笑いながら加藤さんを見つめた。私の言葉を受けて加藤さんが少し考え込んで。

「じゃ、主任と同じにします」

 そう口にして、レジで注文をしていく。番号札を受け取って加藤さんがこちらを振り返ると、ふたたび、さらり、と、艶のある黒髪が揺れた。

 腰にまで届くほど長いのに、ぱっと見で傷んでいる箇所も見当たらなくて。

「加藤さん、髪綺麗だよね。羨ましい」

 思わず、ツヤツヤのその髪を見つめながら呟いた。学生の頃に読んだ小説で『射干玉ぬばたまの髪』という表現を知ったけれど、きっとそれは目の前の加藤さんのような髪のことを指すのだろう。

 私の視線に気が付いたのか、加藤さんが大きな二重の瞳を自分の髪に落とす。

「……英語を好きにさせてくれた人が、私の髪が綺麗だって言ってくれたんです。それが忘れられなくて、ずっとお手入れだけは欠かしていなくて。………もう、二度と会えないだろうに、馬鹿だなって思ってはいるのですが」

 自分の髪をひと房、その指で掴んで。苦笑したように、それでいて切なそうに瞳を細めて、加藤さんが言葉を紡いだ。

(この目、誰かに似てるって思ってたんだった……)

 配属された初日。休憩中に加藤さんのこんな目をみて、誰かに似ている、と思っていた。ゆっくりと、記憶の糸を手繰り寄せていく。

(………あ。多分、片桐さんだ)

 土曜日に。智とお花見に行って。あの場に偶然居合わせた片桐さんが、空を見上げていた時のような、瞳。哀愁が漂う、と表現するのも違う……片桐さんと同じような、言いようのない光が。目の前の加藤さんの瞳に宿っていた。

 片桐さんは、マーガレットさんを亡くして。もう、二度と会えない人のことを想っている。

 きっと、加藤さんは。もう会えなくなったその人のことを想って、これまでの時間を過ごしてきたのだろう。小学校に上がる頃に会えなくなったその人との……大事な大事な記憶を、宝物のように胸に抱えて。だから、片桐さんに似た瞳をしているのだと思う。

「……その人のことで覚えてることって、何かないの?」

 名前すら知らない、と、加藤さんは口にしたけれど。ハーフの人だったら、鼻が高いとか、瞳の色が違うとか。そういった特徴的な部分を覚えていれば……世界は広いけれど、いつかは。いつかは、その人に辿りつくかもしれない。

 私の問いに、加藤さんが苦笑して、髪をくるくるとその指に巻き付けた。

「ハーフの人って成長期を経て外見が変わるんですよ。金髪が茶髪になったり、瞳の色も碧眼だったのが違う色になったり。その人は私の10歳も歳上だったので……今はもう30代だろうし、今目の前にその人が現れたとしても、きっと私はその人だとはわからないと思います。だから、もうその人には二度と会えないんです。……すみません、主任に気を遣わせてしまって」

 ふわり、と。加藤さんが、笑っているようにも、泣いているようにも見える表情で、私を見つめた。

「……そっか」

 加藤さんの中で区切りがついていることなら、私がこれ以上口出しすることじゃない。加藤さんが、その胸の奥に大事に抱えている夢のような記憶の中に、土足で踏み入るような……そんなつもりも、私は持ち合わせていない。

 なんとも言えない感情が胸に込み上げて、ふい、と、加藤さんから視線を外す。

 私たちが受け取った番号札の番号が呼ばれて、慌てて受け取り口に向かう。4人それぞれトレーを手に持って、一緒にテラス席に着いた。

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